表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/44

田沼と清流



 田沼と清流



 安永元年(1772年)、田沼意次は相良藩6万石の大名に取り立てられ、老中を兼任した。以後を意次失脚までの期間は田沼時代と呼ばれる。

 この出世は、当時としては異例中の異例のことであった。

 6百石の旗本から始まって6万石の大名への立身出世など、幕府開幕以来のことである。

 また、側用人から老中になった最初の人物となった。

 側用人として権勢を誇った綱吉時代の柳沢吉保とて、老中にはなれなかったのである。

 太閤豊臣秀吉が乱世の出世頭なら、田沼意次は治世の出世頭といえるだろう。

 幕藩体制下おいては、これ以上の出世は将軍になるしかないところまで登った意次だったが、父親の田沼意行が紀州藩の足軽に過ぎなかったことを考えれば、その立身出世の異常さが伺えるだろう。

 これが戦国時代であったら、秀吉のような天下人になっていたかもしれない。

 もちろん、若い日に八代将軍吉宗の知遇を得たという縁故もあるが、既に秩序の定まった太平の世にここまでの出世を成し遂げた人間は他にいない。

 その才覚は太閤豊臣秀吉に比肩するものがあった言えるだろう。

 故に、その極大なまでに華麗なる成功と息子の死に始まる凋落まで、秀吉との相似形を描くことになる。

 ただし、後の世に与えた影響は日本国内に留まった秀吉に比べると意次の方が遥かに大きい。

 田沼時代とは、海外への膨張した日本の一挙一動が地球規模の影響を与える最初の時代だったのである。

 意次の行った政治は、一般的には重商主義政策と理解される。

 株仲間の公認によってギルド商人を保護し、海外投資を活発に行った。

 海外投資とは主に鉱山開発であり、特に重視されたのは金山開発だった。

 加州や南天大陸で発見された砂金は、ゴールドラッシュの後に短時間で採り尽くしてしまい以後、幕府直営による金鉱山での採掘となっていく。

 なお、この時の加州における金の生産量は年間120tである。

 国内最大の金山であった佐渡金山が、最盛期で年間400kgであったから、加州金山はまさに桁外れの大鉱山だった。

 直前にカルフォルニアを日本に売却してしまったスペインはこの事を悔しがり、軍事的奪還作戦まで計画するほど後悔したが全ては後の祭りだった。

 なお、当の幕府もスペインが武力奪還に動く可能性も考慮して、桜女市サクラメントには巨大な和洋折衷の要塞(桜女城)を建設して守りを固めた。また、聖人市サンディエゴには幕府水軍の艦隊が常駐するようになる。

 加州鉱山の収入は、亨保小判(金貨)が約17gであるから、小判換算で毎年約700万両の収入であった。

 亨保の改革が始まる直前の幕府の年間国家予算がおよそ800万両だったことから、収入がいきなり2倍になったようなものである。

 また、南天大陸やアラスカでも金鉱山の発見が相次いで、10年に1度はゴールドラッシュが起きるような状態が続いていくことになる。

 そして、そこから得た金をさらに海外投資にまわして、新しい事業を起こして収益を得て、その収益ををまた海外投資して事業を起こすという正の循環、好景気が訪れた。

 こうした海外投資の加熱は、その投資先として農業が困難で移民に不適と考えられていた場所へ幕府の興味を向けさせることとなる。

 すなわち、シベリア探索事業である。

 日本人とシベリアとの関係は元禄時代に遡る。

 元禄時代、日本の捕鯨船が鯨油生産のための薪を補給できる寄港地が、シベリア沿岸に作られた。この時に開かれた寄港地が尼港である。

 尼港はアムール川の河口に位置し、女真族などが住んでいた広い意味での満州の一部であり、そこは清の領土であった。尼港の設置は清に上納金を納める条件で黙認された。

 なお、尼港の名の由来は杳として知れないが、風説によれば現地に一向宗の寺を開いた美しい尼がいて、多くの船乗りが思いの君として恋い焦がれたことから尼の住む港として尼港と呼ばれたという言い伝えがある。

 これが1685年のことである。

 なお、既にこの頃には西からロシア人がシベリアに進出しており、1636年にはコサックのイヴァン・モスクヴィチンがシベリア横断を達成しているので、日本のシベリア進出は少し出遅れた形となる。

 ロシアのシベリア進出の目的はヨーロッパで獲り尽くした高級毛皮の狩猟だった。

 尼港にもロシア人が訪れ、内陸で狩った毛皮の売買を目的に日本人と交易が始まり、日本、ロシア、清の交易地として尼港は発展していくことになる。

 しかし、この毛皮交易は当初、あまり利益にならなかった。

 と言うのは生類憐れみの令があった当時の日本では毛皮を使った衣服を用いることは死罪となる危険があったからである。需要がなかったので毛皮は全く売れなかった。

 毛皮交易が本格化するのは、綱吉が死去して生類憐れみの令が廃止となり、尼港にオランダ商人が来るようになってからである。

 ロシア人とオランダ人が毛皮を法外な値段で取引していることを知った日本人の動きは素早く、日本から多くのマタギが尼港に訪れ、アムール川を遡上して、毛皮を獲るため、シベリア各地へ進出することになる。

