表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/44

講和会議、そして未来へ

講和会議、そして未来へ



 第二次世界大戦において、戦闘状態の停止を意味する停戦条約が発効したのは1945年1月15日となる。

 この日が概ね、日本合藩国において勝利の日として、認識されている。

 太平洋にまたがる巨大領域国家である日本合藩国で最大16時間の時差が生じるため、1月16日という地域もあるが、歴史の教科書には1月15日と記載されることが多い。

 ラジオ放送を通じて、アメリカ軍の降伏を知った江戸では、全市街地でお祭り騒ぎとなり、この日のために密かに準備されていた紙吹雪が撒き散らされ、提灯行列、ちんどん屋が街路に繰り出して勝利を祝った。

 呂宋では花火が打ち上げられ、街中でお祭りさわぎとなり、そのままその日は休日ということで全員が家に帰り、そのまま1月15日は国民の祝日となった。

 合藩国の全ての地域で似たようなことが起きていた。

 北米の桜女市や阿羅斯加の大泊地、シベリアの浦塩、呂宋のマニラでもお祭り騒ぎとなり、復興の続く南天の新上田でも人々が喝采をあげ、肩を抱き合って勝利の喜びに浸った。

 だが、しかし、1月15日に発効したのは停戦条約であり、それは期限付きのものだった。

 正式には戦争状態は終結しておらず、講和の条件を話し合うための会議を開催しなければならなかった。

 問題はその会議の場所だが、ナチス・ドイツはドイツ民族の首都であるゲルマニア(ベルリン)を主張して譲らず、枢軸最強の日本合藩国は江戸での開催を望んでいた。

 日独は一歩も譲らず、講和会議の開催地を定めることは容易なことではなかった。

 また、この会議に集う膨大な関係者の数を考えれば、どこでもいいというものでもない。

 ウィンザー会談のような枢軸国の内輪の話し合いではなく、第二次世界大戦に関わった全ての国が集うのだから、その関係者は膨大な数にのぼる。

 もちろん、それらを支援するスタッフの数も考慮しなければならず、収容施設だけでも簡単に候補地を決められなかった。警備の問題もある。

 世界大戦の講和会議のような大規模な国際会議を開催できる場所というのは存外に少ないものなのである。

 そこで日独の面目を保ちつつ、大規模な国際会議を開催できる場所となると、戦前にそうした会議が繰り返し開催された国際連盟の本部があるスイスのジュネーブしか残らなかった。

 中立国のスイスは、国際連盟本部に再び各国代表が戻ってきたことを歓迎した。

 もちろん、それは国際正義の復活ようなおめでたいお題目を信じているからではなく、そうした国際会議が開催される要地を国内にかかえておくことで、自国の安全保障を強化するためである。

 会議に参加したのは、日独伊仏露英米のような列強国の他に、枢軸に加盟していた東欧各国やハイチやキューバのような南米の連合国も代表を送り込んできた。

 アジアから日本以外に中華民国、朝鮮王国、タイ王国も参加している。

 さらに王政復古を果たした満州王国の姿もあった。

 アメリカ主導で造られた満州共和国は日本軍の占領統治の間に、日本に亡命していたラストエンペラー溥儀の弟、溥傑が王政復古を宣言。満州王国を再興していた。

 この満州王国の会議参加で、まず一悶着が起きた。

 中華民国が満州王国に会議参加資格がないことを強硬に申し立てしたのである。

 蒋介石は、少なくとも第二次大戦が勃発した当初に独立国であったことが会議参加の最低条件であると主張した。

 だが、そうなるとナチス・ドイツ占領下で独立した旧ユーゴスラビア王国の各国の扱いが大問題になる可能性があった。

 デリケートな旧ユーゴ各国の扱いにはドイツも苦慮しており、セルビアやクロアチアは独立をアピールする場として、ジュネーブ会議に臨んでいた。

 蒋介石はドイツの支持を当てにしていたが、ドイツからしても蒋介石の異議申し立てなど迷惑極まりない話であり、一顧だにされなかった。

 また、中華民国はあまりにも軍事的貢献が少なすぎて話にならないのが実情と言えた。

 何しろ、1945年1月15日に停戦が発効したその日も、北京の主はアメリカ軍の支那派遣軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥だったからだ。

