幕末
幕末
安政5年(1858年)10月25日 、1200年続いた武家の世の最後の日々が始まった。
この日、徳川慶喜が江戸幕府第14代征夷大将軍に就任した。
将軍になるべくしてなったと謳われる英明な君主の誕生に、人々は喝采を送った。
先代、先々代に見るべきところがなかったというのもあるが、慶喜の将軍就任は多くの人々に望まれていたことは間違いなかった。
幕府を取り巻く情勢は不穏さを増しており、慶喜は就任当初から難しい舵取りを強いられることになる。
当時、幕府を脅かしていたのは、国内の革命勢力の著しい伸長であった。
日本の勝利に終わった米墨戦争後、革命思想が急速に伸長し、その対策に幕府はやっきになっていた。
主に京都、大阪に集まった過激な自由主義者や民権論者、共和主義者、民族主義者達のテロルが深刻な社会問題になっていたのである。
なぜ、革命思想がここまで高揚しているかといえば、大変、皮肉なことだが副将軍として幕政を掌握した水戸藩主、徳川斉昭に原因が求められる。
斉昭は幕政を掌握すると尊王思想である水戸学を全国規模で熱心に布教したのである。
水戸学は元々、大日本史編纂のために開設された史局のうちわの論議から始まった学問で、史学以外にも和文・和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学といった幅広い分野に及ぶ広大な体系を持っていた。
だが、そのメインストリームは儒学に神道、国学、史学をカクテルした取扱注意の政治思想であり、武家政権の正当性を毀損する南朝正統論や現体制を否定する尊皇攘夷思想といった当時としては大変アナーキーな主義主張を含んでいた。
天保年間に老中首座にあった水野忠邦は、水戸学も自由主義のように弾圧とは行かないが、要注意の監視対象として、その動向には気を配っていた。
しかし、米墨戦争の勝利者として徳川斉昭が帰還し、幕政を掌握すると水戸学の伸長を止めるものが誰もいなくなってしまった。
現体制の守護者であるべき副将軍が、現体制を否定する学問に心酔しているのだから、体制の混乱は必至であった。
さらに対外戦争の勝利者である斉昭を止められるものいない点において、幕府は倒錯的かつ破滅的な状況へ追い込まれていく。
水戸藩が親藩の一つに過ぎなかったときには、尊王を叫んだところで実害はなかった。
だが、斉昭は自分の家臣団として水戸藩の人材を幕府の要職につけるとそう言っていられなかった。
単なる観念だったものが、リアリティを帯びて巷を席巻したのである。
また、米墨戦争の勝利は、日本に民族主義の高揚をもたらした。
民族主義もまた、幕府にとっては危険思想だった。
封建主義社会にとって、民族主義は天敵に等しく、自由主義や共和主義よりも尚やっかいな思想であった。
ナショナリズムを煽った・・・意図的にやったわけではないが、結果的に煽ったのは新聞のようなマス・コミュニケーションシステムである。
米墨戦争は新聞報道によって初めて広く報道された戦争だった。
多くの日本人が新聞によって海の向うで起きている戦争を知って、その結果に一喜一憂したのである。
それまで、日本人は一般的にナショナリズム的意識は希薄だった。
自分たちの帰属する共同体のカラーとして、民族というものを意識するようになったのは、19世紀も半ばのことである。
それまで日本人が意識した最大の共同体は、己の属する藩という単位だった。
故に、同じ日本語を話していても、藩が違えばそれは外国人であり、他所の者であった。
日本国内を移動するのに過書手形のような通行許可証が必要だったのである。
だが、移民政策で多くの藩が海外移封となり、国内の土地が天領として統一されていくと藩という単位は減っていき、国内の通行が容易なものになっていった。
さらに街道が整備され駅馬車が走り、産業革命を経て蒸気機関車が登場すると移動はますます容易なものとなった。
過書手形は完全に時代遅れになり、国内の移動は原則、自由になった。北米大陸ではそもそも境界意識が希薄で、過書手形のようなものは極初期を除いて発給されていない。
藩という境界意識が希薄になったところに、新聞のようなマスコミが、海外での戦争を報道すると、その主語は幕府軍や毛利軍をひっくるめた日本軍という大きな主語を用いることとなった。
外交、経済報道でも、国対国という場面では日本国や日本経済というそれまで意識されてなかった大きな主語が使われた。また、そうした大きな主語がなければ、報道できないものが山ほどあった。
そうして己が日本国の日本人の一人であると理解されるようになると、多くの人々が日本という国家(その殆どが海外藩であり、統一政体ではないのだが)の巨大さに改めて気づいた。