 とはいえ、これは出稼ぎの一種であり、シベリアのあちこちに簡単な宿営地が作れたが、植民といえるものではなかった。

 そもそも、シベリアは寒冷すぎて食料の自給が困難なので植民には向いていない。

 また、冬のシベリアの寒さは極限のものだった。

 猟師達は冬になる前に尼港に戻って、毛皮を商人に売って、尼港で冬営するか、帰国するかのどちらかであった。

 なお、ロシア人猟師と日本人猟師の関係は混沌としており、遭難した者同士で助け合うこともあれば、獲物の横取りを狙って殺し合うこともあった。

 シベリアは公権力が及ばない地の果てであり、深い森の中で何が起きても、当事者同士の間で済ませるのがご当地の流儀であった。

 とはいえ、距離的な近さから日本人の方が数に勝っていた。また利益独占のために、オランダ人商人が幕府からの圧力で尼港にこなくなると、ロシア人が持ち込んだ毛皮が安く買い叩かれるようになった。

 はるばるシベリアを横断してヨーロッパに毛皮を売りに戻るのは現実的ではなく、毛皮交易の利益がでなくなるとロシア人はシベリアに来なくなってしまう。

 ロシア人にとっても、シベリアという場所は住みやすい所ではなかった。

 ロシアが残したのはシベリアという地名だけとなる。

 とはいえ、それで直ぐにシベリアが日本人のものとなったわけではない。

 前述のとおり環境の厳しさから長く植民も行われなかった。亨保の改革による開拓令でも、蝦夷が開拓地に指定されてもシベリアは除外されている。

 吉宗にとって開拓令とは海外に農地を求めるものであり、農業が困難なシベリアは最初から考慮の埒外だった。

 農業ができない土地に、吉宗は価値を見いだせなかったのである。

 しかし、経済振興による幕府の増収を考えていた意次は、海外投資先としてシベリア探索にGOサインを出す。

 意次の構想は、シベリアは天領とし幕府直営の毛皮貿易や林業、鉱山開発を行って増収を図るという至極まっとうなものだった。

 そのためにまず詳細な資源探索や地図製作が求められ、青島俊蔵、最上徳内、大石逸平、庵原弥六といった探検家がシベリア探索に従事した。

 また、民間レベルでもシベリア開発の機運が高まり、尼港を経由してシベリア奥地へ挑むものが現れた。

 その中でも特に有名なのは平賀源内といえるだろう。

 平賀源内は前人未到の極地に至れば、手付かずの砂金川底があると考えた。

 そこでアイヌ人の従者を雇ってシベリア各地を探索し、予想取りに大量の砂金を発見して、日本に持ち帰っている。

 これで名を売った源内は、商人の出資を募って、シベリアの鉱山開発を行い巨万の富を築いて、シベリア長者と呼ばれるようになった。

 これが後のシベリア財閥の源流である。

 富豪となった源内は、その後、多くの探検家の”先輩”として、パトロン活動をするようになるが、探検家の発見したものを自分が発見したかのように発表することから、非常に評判が悪かったという。

 とはいえ、源内がこの時代における成功者であったことは疑いの余地もない。

 田沼時代とは、空前の好景気の中で、金がなくても才覚がある者なら海外で成功者になれるジャパニーズ・ドリームの時代であった。

 一種のバブル景気と言えなくもない。

 田沼時代には金余りの状況から、公共事業で公衆トイレが日本全国につくられたが、その便器に彫刻をいれるような馬鹿馬鹿しい金を使い方が流行った。この時代につくられた公共のゴミ箱は見事な細工から後に骨董品として数万両の高値で取引されている。

 便器といえば、大阪では大商人が純金製の便器を作ったりもした。

 若者の風俗として、お立ち台とよばれる盛り場に夜な夜な男女が集まって、扇子を片手に踊り狂うような著しい風紀の退廃が加速した。

 金がありすぎて金の価値を感じられなくなった大商人が、風流と称してキチガイの格好をして広小路で小判を撒くという珍事もおきた。

 この時、日本を訪れた多くの外国人が、日本の空前の繁栄を目にして黄金の国ジパングと感嘆したという。国際都市の大阪で、この時の狂乱を見たフランシスコ・デ・ゴヤが書き残した大画が”エイジ・オブ・マッポーカリプス”である。

 話が逸れたが、経済振興で幕府の税収は増え続け、田沼時代末期には、年間国家予算が3,000万両に達している。

 しかし、大量の金貨が出回れば、物価高騰インフレを招くのは必至であった。

 インフレになれば収入の伸び幅が小さい庶民の生活が苦しくなった。

 さらに市場価値が下落し続ける扶持米で生活する武士の窮乏が極限まで極まることになる。

 著しい物価高騰を招いたことで国内の不満が爆発し、それが意次にとって命取りとなるのだが、正の側面に目を向ければ、それは華々しい成功であった。

 また、この時の潤沢な資金がなければ、天明の大飢饉を乗り切ることは不可能だっただろう。

 天明2年(1782年)から天明7年(1787年)まで続いた米の不作は、人口が飽和状態であった日本において致命的であった。

 飢饉の原因は異常気象ばかりではなく、人災も含んでいた。

 奥羽の諸藩は財政難から飢饉で米が暴騰すると借金返済のため僅かな収穫米や備蓄米を売却するという飢餓輸出を図った。結果、飢餓状態の国元には米がないが、大阪や江戸には米が溢れているという喜劇的な状況が現出することになる。

