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19世紀初頭の日本



19世紀初頭の日本



 亨保年間(1716~35年頃)に始まった幕府の移民事業は、多数の海外藩を生むことになる。

 その中で最大勢力を誇るのは加州を領する毛利家だった。

 用水路の工事中に偶然、膨大な砂金川床を発見した毛利家の開拓団は黄金200万両分の利益を得た。それを元手に加州を切り開き、北米大陸において最も裕福な大名家となった。

 加州藩には日本からやってきた移民の到着地として名高い羅府ロスアンゼルスや、桜女市サクラメント聖天市サンフランシスコ、軍港のある聖人市サンディエゴが連なり、19世紀初頭には人口が700万人を突破している。

 北米諸藩の次点は、沙市、泊場市を中心とする西海岸北部に拠点を構える蜂須賀家である。

 こちらも開拓事業を進める中で、小規模なゴールドラッシュを幾つか経験して資金を蓄え、開拓地を切り開いた。

 どちらの家にも言えることだが、ある程度の拠点を構えると内陸の開拓は後からやってくる小大名や旗本、御家人にまかせて、後発組に対する商売で大きな財産を築いたことである。

 彼らは内陸の開発から上がる利益を吸い上げ、本国との貿易を通じて財産を増やしていった。

 先行者利益の典例といえるだろう。

 そして、己の利益を最大化するために内陸開発には積極的に投資した。

 開拓団が必要とするあらゆるものを本国から輸入し、或いは自分の拠点で生産して送り出した。また、開拓に必要な資金を貸し付けた。

 開拓民が必要とするならば、武器弾薬でも必要な数を用意したし、世帯をもつために嫁が必要ならば本国から連れてきた。金さえ払えば、尻拭き紙から大砲までどんなものでも調達してきた。

 こうした事業のあり方は、日系総合商社の始祖的な存在と言えるだろう。

 毛利家の家産運用を任された廻船問屋から生じたナガト商事は、21世紀現在においても、北米最大の総合商社として存続している。

 また、幕府が農本主義的な開拓事業に終始したのに対して、北米諸藩では商業的な開拓を推進し、独自に雇った山師を送り出し、金山を探させることにも余年がなかった。

 金山が見つからなくても鉄や銅、鉛、亜鉛といった資源はいくらでも見つかったし、それを掘って本国へ送るだけでも多大な利益となった。

 北米大陸を東へ東へ進んで、富士山脈(ロッキー山脈)を超え、北米大陸中西部の大平原に達したのは開拓開始から100年後の18世紀末と言われている。

 この大平原には、先住民インディアン以外の先客が少しいた。

 中西部開拓の先行者はフランス人とスペイン人で、スペイン人はもはや見慣れた顔だったが、フランス人は珍しかった。

 衝突回避のためにフランスとは交渉がもたれた。

 フランス人はミシシッピ川流域は全てフランス人に所有権があると主張してきたが、具体的な場所となると曖昧だった。

 いわゆる、仏領西ルイジアナ問題である。

 この問題は幕府に北米大陸での国境線確定事業の必要性を認識させたが、実際の対応はフランス革命とナポレオン戦争が勃発した後のことになった。

 なお、仏領西ルイジアナは、1803年にアメリカ合衆国へ売却されている。

 この時、幕府は北米の各藩に国絵図を作成、提出するように指示し、自らの領域の確定作業を行っている。

 しかし、それでも具体的な線引は今日的なものではなかった。

 そもそも国境という概念がまだ曖昧だった時代である。

 インディアンも開拓民も国境など関係なく出入りしていた。殆どの開拓民は自分の住んでいるところが北米大陸のどの辺りなのか知らなかった。

 人口過密の日本ではなかなか想像することが困難だったが、地平線の向うまで、周囲に住んでいるの自分とその家族だけという開拓地が北米にはザラにあったのだ。

 幕府は勢力圏の確定のために片っ端から石碑や標識を立てて回ったが、あまりにも広大する土地の中で、それは簡単に埋もれてしまうのだった。

 故に、ルイジアナ買収後、東からやってくるアメリカ人開拓者と日本人開拓者の間で、紛争が続発することになる。

 多くのアメリカ人にとって、日本人開拓民は妙に平たい顔をした奇妙な格好のインディアンか何かにしか見えなかったのだ。

 そこが、ウィーン議定書により国際的(ヨーロッパ世界)には日本の領域と認知された場所であったとしても、アメリカ人はインディアンから土地を奪うことに躊躇などなかった。