 アメリカ軍が満州から叩き出され、中国大陸で制空権も制海権も完全喪失して孤立していたにも係わらず、中華民国は北京を奪い返すことが出来ていなかった。

 もちろん、日本が戦後を見据えて故意に支那のアメリカ軍への攻撃を控えていたということもあるが、それにしても中国軍は弱すぎた。

 結局、中華民国は最後まで満州王国の参加を認めず、中国への帰属確認を各国に要求し続けることになる。

 そうした対応は日本の神経を逆なですること甚だしかった。

 日本はアメリカから奪い返した満州利権を手放す気など全くなく、満州王国の復興と再支配は規定路線だった。

 アメリカという共通の敵がいなくなった途端、日中は対立の道を歩み始めていたが、それは日独にしても同じだった。

 ジュネーブ講和会議の主題は、枢軸国と連合国の戦争状態を終わらせることだったが、もう一つの主題があり、それは枢軸という同盟関係の解消だった。

 アメリカという共通の敵がいなくなった今、ドイツと日本の協調関係などありえなかった。

 日本合藩国においては、


「ドイツはクソだ」


 というのは一般市民から政財界の重鎮にまで共通する普遍的な法則じみたものがあった。

 何しろ、今次大戦を戦う羽目になったのは、先の大戦でドイツ帝国が日本に断りもなく勝手に降伏したことがそもそもの原因だった。

 ドイツの裏切り単独降伏さえなければ、あと1年かそこら戦えていたら、先の大戦は最低でも引き分けには持ち込めたのだ。

 先の大戦で失った領土回復に費やした450万柱の犠牲は、そもそもドイツに原因があるというのが日本人の共通認識である。

 さらに独ソ不可侵条約のような日本への裏切り。対ソ戦奇襲開戦のような露骨な侵略など、ドイツは悪行の数々を積み増ししており、日本のドイツ不信は頂点に達していた。

 それでも何とかこれまで同盟関係が破綻せずやってこれたのは、アメリカ合衆国のような共通の敵があったからだ。

 アメリカが降伏した今、ドイツと日本が別れるのはごく自然の、当たり前の成り行きだった。

 だが、日独も相互不信と対立によって連合国に付け入る隙を与えるのは避けるべきという共通認識はあり、講和会議の席では表向き友好ムードが演出されることになる。

 こうした日独の冷え切った協調関係と会議進行をムッソリーニは、


「仮面舞踏会」


 と後に表現することになる。

 講和条件の中で、比較的すんなり決まったのは、賠償問題だった。

 先の大戦の反省から、敗戦国に過酷な賠償金を課すことが愚かな行いであることは明らかであり、相互不賠償が早々に決まることになる。

 揉めたのは領土問題だった。

 ドイツは占領したポーランドを自国領土に編入するのみならず、旧ソ連領をも自国の領土に編入し、東方植民地と呼称してロシア帝国の神経を逆なでしていた。

 ロシア帝国は戦争状態終結後、ドイツ軍は当然、撤退すると考えていた。また、自国領土を東方”植民地”などとするのは到底許せることではなかった。

 既にロシアにはドイツ占領下から脱出した、或いは逃げ出してきたロシア人が溢れていた。

 ドイツ占領下の旧ソ連領で何が行われているかは不明だったが、何か恐ろしいことが起きていることは明らかだった。

 ナチス・ドイツにとって東方植民地の獲得はナチズムの戦争目的そのものだったことから、この点は国家の核心的な利益として一歩も譲らなかった。

 最終的にドイツとロシアの領土問題は交渉決裂となり、二国間での継続協議となる。

 そうしなければ、とても講和会議が纏まらなかった。

 だが、継続協議したところドイツが譲る道理はなく、失地回復を狙うロシアと早い段階での戦争勃発は不可避というのが大方の予想であった。

 以後、ドイツの東方領土は、旧エストニアのナルヴァから、モスクワ全面のカルガ、ツゥーラ、ボルゴグラード、アストラハンを結んだ軍事占領地よりも西に広がることになる。