それまで自分の周りにしかなかった世界が、水平線を超えた大帝国の一部であり、己がその大帝国の一員ということに多くの人々の間で意識されたのである。
要するに自我の拡張、あるいは肥大化がおきた。
その最大公約数、あるいは最小公倍数が日本人という民族意識であり、民族主義であった。
それまで希薄だった日本人という概念が急速に発展していくのが、幕末という時代の特徴である。
それはあたかも、小さな赤子が大人や周囲の環境との格闘から自我を確立させていく過程を思わせるものだった。
故に、多分に小児病のような、あとから見て奇異に思える思想や行動が目立ったのは小さな子供の癇癪なようなものと解釈できる。そうした衝突、葛藤を繰り返して子供は大人になっていくのである。
だが、日本という世界レベルの大国がそれをやるとその悪影響は甚大なものでった。
さらに間が悪いことに、斉昭を筆頭とする水戸藩の人材が国政を席巻した。
彼らが国政に持ち込んだ水戸学は思想的背景をもたなかった日本の民族主義に理論体系を与えてしまったのである。
恐ろしく皮肉な話であったが、米墨戦争に勝利したことで幕府とその封建体制は崩壊に向かったとするのが歴史家の意見の一致するところである。
この時、日本の内政問題の焦点となっていたのはアロー戦争の戦後処理だった。
第二次阿片戦争ともされるイギリスの露骨な侵略戦争に、日本も参加していたのである。
もちろん、全く勝ち目の見えない清側ではなく、イギリス側での参戦である。
これが日本国内において大論争を巻き起こしていた。
なお、戦争そのものは日英仏連合軍の圧勝という言葉では足りない虐殺じみた戦いだった。 幕府軍の僅か1個連隊が10倍以上の八旗兵を壊滅させたりした。
幕府軍は悪名高い円明園の略奪にも参加しており、多くの美術品や工芸品を英仏軍からの略奪から”保護”する名目で、日本へ持ちさっている。
現在も、日本国立美術館にはこの時保護された中国歴代王朝の貴重な陶磁器や水墨画などの美術品が展示されている。
中国政府はこれを盗難美術品として返還を強く求めているが、日本はこれを黙殺している。
幕府陸軍は、この戦いで米墨戦争に続く勝利を収め、己の軍事力整備の正しさを再確認すると共に近代軍隊とそうでない軍隊の圧倒的な格差を理解した。
とはいえ、この勝利は幕府軍にとって後味の悪いものだった。
アロー戦争の最終局面において、粘り強い抵抗を示した清軍のいくつかの部隊は、幕府軍がその訓練に協力していた部隊だったのである。
清に軍事指導教官として派遣された多くの幕府軍将校が清の地理や内情に詳しいことからそのままアロー戦争に参加している。
彼らは自らの教え子を敵として葬り去るという悲劇に見舞われ、数名の将校が悲憤のあまり抗議の切腹を行っている。また、失望して軍を去ったものも多い。
アロー戦争が始まるまで、日清関係が極めて友好的だったが故に起きた悲劇だった。
1840年の阿片戦争から、アロー戦争まで16年の歳月が過ぎていた。
その間、幕府はあらゆる外交チャンネルを使って、清政府に政治経済及び軍事改革の必要性を訴えてきた。
心ある民間有志が大陸に渡って、改革運動の手助けもした。
そうした活動に対して幕府は資金援助を惜しまず、日清の友好関係構築に腐心した。
阿片戦争であっけなく清が敗北したことは、多くの日本人に衝撃をもたらした。
その衝撃の中から、イギリスや西洋列強に対抗するため、アジアの大同団結というアイデアが生まれたことは極自然な発想と言えるだろう。
そのための日清友好であり、清の国内改革への広範囲の支援が行われた。
19世紀半ばは西洋列強のアジア、アフリカの植民地競争が激化し、帝国主義が極まった時代である。
ウラル山脈より東で唯一の近代的な政治経済力を持つ日本であっても、単独でヨーロッパ諸国、ロシア帝国、アメリカ合衆国のような列強各国に対抗するのは不可能だった。
故に、中世の眠りの中にいる周辺国の国家改革を図り、少しでも同盟国を増やそうと悪戦苦闘した16年であった。
米墨戦争での義勇軍参戦も、その一環だった。
メキシコは日本にとって無くてはならない友好国の一つだった。
しかし、米墨戦争の除けば日本の努力は、あまりにも無残な失敗に終った。
清は日本の呼びかけに少しも答えなかったのである。
これは清において阿片戦争の敗北はさほど問題視されていなかったことに原因がある。
中国の歴史において、ときの王朝が外敵の侵入を受けて敗北することはしばしば起きてきたことである。そもそも清の人口の大部分を占める漢民族にとって清は異民族が打立てた王朝であった。異民族の王朝がどうなっても、大部分の漢民族にとってはどうでもいいことだった。