 開拓民同士の抗争が北米大陸中西部の日常風景になるのは時間の問題だったのである。

 この紛争で、アメリカは挫折を経験することになる。

 それまで彼らが圧倒してきた赤いインディアンとは比べ物にならないほど黄色いインディアンは強かったからである。

 黄色いインディアンの武器は弓矢ではなくライフル銃やピストルなど、最新兵器だった。

 近接戦闘用の武器も、投斧、手斧ではなく、湾曲した刃をもつ美術品のように綺麗なサムライソードというサーベルだったのである。

 サムライソードといえば、その切れ味の良さから、黄色いインディアンの中でも特に凶暴なサムライ族の霊魂が宿っているという実しやかな噂があった。

 サムライ族はアパッチ族のように凶暴な部族である。サムライ族に襲われたら、騎兵隊の到着が間に合うのを祈るしかなかった。だが、ドゲザをしてロープを要求すると何故か助かることもあり、その場合はブギョーショに連行されるという話だった。だが、ブギョーショに連行されたあと、帰ってきた者はいないのでジッサイ安全なのかは誰にもわからなかった。

 19世紀初頭に起きたこれらの紛争に直面したのは、新墨藩ニューメキシコ赤土藩コロラド大平藩ワイオミング高峰藩モンタナであった。

 彼らは開拓事業で成り上がった新興大名である。

 こうした新興大名は一応、元は幕府の旗本や御家人あるいは大名家の家臣であったが、歴史的な系譜はないに等しい。新墨藩のように領民の半分がスペイン人で、藩主も日系人の百姓出身というそれまでの幕藩体制においては考えられない存在だった。

 北米大陸の新興大名家を幕藩体制の中でどう位置づけるかが19世紀半ばまで続く幕府の大きな政治問題であった。

 強権的対応は最初から論外だった。万が一独立戦争を挑まれたら困るからだ。

 アメリカ合衆国の独立は既に知れ渡っており、植民地の独立は現実に起こり得ることと認識されていた。

 が、だからといって野放図にしておけばそれはそれで幕府の威信が無に帰すことになる。

 既に参勤交代は無期限中止となっていたが、最低限、大名家は将軍家に年賀の挨拶をして臣下の礼をとり、外交や軍事などの重要な権限は幕府の専権事項とするのが幕府としてもギリギリ妥協できる範囲だった。

 だが、藩領内でどのような内政を行うか、或いは藩兵としてどの程度の軍事力を整備するかは各藩の勝手であった。頻発する開拓民紛争についても、各藩がバラバラに独自対応しているのが実際のところである。

 現実には幕府の統制は北米大陸では殆どあって無いようなものだった。

 北米諸藩が臣下の礼をとっているのは、支配の実態が無に近く、形式的な礼儀作法を守る限りには、経済的な恩典が得られるからである。

 幕藩体制、或いは武家社会の基礎である御恩と奉公という概念が通用しない状況が海外植民地に広がっていった。

 海外藩の領地は、それぞれが不毛の荒野を自力で切り開いたものであり、幕府の財政支援があったものの、それを債務であって恩ではなかった。

 家臣を土地に封じて、引き換えに貢納を求める封建制度の限界は明らかであった。

 しかし、19世紀前半、この問題については殆ど改革の手がついていない。

 寛永の改革を行った松平定信は、頑なに幕藩体制の護持を掲げて変化を認めなかった。諸藩の上に立つ幕府という構図を維持するために、幕府の経済的、軍事的優越を確保を狙って国内の再開発を推進した。

 定信が幕閣を去ったあとは、将軍徳川家斉の親政となったが改革は進まなかった。

 それどころか、家斉は政治には一切無関心を貫いて、趣味や遊興にふけることに金と時間を費やしていた。

 家斉の将軍在位期間の前半分が定信の老中在位期間と重なり、家斉親政時代は20年ほどで終わるが、そうでなかったら、幕府財政が破滅しただろうと言われるほど家斉は放蕩の限りを尽くした。

