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日清戦争



日清戦争

  


「世の中のいざこざの因になるのは、奸策や悪意よりも、むしろ誤解や怠慢である」

 

 とゲーテは語るが、日清戦争を巡る日清両国の動きは、まさにその典型例と言えた。

 1856年のアロー戦争から、1894年の日清戦争まで38年が経っている。

 日本近代化元年と称される1868年の戊辰選挙から数えても26年後である。

 その間、朝鮮半島を巡る動きは錯綜と混乱、誤解を繰り返すことになった。

 まず、日本側の視点に立つと朝鮮というのはある種の鬼門であった。

 日本本国で今だに大きな勢力を維持する尊王派はアジアの大同団結を唱えるアジア主義者であることが多く、朝鮮は清と同様に慎重な対応が必要な相手だった。

 幕府には、アロー戦争でイギリスにつきあったばかりに国政が大混乱に陥った苦い経験がある。アロー戦争では清から沿海州を奪い、不平等条約を飲ませるなどきっちり利益は確保しており、帝国主義的な観点からすれば満点の戦争ではある。

 だが、その後の革命騒ぎは幕府とってトラウマになっていた。

 また、孝明天皇は憲法の規定により象徴天皇として体制内に取り込まれたかのように見えたが、その後も政治的な発言を繰り返し、アジアの大同団結を求める姿勢に変化はなかった。

 孝明天皇は30代のころ天然痘で罹患したのだが、予防接種を受けていたので重態には至らず、未だに壮健であった。

 こんなことならあの時死んでくれた方がよかった、と幕閣の多くが頭を抱えたという。

 天皇は、幕府にとって朝鮮以上の鬼門であり、その意向を完全に無視して政治を行うことは困難な情勢だった。

 大名議制院、衆民議制院にも尊王派の議員が議席を確保していた。

 天皇の意向を無視して強硬策をとれば、議会の尊王派が騒ぎ始めるのである。

 結果として、朝鮮へのアプローチはあとから考えれば、馬鹿馬鹿しいほどに丁重なものとなった。朝鮮側が洋服は西洋文明のものであるから和服に着替えるように要求すれば、日本の外交官は羽織袴に着替えて対応したという。

 そうした日本の対応は、朝鮮に無用な誤解を持たせることになった。


「日本は西洋に精神まで毒されており、朝鮮は弟国をあるべき道へ戻す必要がある」


 というのは、朝鮮国内の知識人が当時、本気で考えていたことの要約である。

 こうした朝鮮側の権高な態度の根底には、丙寅洋擾や辛未洋擾といった仏米艦隊を撃退して鎖国体制を守ったという実績があった。

 多分に幸運の要素があるものの、仏米艦隊が朝鮮の抵抗により後退したのは間違い・・・ないと朝鮮は主張している。

 しかし、実際は仏米艦隊の後ろに、その倍の日本艦隊が展開し、圧力をかけていたので撤退したのが実情だった。

 もちろん、朝鮮は仏米艦隊の後ろに日本艦隊がいたことなど知らない。

 外交ルートで伝えてはいたのだが、彼らはそれを信じなかった。

 むしろ兄国の武勇を妬み、己の手柄にしようとする大嘘つきと罵倒される始末だった。

 

 仏米艦隊は朝鮮と本気で戦うつもりは最初からなかった。日本本国の目と鼻の先で、おいたをすればどうなるのか、フランスもアメリカもよくわきまえていた。

 であるからして、両国は共になぜ日本がさっさと朝鮮を征服してしまわないのか、不思議がっていた。

 朝鮮半島は、日本本国の安全保障上の要地であるから、軍事的に征服するか、最低でも保護国とするのは当然と考えられていた。

 また、それが簡単にできるだけの軍事力が日本にはあった。

 天皇という日本本国でしか通用しない、将軍でも教皇でもない、古代王朝末裔の政治的影響力について、日本人同士でも説明するのは困難であるからして、両国が訝しむのも仕方がないことだった。