清は、阿片戦争後も華夷秩序は捨てておらず、イギリスを「英夷」と呼び続けた。日本は「東夷」であり、建国間もないころに国内で略奪を働いた悪しき蛮族であった。
結果、日本からの協力や提案はことごとく拒否され、権高な態度で一蹴された。
宗主国の清がそうであったので、冊封していた朝鮮との交渉も完全な失敗に終わった。
それでも日本からの軍備の輸入や新装備の取扱を指導する教官の受け入れは行われた。李鴻章など、一部の清政府の要人にはイギリスがこれまでの蛮族とは次元の違う敵であることに気付いていた、
だが、保守派の反対により、新軍備の導入は幕府が推奨した規模の十分の一以下で終わる。資金の大半は西太后の贅沢な生活を支えるために消えた。
なお、こうした日清の協力関係構築の努力はイギリス政府に察知されていた。
そして深刻な危機感を抱かせることになる。
眠れる獅子(清)と日本が連合して逆襲してくるという悪夢である。
阿片戦争後の日本とロシア帝国の接近でさえ厄介なのに、清と日本が同盟するなど絶対にあってはならないことだった。
あらゆる謀略を尽くしたイギリスの分断工作は、日本の提案がことごとく失敗する原因ともなるのだが、その総仕上げとして、アロー戦争への参戦要請があった。
日本を侵略の共犯者に仕立て上げ、日清の連携を不可能にする作戦である。
一応、幕府もその意図には気付いていた。
だが同時に16年かけても何の成果もない現状に疲れ果ててもいた。
清や朝鮮を近代化して、東洋の大同団結で西洋に対抗するのは無理かもしれないと諦めムードが漂っていた。
人間の努力や好意は無限ではない。
16年の歳月は必要にして十分な時間と言えた。
少なくとも、これまで清と朝鮮に投資してきた時間と資金の割には、得られるものがあまりにも少なく、徒労だけが募ったことで、幕府は方向転換することとなる。
大同団結が無理なら、西洋列強にアジアの要地を抑えられる前に、自分でこれを制圧してしまおうという予防戦争的な発想である。
実際、米墨戦争はそうした予防戦争の一種であり、アロー戦争も、幕府にとっては予防戦争と理解され実行に移された。
理解していなかったのは、京都の朝廷とその周辺に集まった革命運動家達であった。
彼らはアジアの大同団結を未だに信じていた。
確かにそれは字面だけのスローガンとしては美しい。
危機に際して手と手をとりあって強大な敵に立ち向かうというのは、子供向けの小説にありそうな展開だ。
現実の外交の現場に携わることがない人々にとって清や朝鮮の頑迷極まる態度は存在しないも同然だった。
アジアの大同団結が進まないのは幕府の外交努力が不足しているからと簡単に片付けられ、幕府の外交官たちの努力と苦労は無視された。
さらに天皇の勅許を得ず、幕府は侵略者のイギリスと手を組んで一方的に暴利を貪り、アジアの大同団結を破壊したと主張したのである。
その論理的な帰結として悪しき戦争を起こした幕府を倒し、朝廷と清廉潔白な革命家達を中心に新たな政体を打立て、東洋の大同団結を図るということになる。
後々の展開を考えると失笑を禁じ得ないが、民族主義の高揚はこの種の非現実的な綺麗事を真面目に叫ぶ人間を大量生産する効果があった。
もちろん現実が見えている人間には、全く相手にされなかった。
少なくとも幕府は大きな過失も暴政も犯しておらず、幕府転覆など夢物語に過ぎなかった。
だが、京都周辺ではそれが本気で論じられ、孝明天皇もそれを本気にしてしまう。
そのため、アロー戦争の戦後処理がややこしいことになった。
勅許を得ずに幕府が勝手に戦争を起こしたことが問題視されたのだ。
これが100年前だったら、全く相手にされなかった話である。
だが、尊王攘夷論と民族意識の高揚の中で幕府は動揺し、右往左往することになる。
さらにややこしいことは、一番動揺して右往左往していたのが幕政を掌握する斉昭だったことである。
朝廷が北京条約締結を拒絶する意向を示したため、斉昭は絶望してしまった。
徳川斉昭を慶応の足利尊氏となぞらえるのはこのためである。
後醍醐天皇の熱心な支持者である足利尊氏と孝明天皇の熱心な支持者であった徳川斉昭は、華々しい戦場での活躍と裏腹に天皇に振り回される人生を送った。
現実と、自らが抱く天皇への忠節の相克の果てに、精神を病んでいったのも同じである。
尊氏が事あるごとに切腹や出家願望を吐露したのと同様に、斉昭もまた晩年には出家願望を愚痴ることが多くなり、家臣を辟易させた。
だが、条約締結なくしては戦争状態が終結しないため、斉昭は勅許を得ずに独断で北京条約を結んだ。
斉昭は天皇よりも現実の政治を優先したのである。
