烈公の戦争
烈公の戦争
1840年6月に勃発した阿片戦争は、日本に衝撃をもたらした。
ヨーロッパ列強国の脅威が、目の前の危機として浮上したのである。
イギリスのアジア進出は1823年に始まっていた。シンガポールを植民地とし、ナポレオン戦争で日本領となったスマトラ島対岸のマレー半島を自分の領域に組み込んだ。
だが、日本国内でこれはそれほど問題視されていなかった。
イギリスが得た土地は小さなものだったし、ナポレオン戦争でイギリス海軍と互角に戦った幕府水軍があれば怖いものではないと考えられた。
トラファルガーの海戦でフランス、スペイン連合艦隊を壊滅させたイギリス海軍であったが、質、量ともに幕府水軍を圧倒するほどの戦力は持っていない。
ヨーロッパや地中海、インド洋への貼り付けた戦力があるので、アジア太平洋で幕府水軍が数的に優位であることは、ナポレオン戦争でも既に示されていた。
ヨーロッパやその他を空っぽにすれば、話は別だろう。
しかし、ロシア帝国やアメリカ合衆国とイギリスの確執は誰でも知っており、全てを投げ出して日本を叩きにくることはないと考えられていた。
また、イギリスは貿易上の大口顧客であり、節度と警戒さえ怠らなければ妙なことにはなるまいと高をくくって節が在る。
だが、アジアの隣国の清とイギリスの貿易は徐々に妙な具合になっていった。
清とイギリスの貿易地は永く広東一州に限られ、民間業者同士で行われる管理貿易制度に則って行われた。
これを広東貿易という。
広東の貿易港は厳しく清政府から監視され、外国人の行動には大きな制限があった。
海禁政策の一環であり外国勢力の浸透を水際で防ぐための方策と海外貿易のバランスをとった結果といえる。
なお、日本は清の勃興期に前王朝救援のために援兵を送っており、その際のいざこざで長江流域で略奪を行った前科があるので広東貿易には参加させてもらえなかった。
幕府は貿易再開のために朝貢を要求されたが、これを断固として拒否したのでその後は長く没交渉であった。
しかし、貿易の利益には代え難く、琉球を朝貢国として間接的に貿易を行っていた。
大学出席の代返といえば分かりやすいだろうか。替え玉が返事をする、あれだ。
日清貿易にはもう一つのルートがある。
台湾の鄭成功末裔を仲介者とした台湾貿易だ。
鄭成功の末裔は明朝滅亡後、台湾に土着して加藤家に臣従したが、その後時を経て、台湾とその対岸に顔が効く貿易商人として大成した。
鄭一族は、台湾も中国の一部であるから、台湾と大陸の貿易は清の国内商取引であるという理屈を賄賂で補強し、台湾での日清貿易を仲介業で財を成したのである。
なお、日清貿易は概ね全域間に渡って日本の黒字であった。
海産物の干物やしいたけの人工栽培で大量生産された俵物や、抗生物質などの医薬品が清に輸出された。
当初は絹や陶磁器などの輸入があったが、内製化が進んで国内で調達できるようになると19世紀には殆ど日本の一方的な貿易黒字が拡大したため、貿易船の数に制限が設けられるようなっていた。
日清貿易とは逆に、英清貿易はイギリスの一方的な赤字だった。
イギリスでの紅茶ブームで中国の茶が持て囃され、さらにティーカーップのような白磁器の輸出でさらに赤字を拡大した。
日本も紅茶ブームが来ていたが、茶も陶磁器も200年以上前に内製化しており、清から買うものは何もなかった。
紅茶ブームにのっかり、日英貿易で台湾製の紅茶や日本各地の窯元が大い売れてホクホク顔をしていたほどだ。
それは大変結構なことである、で終わればよかったのだが、日英貿易の輸入決済用の銀が、中国の銀であることが分かって不穏な気配が立ち込める。