 将軍の私的な空間である大奥はオスマン・トルコ帝国の後宮に初めて並んだとされるほど拡大し、特定されているだけでも16人の側室を持ち、53人の子女をなしている。

 乾燥させたオットセイのペニスを粉末にした漢方薬を飲み、生姜を好んだことが子孫繁栄の秘訣と言われているが、家斉はオットセイ将軍という不名誉なあだ名を貰うことになった。

 また、家斉は収賄を公認し、朝廷に莫大な額の寄進(賄賂)を行って猟官活動に励み、殆ど何もしていないのに従一位、太政大臣にまで登りつめ官位を極めている俗物将軍であった。

 なお、従一位への昇任は第3代将軍徳川家光以来、太政大臣への昇任は第2代将軍徳川秀忠以来だった。藤原氏以外で、太政大臣になったのは豊臣秀吉と足利義満だけである。

 如何に家斉の従一位太政大臣が異常なことか分かることだろう。

 家斉親政時代の幕閣の仕事はその多すぎる子女をどこの大名家に嫁がせるか、或いは養子として押し込むかで占められることとなり、その持参金は数十万両に及んで、金目当てに養子を向かい入れる大名家が出るほどだった。

 上司の下の世話で成り上がった幕閣は天保の三佞人として唾棄され、家斉自身も含めてその評判は地に落ちる。

 しかし、将軍や幕閣が何もしない、或いはできないことは幕府と海外藩の関係を表面上、穏やかに保つこととなった。

 有砂藩アリゾナの藩主、猪毛端常のようなインディアンの部族長を兼務し独裁者として荒野に君臨して自らを白い神と名乗った狂人に幕府への臣従を要求しなかったのは幸いと言わざる得ない。

 なお、有砂藩は派遣された幕府の役人が急死、変死を遂げる難治の地として有名であり、「有砂へ行く」という言葉は幕府内で”死んだ”を意味する隠語として長く恐れられることとなる。

 また、家斉の放蕩三昧は経済振興策としては有用であり、江戸幕府後期の文化爛熟期である化政文化の花を開かせることとなる。

 ナポレオン戦争終結後、戦争特需が終わったことで深刻な不況に突入しつつあった1820年台において、幕府の財政支出激増は消費を刺激して一転して景気拡大を成功させている。

 また、多すぎる家斉の子女は閨閥として幕末の佐幕派形成の一助となっているため、何事にも二面性があるとするよりほかない。

 化政文化期は、今日的な寿司食文化や歌舞伎、浮世絵、人形浄瑠璃といった日本の伝統文化は完成に域に達し、活版印刷による豊富な出版文化が花開いた。

 文庫本といった形の小説の出版が一般化したのはこの頃である。

 出版社が林立し、多くの小説家が文壇に登場するが、娯楽小説としては特に歴史小説が好まれた。また、若者には、南総里見八犬伝のような、超能力を駆使して美少年、美少女が悪と戦う幻想小説というものが流行っている。

 版画技術も高度化し、浮世絵が大量印刷されるようになった。

 なお、男性人口の多い江戸で浮世絵として一番大量印刷されたのは春画であった。

 コーヒーや、紅茶を楽しむ喫茶文化が今日的な完成形にいたり、喫茶店やサロンが文化人の社交の場となっている。

 それらの社交場に出入りする文化人は、和服ではなく洋服を着るのが決まりで、また、髪を脱色したり、長髪にするのが流行りだった。

 武士が結う丁髷が犬の糞のように見える古臭いものとされ、変わって散切り頭や戦国期の茶筅髷が持て囃された。女性の髪結いが少なくなり今日的なショートヘア、ロングヘアやフランス貴族を真似た縦ロールのようなものまで出現している。