 この時、幕府は米市場を閉鎖して米価の暴騰を食い止めると同時に呂宋米、台湾米の緊急輸入、幕府の備蓄米を開放し、被災地に送って救済している。

 その上で、根本的な解決として人口調整のため海外移民を一層、推進した。

 幕府の御用として大量の高速帆船が緊急建造され、飢饉に前後して日本から脱出した人々は推定500万人に上る。

 飢餓輸出を図った奥州諸藩の大名は処罰され、軒並み海外位封となった。

 以後、変動があるものの日本からの移民は毎年30~40万人程度で推移し、日本国内の人口増加は歯止めがかけれることとなった。

 こうした緊急対策に費やされた諸経費は1,000万両と推定される。幕府の年間国家予算の三分の1にあたり、亨保以前の幕府であれば支出不能な金額であった。一連の緊急対策がなければ数百万人が餓死したとも言われる。

 とはいえ、幕府の対策も完全ではなく、奥羽では数万の餓死者を出している。

 また、インフレと飢饉のダブルパンチで食料品が暴騰し、江戸では商店に群衆が押し寄せ略奪を行う打ち壊しが起きた。

 首都での暴動発生により、政治家としての田沼意次の権威は失墜、失脚することとなる。

 その後、御三卿一橋家から養子に入った徳川家斉が11代将軍に就任し、御三卿田安家から白河藩主となった松平定信が老中首座となると、田沼派は幕閣から一層され、田沼時代は終焉を迎えることとなる。





 天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、松平定信は少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる。

 以後、定信の治世における幕府の政治改革は寛政の改革と呼ばれる。

 8代将軍吉宗の孫に当たる定信は、幼年時代から英明と謳われていたが、頭が切れるためにバカが嫌いで、歯に衣着せぬ物言いで敵が多い人物であった。

 将軍になれなかったのも、全盛期の田沼意次を正面から賄賂政治家と面罵してしまったからである。報復を恐れた一橋徳川家当主・治済によって、陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子とされ、将軍候補のレースから外された。

 しかし、政治的な能力は高く、天命の大飢饉においては他の奥羽諸藩で餓死者が続出する中で、白河藩では一人の餓死者も出さずに切り抜けた。

 その力量を見込まれての老中首座就任だったが、あまりにも厳しい綱紀粛正を行ったために庶民の人気がなかった。

 しかも、物価高騰の原因として市中から金貨引き上げ、通貨の流通量を一気に減らしたので、デフレ不況を招いてしまい、その声望は急落することとなる。

 僅か就任6年で、定信は失脚寸前となった。

 定信の改革の要諦は、海外投資に使われてきた資金を国内投資に振り向けることであった。

 もちろん、移民政策を否定するわけではない。

 移民政策は亨保の改革の根本であり、定信にとっては偉大なる祖父の定めた絶対の摂理だった。だが、商業主義的な海外投資にかまけて国内開発が疎かになり、幕府の足元が揺らぐことはあってならなかった。

 要するに、国内のインフラへ資金投入し、体制の安定を図る思想だった。

 特に天命の大飢饉による江戸の打ち壊しは定信に強い危機感をもたせた。

 一揆打ち壊しから体制崩壊さえありえると考えられたのである。

 定信が老中首座となった1787年は、フィラデルフィア憲法制定会議が開催され、アメリカ合衆国憲法が制定された年である。

 幕府の耳にもアメリカ合衆国独立は届いており、民衆蜂起による植民地独立。さらに君主の存在を否定した共和制国家樹立は幕府にとって脅威以外の何者でもなかった。

 同じことが日本でおきない保障など、どこにもないのだ。

 それ故に田沼時代でゆるんだ体制の引き締め、強権的な綱紀粛正、そして国内の再開発事業だった。

 国内の再開発事業で代表的なものは印旛沼手賀沼の干拓工事や、木曽三川分流工事、尾張用水の切削、有明海干拓事業だろう。

 これらは大規模土木工事による地形改造であった。

 農地確保による食糧増産と同時に治水事業も兼ねている。

 木曽三川分流工事はコンクリートの大量投入による大規模遮水工事と木曽川上流の重力式コンクリートダムの建設からなる最新の土木建築技術を凝らしたものであった。

 同時に尾張用水の切削が行われ、木曽川の水を知多半島まで導水して知多半田に広大な水田地帯が開かれた。

 この時建設された導水路は、レンガ造りの3階建て水道橋が120kmも続くという18世紀の水道技術の精華とも呼ぶべきものである。

 また、海外藩が増えて、国内の参勤交代が激減したことから主要幹線道路の東海道さえ荒れ放題になり、定信の手によって再整備されることになる。

 寛永年間には、五畿七道を六頭立ての重馬が引く駅馬車が結ぶ全国的な交通網が実用化された。これによって沿岸部に比べて立ち遅れていた内陸部の発展が進むことになる。

 大型馬車が通れる頑丈で広い道が全国的に整備されなければ、この駅馬車網は成り立たたなかったし、江戸や大阪の広小路をレンガやコンクリートで舗装したのも定信であった。

 なお、この駅馬車の製造は主に遠江で行われた。

 遠江に佐吉という馬車づくりの達人がいて、彼が作る馬車が大変好評だったためである。

 定信自身も佐吉が作った馬車に乗って、その乗り心地を確認している

 佐吉が作った馬車の画期的だった点は金属製の板バネを使ったサスペンションを採用していることだった。それまでにも馬車はあったが、車軸と車体が直結しているため、振動が直に伝わり、長時間乗っていられるものではなかったのである。