「武士の情け」


 という言葉が、妙に抑制的な対応をとるときの幕府政治的姿勢を表す外交用語として国際外交の場に定着するのはこの頃のことである。

 なお、こうした日本の国内事情は隣国の清でも把握されていなかった。

 清の国内改革である洋務運動を推進した李鴻章も、日本がやたら丁重な態度で様々な近代兵器の国産化に協力してくれるのを見て不気味に思ったという。

 李鴻章としては、東夷に援助を求めるのは屈辱的だった。

 だが、他の列強国に援助を求めれば多額の費用を請求され、ますます国内の蚕食が進むのは目に見えていた。

 それに比べれば、まだ良心的な取引をしてくれる日本を頼るしかなかったのである。

 日本は、ようやく清が改革に積極的になってくれたと見る向きもあり、洋務運動に協力するのはやぶさかではなかった。


「阿片戦争直後からこうだったら、アロー戦争をやらなくても済んだ」


 と残念がる幕閣や日本軍関係者は多かったという。

 そして、日清の接近を見て、ようやく朝鮮も開国に同意することになった。

 1876年、日朝修好条規が結ばれる。

 この条約はいわゆる不平等条約であったが、朝鮮の国内法が未整備である段階では止む得ないものだった。関税自主権はなかったが、設定された関税は朝鮮と交渉して決めたものであり、朝鮮にとって不利益なものではなかった。

 これが日清戦争の、18年前の出来事だった。

 日本、清、朝鮮がそれなりに満足できる妥協点にようやくたどり着けた思いだった。

 一連の交渉のために奔走した国務奉行の勝海舟を徳川慶喜は手厚くねぎらったという。

 慶喜は、孝明天皇さえいなければ、さっさと軍事的に朝鮮を踏み潰す心積もりをしており、晩年の回想録で天皇に振り回されたと愚痴をこぼしている。

 なにしろ、軍事的に見れば、朝鮮など吹けば飛ぶような小国であった。

 ついこの前、日本はアロー戦争で清を完膚なきまで叩き潰したばかりである。日本軍が本気を出せば、戦争は1ヶ月で決着がつくものと予想された。

 とはいえ、南北戦争の痛手からアメリカ合衆国は立ち直りつつあり、北米大陸の防備をおろそかにするわけにいかなかった。

 アメリカ人が日本人に向けて注ぐ敵意は、フランスで人種差別を味わったことがある慶喜にとっても常軌を逸しているところがあり、恐怖心を覚えていたと言われている。

 1866年に勃発したアメリカの南北戦争は、日本にとってアメリカ合衆国を分裂させる絶好の好機であった。

 戊辰選挙の直前ということもあり、慶喜は国内政治に全力を注いでいたい時期であったが、可能な限り南部に便宜を図りたいと思っていた。

 慶喜は南部連合のレイシズムを嫌悪していたが、政治家としての判断はまた別にあった。

 しかし、幕府と南軍関係者に接触したことが北軍支持の新聞にすっぱ抜かれ、それが政治問題となった。

 なぜ政治問題になるのか慶喜には分からなかったが、その南軍関係者は即座に軍を追われ、軍人生命を絶たれたばかりか、その後何者かに暗殺され、物理的に首を切られたという。

 南部のアメリカ連合国は、日本とのつながりを完全否定する声明を発表。

 それでようやく事態は沈静化した。

 しかし、アメリカ連合国政府が失った信用は大きなものだったという。

 慶喜は一連の騒動から、アメリカ人と手を組むのは不可能と判断し、北米の国境防備の強化を指示した。

 ともかく、連中は日本人が嫌いということだけは分かったのである。

 それほどまでに米墨戦争の記憶はアメリカ人に強烈な負の印象を残していたのである。

 南北戦争はアメリカ南部を焼き尽くし、南部首都のリッチモンドが陥落。アポマトックス・コートハウスの戦いでリー将軍が降伏し、1865年4月に終わった。

 南北戦争の死傷者は50万人にも及び、世界初の総力戦ともされるが、日本にとって重要なのはしばらくアメリカが身動き取れないほど深手を負ったことである。

 この間に、日本は戊辰選挙を終え、国内の改革を進めることができた。

 戊辰選挙に付随する政治改革ばかり取り上げられるが、同時期は日本の第一次産業革命の全盛期でもあった。

 1880年までに日本領で整備された鉄道は総延長50,000kmに達している。

 ちなみに赤道が一周約40,000kmである。

 鉄道網の整備は、日本本国のみならず南天、北米大陸でも盛んに行われ、膨大な鉄鋼需要を作り出していた。この時代の鉄道整備は民間主導で行われ、一種のバブル景気でもあった。