 こうした変化を主導したのが家斉の大奥で、熾烈な側室同士の競争の中から、差別化、個性化を図り様々なファッションのバリエーションが作られた。

 家斉の気を引くために側室達、或いはその取り巻きは様々な趣向を凝らし、黒を基調とした、レース、フリル、リボンに飾られた華美な洋服や動物を模した毛皮の衣装、紅白の金魚のようなフリフリのついた巫女装束、拘束衣のようなベルトだらけの皮服など倒錯的なものが作られたという。

 将軍家斉も文化人として化政文化に一石投じており、江戸にガス灯が導入されたのは家斉の鶴の一声があったからである。

 これまで度々大火に見舞われてきた江戸に、火災の危険があるガス灯を導入することは幕閣の中にも慎重論が多かったが、家斉が江戸城天守閣から夜景を楽しむためだけに、ガス灯導入を決めさせたという。

 江戸の町を町民の足として馬車が走り、高禄の旗本や商人の子弟が馬ではなく自転車に乗るのは珍しいことではなかった。

 また、化政文化期は、文化爛熟のみならず、日本の産業革命期でもあった。

 松平定信が最後の置き土産として日本に持ち込んだ蒸気機関が爆発的に普及して、商工業に革命的な変化を齎していた。

 江戸の対岸にある千葉に築かれた隅友家の巨大な製鉄所を動かすのも蒸気の力だった。蒸気力で動く巨大な送風機が絶え間なく高炉に空気を送り込み、呂宋産や南天産の鉄鉱石を溶かして、絶え間なく日本の産業界に鉄材を供給していた。

 製鉄業の近代化は、すぐに町並みの変化として現れた。

 木製の橋は鉄橋に取って代わられ、鉄筋コンクリートビルが江戸の町にも建つようなった。

 隅友家は自身も、旧来の商家の衣を脱ぎすて1846年には株式会社へと変身し、隅友銀行を中心とする財閥コンツェルンを形成した。

 株式会社こそ、大量の資金を効率的に集めるために特化した業務形態であり、膨大な設備投資を要する蒸気機関導入のためには避けては通れない道だった。

 隅友家は大量の株式化を発行して資金を集め、日本国内の鉱山に蒸気式ポンプを設置して排水を行うことで地下水流入で閉山されていた鉱山を蘇らせた。

 蒸気機関の登場で復活した国内鉱山としては、足尾銅山が有名だろう。

 足尾銅山は東洋最大の銅山として蘇ることになったが、同時に鉱毒事件という巨大な暗部を生み出すことにもなった。

 化政文化後期には、産業革命による環境汚染が深刻化することとなる。

 江戸の街も工場からの排煙によるスモッグで覆われ、公害病で多くの犠牲者を出した。 

 そうした公害病の発生こそ、日本経済の工業化、近代化の証でもあった。

 また、19世紀の産業革命といえば、蒸気機関車の登場も語らなければならないだろう。

 日本の蒸気機関車導入は極めて早かった。

 スティーブンソンの蒸気機関車が世界初の旅客運行を始めてから僅か15年後には、日本でも国産の蒸気機関車が大阪と京都間を鉄道路線で結んでいる。

 なお、国産といってもイギリス製蒸気機関車を多分に模倣したものであった。

 模倣はレール軌間にも及んでおり、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道と同じ1435mmのレール軌間を用いている。