 なお、定信は素晴らしい発明をした佐吉に褒美として、苗字帯刀を許し、旗本として取り立て、三河に所領を与えている。

 先の所領にはとてもよく豊かに実る田であったことから、佐吉は名字として豊田を名乗ることとし、以後、馬車づくりの名人の家として、豊田家の創始となる。

 この後、同じ三河で馬車の部品を使って、自転車を発明し、幕府から本当によく実る田を与えられ、同じような理由から本田家を創始する男が現れるのだが、それはまた別の話である。

 話を戻すが、同時期に行われた国内再開発事業は多岐に及んだ。

 治水のために山林への植林事業を大々的におこなったのも定信の時代からである。

 建材としての需要や新田開発により元禄時代には日本国内の山林資源は危険水域に達して、亨保の改革が始まったころには自然回復しないレベルで枯渇していた。

 禿山になった山は保水力がなく、雨が降る度に洪水が起きていたのである。

 元禄時代後半に度々、天災が起きたのはそのためであり、洪水の激増と食料問題から亨保年間に日本は海外移民へ踏み切ることになった。

 そこで、定信は植林事業で山の再生を図ったのである。

 しかし、当時、この政策は殆どの人に理解されなかった。

 木材が欲しければ、蝦夷や呂宋、台湾に幾らでも手付かずの原生林があるため、国内で育てる意味がなかったからである。ましてや商業利用ではなく、環境保全のための植林を幕府の事業として行うことなど、当時としては全く意味不明だった。

 このように、定信の進めた事業は重要だが、即効性がなく、また地味だった。或いは必要性が理解されないものばかりで、前述のとおり厳しい綱紀粛正を行ったことから人気がなく、失脚寸前まで追い詰められることとなる。

 だが、1789年、フランス革命が勃発。

 やがてフランスは革命伝播を恐れる各国の介入を招き、革命戦争に突入していった。

 1793年、オランダ(ネーデルラント)から幕府に第一次対仏大同盟の参加打診があった。対外戦争の危機を前にして定信の去就が一時、棚上げとなる。

 唐出兵から100年以上も戦争のなかった国に、突然舞い込んだ戦争のお誘いであった。

 


 

 この時、オランダから同盟参加の打診があったのは、万が一、日本がフランスの味方についた場合、東南アジアにあるオランダの植民地が攻撃される恐れがあったからである。

 実際にほぼ同時期にフランスから同盟の誘いが来ていた。

 双方からの同盟参加の打診に幕府は大いに動揺することになる。

 第三の道として中立や傍観も許される状況だったが、同時にこれは海外利権獲得のチャンスとも考えられた。

 バカではないが、決断力や政治力に欠ける11代将軍徳川家斉は、戦争の危機を前にして考えあぐねた挙句にできる人間に丸投げすることを思いついた。

 奢侈な生活を送る怠惰な家斉と綱紀粛正を図る真面目人間の定信の関係は極めて険悪なものだったが、家斉は定信の行政手腕だけは評価していた。

 また、定信が繰り返し説いてきた民衆蜂起による政権転覆がいよいよ現実のものになったという恐怖があった。

 ちなみに幕府はフランス革命とその前後の動向をかなり正確に把握していた。

 幕府には100年以上の伝統ある南蛮忍軍のような対外諜報機関があり、ルイ16世やマリー・アントワネットがギロチンにかけられたことも知っていた。ロベスピエールが童貞であることも知っていた。

 家斉は定信のことを心の底から嫌いだったが、定信からギロチンがどういうものか聞かされて、夜も眠れないほどの恐怖に襲われたという。

 話が逸れたが、定信が国内開発に資金を投入してきたのは、前任の田沼意次が天明の打ち壊し(暴動)で失脚したこともあるが、フランス革命のような民衆蜂起による体制転覆という現実の恐怖に裏打ちされたものだった。

 江戸で民衆が武装蜂起し、江戸城に雪崩込み、公方をギロチンにかけるということも、現実に起こりえるという危機感があった。

 そして、現実にそれが起きてしまったのである。

 よって、幕閣の大勢は対仏同盟参加に流れた。

 共和制国家のような悪夢はさっさと葬り去るべきだった。

 しかし、ここで老中首座の松平定信が反対の論陣を張ることとなる。

 定信の考えはこの戦争が長期化するというものであり、同盟に参加するにしても十分に軍備を整えてからにすべきと主張した。

 定信以外の幕閣は戦争は短期間で終わると考えていた。

 対仏大同盟の参加国イギリス、オーストリア、プロイセン、スペイン、オランダといったフランス以外のヨーロッパ主要国、全てが参加している。兵力差は圧倒的だった。

 しかし、定信は王を処刑したフランス民衆の覚悟を見誤らなかった。

 他国の介入で王政を復活させても民衆がそれに恭順するとは考えられず、再び革命が起きて王政が倒されるだけで、戦争は長引くと予想したのである。

 結局、幕閣の中で意見が分裂し、結論は得られず、同盟参加は先送りとなった。

 明確な回答を得られなかったオランダからは失望されたが、結果的にこれは正解だった。

 1793年12月には、ナポレオン・ボナパルトがトゥーロンの奪還、フランス国内から外国軍が一掃される。2年後にはプロイセンに勝利し、バーゼルの和約を締結してラインラントを獲得。同年5月にはオランダに衛星国のバタヴィア共和国を建国した。スペインもまた第二次バーゼルの和約でフランスと休戦し、対仏大同盟軍は大敗を喫することになる。