 旺盛な鉄鋼需要に応えたのが千葉や大阪、室蘭、八幡といった本国の巨大な製鉄所で、必要な鉄鉱石は呂宋や南天から輸入された。

 製鉄所の建設ラッシュはさらに続き、南天や北米にも開設され、徐々に採掘精錬一貫製鋼体制へとシフトしていくことになる。

 人件費や輸送コストの面で本国で鉄を作るより、南天や北米で作った方が有利だからだ。

 本国は産業流出により徐々に高付加価値製品の生産にシフトしていくことになるが、それもう少し先の話である。

 1885年には西海岸の幕場市から、メキシコシティまで続く北米大陸縦断鉄道が完成し、幕場市からメキシコティまでを1週間で結んでいる。

 翌年には、モントリオールから西へ進む、カナディアンパシフィック鉄道との間で刈狩、レジャイナ間の路線が開通したことで、史上初の北米大陸横断鉄道が完成する。

 永くこの路線のみが北米大陸を横断する唯一の鉄路であった。

 なぜなら、アメリカと日本の大陸横断鉄道連結協議はことごとく物別れに終わったからだ。

 日本側の対米不信が酷すぎて交渉にならなかったのである。

 アメリカ合衆国は独自に鉄道路線を西へ伸ばしていたが、車窓から面白半分でバッファローやインディアンを撃ち殺すなど蛮行を繰り返していた。

 幕府にとって、そんな野蛮な連中と鉄道路線をつなげることなど考えられないことだった。

 ハイソサエティならともかく一般のアメリカ人はインディアンと日本人の区別がついていない節があった。

 南北戦争後の1890年代のアメリカ合衆国は、西部開拓が鉄道路線の整備と共にいよいよ本格化する時代である。

 開拓によりバッファローの楽園だった大陸中央の大平原は広大な農地へと変わっていた。

 食料源のバッファローを殺し尽くされ、飢餓に追いやられたインディアンが日本領へ難民となって押し寄せて来ていた。

 むしろ、積極的にそうなるようにアメリカ側が仕向けていた。開拓の邪魔をするやっかいなインディアンを日本人に押し付ける魂胆があったのである。

 インディアンに混ざって、日本に逃れた黒人労働者も多かった。

 南北戦争が終わり、奴隷が開放されても人種差別は少しもなくなっていなかった。

 そうした現状に絶望して日本領へ逃亡する黒人は数多かった。

 インディアンの難民化には全くアメリカ人は無頓着だったが、黒人の逃亡には激怒している。逃亡先の北米諸藩に引き渡しを要求することもあった。


「自由の国から逃げ出すとは何事か!?」


 というのがアメリカ人の一般的な意見だった。

 なお、幕府及び北米諸藩はアメリカからの引き渡し要求を、その黒人が犯罪者でなければ(密入国が犯罪でなければ)一切拒絶している。

 幕府が国策としてインディアン保護政策を乗り出すのはこの頃からである。


「賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによって出来るものなり。肌の色にあらず」


 と語ったのは福沢諭吉である。

 彼のようにインディアンや逃亡黒人の子弟に高等教育施すことを目指して、社会運動を起こす人物も現れた。

 だが、この時はまだ日米の直接対決には至っていない。

 南北戦争で膨大な犠牲者を出したアメリカに、北米大陸で日本と全面戦争を戦う気はまだこの時にはなかった。

 しかし、アメリカが自らの野蛮さにより、大陸横断鉄道建設でイギリスに出し抜かれたのは確かである。

 なお、幕府も経済的な観点から別ルートの大陸横断鉄道の必要性は認めており、以後もアメリカとも不毛な交渉が続けられることとなる。

 最終的に西海岸の聖天市とエルパソを結び、中立国のテキサス共和国領内を通過して、サザン・パシフィック鉄道と連接する路線が完成する。

 北米の大陸横断鉄道といえば、北のカナダルートと、南のテキサスルートの2つを意味し、日本側は一貫してカナダルートを重視し、他に大陸中央部を結ぶ鉄道は建設されなかった。