その上で、斉昭は自らを謹慎処分とし、幕政を放り出して水戸に帰国してしまった。
水戸に帰国した斉昭は廃人同然の有様であり、
「烈公の火が消えた」
と後に語られることとなる。
朝廷と幕府の二律背反の中で精神に異常を来したものと思われる。
だが、これによって幕府の権威が吹き飛んでしまった。
朝廷の意向で幕府の副将軍が辞職したも同然だったからである。しかも、米墨戦争に勝利した戦争英雄の斉昭さえも天皇の意思には逆らえないものと世論には理解され、朝廷の威光がますます強まることになった。
そして、勅許を得ないままに結ばれた北京条約は巨大な政治問題となり、幕府は革命勢力の味方をする世論から集中砲火を浴びた。
斉昭の去った後、第13代将軍徳川家定もいよいよ病状が重くなり、幕府の機能不全が進む中で死去してしまう。
徳川慶喜が第14代将軍に就任した直近の状況はこのようなものだった。
なお、慶喜は将軍職就任に際して、一度も笑わなかったと伝わる。
全く笑えない状況であった。
困難な時局に際して徳川宗家を相続し、将軍となった慶喜は天保8年(1837年)9月29日、江戸の小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれた。
水戸藩は、代々、子女を国元で厳しく教育する方針をとっていたので、生後数ヶ月で水戸に移り9年間を同地で過ごし、藩校・弘道館で会沢正志斎らに学問・武術を教授された。
この頃には慶喜の英邁さは評判になっており、斉昭からも大きな期待を寄せられたという。
10歳のとき、第12代将軍徳川家慶の思召により、一橋家を相続。
家慶から偏諱を賜り、以後、慶喜と名乗ることとなる。
その後、最新の軍事技術を学ぶためにフランスへ留学し、パリの陸軍士官学校に入学している。
フランスへの留学は父の斉昭の意向が強く働いていたとされる。
斉昭は米墨戦争で近代戦の知識不足を痛感しており、期待する息子に西洋の最新技術を学んでほしかったと思われる。
フランス時代の慶喜には多くの逸話が溢れているが、笑いを誘う代表的なものはパリでの鉄道無賃乗車事件であろうか。
これまで一度も自ら切符を買って列車に乗ったことがなかった慶喜は、切符の存在を知らず無賃のまま乗車しようとして車掌に捕まり、同行した士官学校の学友から金を借りて漸く開放されたという。
国元で厳しい教育を受けたといっても、御曹司であることに変わりはなく、慶喜は自らの不明を恥じたという。
なお、晩年に自ら語ったところによるとパリ時代が自分の人生で一番輝いていた時間とするとおり、厳しすぎる父親(寝相を矯正するために枕元にカミソリをたてる程度の厳しさ)や家臣に囲まれた生活から抜け出して、大いに羽を伸ばしたようである。
ただし、学業もきちんと収めており、優秀な成績で士官学校を卒業している。
なお、専攻は砲兵科であり、これはナポレオンの故事に倣ったものと思われる。
語学も堪能であり、英仏独露の四カ国語を操り、油絵を描くなど画才もあった。
しかし、フランス時代に一番ハマった趣味は写真である。慶喜がフランス時代に写した写真は、ナポレオン三世の第二帝政期に改造される以前のフランスも姿を残しており貴重なものである。写真趣味は晩年まで続き、写真雑誌に匿名で作品を投稿したりしている。
また、同窓にジョルジュ・ブーランジェのような後にフランス軍の改革で名を残した人物もいて、その交友は長く続いた。
慶喜は後にクーデタに失敗して亡命先で失意の生活を送るブーランジェを慰める手紙を書き送っている。
フランス時代、慶喜に大きな影響を与えることになった歴史上の大事件が2つある。
一つ目は、1948年のフランス2月革命である。
実際にはこの時、慶喜はまだフランスには着いていなかったのだが、途中で引き返すように勧める周囲の意見を振り切って南仏のマルセイユに上陸している。
慶喜が目撃したのは2月革命の第二波である6月蜂起で、民衆の武装蜂起とフランス軍による鎮圧作戦を見て衝撃を受けている。
その日のことを慶喜は繰り返し晩年まで語っており、数多くの詳細な生々しい証言を残したことからその衝撃の大きさが伺える。
二つ目は、その後に実施されたフランス大統領選挙で、ルイ・ナポレオンが大統領に当選したことである。
慶喜はナポレオンのことは知っていたが、ナポレオンの甥っ子のことまでは知らなかった。
第二共和政におけるフランス大統領の権力は微弱なものであり、大統領といっても半ば名誉職ではあったのだが、それでも皇帝の甥っ子が民衆の力(選挙)で権力をえる様子は、慶喜にとって忘れがたいものとなった。