 直線距離にして2,000kmにおよぶ長大な国境線で、ロシアと向き合うことになったドイツは、その軍事負担に喘ぎ続けることになるのだが、それは少し先の話である。

 ドイツに次ぐ領土を得たのはイタリアだった。

 ローマ帝国復活を掲げるムッソリーニに希望により、ギリシャや旧ユーゴ王国沿岸、英領エジプトの割譲を受けた。

 だが、これらの広大な、そしてあまり富裕とはいえない領土をイタリアの限られた経済力で維持できるのかは、神のみぞ知るところである。

 フランスはアルザス・ロレーヌ地方(ドイツへ割譲)とニース地方(イタリアへ割譲)を失ったが、途中から枢軸国として参戦したため海外領土の喪失は最小限で済んだ。

 南太平洋上にあった僅かな島嶼領土を日本に割譲させられたが、それだけで済んだ。

 イギリスはスペインにジブラルタルを割譲し、エジプトを失った。さらにインド独立を確約させられている。

 だが、即時独立とはならず、他のアジア・アフリカ植民地も確保することができた。

 これはイギリス外交の勝利というよりは、ドイツのヒトラー総統の意向が強く働いた結果だった。

 ヒトラーはインド独立には一貫して反対の立場をとり、他のアジア植民地の独立にも反対だった。

 彼の理屈によれば、


「選ばれし優良種たるアーリア人種に管理運営されて、初めて劣等人種は永久に生き延びることができる」


 となっており、劣等人種の独立国家など全く考えられなかった。

 ナチズムの理屈のもと、ポーランドやバルト三国、ウクライナなど地図から消された国家は数多い。

 イギリスと共に最後まで抵抗したオランダやベルギー、ルクセンブルクは、ドイツ大管区となり地名さえ地図から抹消された。

 ヒトラーにとっては、これらの地域は地図の染みか、些細な誤りの類であった。

 オランダの広大なインドネシア植民地やアフリカのベルギーの植民地はドイツの植民地公社の支配するところとなった。 

 日本があっさりとアジアの欧米植民地を手放し、ドイツに引き渡したことは、国内に強い不満を呼び込むことになる。

 特にアジア主義を掲げる右派はアジアの同胞を見捨てるのか、と政府攻撃を強めた。

 だが、政威大将軍豊臣英頼は、1914年の日本合藩国の領土を確保することだけを求め、それ以上の領土要求は一切否定した。

 満州王国についても、元は日本の衛星国であり、それを復活させるだけのことで、失地回復の一貫であるという認識だった。

 広大な北米の占領地は、非武装地帯や飛行禁止区域を設定しただけであっさりとカナダとアメリカ合衆国に返還していた。

 日本から不賠償の交換条件として過酷な領土要求を覚悟していたカナダ及びアメリカ政府の外交担当者は拍子抜けしたという。

 ヒトラーやムッソリーニも日本の態度は理解できなかったとされる。

 ある者は、


「既に日本は広大な領土を持っているのだから、これ以上の領土は管理できないと考えているのではないか?」


 と考えた。

 確かに、1914年の日本合藩国の領土は、全地球の面積16%に達していた。

 これは古のモンゴル帝国の全盛期に匹敵するものである。

 しかし、近代的通信産業や航空機などの高速移動交通手段が発展した20世紀半ばにおいて領土の広さは極端な不利ではない。

 では、なぜ日本が新たに領土獲得を目指さなかったのかといえば、


「正義の確立」


 にあったと言える。

 失地回復以上の領土を求めることは、日本の戦争正義を毀損する恐れがあった。

 第二次世界大戦当初から正義の戦争というのは日本合藩国は宣戦布告と外交慣例に則り48時間の猶予の後、堂々と参戦していた。

 日本は領土も賠償も求めなかったが、戦争の正義については貪欲に追求していた。

 アメリカ合衆国のいうところの「ジャスティス」こそ、国民のほとんどが曖昧な無神論者で一神教を持たず、天皇制も最早意味を失い、地球最大の大洋によって国土を分断され、21世紀には6億人に達する膨大な国民を一つに纏めるシンボルだった。