不審に思った幕府が忍者を使って調査すると清から大量の銀が流出している実態が明らかになった。
さらに台湾対岸の各地に今まで見られなかった阿片窟が増え、近傍の台湾に阿片を密輸しようとする犯罪者が現れるようになった。
密輸に目を光らされていた加藤家の手のものが捕まえた密輸業者を拷問にかけて(この辺り、加藤家は全く躊躇がない)口を割らせると清の深刻な麻薬汚染の実態が明らかとなる。
すぐさま加藤家は幕府に報告書を提出し、幕府も日本各地の中国人街を査察した。
すると多量の阿片が発見され、関係者が一斉に処分された。
それだけなら通常の犯罪捜査で済むのだが幕府を震撼させたのは、阿片の梱包材に穿たれたEIC(英国東インド会社)の商標だった。
即座にEICの日本代表を問い詰めると彼らはあっさりと阿片輸出を白状した。
あまりにもあっさりと白状したので幕府の使者が呆気にとられ二の句が継げなかったという。
それどころか、阿片は下層労働者の栄養剤であり、その高い効能と安全性はイギリス科学界によって証明されており、日本にも輸出したいという空前絶後の申し出をしてきた。
ちなみに、当時の日本には阿片の所持・使用を禁じる法律がなかった。
しかし濫用が危険なことは理解されており、疼痛管理のため、末期がん患者に処方されている程度であった。それでも最後は生ける屍のようになって死んでいく阿片の酷さは医師や薬師なら誰でも知っていることだった。
EICの正気を疑うような提案は聞かなかったことにして、幕府は阿片の禁令を出して国内の阿片取締を開始する。
時を同じくして、清でも阿片禍が座視できる範囲を越えて広がり、林則徐を欽差大臣(特命全権大臣のこと)に任命し広東に派遣、阿片の取り締まりに当たらせた。
林則徐の阿片取締は苛烈なものであり、1,400tもの阿片が没収、処分された。
普通なら、それで終わる話であった。
しかし、イギリス政府は、この処分で財産を毀損されたとして、清に宣戦を布告した。
外国奉行から報告を受けた老中水野忠邦は冗談だと思って取り合わなかったが、駐英大使(日英は既に通商条約締結済)からの正式報告を受けると黙って書院に引きこもったという。
まさか、そんな人間のクズのような理由で戦争行為に及ぶとは誰も思っていなかったのである。
イギリスの名誉のために敢えて記述するが、この戦争布告は議会の僅差の承認を受けたものであり、議会の半数近くは不正義の戦争としてこの戦争に反対している。
しかし、逆にいえば半数近くは賛成しているのでやはりファッキンイングランドの誹りは免れないものだろう。
だが、戦争が始まってしまえば、その戦いはイギリスの圧勝だった。
蒸気軍艦が清のジャンク船を一方的に撃破し、制海権を確保した。イギリス軍は海上機動を用いて5,000名足らずの軍勢で清の要所を制圧、北京を孤立させてしまう。
イギリス軍が動いていない期間は、モンスーンなどの悪天候によるもので、それ以外にイギリス軍の侵攻を阻止するものはなかった。
清は敗北を認め、天津条約を結んだ。
麻薬取締をした清がイギリスに賠償金を支払って、香港島を割譲したのである。
これが如何に当時の日本人を恐怖させたかは想像に難くないだろう。
例えば、あなたの家の隣に麻薬の売人が住み着ついたとしたらどうだろう?
怖くないだろうか?
さらに摘発のために警察が踏み込んだと思ったら警官を返り討ちにして、警察署まで逆襲して火を放ち、財産を毀損されたとして、賠償金を請求したらどうだろうか?
そんな凶人と仲良く暮らせるだろうか?