その後、ルイ・ナポレオンはクーデタで独裁権を確立し、1852年11月国民投票を経て皇帝ナポレオン三世となるのだが、そのどちらも慶喜は目撃している。
既にこの時、慶喜には帰国命令が出ていたのだが、それを振り払ってナポレオン三世のパリ入城を見届けた。
民衆の支持を受けた専制君主というアイデアを慶喜はフランスから輸入することとなる。
すなわち、将軍職就任早々に発した大名議政院(上院)、衆民議制院(下院)の開設、及び憲法制定の発議である。
新憲法は三権分立を明記し、基本的人権の尊重、財産権(所有権)の確立、信教の自由、民主主義の採用を明記し、天皇を国家の象徴とするとした。
そして、新憲法下において、関白や征夷大将軍は廃止され、新たに政威大将軍(大統領)を決める選挙を行うというものであった。
もちろん、政威大将軍の選挙は、海外藩を含む一定条件(高額納税)を満たした全ての日本人が参加することができる。
この発表に先立ち、慶喜は守旧派幕閣、幕臣を一斉に逮捕拘束し、クーデタで独裁権を確立している。帰国から将軍就任の日まで綿密に練られたクーデタ計画は、僅か12時間で江戸を制圧にするに及び完全無血クーデタとなった。
そもそもクーデタが起きたという認識さえ希薄なものであり、京都の革命勢力がそれに気がついたときには、既に乗じる混乱はなくなっていた。
こうしたクーデタによる独裁権の確立と民衆の支持を全面に押し出した政治はフランスのナポレオン三世の手法を取り入れたものだった。
この発表は、京都周辺の朝廷や革命運動家に対する慶喜の強烈なカウンターとなった。
憲法制定と民主主義化、立法機関としての大名議政院(上院)と衆民議制院(下院)の設置は、革命運動の二大勢力である共和主義、自由主義派を尊王派から切り離す効果があった。
幕府が自らすすんで民主化し、議会を作るというのだから、幕府転覆を画策する意味がなくなったと看做され、共和派や自由派は議会開設に備えた合法的な政党設立に向かった。
尊王派は共和派や自由派を裏切り者と見なして攻撃したので、革命勢力の崩壊は急速に進んでいった。
革命勢力の自滅に乗じて慶喜は京都守護職を新設し、その配下に重武装治安維持組織、通称”新撰組”を設置して、過激派の取締に乗り出した。
生き残った穏健な尊王派からは、国家の代表として天皇の象徴的な地位を定める新憲法は一定の評価を得た。
そうなれば天皇は現実の政治からは隔離されることになるが、元々現在でもなんの実行力もないのが朝廷の実情であり、実情に即した上で、国家の象徴として天皇を頂くことは、尊王の観点から大きな意味があった。
何しろ、既に日本人の半分が海外で暮らす時代である。北米諸藩や南天では、もはや天皇の存在など忘れ去られていた。
海外での支持勢力が欠けているのが尊王派の弱点だった。
そして、天皇制を必要としない海外藩の伸長は天皇制を危うくするものと尊王派は考えており、天皇を国家の象徴して位置づける憲法は都合がよかった。
憲法に明記されれば、今後何があっても天皇制は護持されるからだ。
慶喜の改革は、一部の過激派を除けば大きく広い支持を集めることに成功した。
国内外の藩主達を集めた大名議政院(上院)の設置は海外藩の国政参与の道を開くものであり、北米大陸、南天大陸、呂宋、台湾に散らばる有力海外藩から圧倒的な支持が集まった。
また、政威大将軍の公選制度は、いずれ海外藩からの将軍選出を意味するものでもあった。
既に日本人の半分が海外に暮らしている時代である。当面は徳川家の選出が続くだろうが、いずれは人口差から逆転する見込みが立つ。
旧式極まる武家諸法度に代わる国法としての憲法も、その必要性は予てから指摘されてきたことであり、さっそく日本各地で多くの憲法私案が作成されることになった。
こうした日本の大変革を海外は驚きをもって見つめるばかりであった。
240年以上続いた王朝が、突然、民主主義を採用し、憲法をつくり、変わった名前の大統領制を導入すると言い出したのだから、何かの間違いではないかと思われた。
しかし、本当に4年後の1862年には上院として大名議制院(上院)が開設され、江戸城本丸御殿で第一回大名会議が開催された。衆民議制院(下院)はそれから4年かかったが1866年には第一回衆民会議を行っている。
1867年には日本合藩国憲法が発布され、翌年に第一回政威大将軍選挙が行われた。
国号も、この時、正式に日本合藩国とされた。
英語表記の場合は、United States of Japanとなる。
なお、この第一回の選挙を特別に、戊辰選挙と呼ぶ。
名称の由来は、選挙があった慶応4年の干支が戊辰であるためだ。
戊辰選挙は有史以来最大規模の選挙であった。