 いわゆる標準軌で、日本で開業した鉄道は以後、全てこの規格となる。

 蒸気船の実用化はそれよりさらに早く、外輪式推進の商船が大阪と江戸を結んでいる。

 交通機関の蒸気動力化を推進したのは幕府ではなく、民間資本の力だった。

 儲かるとわかれば商人たちの動きは素早く、化政年間は私鉄開業ラッシュとなった。

 なお、外輪式蒸気船は軍用としては拒絶された。船舷に大砲が設置できなくなるためだ。

 幕府水軍に蒸気船が採用されるのは、1840年の阿片戦争でのイギリス海軍の蒸気式軍艦の活躍を確認した後だった。

 産業革命の進展と経済の資本主義化は封建制度である幕藩体制を大きく変質させ、放蕩将軍家斉の死と同時に政治改革が行われる。

 所謂、天保の改革である。

 改革を主導したのは、老中首座の水野忠邦であった。

 水野忠邦は上昇志向の強い人物と知られている。

 当時、樺太に領地を持っていた水野家はニシンや昆布漁で財を成していたが、それに加えてオハの油田開発を行って灯油を江戸に供給して江戸時代末期の石油王になっていた。

 忠邦は、その金で猟官活動を行って老中首座を射止めている。

 それだけ聞くと典型的な賄賂政治家思えるが、自身が権力を確立すると前将軍の側近達を収賄の罪で排除し、財産没収など苛烈な態度で断罪している。

 忠邦の推し進めた綱紀粛正は徹底したもので、家斉時代に弛緩した幕府の立て直しという点においては効果があった。

 経済政策としては、賄賂と物価高騰の温床であるとして株仲間に解散命令を出している。

 また、亨保の改革を手本とし、移民政策を強烈に推進した。

 天保の大不作が、餓死者の出るような飢饉ではなく、単なる不作で済んだのは、忠邦が半ば強制的に推し進めた移民政策によるところが大きい。

 天保大不作が極まった1835年には、1年間に100万人が日本を離れて北米や南天大陸へ移住している。現代ならば、政令指定都市が一つまるごと海外へ移るようなものである。

 この時の移民事業は苛烈なもので、ほぼ人間狩りに等しいやり方で強制的に大都市部へ流入した貧しい人々が駆集められ、強制的に海外へ送られた。

 強権的な手法の中で、家族が離散させられた例もある。船が遭難して数千人が犠牲になることもあったが、都市部での暴動発生から革命へ発展することを恐れた幕府は軍事力を投入してでも移民を推し進めた。

 結果として、この判断は正しかった。

 移民の強制と海外藩からの食料の緊急輸入によって、餓死者が出ることも都市部の大規模な暴動も回避されたのである。

 しかし、この飢饉を境に経済単位としての米の価値はなくなり、ただの食料としてみなされるようになってしまう。通貨は既に存在しており、飢饉で食料が不足しているときに通貨の代わり米を用いるバカはいなかった。

 そもそも、天保の大不作以前から経済の資本主義化で、米を通貨に擬す石高制はもはや実態を失っていた。

 石高制は限界に達したと幕府においてもようやく理解され、天保の改革はこの点を抜本改革するものであった。

 すなわち天保の改革において3度出された上知令がこれにあたり、江戸や大阪、京都、博多周辺の土地を旗本、御家人や寺社、公家衆から取り上げ、代わりに秩禄として幕府から金銭給付を行うものであった。

 これによって封建制度を部分的に解体、天領の土地支配を幕府へ一元化して行政制度の簡素化を図り、扶持米に代わって金銭給付で行政官僚を養うものであった。

 だが、先祖伝来の土地にしがみつく御家人、旗本の抵抗は凄まじく忠邦の暗殺未遂まで発展する。

 しかし、改革は断行された。

 頑迷極まる保守派は極少数で、都市生活を送る殆どの役人武士にとって、物納の扶持米よりも金銭給付の方が都合がよかったのである。

 秩禄以前から、扶持米は債券化されており、もはや実態を追認する以上の意味はなかった。

 第1回目は御家人、旗本が対象となり、第2回は寺社勢力、第3回目は朝廷、公家衆の土地が収公され、大都市周辺の行政組織が大幅に整理刷新された。

 230年に及ぶ幕藩体制の中で、土地の細分化が進み、旗本、御家人の封土は飛び地だらけとなっており、その管理は非効率極まる状態だったので、行政改革としては非常に効果的だった。

