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短編小説

映りの悪い理想

作者: 広越 遼




 ここに一つの画面がある。

 正方形を六つ合わせた正六面体。その全ての面がディスプレイになっている。

 一体どんな技術で作り上げたのだろうか。その立方体の表面には画面しかない。フレームはもちろん、繋ぎ合わせた跡も見えない。画面ならば動力源が必要なはずだが、それを供給する接続部すらない。

 乞食の男が大事そうにその立方体を胸に抱えている。

 大都会の真ん中で社会へ一線を引いた者。社会に参加しようともせず、社会も見てみぬふりをする落伍者。それがどうして目の前に立ち塞がっているのか。その話にどうして耳を傾けたのか。

 彼は言った。この画面にはあなたの理想とするあなたが映し出されるだろう、と。

 画面。ああ、言われて見れば確かに画面だ。

 しかしそう言われなければ、それが画面だとは気づけなかっただろう。かと言ってそれが何かと聞かれれば何とも答えようがない。ただ黒い四角の塊は、どことなく骨壺を入れた箱を連想させた。

 深海魚の様な目。左右大きさの違うそれを隠しもしない男は、どう見ても盲目だった。それなのに彼はしっかりとこの目を見据えて来る。

「覗き込めば何かが変わるかもしれないし、何も変わらないかもしれない」

 道化た発言をするのは、かさかさと鳴りの悪い老いた声だった。


「これ、あなたの荷物まとめておいたから。合い鍵は持ってていいよ。明日鍵を変える予定だから」

 彼女は旅行用鞄を突き出して言った。めそめそと格好悪くするのも嫌だったので、黙ってそれを受け取った。振り向きもせず立ち去る背中に、強くドアを閉める音が響いた。

 彼女の家に入れないとなると行く当てはなかった。まだ電車もあるし、店も開いている時間だったが、行きたいところはどこにもなかった。いや、行きたいところがないのではない。どこにいたとしても疎外感を感じるだけなのだ。

 家に帰れば家族がいるが、あそこも外と変わらない。冷えた関係の妻と、父の存在を忘れかけた子が一人いるだけだ。とても帰るべき我が家ではない。彼女に見限られた今はもう、この世界のどこであろうと外だった。

 ふらふらと夜の街を歩いていると、盲目の男が目の前に立っていた。

 白杖も持たず人の流れの中に佇む男。男は黒い箱を持っていた。

 動力がどこにあるのか、突然黒い箱は色を映し出す。そしてそれを見やすいようにと、乞食がすっと押し出した。


 もやもやと丸みのあるモザイクが次第に晴れて行く。そこに映し出されていたものは、懐かしい生家で仏壇に手を合わせる男の姿だった。

 それは不思議な感覚だった。

 もしも、見ず知らずの男が持つ画面に自分の姿が映っていたら、誰しも同じ思いを抱くだろう。

 気味の悪いのが半分、好奇心をくすぐられたのが半分、信心深く母に感謝を捧げる男へとこの目と心は奪われていた。

 乞食は黙ったまま違う一面を向けてくる。

 下心も持たず、良いパートナーとして彼女と仕事をする男がいた。才気溢れる眼差しは、確信と自負に満ちみちている。

 また違う一面でその男は、とんと縁のなくなった屈託のない笑みで家族と語らっている。悩む我が子の相談事でも聞いているのか、柔和ながら真面目な目で子供の話に頷いている。

 どれも確かに言われてみれば、あなたの望むあなた、の姿だった。

「あと三つの面が残っている」

 乞食はそう言うと、画面を持たない右手を差し出してくる。代金を請求されているのだと悟った。皺だらけで黒ずんだ厚ぼったい手に、心付けの小銭を掴ませる。

 満足したのだろうか。乞食はその金を懐に押し込むと、次の一面を向けてきた。

 その画面の内容には失笑してしまった。大リーガーのエースで四番とは、いつの頃宣言した夢だったろうか。

 そして次の画面が向けられた。

 贅沢ではないが愛の溢れる映像だった。

 古くからの友人がいた。可愛がっていた会社の後輩や、随分と手を焼かせた上司がいた。老いた父や義母がいた。義父の墓前で幸せにすると固く誓った女性がいた。一週間悩みに悩んで与えた名前を持つ少年がいた。

 大事な人々に囲まれた箱の中で、安らかに眠る男がいた。


 画面の映りが急に悪くなった。ゆらゆらと揺れる画面を乞食がすっと引き戻す。

 財布の中身をほとんどその乞食に与えてやった。そんな物など惜しくはなかった。今までどれほど多くの物を失ってきたのか。その画面にはそれを教えられた。今さら幾ばくかの金を失った所で、なんだと言うのか。

 自嘲の笑みを浮かべて乞食から離れた。再び身を置いたのは、四方八方どこを向いても外の世界だ。

 正六面体の最後の一面。そこに何が映し出されていたのか、気にならなかったと言えば嘘になる。だがそれは他から教えられたいものではなかった。

 どれほど遅きに失した想いだとしても、自分で探し求めていくべきことだった。

「とりあえずうちに帰るか」

 理想とはかけ離れた今の自分がそうつぶやいた。

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