何しろ、この時の日本の領土は、日本列島から台湾、呂宋、北部ボルネオ、スマトラ島、太平洋中央諸島群、南天大陸、シベリア、アラスカから富士山脈まで連なる北米大陸諸藩にまで、環太平洋の全域に広がっている。
その領土はロシア帝国、大英帝国に比肩する一大帝国であった。
赤道を跨ぎ、日付変更線を超えるほど広がった国家が、本当に民主選挙を行うことができるのか疑問視されたが、戊辰選挙は幾多のトラブルに見舞われながらも断行された。
それは、戦争に匹敵する一大国家事業だったと記録されている。
なにしろ日本の総人口は戊辰選挙の段階で1億2千万に達していた。広大な領土と膨大な国民に投票用紙を配るだけでも、気が遠くなる作業量だったのである。
ただし、戊辰選挙に参加できたのは、25歳以上の日本人男性で、15両以上の税金を納めているものだけだった。そのため、選挙民の数は国民の総数よりもずっと少ない。
選挙権の条件としてはこの時代の平均的なものである。
初代政威大将軍に当選したのは、当然だが徳川慶喜その人だった。
結果、慶喜は最後の征夷大将軍と最初の政威大将軍を兼ねることとなった。
任期は1期8年とされ、多選については制限がない。慶喜は5期(40年)務めることになったが、以後の政威大将軍で5期務めたものは一人もいない。
政威大将軍は、行政府の長として幕府を総覧し、陸海軍を指揮するものと規定された。
また、政威大将軍は国民に対して責任を負うものとされた(政威大将軍は「国民の代表」と規定されていた)が、国民から政威大将軍の責任を問う制度は整備されなかったので、この責任規定は一方的なものだった。
政威大将軍の権限は極めて強大で、幕命という形で自由に政令を定め、議会に対して解散権を持ち、その議決に対しては拒否権を持っていた。
制度こそ変わったが将軍の大権は温存される形であった。
武家諸法度のような旧法に変わって新たな国家基本法となった日本合藩国憲法は、慶喜の意向によりフランス憲法を参考とし、基本的人権の尊重、所有権(財産権)の確保、思想信条の自由、転居の自由といった近代憲法の特徴を概ね揃えていたが、法の下の平等はなかった。
憲法において、武士は士族、公家、皇族は華族として、その他は衆民と規定され、封建的な身分制度が残された。
全ての国民に納税の義務と子女に教育を受けさせる義務が課されたが、徴兵の義務は士族のみに課されることになった。
選挙権に差別はなかったが、被選挙権は士族のみに許される特権となった。
また、士族や華族には秩禄や家禄といった年金支給が継続され、領地への固定資産税も免除であり、武家や公家の経済的特権は残った。
新憲法下において、幕府は行政府として位置づけられ、それぞれに専門の行政組織として、勘定奉行、町方奉行、総務奉行、国務奉行、陸軍奉行、海軍奉行、殖産奉行、文科奉行、寺社奉行が編成された。
なお、朝廷の官制を復古して省庁制にしてはどうか、という意見もあるにはあった。
しかし、武士の政権であることを強調するために奉行という言葉が残された。幕府も政府に改めるべきという意見もあったが、結局は同じ理由で幕府の名前がそのまま使われることになっている。
九奉行制で始まった新生幕府は、後に普請奉行、法度奉行が加わり十一奉行制となる。
これまで老中をして幕閣としてきたが、以後は奉行の集りが幕閣とされ、幕閣の長として総務奉行が置かれた。
総務奉行職が以後、日本官界の頂点となる。
なお、官界はそれまでと変わらず士族が独占することになったが、家柄や血縁のような縁故主義は廃され、下級士族であっても実力があれば奉行まで昇れる形に改められた。
これは慶喜のブレーンであり、斉昭の置き土産となった戸田忠太夫、藤田東湖、武田耕雲斎といった水戸の三田が何れも下級武士だったことが大きい。
これまで譜代で独占されていた上位職にも、実力さえあれば(士族であれば)、誰でもなれることになったのは組織の新陳代謝を大きく進めることになる。
なお、下級武士から奉行に昇った代表的な例として、加州出身の木戸孝允や伊藤博文、薩摩から昇った大久保利通がある。
司法は、是非曲直裁断所として独立し、幕府や議制院の出す幕命や法度が憲法に違反していないか審査する違憲審査権を持つことになった。
憲法発布後に民法や商法、刑法などの各種、近代法が施行されていった
これらも概ねフランスのものが参考にされている。
こうしたフランス法体系の模倣は慶喜がフランス贔屓と背景もあったが、寛永年間に松平定信がナポレオン法典をヨーロッパから持ち帰り、幕府内部で長年に渡って研究検討されてきた実績に基づくものである。
文化文芸の弾圧者として衆民からの評価が低かった松平定信が民権論者などから再評価されたものこの頃である。