 オランダがフランスの傘下となり、さらに1800年にはスペインがフランスに西ルイジアナを割譲したことで、日本とフランスが北米大陸で国境を接することになったのである。

 定信の予想は的中し、老中首座としての信任を回復することに成功する。

 将軍・家斉としては尊号事件で定信と対立状態にあり、できれば罷免したかったのだが、間近に迫った戦争という難局を乗り切るには、他の幕閣では小粒だった。

 よって止む得ない措置として、誰からも好かれていない定信の治世が暫く続くこととなる。

 とりあえず、幕府は当面の対応として、北米防衛のため幕府兵を増派と北米大陸での測量事業、国境線確定事業を急ぐことになった。

 フランス領西ルイジアナと日本領の境界を示すために大量の石碑が北米大陸に建てられることになるが、幕府が大量の石材を買い占めたため、墓石が足りなくなるなどの影響が出た。

 もっとも、3年後にフランスは西ルイジアナをアメリカ合衆国に僅か1,500万ドルで売却してしまったので、フランスが攻めて来ることはなかった。

 しかし、この時建てた石碑に沿った線が、その後、アメリカ合衆国との国境線となった。

 そして、フランスから同盟参加の打診が届く。

 ロシアの後背であり、イギリスの海軍力を分散させるために、ナポレオンは日本を利用することを思いついたのである。

 ナポレオンは1806年に弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、フランス人によるオランダ王国(ホラント王国)が成立した。このため、世界各地にあったオランダの植民地はすべてフランスの影響下に置かれることとなった。

 同盟の名目としては、アジア太平洋地域のオランダ領の保護となる。

 海軍力でイギリスに劣るフランスとしては、アジア最大の海軍力を持つ日本が参戦しないことには、アジアのオランダ植民地がイギリスの草刈り場になるのが目に見えていた。

 よって交換条件も破格のもので、スマトラ島の割譲であった。

 この時既にオランダ船を狙ったイギリス海軍の私掠船が東南アジア各地に出没していた。

 日本商船も巻き添えになり、護衛の幕府水軍と交戦状態に突入していたことから、幕府はイギリスとの戦争を決意する。

 

 


 ここで幕府水軍について説明することとしたい。

 1635年の呂宋の変から呂宋藩が立藩すると幕府は、呂宋藩に対してどのように軍事的対応するのか具体的な検討を迫られた。

 呂宋の豊臣家が謀反を起こしたらどうするのか?ということである。

 西国の外様大名は豊臣恩顧の家ばかりで、豊臣家が武装蜂起したときどう動くか未確定な部分があった。

 もちろん、武装蜂起となれば幕府と徳川家の存続を賭けて鎮圧に赴くしかないのだが、そうなると渡海が必要になった。渡海する軍を運ぶ船と護衛する軍船が必要となり、軍船を操る水上戦闘専門集団、要するに水軍を持つしかないことになる。

 この頃、幕府は水軍をもっていなかった。

 なぜならば、必要なかったからである。

 朱印船を狙って中華系海賊が出没していたが、大砲をもった大型船ではなく、接舷切り込み主体の小型ジャンク船ばかりだった。それなら朱印船に職にあぶれた浪人達のような白兵要員を乗せておけば十分に対応できた。

 むしろ、国内にあふれる浪人衆を少しでも減らすために、朱印船を武装させることを奨励していたほどである。浪人衆も商人に使われることは不本意だったが生活のために傭兵業を受け入れていた。