 赤土藩の田場市まで鉄路を伸びたが、幕府はそれより東には建設を認めていない。

 日本には他にいくらでも鉄道を建設すべき場所があったし、テキサスルートが完成すると次は南天大陸横断鉄道の建設に取り掛からなければならなかった。

 北米大陸の東西から伸びる決して重ならない鉄道路線図。

 それは日本合藩国とアメリカ合衆国の対立の象徴となった。

 日米の対立は、日本のアジア政策に微妙な影をおとしていた。日本がアジアを向いているとき、常に日本は北米という背後を気にしなければならなかった。

 朝鮮への異常なまでの慎重姿勢も国内の政治的事情ばかりではなかったのである。

 ただし、そうも言っていられない状況が訪れる。

 1884年8月、清の属国であるベトナム(院朝)を巡って清仏戦争が勃発した。

 この戦いで清は海戦では敗れたものの地上戦では善戦し、戦いは泥沼の様相を呈する。

 長年の洋務運動の成果が出たと日本は清に喝采を送ったが、清から参戦要求が来ると拒否した。

 日本にとって参戦しても何の利益もない戦争であったし、フランスは日本の伝統的な友好国であった。

 同時期にフランスからも戦局打開のために参戦要求がきていたが、幕府はこれも拒否している。ただし、有償で損傷したフランス軍艦艇の修理や傷病者への医療提供は行った。

 清とフランスの二者択一なら、幕府はフランスをとった。

 無償の支援ばかり欲しがる清と、支援に対価をきちんと払うフランスを同列に扱うことなどできるはずもなかった。

 だが、その選択は清に対日不信を深めさせることになる。

 清は元よりアロー戦争の恨みを忘れてはいなかったし、洋務運動での日清の協力も一時的な方便と捉える向きが強かった。用が済んだら、日本にはそれなりに代償を払わせる心積もりがあったとされる。