軍制にも改革があり、幕府陸軍は日本陸軍、幕府海軍は日本海軍に名を改め、徳川家の私兵ではなく、日本の国家軍隊であることが示された。
軍の統帥権は、国民から選挙で選ばれた政威大将軍が持つものとなる。
だが、各藩にも独自の軍事組織である藩兵が残ることになり、軍の統一は不徹底に終わっている。
これは憲法名から分かる通り、日本が合藩制(連邦制)を採用した・・・或いは、採用せざる得なかった事情による。
呂宋や加州といった有力海外藩から自治や藩兵を取り上げれば、独立戦争は必至であった。
この時、海外藩が分離独立に至らなかったのは、アメリカやイギリス、ロシアといったグレート・パワーと国境を接するが故に、強い危機感が働いていたためである。
例えば、呂宋藩の豊臣家は、太閤豊臣秀吉の直系子孫の系譜が続き、尊王派からは幕府に対抗できる唯一の存在を目されたが内戦は自滅の道として上洛を一切拒否している。
とはいえ、小藩にとって藩兵の維持など重荷以外の何者でもなく、多くの藩では藩兵は徐々に解散、国軍へ吸収されていった。
藩兵が残ったのは呂宋や南天、北米大陸の諸藩で、一国に匹敵するこれらの大藩は藩兵を維持できる経済力があった。それでも各藩の藩兵は正規軍ではなく、国境警備隊や重武装治安維持組織という意味が強かった。装備も、国軍の中古品や余剰品が大半である。
日本陸軍と名を改めた幕府陸軍であったが、合藩国成立と藩兵の解散には極めて強い影響を受けることになった。
解散となった藩兵を大量に引き受けたので装備が不統一が大きな問題となったのである。
小銃だけで10種類以上あるという兵站将校にとっては悪夢のような有様だった。
その上、装備の更新も遅々として進まなかった。北米大陸やシベリア、赤道の向うに広がる南天、太平洋の島嶼など広大な領土を守るために大軍が編成されたが、人件費が多すぎて調達に回せる予算は多くなかった。
さらに、言語の問題がつきまとうことになる。各地の藩兵でまとまっているときは問題とならなかったが、日本陸軍への集成が進むと方言の差異が大きすぎた。
特に呂宋弁やシベリア弁、アラスカ弁、南天弁は同じ日本語でありながら本国の将校にはほぼ理解不能という有様だった。
しかも、各藩ごとに編成されていた藩兵はそれぞれ階級制度が異なり、その統一は容易なことではなかった。敬礼の角度からしてバラバラだったのである。
フランス大陸軍のフルコピーだった幕府陸軍は、この混乱に巻き込まれ、歩兵操典の書き換えを余儀なくされている。
装備や指揮、階級制度が不統一になってしまったため、在来の歩兵操典では統一的な指揮運用が不可能になってしまったのである。
この混乱を沈めるのに、日本陸軍は20年以上を要することになった。
なお、日本陸軍は合藩国成立直後から衆民の士官学校入学を認めている。
万事がフランス式の日本陸軍は、衆民を軍組織に迎え入れることに全く抵抗がなかった。
むしろ衆民将校の誕生により、フランス大陸軍らしくなってきたと喜ばれた。
また、雑多な藩兵の受入は陸軍に混乱を齎したが、同時に雑多な日本人を受け入れる土壌を耕した。インディアンやアボリジニー、高砂系や中華系日本人を本人が志願すなら軍がそれを受け入れることは当たり前のことになった。
陸軍は博愛の心をもち、開明で社交的、民主的な思考をする人材を多く輩出したが、それにはこうした背景がある。
逆に、日本海軍となった幕府海軍は、陸軍のような変化は全くなかった。
何しろ建軍が200年以上経過し、その当初から幕府の軍隊であることを自認してきた組織である。本国艦隊、北米艦隊、呂宋艦隊、南天艦隊の4個艦隊は憲法発布に関わりなく植民地を巡回し、太平洋の海上交通路の守護者であり続けた。
海軍が忠義を捧げるのは征夷大将軍一人だけであり、それが民主選挙で選ばれた政威大将軍に変わっても、なんら問題ではなかった。
むしろ、海賊のような犯罪者から無辜の民を守ってきた海軍としては、無辜の民の賛意を受けて国を治める政威大将軍こそ、究極の王者であると考えていた。
こうした海軍の封建的な思考は、その後も永く残り海軍の伝統として継承されることになる。また、海軍士官学校への入学は、士族以外は一切認めなかった。
建軍の歴史が浅く、何事につけてフランスの真似ばかりする日本陸軍のことを海軍はバカにしてきっており、武士や侍の魂を引き継ぐ組織は己以外にないと決意を新たにしたという。
ちなみに、日本海軍はナポレオンを全く評価しておらず、フランス海軍はトラファルガーでイギリス軍にボコボコにされたフナムシという評価である。
日本海軍が自らの分厚い伝統的な基準で唯一対等と評するのはイギリス海軍だけだった。