少なくとも筆者は不可能である。
結果、幕府においては軍備増強に狂奔することとなり、民草においては過激な攘夷思想の台頭を招くことになった。
幕府は水軍の艦艇の半分を蒸気軍艦に置き換えることを決定し、沿岸防衛のため、各地に台場(沿岸要塞)の建設を開始する。
常備軍としてひとまず完成の域に達した幕府陸軍も本国や海外各地に展開し、その数を急速に増やしていくことになった。
また、幕政の改革も急がれた。
天保の改革の性急とも言える進展は、イギリスの露骨な侵略戦争に対する恐怖があった。
誰も、まさか清がこうも一方的に敗北するなど予想していなかったのである。
予想していた者もいないわけではなかったが(特に経済界や軍事関係者は清の敗北を正確に予想した)、日本人一般にとっては唐の国がたやすく破れるわけがないという幻想があった。
だが、幻想は夢破れ、ユニオンジャックが香港に翻った。
次にユニオンジャックが翻るのが、江戸ではないという保障はどこにもなかった。
何しろ、麻薬取締という正義の行いに対して戦争をふっかける凶人が相手である。
頼れるものは理屈ではなく、武力であった。
だが、同時に武力以外での外交を駆使した戦いも模索された。
さすがに武力一辺倒となるほど、日本人はウブではない。ウィーン会議に出席して、議定書に名を連ねる列強の一角である。
阿片戦争後、日本とロシアは急接近する。
ナポレオン戦争で敵対関係となったロシアと日本はレナ(夏)川を挟んで、睨み合う険悪な関係が続いていた。
イギリスの脅威は日本にロシアとの修好を決意させる。
ロシア優位の不可侵条約の締結に始まり、日本製の最新鋭ライフル銃がロシア帝国へ大特価廉売された。ロシアの南下政策の側面支援である。
ロシアが南下してバルカン半島を通じて地中海に出れば、イギリスはアジア進出どころの騒ぎでなくなるからだ。
結果としてトルコがひどい目に遭うことになるのだが、日本にとってはイギリスの矛先を逸らすのが最優先だった。
広大な領土をもつ日本とロシアの接近はイギリスを警戒させ、イラン、アフガニスタンへの戦力再配置を通じて、アジアへ展開する陸上兵力を減らすことに繋がっている。
また、クリミア戦争の惨劇となった。
イギリス政府内で、阿片戦争は失敗だったと反省が囁かれるのはこのためである。
日本とロシアが手を組むなど考えたくもない悪夢だった。
当の日本人はあまり自覚がなかったのだが、日本の広大な領土はロシア帝国並と評価されており、ナポレオン・フランスの没落後は、世界三大勢力の一つに数えらていた。
イギリス、ロシア、日本というグレート・パワーである。
日本の力の源は広大な領土と豊富な人口であった。
何しろ、世界人口が15億人の時代に、日本人だけで既に1億人もいるのである
清やインドの例もあって、人口がそのまま国力に直結するとは限らないが、近代産業を持つ国家としてはヨーロッパのどの国よりも人口が多い。さらにロシア帝国並の領土を持つ日本は19世紀半ばのグレートパワーと称されるのは当然と言えた。
だが、何故かあまりアクティブな行動を起こさないし、アフリカへの進出もしない不思議な国でもある。
ナポレオン戦争での行動もオランダからスマトラ島やボルネオ北部を掠め取ったぐらいであり、北米大陸でもアメリカ合衆国を相手に抑制的な対応に終始している。
「実は、見かけほど強くないのではないか?」
という意見もあったのだが、では本当にそうなのか試してみる奴はなかなか現れなかった。
少なくともイギリス政府は絶対にゴメンだった。
ナポレオン戦争で、幕府水軍に通商破壊を食らってキリキリ舞いにさせられたことをイギリス政府は忘れていない。もう二度とインド洋を日本に犯されたくないので、マレー半島とシンガポールに進出したのである。シンガポールは、日本のインド洋進出を防ぐ砦だった。
さらに日英が衝突すればロシアが南下してくるのは目に見えていた。
イギリスは、阿片戦争のような外道を犯しながらも、日本相手には自重しているのだった。
しかし、空気の読めない奴はどこにもでもいるものである。
特に北米大陸の東海岸に住む連中は無作法でガサツで、無教養で、無鉄砲だった。
どの程度無作法でガサツで、無教養で、無鉄砲かというと北米大陸の日本領の目の前で、領土の横領を仕掛ける程度には、無作法でガサツで、無教養で、無鉄砲だった。