 さらに同時期、朝鮮で親日派によるクーデタが勃発。

 クーデタ政権は日本に支援を要請するに至る。

 このクーデタは幕府とは何ら関わりないところで進んだものだった。

 しかし、現場の判断で日本は公使館警備用の軍を派遣。朝鮮国王を保護することになった。

 幕府としては、一向に進まない朝鮮の国内改革に対する苛立ちもあったし、彼我の圧倒的な軍事力の差を考えれば、清が暴発するなどありえないことと考えられた。

 清が保有する鎮遠や定遠のような装甲艦なら日本は10倍も持っていたし、より強力な次世代型戦艦も建造中だった。

 状況が落ち着いてから、清と再交渉すれば問題ないと判断されたのである。

 つまり、最初から幕府にはまともに清と戦う気がなかった。

 油断していたとすれば、それまでであろう。

 時間経過で清の朝鮮駐留軍は落ち着きを取り戻し、日本から増援部隊が現れないことに気がつくと朝鮮国王奪還作戦を開始する。

 公使館の警備兵は何れも軽武装であったし、その兵力は僅か150人だった。また、清が攻めてくるなど誰も考えていなかった。

 結果、日本軍は壊滅。クーデタ政権は崩壊した。

 暴走した清軍によって日本人居留者が虐殺され、日本の世論は沸騰した。

 この知らせを聞いた李鴻章は衝撃のあまり言葉を失ってうずくまったと言われている。

 日本軍が本気で攻めてきたら清に勝ち目がないのは明らかであった。

 日清間の均衡は「武士の情け」という奇妙な日本の遠慮によって支えられていることを李鴻章は理解していた。

 李鴻章は日本軍相手に勝った勝ったと喝采を送る清朝の宮中や西太后を説得し、即座に日本と交渉を持った。

 日本側の追求により、清は居留民虐殺を認めて関係者を処分し、謝罪して賠償金を払うことになったが、それで全面戦争が避けられるなら安いものだった。

 また、不測の事態を避けるために日清双方が朝鮮から軍事力を撤収することになる。

 こうして1885年、天津条約が結ばれる。

 この段階での戦争勃発は日本も望んでいなかった。

 しかし、清の謝罪と賠償はあまりにも遅すぎたし、賠償の額も少なすぎた。

 日本国内を沈静化させるには不十分であり、日本の世論は沸騰したままだった。

 徐々には世論は鎮静化したものの、朝鮮内部の親日派が壊滅したことで朝鮮や清を見放す意見が増えることとなる。

 孝明天皇も、凌遅刑に処せられたクーデタ首謀者の写真を見るに及んで、朝鮮や清に絶望し、以後、皇居に引きこもって政治的発言は途絶えた。

 直近の下院選挙では、アジアの大同団結を唱える尊王派はほぼ壊滅することになる。

 ようやく慶喜は政治的なフリーハンドを得たのである。

 なお、孝明天皇に件の写真を見せたのは、慶喜と言われている。

 絶句する天皇を見て、慶喜がほくそ笑んだという逸話がある。

 この逸話の真偽は不明だが、慶喜ならやりかねないと晩年の勝海舟が語るところである。

 とはいえ、即座に日清開戦には至らなかった。

 慎重に清が戦争回避に動いたことや、相互の軍事力撤収を定めた天津条約を露骨に違反するわけにいかなかったのである。

 しかし、日本の経済的な進出については全くの自由であり、朝鮮市場は日本製品で溢れかえって、朝鮮の脆弱な国内産業をほぼ壊滅させる。

 今だに中世に毛が生えたレベルの朝鮮の産業競争力で、産業革命を完成させた日本相手に太刀打ちできるものなど何一つなかった。

 巨大な日本経済からすると貧困国の朝鮮市場は購買力が低すぎて旨味がない市場だったので、朝鮮の産業を蹂躙したのは物の弾みのようなものだった。

 しかし、その物の弾みで朝鮮国内の失業者が致命的なレベルで激増することになった。

 また、日本は大量の穀物の買い付けを朝鮮で行っていた。

 産業革命の進展で、日本本国の食料自給率が低下傾向にあったからである。

 当時、朝鮮も他に輸出できるものがなかったので外貨獲得のため積極的に穀物を輸出したのだが、不作の年になると穀物価格が異常に高騰した。それを見た朝鮮の腐敗役人が不正蓄財のために飢餓輸出に走ったため、餓死者がでる騒ぎとなった。