 しかし、呂宋藩のような遠隔地に討伐軍を渡海させるとなると、そうした小手先の対応では駄目だった。本格的な水軍を作る必要がある。

 或いは、豊臣軍が攻めてきた時、海の上でそれを防ぐためにどうしても水軍が必要だった。

 そこで幕府は九鬼氏や村上水軍の生き残り、水軍経験者の浪人、スペイン人やポルトガル人、オランダ人からも経験者を集めて幕府水軍の建軍にとりかかった。

 摂津の神戸に、最初の水軍伝習所が開かれ、そこが最初の根拠地となった。

 なぜ江戸ではなく、摂津の神戸に根拠地が開かれたのかというと、当時、日本製ガレオン船を建造することができたのは大阪の造船所だけだったからである。

 また、鉄の鋳造大砲が作れるのも大阪だけであり、神戸は後背地の保養性の良さからも水軍の根拠地としてはうってつけだった。

 以後、幕府水軍は日本唯一の水軍として発展、拡大していくことになる。

 反乱を防ぐために幕府以外が水軍を持つことは禁じられた。

 艦長などの幹部は全て幕府の直臣だったが、水兵については最初から身分は問わない方針だった。

 水兵まで武士として取り立てていては保たないし、常に不足する水兵を補充し続けなければならない水軍では、身分についてあれこれ言っている余裕なかったのである。

 よって河原者のような被差別階級であっても、水軍に入ること許されていた。

 また、舟板一枚下は水の地獄であり、そこで通用するのは家柄ではなく、純粋な個人の力と全員の団結力だった。

 水軍に入ればどんな低い身分のものであっても、力量さえあれば幕臣である船長や幹部になれたのである。

 そのため水兵の募集には人気があった。卓越した才覚をもって、貧農や河原者から士分に昇った者も多かったのである。

 封建社会の中において、か細い立身出世の道として幕府水軍にはある種の輝きがあった。

 17、18世紀を通じて、日本商船団の拡大と航路の延伸に比例して大きくなっていく幕府水軍であったが、その主敵は主に海賊だった。

 明朝滅亡後の漢人難民や、東南アジアの現地勢力、オランダ人やスペイン人の犯罪者など、海賊の成り手は事欠かなかった。

 日本の浪人でさえてっとり速く稼ぐために海賊になるものが多かった。

 そうした海賊を討伐し、商船を守るために幕府水軍は戦った。

 故に公方の直臣であると同時に、護民の意識が組織の柱となっていた。

 海外に出ることが多いので日本人同士の同胞意識が強くして、最初に日本人の民族主義を体現する存在となるのだが、それは19世紀半ばの話である。

 ちょうど、ナポレオン戦争はその前夜であり、イギリス海軍との戦争は前時代的な水上戦闘の最後の夏と言えた。

 なお、この頃の幕府水軍の主力は、700~1,400tの高速帆船で、イギリス軍のフリゲート艦に相当し、大砲は多くて30門程度だった。

 砲火力は低いが足が速く、広大な太平洋を巡回するには丁度いい(当時としては)大きさであった。

 イギリス海軍も幕府水軍もフリゲートが艦隊を組むことは稀で、殆どが少数のグループに別れ、戦闘の際は単艦で行動した。

 イギリス海軍は東南アジアや南シナ海、南太平洋や日本近海まで侵入して私掠活動を行ったが、幕府水軍はこれに対抗して商船の船団を組み、フリゲートをつけて護衛した。

 また、幕府水軍もインド洋に侵入し、イギリス商船を狙って私掠活動を行ってイギリス海軍の戦力を吸引した。

 自国の商船は身を挺してでも守った幕府水軍だったが、敵国の商船を襲うのは全く躊躇しなかった。 

 イギリス海軍も商船護衛に乗り出し、多数のフリゲートを展開して対抗したため、東南アジアやインド洋、太平洋のほぼ全域で日英のフリゲートが激しい一騎打ちとなった。

 そのため、この頃の海戦を下敷きとした海洋冒険小説は数多い。

 なお、東南アジアのオランダ領には幕府軍が展開しイギリス軍の上陸を抑止したが、過去の先例からあわよくば横領できないかと現地で多くの陰謀が巡らされた。

 特に報酬として割譲予定のスマトラ島には約束を反故にされる可能性があるため、1万の幕府兵が上陸してスマトラ島をがっちりと確保している。

 前者の陰謀は、ボルネオ島北部の植民地獲得として結実している。

 後者についてもナポレオン戦争の講和会議となったウィーン会議において、独立を回復したオランダからスマトラ島は正式に日本へ割譲される運びとなった。

 なお、水上では激しい戦いとなった日英であったが、地上戦は殆ど行われなかった。

 南天大陸のイギリス人植民都市を占領したときに現地で抵抗活動があった程度である。

 イギリス人がオーストラリアと呼んでいた南天大陸では、日英の植民都市が築かれ、農地拡大を競い合っていたが、基本的に流刑地としての運用が前提のイギリスが本格的な入植を行う日本の後塵を拝する状況が続いていた。

 幕府軍がオーストラリアのイギリス人植民都市を包囲したときは、降伏勧告するだけでこれらの都市は無血開城した。

 そもそも本国から遠すぎるし、流刑地に送られた犯罪者を助けるために援軍が来るなどありえないので、戦うだけ無駄だったからである。

 他に地上戦が起きたのはシベリアだった。

 エカテリーナ二世の治世下で再びシベリアに進出を強めていた少数のコサックを上杉軍のマタギ騎兵が数で圧倒して戦いは終わった。

 どちらかといえば、フランスの支援に格好つけて、邪魔になってきていたロシア人を排除するための行動であり、ロシア帝国を軍事的に打倒するような意思はなかった。

 また、ロシア帝国の首都はシベリアの彼方、ウラル山脈の向こうにある。

 そこまで遠征する能力も意思も幕府にはなかった。

 よって幕府軍は、レナ川(夏川)で止まって、それ以上は進撃していない。小競り合いがおきても冬の寒さの中で自然休戦となった。

 そのため、ナポレオン戦争において、もっぱらイギリス海軍との熾烈な戦いのみが人々の記録に残ることとなる。

 そして、これらの戦いで日本は勝ち続けた。

 その勝利を最大限活用したのは老中の松平定信だった。

 勝っている戦争の指導者として、定信の権威は主君の家斉も無視できないほど高まったのである。

 日本の勝利の要員は、兵力の優越にあった。

 本国との距離の近さから相対的に数的優位が確保できた。ただし、平和が長く続いたために装備の面においては劣っていることが多く、コサックのゲリラ的な襲撃には手を焼いている。