メキシコ領テキサスにて、アメリカ人不法移民がテキサス共和国の独立を宣言する。
1845年にはアメリア合衆国との併合を宣言した。
翌年、米墨戦争に至る前奏曲だった。
なお、メキシコは日本の友好国の一つで、その独立に際して加州藩などが多大な援助をしたことで知られている。今でも、メキシコには独立戦争当時に日本から送られたスミトモ・マスケットや日本刀があちこちの博物館に飾られている
その見返りに有砂藩、新墨藩以北の日本の新興大名家の領地をメキシコは認めた。
テキサスはアメリカと日本とメキシコの力が衝突するホットスポットだったのである。
だから、できればテキサスは緩衝地帯であることが好ましかった。
そのためにテキサス独立に際して様々な交渉が持たれた。
無駄に敵愾心を煽るばかりが政治ではない。
イギリスはそのためにテキサス共和国の独立を承認したのであり、その承認はアメリカ合衆国との併合しないという条件のもとでのことだった。
この線なら日本も飲める話だった。不承認はメキシコのみだったが、日英が粘り強く交渉することで承認に傾きつつあった。
だが、テキサス共和国はアメリカ合衆国との併合へ進み、全てをぶち壊しにする。
イギリスの思惑は水泡と帰した。
あとは、北米大陸で日米が盛大に潰し合いをしてくれるとロシアと睨み合うイギリスとしては負担が経るのでアメリカの健闘を期待するところだった。
それと、できれば日本軍の真の実力をテストしてもらえるとありがたかった。
そのために、植民地人に多少、好意的に振る舞うのはやぶさかではなかった。
イギリス人は平和を愛すると同じぐらいに、謀略と闘争を好んでいた。
メキシコからの援軍要請に、幕府は対米戦争を決意する。
救援要請を無視するという選択肢は最初から日本にはなかった。
なぜならば、北米大陸でカナダドミニオンとアメリカ合衆国と衝突する日本にとって、北米大陸南部のメキシコは柔らかい下腹だった。
だからメキシコの独立にも手を貸し、友好関係を築いてきた。メキシコの救援要請を無視したならば、日本は全周囲を敵に回すこととなる。
戦争勃発前から、北米大陸の各藩は臨戦態勢をとっており、既に国境は閉鎖状態だった。
メキシコのテキサスがどういうやり方で奪われたか知っていれば、アメリカからやってくる不法移民は全てエネミーであり、インベーダーである。
アラモ砦の戦いの後、アメリカ人はリメンバー・アラモと復讐を叫んだが、日本人はテキサスを忘れるなと叫んで、アメリカ人不法移民を国外追放にしている。
久々の戦争に、北米諸藩は怪気炎を上げていたが、一方メキシコは真っ青になっていた。
この頃、メキシコは国内の混乱が続いていた。
例えば1846年の1年間だけで大統領は4回、戦争大臣は6回、財務大臣にいたっては16回も交代している。
強気の姿勢とは裏腹に、メキシコには実はアメリカと戦争をする余裕など全くなかった。
故に、米墨戦争はその名を借りた、実質的な日本・アメリカ戦争であった。
新墨藩や赤土藩、大平藩、高峰藩は藩兵を動員し、さらに志願した民兵と共にこれみよがしに国境に野戦築城を開始、騎兵隊により越境作戦を行ってアメリカ軍の兵力を誘引した。
太平洋岸の加州藩(毛利軍)、新徳島藩(蜂須賀軍)、幕府軍は義勇兵としてメキシコに入った。その総数は10万であった。太平洋岸には幕府水軍が展開し、各地に海兵隊を上陸させている。
幕府軍の総大将は、水戸藩主徳川斉昭だった。
過激な攘夷論者で知られる斉昭にとって、この戦いは予てから待ち望んだ戦いであった。
幕府としては過激な斉昭には北米にいてほしくないのだが、本人の志願と親藩水戸の力を抑えることはできなかった。
「絶対にテキサスから東へ進軍しないでください。お願いしますから」
と、老中の水野忠邦から繰り返し念押しされた記録が残っている。
幕府軍とアメリカ軍の激突は、モンテレーの戦いで始まった。
1846年9月21日のことだった。
国境付近の戦いでメキシコ軍を蹴散らしたアメリカ軍は、メキシコ北部の重要都市、モンテレーに迫ったが既に幕府軍の先遣隊がモンテレーに入城した。
連戦連勝していたアメリカ軍はここで幕府軍の先遣隊を敗走中のメキシコ軍と誤認。後続を待たずに攻撃を開始するが、反撃を受けて大混乱に陥ってしまう。