 失業者が溢れ、食料が不足すれば、次に起きるのは暴動である。

 1894年、朝鮮で甲午農民戦争が勃発する。

 暴動や農民一揆で始まったこの戦いは、朝鮮王国の正規軍の離反を招き、事態が制御不能になった朝鮮王朝は清に反乱鎮圧を要請した。

 これを受け、天津条約に基づき日本も居留民保護のために朝鮮へ派兵を行う。

 だが、これは名目にすぎなかった。

 慶喜はこれを好機として、清から朝鮮をもぎ取る算段を整えていた。派兵に際して、清ではなくイギリスやアメリカ、ロシアの動向を確かめている。

 国内世論も、戦争待望一色に染まっていた。

 各国が動かないことを確認した上で、幕府は不測の事態を避けるため、として清に朝鮮からの一方的な軍事力の撤収を要求した。

 この時、黄海には日本海軍の最新鋭戦艦をずらりと並んでいた

 要するに、幕府は朝鮮から一切手を引けと清を恫喝したのだった。

 東夷と戦わずして屈服することは大中華帝国のプライドが許さなかった。それを承知の上での提案なのだから、実質的な宣戦布告と同じだった。

 1894年7月、日清両国は戦闘状態に入り、3ヶ月の戦いはほぼ日本の圧勝で終わる。

 殆ど語るところのない戦いであった。

 清の北洋艦隊は一度も出撃できず、威海衛は日本海軍に完全封鎖された。陸側からの上陸作戦で威海衛は陥落。定遠、鎮遠は自沈している。

 地上戦は、1846年の米墨戦争以来ということもあり、若干の経験不足を露呈した。

 しかし、戦闘が始まればボルトアクション式ライフルを装備した日本陸軍歩兵師団は圧倒的な歩兵火力で清の北洋師団を粉砕している。

 日本軍にとって最大の脅威は清軍よりも、朝鮮半島北部や満州の気候だった。

 寒さで凍傷になる兵士が続出したのである。

 飲料水の確保にも苦しみ、衛生状態の悪さからコレラが流行するなど今後の課題は残った。 しかし、戦争そのものは圧倒的という言葉で飾るほかない有様だった。

 なお、アロー戦争と同じくこの戦いで最も日本を苦しめた清の軍隊はやはり日本軍が装備と訓練を提供した部隊で、日本製ライフル銃同士での射撃戦が行われた。

 日本兵の死因一位は戦病死だったが、二位は日本製のスミトモライフルによるものだった。

 北京郊外まで侵攻した日本軍は、外交交渉が始まると行儀よく進軍を停止した。

 概ね、予想どおりの妥当な勝利のあり方であった。





 日清戦争の講和会議は、日本本国の大阪で開催された。

 所謂、大阪講和会議である。

 日本は賠償金として三億両の支払いと現在占領忠の遼東半島及び威海衛の割譲、海南島の租借、満州の鉄道敷設権や両民雑居を要求した。

 さらに、清は朝鮮の宗主権を放棄し、朝鮮が正式に独立することとなる。

 朝鮮の独立は名目上のことで、日本に外交権や徴税権を委任することになっていたので、清の保護国が日本の保護国になるという意味しかなかった。

 満州の領民雑居は新しい植民地確保の意味合いが強い。

 既に北米大陸の領土は確定しており、これ以上拡大の余地がないので近場で適当なところを抑えにきたのだった。

 新しい植民地を拓くのなら、鉄道建設は当然セットであり、満州の支配を確固たるものとするためには絶対必要だった。

 威海衛、遼東半島を要求したのは、大連、旅順といった要港があり、この地を他の列強国に取られると本土周辺の制海権が怪しくなるためである

 海南島を要求したのも、遼東半島と同じ理由で呂宋、北ボルネオ、スマトラ島の各地へ伸びる海上連絡線の鼻先にある島を他の列強国に渡したくないという予防措置だった。

 国務奉行所には、この要求はやや過大ではないかという慎重論もあった。

 実際、阿片戦争やアロー戦争の講和条件に比べると過大である。この時、日本は圧勝という他にない戦争展開に酔っているところがあった。

 また、これまでずっと清を相手に譲歩や妥協を繰り返してきたことへのフラストレーションがあり、自分自身の力を過信している節があった。

 清は日本の過酷な要求に憤慨したものの、それしかできることはなかった。

 日本は豊富な戦力をもっており、海軍力は圧倒的というより他なかった。

 その気になれば、日本は中国沿岸部のどこにでも好きなだけ戦力を上陸させられるのだ。

 清の全権大使となった李鴻章には抗う術はないように思われた。

 しかし、


「日本の要求は法外である」


 という声が北から届た。

 ロシア帝国で講和会議に介入したのである。

 秘密交渉中の大阪講和会議の詳細な資料を何故かロシアは入手しており、アジア太平洋地域の平和と善隣友好のために日本は要求を適正な範囲に修正すべきと主張した。

 この主張に、フランスとイギリスが同調する。

 英仏露による三国干渉であった。

 幕府にとっては想定外の展開だった。

 イギリスとロシアが手を組むなどありえないことだった。さらに伝統的な友好国であったフランスが敵に回ったのは衝撃という他なかった。

 確かに、仏露協商や英仏の友好関係は承知していたが、フランスが明確に日本と敵対することはないだろうと思っていたのである。

 フランスに留学した慶喜は大のフランス贔屓であり、ナポレオン三世を政治の師として尊敬していた。慶喜の民政のかなりの部分はナポレオン三世のそれを真似たものであった。

 メートル法やキログラム法の採用もその一環である。

 ナポレオン三世が普仏戦争に破れ、イギリスに亡命したあとも手紙のやり取りをしていたほどだった。仏清戦争でも損傷した艦艇の修理や戦傷者の治療を行うなど、フランスに便宜を図っている。

 なお、フランスには幕府に敵対する意図はなく、普仏戦争後の対ドイツ外交の一環である親ロシア政策として形だけの参加をしたつもりだった。

 しかし、この干渉以後は幕府はフランスとは手切れとして、三国干渉に参加しなかったドイツ帝国との友好関係構築へとシフトする。

 元々、幕府の親フランス外交は、イギリスを牽制するためのものであり、フランスがイギリスと手を組むなら、もはやフランスとの協調は死んだも同然だった。

 なお、実はドイツ帝国もロシアから誘われていたのだが、アジア太平洋に全く拠点を持っていなかった上にイギリスを牽制するために日本を利用できないか検討していたこともあって参加を見送っている。

 フランス、イギリス、ロシアを同時に敵に回すのが得策ではないことぐらい幕府も承知しており、大阪講話会議は振り出しに戻ることになった。

 会議を再開したとき、李鴻章は勝ち誇った顔で笑ったという。

 ロシアに会議の資料をリークしたのは李鴻章であった。

 敗戦の責任を負わされ、講和会議後に失脚することが確定している李鴻章は手段を選ぶ必要がなく、土壇場で日本に一矢報いた形となった。

 日本は再交渉により、遼東半島、威海衛の割譲及び海南島の租借、満州の領民雑居を取り下げることになった。

 ただし、賠償金の支払いと満州の鉄道敷設権及び朝鮮の独立だけは死守した。

 朝鮮がロシアやイギリスの勢力圏に入ることは絶対に回避しなければならなかったし、勝者の立場を維持するため賠償金は必須要素であった。

 そして、次の戦争の補給路を確立するため、満州の鉄道敷設権は欠かすべからざる要求だった。

 日本は大阪講和会議の時点で、ロシアとの戦争に備えて既に動き出していたのである。






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