 幕府水軍の装備は陸軍に比べればかなりマシだったが、戦列艦のような主力艦を持っていないので、イギリス海軍が本気を出していたらひとたまりもなかった。

 しかし、海軍主力をヨーロッパに拘束されているイギリス海軍は、アジア太平洋に主力の戦列艦を送ることは不可能だった。

 また幕府水軍相手の消耗戦に巻き込まれ、大量のフリゲートを失っている。

 幕府水軍とのキルレシオは、1対1.2でややイギリス海軍が有利だったが、本国との距離があまりにも違いすぎて、消耗に補充が追いつかなかった。

 ナポレオンのエジプト遠征阻止に失敗したのも大量のフリゲートが太平洋、インド洋の配置され幕府水軍と戦っていためだった。ナポレオンのエジプト脱出阻止に失敗したのも同じ理由である。

 最悪なのはインド洋での幕府水軍の私掠活動だった。

 イギリス最大の市場であるインドとの通商路が遮断され、ロンドンでは株価が暴落して破産するものが続出した。

 フランス海軍と幕府水軍の2正面作戦は不可能と結論したイギリスは1802年3月にフランスとアミアンの和約を結び講和した。

 同時にカルカッタの和約を結んで幕府と講和する。

 カルカッタの和約を要約すれば、イギリスと日本の勢力圏の相互承認とインド洋、太平洋地域の非戦闘地帯化だった。

 幕府としては、オランダ植民地の保護は達成されたので義理を果たすことができたし、環太平洋に広がる日本の植民地が攻撃されなければ、イギリスと手を結ぶことができた。

 ロシア帝国との講和は暫く先のことになるが、レナ川より先に幕府軍が進まないので、ロシア軍とらみ合いを続ける中で自然休戦状態となっている。

 これによってイギリスは太平洋、インド洋から海軍を引き上げ、ナポレオンとの決戦に備えることができた。イギリスはナポレオン戦争最大の窮地を抜けたのである。

 この時、イギリスを徹底的に追い詰めなかったことを幕府は後悔することになる。

 だがこの時は、逆にイギリスがカルカッタの和約で示された幕府の広大なアジア太平洋地域の植民地に恐怖していた。

 この時期の日本の領土は本土の20倍に達しており、太平洋沿岸の4分の3が日本の勢力圏であった。

 海のロシア帝国、とイギリスのピット首相は警戒を露わにしたという。

 イギリス海軍は、ヨーロッパに集中させた戦力でトラファルガー海戦に勝ち抜き、ナポレオンの本土上陸の野望を粉砕したが、続くアウステルリッツの戦いではナポレオンが快勝し、暫くフランスの一方的な勢力拡大が続いていくことになる。

 この間、フランスから再び同盟を持ちかけられたが、幕府は断っている。

 フランスと手を組んでイギリス植民地を攻撃するべきという意見もあったが、老中首座の松平定信が大義名分のない戦はするべきではないとして退けている。

 これを以って定信の誠実な人柄を賞することもできるが、実際のところは戦費負担に幕府財政が悲鳴をあげているだけだった。

 財政規律をことのほか重視し、主君の徳川家斉の奢侈な私的生活にさえ介入する定信にとって、戦費の激増は看過できるところではなかったのである。

 幕府はナポレオン戦争から降りたが、民間レベルではその後も積極的に戦争と関係を深めている。武器は作れば作るだけ売れたからである。

 また、ナポレオンが1806年に発した経済封鎖命令は日本商人にとって大きな商機であった。

 イギリス製品が入らなくなって困窮するヨーロッパ各国に向けて、日の丸を掲げた商船が日本製品を抱えてヨーロッパへと大挙出動することとなる。

 ヨーロッパ各地で日本製品を売りさばいた日の丸商船団は、大陸でダブついている穀物や木材を買い付け、それをイギリスに運び、帰りの便でイギリス製品をヨーロッパへ送った。

 それだけの簡単な仕事だったが、一時的にヨーロッパの海上交通の過半が日本商船の担うところとなり、江戸や大阪の廻船問屋は笑いが止まらないボロ儲けになった。

 こうした日本商船団の動きにナポレオンは激怒したが、制海権がないため阻止不能だった。

 日本商船団の荷揚げを阻止するため、ナポレオンはヨーロッパ各国の港へ軍を推し進めることとなり、占領地の激しい抵抗にあって徐々に消耗していった。

 例えば、イベリア半島の泥沼の戦いであり、壊滅的な敗北となったロシア遠征でもあった。

 特にロシア遠征の失敗は致命傷となり、第六次対仏大同盟が結ばれライプツィヒの戦いでフランス軍は大敗、フランス国内になだれ込んだ同盟軍がパリを占領した。ナポレオンは退位し、エルバ島へ追放された。

 その後、ナポレオン追放後のヨーロッパの国際体制を話し合うため、オーストリア帝国首都のウィーンで国際会議が開催されるが、日本も戦勝国としてこの会議に参加している。

 この会議には日本代表として松平定信が参加している。

 ウィーン会議において定信はヨーロッパ各国の利害調整に口を挟まず、戦争で得た利益を確定させることのみに注力した。独立を回復したオランダにスマトラ島の割譲を改めて確認し、カルカッタの和約で示された日本勢力圏をヨーロッパ各国に承認させた。