幕府軍とメキシコ軍では格が違った。
それまで相手をしていたメキシコ軍は大半がマスケット銃だった。しかもアメリカ独立戦争時代のもので、射程距離が短く射撃も不正確なものだった。また、訓練そのものが足りておらず、歩兵がマスケット用の火薬の扱いを怖がるという体たらくだった。
対して、アメリカ軍の装備するライフル銃は遥かに射程が長く射撃も正確でアウトレンジ攻撃が可能だったのである。兵士の訓練もメキシコ軍に比べて遥かに行き届いていた。
その感覚のまま戦闘に突入したアメリカ軍は、幕府軍のライフル射撃を密集体型のまま受けてバタバタとなぎ倒された。
幕府軍は胸壁のある市内に立て籠もって戦ったのに対して、アメリカ軍は遮蔽物のない平原に展開したので戦闘は一方的なものとなった。
アメリカ軍は大損害を受けて本隊と合流すべく後退することとなる。
先遣隊の勝報を受けた幕府軍は追撃戦を開始。後退するアメリカ軍を追って、北上した。
斉昭の追撃命令は烈公の名に何ふさわしい苛烈なもので、幕府軍は背嚢を捨てて身を軽くし、飲まず食わずで三昼夜歩いてアメリカ軍を追撃した。
空腹を訴える将兵には、
「敵に糧を求めよ!」
と、斉昭は言い放っている。
幕府軍の必死の追撃により、後退するアメリカ軍を捕捉。増援と合流される前にこれを壊滅させている。
幕兵はアメリカ軍から奪った食料で3日ぶりの食事をとることができた。
餓死の恐怖から開放された幕府軍は勝利を続けた。
増援部隊のテキサス・レンジャーは後退中の先遣隊が既に壊滅していることに気づかなかったため待ち伏せを受けて、これも大打撃を受けて敗走している。
米墨戦争初期における幕府軍の運動戦の強さは、その建軍を指導したフランス軍の影響が強かった。ルイ=ガブリエル・スーシェのようなナポレオン元帥府の大物が公職を追放されたあと、多額の給金と引き換えに幕府陸軍の建軍に手を貸している。
これは余談だが、21世紀現在においても本家のフランス軍を除けば、日本陸軍は世界で最もナポレオンマニアの多い軍隊である。大陸軍の直系子孫であることを自認してはばからないので、フランス軍とは大変、仲が悪い。
幕府陸軍や日本陸軍の極端なまでの運動戦と攻勢主義への信奉は、ナポレオンの大陸軍にその源流を見つけることができる。
幕府軍、毛利軍、蜂須賀軍はそれぞれ三方からダラスへ向けて進撃を開始する。
斉昭率いる幕府軍はリオグランデ川をあっさりと渡河に成功、アメリカ軍の防備が整う前に、サンアントニオに突入。これを占領することに成功する。
幕府軍の進撃速度は特筆すべきものであり、アメリカ軍は戦力を集中する前に、各個撃破される形となった。
しかし、テキサスの要、ダラスにおいてその進撃はついに止まる。
アメリカ軍の名将ザカリー・テイラー将軍が、町全体を急ごしらえの要塞に作り変え、幕府軍を待ち構えていたのである。
ダラスはテキサスの幹線道路の交差点だった。
ダラスを制するものが、テキサスを制するといっても過言ではなかった。
テイラー将軍の構想は、ダラスに立て籠もって幕府軍の進撃を阻止し、その間に集めた戦力で逆襲に転じることだった。
ダラスに篭ったアメリカ軍5,000人はそのための捨て石だった。
だが、その捨て石に幕府軍は大きく躓くことになる。
ダラスは天然の要塞だったからだ。
街はエルム川とウェスト川の両河川の合流地帯にあり、これは広大な堀として機能した。
その上周囲の地形は遮蔽物が乏しい平原だった。緒戦のモンテレーの戦いと同じく、守る側は遮蔽物に篭ってライフル銃で狙い撃ちにできるが、攻撃側は一切身を守るものがない。
そして、幕府軍はフランス大陸軍のフルコピーの軍隊だった。
密集隊形の横陣のまま、ダラスに突っ込んで、集中射撃を受けて大敗することとなる。
敗走に至らなかったのは、アメリカ軍がダラスに篭って逆襲に出なかったからであり、的確な逆襲が行われていたら、そのまま幕府軍は壊滅していたかもしれなかった。
何しろ、30時間足らずの間に3,000人が死傷し、兵力の半数が使い物にならなくなったのだ。
さすがの烈公も、この損害には青くなった。
一桁数が違うのではないかと何度も確認させたほどである。
だが、現実は非情で、幕府軍の第一次総攻撃は完全な失敗に終わった。