 とはいえ、この改革に対する世間の風当たりは冷たいものがあった。

 武士や公家、寺社勢力、朝廷らは例え、無役(無職)であっても秩禄として年金が支給されるのである。そのため、武士以外からは特権階級として白い目で見られた。

 その埋め合わせというわけではないが、秩禄と引き換えに新たに徴兵の義務が課せられることとなり、常備軍に再編成された幕府軍に出仕することとなった。

 なお、徴兵されるのは殆どが次男、三男で、長男は免除だった。武士以外の徴兵はなく、国民皆兵からは程遠いもので、フランス大陸軍を形だけ真似たものだった。

 しかし、徴兵逃れが横行し、兵隊の数が集まらないので、結局、武士以外からの志願兵を募ることとなり、何のための徴兵制なのか分からない有様となる。

 日本で徴兵制は文化的に無理なのではないかという意見さえでる始末であった。

 徴兵制を補う目的の志願制というかなり倒錯した状況が生じたが、殆どの武士の予想を裏切って、幕府軍の募兵事務所には大量の志願者が集まった。

 天保の大不作の余波で、飢えた人々が世間には溢れかえっていたのである。

 飯が食えるなら、軍隊だろうと御救小屋だろうと何でもよかった。軍隊に入って初めてまともな人間らしい食事を食べることができたと感動する人間さえいたほどである。

 町人や百姓が軍に志願するなど在りえないと思っていた武士の募集事務官が大量の志願が殺到したことで狼狽し、募集を勝手に打ち切ってしまうこともあったという。

 これにより辛うじて将校は武士の独占物だったが、それ以外は武士以外の人々が動かす軍隊が完成する。

 そうした軍隊のあり方は、多くの人に武士の価値というものを再考させた。

 何のために武士はあるのか?

 もはや、武士は戦士ではなく、武士とは名ばかりのひ弱な都市生活者に過ぎなかった。

 むしろ、田舎に住む庄屋のほうが武士らしい生活を送っていた。

 これまでは武士が唯一高等教育を受けた学識あるものとして行政組織を運営してきた。しかし、私塾や私学校といった藩校以外の教育機関が出揃った19世紀には高等な学識さえも武士の独占物ではなくなっていた。

 戦士として生きることもできず、学識の独占も崩壊し、残ったのは特権的地位だけだった。

 こうした特権への冷ややかな視線に幕府は恐怖を抱いていた。

 幕閣が密かに、或いは大っぴらに恐れていたのは革命だった。

 1848年には、諸国民の春と後に称されるフランス、ドイツ、イタリア、オーストリアで革命騒ぎがおきている。

 天保の改革という自己改革を幕府に迫ったのも、革命への恐怖だった。

 常備軍の編成は外敵への対処もあったが、武装蜂起した市民を鎮圧するという用途もきちんと考えられ、そのための計画も用意されていた。

 また、革命を恐れる忠邦は自由主義や人権思想を徹底的に弾圧し、江戸に住む自由主義者や民権論者、共和主義者を農村に送って再教育を行うという人返し令を発している。

 これは所謂、強制収容所のごときものだった。

 幸いなことに実務担当者である北町奉行の遠山景元がサボタージュしたため、実行前に民権論者達は江戸を脱出しているため未遂に終わっている。

 江戸を脱出した革命家達が集まったのは京都で、幕末の政治スポットとして京都が浮上するのは、こうした背景がある。

 ただし、彼らが本格的に活動を開始するのはもう少し後の話だった。

 さしあたって、天保の改革は一定の成果を収め、幕府の威信は保たれる形となったためである。

 株仲間の解散は一時的に経済を混乱させたが、ギルド的な閉鎖空間の排除は大規模な規制緩和となった。

 規制緩和によって経済界に新規参入者が激増したが、新参者は皆、株式会社だった。資本蓄積がないため資金調達をもっぱら株式発行に頼ったためである。

 株仲間解散が日本の近代株式会社の始まりと言われるのはこのためである。

 近代的な銀行制度の確立も同時に行われ、天保期に開業した銀行は100行もあり、まず銀兌換紙幣が発行された。

 金兌換紙幣の発行が遅れたのは、家斉時代の散財が大きく響いていたためだが、後に金兌換紙幣に発行にもこぎつけ、金貨、銀貨というものを過去のものにとしている。

 もはや、流通に不便な貴金属硬貨を使うような経済レベルはとうの昔に過ぎ去っていた。

 天保の改革によって、とりあえず経済の近代化は完成の域に達したことから、日本の市民革命運動は盛り上がることなく、日本国内では静かな時間はしばらく続く。

 だが、変化の波は容赦なく外から押し寄せてきた。

 1840年、イギリスと清は交戦状態に突入し、阿片戦争が始まった。




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