 また、ロシア帝国とは正式な領土確定条約を結び、レナ川を境に東を日本の勢力圏としてロシアに認めさせた。

 以後、ロシア帝国はシベリア進出を中止し、インド洋への南下政策をとることになる。

 その後に起きたナポレオンのエルバ島の脱出や、パリ入城、ワーテルローの戦いついては割愛するがナポレオンの復活は阻止され、ヨーロッパはウィーン体制において安定を見たのである。




 松平定信は、ウィーン会議から勝利の立役者として日本に凱旋し、その後も数年間、老中首座に留まって政治を差配したが、後に体調不良を理由に職を辞している。

 この時、主君家斉や幕閣の誰一人、定信を遺留するものはいなかった。

 特に将軍家斉は定信に一瞥もくれなかったと言われている。

 家斉が定信を無礼討ちにしようとしたことは2度、3度ではなかったという。

 しかし、ナポレオン戦争に対応できる人間が他にいなかったことやスマトラ島割譲、ボルネオ北部の獲得の功績は無視できるものではなかった。

 定信が老中を去ると同時に、定信派の幕閣も一斉に罷免され、以後、側用人の多用した家斉の親政が始まる。

 ところが、家斉自身が収賄を公認するなど、賄賂が横行し、政府腐敗が深刻化する。

 定信の治世に対する庶民からの悪評は最後まで変わらなかったが、ナポレオン戦争の特需により政権前半のデフレ不況を吹き飛ばすほどの好景気となったいた。

 また、定信自身も行き過ぎた綱紀粛正で政治生命が危うくなった経験から、政権後半は黙認の形で統制を緩めている。

 ただし、市民革命につながる思想については徹底的に弾圧し、悪名高い梵書を行った。

 これは自分自身がヨーロッパに渡って体感したフランス革命思想を恐れた為と言われている。梵書もヨーロッパから帰国後に行われている。

 民主主義、自由、平等、特権階級の廃止などのフランス革命思想に対抗するために儒学や朱子学、国学の教育を徹底するようになるのも同じ頃である。

 しかし、同時にナポレオン法典を持ち帰って詳細に研究させるなど、矛盾した対応をとっており、定信の真意がどこにあったのか分かりにくい。

 革命思想の流入は不可避と考えて、幕藩体制と新思想の融合を考えていたという説もある。

 また、ナポレオン法典と同時に定信が日本に持ち込んだものに蒸気機関がある。

 ウィーン会議後に立ち寄ったイギリスにおいて日本の政治指導者として初めて鉱山で使われていた排水ポンプ用の蒸気機関を見学している。

 この時、定信は強い衝撃を受け、帰国後に蒸気機関の導入を指示した。

 フランスの革命思想を恐れると同時にイギリスで進む産業革命にも定信は強い脅威を感じていたらしく、日本にもその力を取り入れて対抗することを考えたようである。

 しかし、定信が最も恐れたのは、先進的なヨーロッパの軍事力で間違いないだろう。

 ワーテルローの戦いのに参加した兵力は20万、ライプツィヒの戦いはさら多く55万とも言われている。古の関が原の合戦でも東西併せて10万に過ぎない。

 ナポレオン戦争で動員したフランス軍は述べ350万に上っており、江戸幕府には逆立ちしても動員不可能な大兵力であった。

 そして、ナポレオンのような天才的な指導者を頂いだフランス軍も最後は四方八方から迫る大同盟軍の大軍にすり潰されて壊滅した。

 ヨーロッパの戦いが終わった後、それらの兵力が日本に向かうことを定信は極度に警戒し、対イギリス戦で動員した兵力をそのまま常備軍として再編成させている。

 それまで幕府には常備軍がなく、動員は戦国時代さながらの旧式極まる方法で行われた。

 また、それらを適切に指揮統制する組織もなかったのである。 

 故に、幕府はその手本を破れたフランス軍に求め、嘗てナポレオンの元で戦った将兵が来日して日本最初の近代軍隊の編成を手伝っている。

 オーギュスト・マルモンのような多額の給金を要求して定信を辟易させた者もいるが、彼らが組み上げた幕府陸軍は、フランス大陸軍の完全コピーという当時の最先端のものであった。

 他にも、砲兵・騎兵・歩兵の連携(三兵戦術)、輜重の重視、指揮官の養成など、その後の近代戦争、近代的軍隊の基礎が築かれた。

 これらの改革には多額の資金が必要であり、財政規律論者の定信にとっては許容しがたいほどの財政支出となったが、一両も削ることなく全ての予算要求を承認している。

 如何に、定信がヨーロッパ諸国の軍事力を恐れていたのかが伝わる逸話である。

 そして、この時、近代軍隊を揃えられなかったインドや清といったアジアの大国がどうなっていったのか考えると定信の先見の明は明らかだろう。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] 「梵書」だと、「サンスクリット語文献」になってしまうかと。 → 焚書
[良い点] つまりこの世界のカリフォルニアでは初夢の縁起物は一富士(=ロッキー山脈)、二鷹(=白頭鷲)、三ディエゴなんですね、分かります!(意味不明)
[良い点] 近年だと悪役にされがちな松平定信に活躍の場が与えられていることは良いと思いました。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