幕府軍は蜂須賀軍、毛利軍と合流して再編成し、再び攻勢をかけたが、同じ規模の大損害を受けて攻撃は頓挫した。
連戦連勝から来て、この連敗は幕府軍に戦局の転換を認識させることとなった。
軍議が開かれ、毛利軍から持久戦の提案があり、総大将の斉昭はこれを容れた。
「ダラスを飢え殺しにすべし」
斉昭の号令に従って、ダラスに伸びるあらゆる街道、河川交通路が封鎖された。
これを完全なものとするため、大規模な土木建築工事が行われる。
毛利軍はかつて自分たちが羽柴秀吉にしてやられた鳥取飢え殺しの故事を引き合いにだし、ダラス周辺に付城をつくることを提案したのだ。
付城といっても戦国時代のような砦ではない。そもそも山城の鳥取城とは違って、ダラスは平地にある。
そこで、ダラスを囲むように空堀を掘り、掘った土で土塁(掩体壕)を築いた。砲撃を避けるために塹壕を掘り、可能であれば地下に居住スペースをつくった。
こうした工夫は、幕府軍よりも蜂須賀軍や毛利軍の方が得意だった。
なにしろ、彼らは開拓民だった。
開拓とは自らの手で何もない荒野を耕して畑をつくり、家を立て、道をつくり、村とする事業だった。こうした土木工事はお手の物だったのである。
あっという間に完成する野戦築城は本国暮らしの幕府軍を驚愕させたが、驚いたのはダラスに立て籠もったアメリカ軍も同じだった。
要塞に篭っているはずの自分たちが、気がついたら要塞に包囲されているのだ。
しかも、道路が封鎖されて食料が入ってこなくなった。エルム川とウェスト川を通る船は片っ端に沈められてしまい、夜間に小舟で運び込まれる食料だけがダラスの命綱だった。
餓死の恐怖がアメリカ軍とダラス市民に忍び寄り、アメリカ軍は反撃を急ぐこととなる。
だが、アメリカ軍によるダラス救援作戦は、3度行われ、3度とも失敗に終わる。
理由は前述のとおりである。
ライフル銃は戦場を一変させ、密集隊形で突撃する軍隊は遠距離から蜂の巣にされた。
当初は簡易なものだった日本軍の野戦築城は時間経過でさらに緻密なものとなり、難攻不落の要塞と化していった。
日本軍のダラス包囲から半年。
いよいよ、ダラスの食料が尽きて、餓死による全滅が時間の問題となり、ここに至ってアメリカ軍は総力戦を決意する。
1847年2月22日、テキサスの荒野にアメリカ軍の大軍が姿を現した。
ダラスを救うためにアメリカ全土から集まったボランティア・アーミー(民兵)は7万、これに正規軍を加えてアメリカ軍は10万に達していた。
対する、日本軍は増援を得ていたが6万程度だった。
アメリカ海軍はメキシコ湾に完全な制海権を確保し、メキシコ本土西海岸への陽動のために上陸作戦を行って日本軍に戦力分散を強要していた。
不完全ながらも数的優位を確保した上で、アメリカ軍騎兵隊の陽動作戦を開始。毛利軍の騎兵隊がこれに乗ってしまい戦場から離脱してしまう。
戦力をさらに減らした幕府軍に、アメリカ軍の総攻撃が炸裂した。
アメリカ軍はこの戦いに新兵器を投入していた。
大砲の防盾である。
その後、大砲の一般的な装備となる防盾であるが、実戦投入はこれが史上初となる。
ナポレオン時代の大砲は、歩兵のマスケット銃に対して射程距離の優位があり、防盾は必要なかった。
しかし、大砲と同等の射程距離を持つライフル銃が実戦投入されるとライフル銃で砲兵が狙い撃ちにされ、大砲はしばしば射撃不能に陥った。
大砲が撃てない、火力支援がない歩兵の突撃など遠距離からライフル銃で滅多打ちにされるだけだった。先に3度試みられ、3度とも失敗したダラス救援は、いずれも大砲がライフル銃の狙撃で使用不能になったことに失敗の原因があると考えられた。
用意された防盾は木の板に薄い鉄板を張っただけの急造品だったが、目論見通り、日本軍のライフル銃狙撃を防いでみせた。
だが、頭上から降り注ぐぶどう弾には無力だった。
幕府軍の砲兵は掩体壕の中から、前進するアメリカ軍の砲列を狙い撃ちにした。
そして、それさえもアメリカ軍にとっては織り込み済みのことだった。
ぶどう弾で砲兵達は切り刻まれても、後方から続々と補充の兵士が現れた。兵士たちは血と肉を撒き散らしながら、雨あられと銃砲弾が降り注ぐ中、大砲を着実に前進させた。
この数十年後に、大砲の全周囲を装甲で囲んで、自走可能にした戦車という兵器が誕生することになるが、その源流がダラスにあった。