また、海軍は陸軍と異なり藩兵の受入が全くなかった。これは反乱を防ぐために水軍が幕府の専有物とされていためである。雑多な藩兵の流入がないことは海軍の純粋主義的な面をさらに加速させることになった。
海軍に変化があったとすれば、これまで各艦に編成されてきた海兵隊が集成され、師団編成の地上戦部隊となったことだろう。
これは接舷切り込みのような戦術が大砲の発展や、外輪式蒸気軍艦の大量配備で不可能になったためである。また、植民地警備には陸軍よりも、海兵隊を使う方が政治的に微妙な問題を回避出来るという点で利点もある。
海軍艦艇に乗せて急速展開出来るという利点も評価され、いざという時の初動対応を行う兵力として海兵隊を使えないか検討されるようになった。
海兵隊にそのような期待が集まったのは、陸軍と異なり藩兵の受入を行っていないことから、装備が統一され、将校が士族で固められており、兵隊の練度も極めて高いままに保たれていたことが大きい。
そのため、海兵隊は政威大将軍から信頼を集めるエリート部隊へ昇華していくことになる。
ただし、海兵隊が海軍から独立することはなかった。
植民地警備の過程から徐々に治安維持組織の側面が強調され、海軍内部の憲兵隊となって海軍の組織犯罪の摘発を行ったことから、母体の海軍とは険悪な仲となっていった。
日本のエリート部隊といえば、将軍の身辺を固める旗本衆もおさえておきたい。
御家人、旗本の子弟を中心に士族のみで編成された旗本衆(近衛)は、将軍のプライベートな空間を保護するシークレットサービス集団だった。
ただし、通常のシークレットサービスの装備がせいぜい拳銃止まりに対して、旗本衆は戦場で戦えるだけの装備をもっていた。これは将軍のご親征に備えたもので、徳川家一門衆が戦場に立つ時、それを護衛するためのものである。
米墨戦争の徳川斉昭のようにあわやということがないとも限らなかった。
ただし、慶喜時代に将軍が自ら戦場に立ったことは一度もなく、旗本衆も選抜されたエリート部隊として将軍に関係なく活動している
旗本衆は武士の軍隊の鑑として機能するため、最新装備を優先的に供給され、戦場での活躍が喧伝されたことから、一般的に日本の精鋭と認識されるようになった。
なお、旗本衆は陸海軍ではなく政威大将軍の直轄として管理されており、将軍の私兵という批判も一部にはある。
最終的に、藩兵を残したのは、上杉家、毛利家、鍋島家、真田家、蜂須賀家、伊達家、加藤家、豊臣家の八家八藩の海外雄藩のみだった。
所謂、八英家である。
この八家は、江戸幕府260年という時間の重みに耐えて尚続く大名家として、各藩を統べる王家と認識されるようになる。
経済的に自立し、自ら軍事力の整備を行えるほどの巨大な存在と認識され、合藩国内部において特別な地位と発言力があった。
なお、合藩国成立前後から、各藩では藩籍奉還と藩籍併合が許され、300を超える藩は整理統合の対象となって消えていた。
憲法発布から20年程度で51藩まで整理統合が行われている。
殆どの藩では、藩主は政威大将軍と同じく公選制となったが、上記の八家八藩のみは世襲制を維持して、公選制の執政や執権という役職を設置して政治の民主化を図っている。
近似該当の例と探すならば、北欧の民主主義国家の王家の立ち位置に近い。
八家八藩の始祖は日本の外様大名であったが、一国に匹敵する大藩を打立てた功績は巨大なものがあり各藩において建国の王として遇されたのである。
なお、生き残った八家八藩がことごとく西国大名か、外様か、あるいは豊臣宗家というのはもはや誰も気にしなかった。
政治の民主化は、そうした古い区分法を無意味にしていった。
藩籍奉還に話を戻すが、本国においては、既に殆どの大名が移民政策で海外転封となっているので、天領がそのまま本国の領土となった。
親藩や譜代大名、外様大名がいくらか残っていたが、それらも殆どが借金まみれで債務の肩代わりを条件に消滅し、日本本国ではフランス式の県郡制が採用された。
ただし、何事にも例外はあり、藩籍併合で東海地方に200万石の領土を確保した尾張藩は生き残り、薩摩・大隅・日向の大半を領する薩摩藩は藩を維持しつづけた。
紀州藩や最後の将軍を輩出した水戸藩が消滅する中で、一人命脈を保った親藩尾張は産業が多く富裕だったのでその理由は理解できる。
しかし、薩摩藩が生き残ったのは謎だった。
ちなみに尾張徳川家と島津家はその後も存続したが、藩主は公選制を採用したため、早い段階で統治者としての実態は失っている。
だが、21世紀の現在においても、この2藩は存続し、上院に議員を送り込んでいる。
薩摩と尾張は独特の世界観をもつ不思議な地方として、現在は観光業が盛んである。