血と肉と骨を燃料に大砲は進み、血の池地獄の中にアメリカ軍の砲兵は布陣した。
アメリカ軍の復讐の砲火が、幕府軍の頭上に炸裂する番だった。
砲兵支援を受けたアメリカ軍の民兵が津波のように幕府軍の守る陣地に押し寄せ、とうとう陣地への侵入を許してしまうこととなる。
要塞も火力もない、血みどろの白兵戦の始まりだった。
この戦いでは、幕府軍は本陣までアメリカ兵の侵入を許している。
総大将の斉昭も自ら水戸徳川家の宝刀である燭台切光忠を抜き放ち、3人のアメリカ兵を切り捨てている。
なお、これは余談だが、21世紀の日本においてサービス提供中のソーシャルゲームで、刀剣を擬人化したものがあるのだが、その中で燭台切光忠が登場し、この戦いの下りを述べるシーンがある。
・・・少し話が逸れた。
要塞にとりつき、白兵戦に突入したとき、アメリカ軍は勝利を確信していたという。
これまでの軍事的な常識に従うなら、そうなった場合、軍隊は指揮統制が維持できなくなり崩壊、敗走するものだった。
それはナポレオンの大陸軍でも例外ではなく、銃剣突撃が成功すれば立て直しが効かない敗走へ至った。歩兵とはそういうもので、そうならないように密集隊形で戦うものだった。
歩兵の銃剣突撃はそのために行われるものだったのである。
突撃の際、刺突による殺傷は重視されていない。実際、銃剣の殺傷力はあまり高いとは言えなかった。複数回刺突すれば相手は死ぬだろうが、即死させるような威力はなかった。即死させるなら、ライフル弾を叩き込む方が早い。
ここでアメリカ軍に誤算が生じる。
陣地に取り付いても、幕府軍が敗走しなかったのである。
幕府軍は陣地の中に踏みとどまり、逃げなかった。
愛国心があるから?
答えはNOである。
ただ単純に、彼らは逃げることができなかった。戦うしか生き残る方法がなかったので戦ったというのが真実だった。狭い塹壕の中に押し込められた幕府軍の兵士は逃走の余地が最初から与えられていなかったのである。
これは戦国時代の付城が、足軽を守ると同時にその逃亡を防止する意味合いを持っていたのと同じ現象だった。城という外枠により、歩兵が崩れることを防ぐのである。
血みどろの白兵戦に突入したことで、アメリカ軍の突撃力は失われ、当人たちにとっては地獄以外何者でもないが、戦術的な意味としては緩慢な戦いへと戦闘の局面が変化した。
アメリカ軍騎兵隊の陽動に引っかかった毛利軍の騎兵隊がとって引き返し、アメリカ軍の側面から突撃し、砲兵を蹂躙するとそれで勝敗は決した。
関が原の合戦以来の大規模会戦は日本の勝利に終わったのである。
この戦いの後、ダラスは降伏開城。テイラー将軍は捕虜となった。
両軍の戦死者は合計3万人に達し、死傷者はその倍もあった。屍山血河という言葉にふさわしい地獄絵図が現出し、ダラスに流れる川は紅に染まった。
ダラスが陥落したことで、米墨戦争はその峠を越したと認識され、交渉のテーブルへその戦いの場を移すこととなる。
なお、総大将の斉昭はこの戦いで負傷し、後送されている。
そうでなかったらオクラホマへ侵攻するつもりだったらしく、病床で繰り返し、軍がオクラホマのどこに進軍しているか尋ねている。
結局、家臣が嘘の報告をしてごまかしたが、斉昭がひとまず戦争の表舞台から降りたことは幕閣をホッとさせた。
なお、この戦いに参加し、非凡な勇気と才能を発揮して特別に斉昭から感状の発給を受けた者に、吉田寅次郎という名の加州藩の少年兵がいた。
ただし、彼が本格的に活躍するのはもう少し後の話である。
米墨戦争の講話会議は、イギリスの仲介により、イギリスのポーツマスで開かれた。
所謂、ポーツマス講和会議である。
この会議の結果、テキサスとアメリカ合衆国の併合は取り消され、テキサス共和国が復活することになった。
当初、メキシコはこの案を拒否してテキサスの回収を求めていた。
しかし、ダラスの戦いの凄まじい損害がメキシコ政府に伝わるとテキサスの防衛が自国の限界を遥かに超えるものと理解され、テキサス共和国の国家承認へと傾いた。
復活したテキサス共和国は、憲法でアメリカ、日本、メキシコとの併合や軍事同盟締結を禁止された。移民には制限を設け、日本、アメリカ、メキシコ出身者が国民構成者の20%を超えないように調整する移民規制法がつくられた。
これはテキサス共和国を日米墨の緩衝地帯として再出発させるための措置だった。
勝利した日本はこれによって柔らかい下腹であった北米大陸南部を完全に安定化させることに成功する。
敗北したアメリカ合衆国はテキサスを失ったのみならず、ロッキー山脈の南側を迂回して太平洋に出ることが不可能になった。
未だに大平原の未開拓地は広大であったがこのまま開拓が進めばいずれ飽和するものと認識されていた。
敗戦によって、西海岸、太平洋といったアメリカ人にとっての無限のフロンティは消滅することになる。
テキサス、ダラスという言葉は、アメリカ人にとって失敗を意味する記号となった。
敗戦という失意の中で、文明の境界線としてそびえ立つロッキー山脈の向う側に対して、敵意を募らせる日々をアメリカ合衆国は送ることとなる。
メキシコは広大なテキサスを失うことになったが、直接、アメリカと国境を接しなくなったことから軍事費の縮小が可能となり、経済発展が進んだ。
生活が上向くにつれ、米墨戦争の勝利がメキシコでも実感されるようになり、今日でも幕府の義勇軍を称える銅像をメキシコのあちこちで見ることができる。
その銅像の殆どは丁髷を結ってフランス式洋装軍服を身に纏った徳川斉昭である。
イギリスは、隠れた勝者の一人として静かにほくそ笑んだ。
日本軍の実力を図ることができ、植民地人の足を引っ張ることができたのだ。これが勝利でなくてなんだろうか?
また、イギリスは経済的な見地からテキサスに目をつけており、綿花などの工業原料の産地としてテキサス共和国は有用だった。テキサス共和国独立後は、ヒューストンにイギリス資本が大挙して進出した。20世紀初頭には、テキサスで世界有数の油田が見つかり、これもまたイギリス資本によって開発が進んだ。テキサス油田は、ブルガン油田、マラカイボ油田に並ぶ大英帝国の燃料供給地として重宝されることとなる。
なお、イギリスの幕府軍への評価はあまり高いものとならなかった。
この頃のアメリカ軍は二流、三流の軍隊と見られていたので、そのアメリカ軍相手に凄まじい損害を出したことは大きなマイナスポイントだった。
しかし、損害は出したが結局は勝ったわけだから、見かけほど強くないが、弱くもないという評価に落ち着くことになる。海軍はともかく、陸軍は今ひとつという評価だ。
敗北したアメリカ軍は評価は相変わらず三流のままであった。
ヨーロッパの他の国も同様の評価を下しており、この戦争で示されたライフル銃の革新性はほとんど無視された。
実際に大量の屍の山を積み上げた日本とアメリカだけがその危険性を理解し、対策を考案することになる。
その対策が完成する前にアメリカでは南北戦争という未曾有の戦いが始まってしまうのだが、それは少し先の話である。
なお、再独立したテキサス共和国は21世紀現在においても、北米大陸の中立国、そして産油国として存続している。
テキサスを巡る米墨の確執は根深いものがあり、近年では親米政権のジョージ・H・W・ブッシュ大統領が、アメリカとの併合を望むなど憲法違反の失言を連発したため、メキシコではテキサス製品のボイコット騒ぎが起きている。
テキサスに対する日本の国民感情は良性のものがあり、インターネット上で動画を共有するサービスサイトにおいてテキサス親父というコンテンツが人気を博するなど、両国の交流は活発なものがある。
米墨戦争での勝利は、幕府の歴史における大きな転換点となった。
関が原の合戦以来の大規模会戦に勝利したことは、幕府の威信を大きく高めたのである。
総大将を務めた水戸徳川家は徳川一門衆の中でその地位を飛躍的に強化することになる。
老中の水野忠邦は、政治基盤の弱さから、天保の改革を進める上で斉昭の威信を借りることが多くなり、実質的に斉昭が天下の副将軍として幕府に君臨することとなった。
12代将軍徳川家慶の嫡男、家祥(後の家定)は病弱で言動も定かではなかったため将軍継嗣問題が起きたが、さしたる抵抗もなく、14代将軍として斉昭の実子にして、一橋家に養子に出ていた一橋慶喜がその座に収まった。
最後の征夷大将軍、徳川慶喜の誕生である。
ようやく陶都物語と同年代までたどりつきました。
まふまふ様、書籍化おめでとうございます。必ず買います。