 そのためなら、不賠償や領土要求の放棄など、安いものだったと言える。

 日本合藩国がアメリカ合衆国に要求したのは、賠償でもなく、領土でもなく、求めたものはただ一つ、罪人の引き渡しであった。

 即ち、1941年12月8日の対日奇襲上陸作戦の立案と実行に関わった全ての政府、軍事関係者に対する、日本による軍事法廷の開催だった。

 所謂、江戸国際軍事法廷である。

 ちなみに罪状は、平和に対する罪だった。

 この要求が受け入れられなければ、戦争再開も辞さないという強硬な態度で、日本はアメリカに受け入れを迫った。

 だが、アメリカの正義全否定を突きつけられたトルーマン大統領は、即座に拒否して交渉は暗礁に乗り上げる。

 これに対する日本の対応は速やかなものであった。

 その日、日本代表団の宿泊するホテルから、秘話装置なしの通常通信の電話で、


「凶鳥、凶鳥、凶鳥」


 という短い通話が行われた。

 1時間後、北米の有砂藩の無人地帯の砂漠で、人類史上初の原子核分裂爆弾が起爆した。

 結果は、成功。

 枢軸、連合問わず、全世界の報道陣を招いて行われたこの核実験により、日本は世界初の核保有国となった。

 たった一発で大都市を消滅させる、一切の抵抗が無意味となる大量破壊兵器の誕生だった。

 なお、アメリカ合衆国も核兵器を開発していたが、戦況悪化により中止されていた。

 一大センセーションが世界を駆け巡る中、講和会議の席に戻った豊臣英頼はトルーマンに対して、死刑執行人のごとき冷酷さを以って再び、前回と同じ要求を行った。


「・・・さもなくば、1週間に1発ずつ、米国の何れかの大都市に原子爆弾を投下する」


 と言い添えて。

 トルーマンは唖然として二の句が告げず、ムッソリーニは冗談を言っていると思って笑い、フランス代表のペタン元帥は日本語が分からなかったので沈黙し、イギリスのイーデン首相は頭を抱えたという。

 そこには恐ろしい沈黙があった。

 雄弁で沈黙を知らないヒトラー総統だけが辛うじて、


「フジヤマ・・・ハラキリ、ゲイシャ。サムライ・・ヨウカイ・・・クビオイテケ」


 と意味不明なつぶやきを漏らしたという。

 1945年1月のアメリカ合衆国にこの要求を拒否する力はどこにも残されていなかった。

 最終的に126名の逮捕者リストが作成された。リストトップは満州共和国元帥ダグラス・マッカーサーであった。

 マッカーサーは逮捕前にピストル自殺を図ったが失敗。手術によって一命を取り留め、裁判に出席して法廷闘争を戦ったが、判決は死刑であった。

 なお、マッカーサーと同じく逮捕リストに名前が載ったジョージ・マーシャル陸軍参謀総長は、逮捕前に自殺したため裁判には出廷していない。

 126名中、死刑になったのは7名で、26名が終身刑、他は有期刑だが無罪は一人もいなかった。

 アメリカ合衆国は江戸国際軍事裁判の結果受け入れを条件に講和を認められ、平和に対する罪を犯した国家という消えない烙印を押されて、戦後の歩みを進めることになる。

 後に、講和会議の総括として、


「ドイツは講和会議で領土得た。日本は大義を得た」


 とされるのはこのためである。

 そして、日本は大義在る超大国として、世界の半分に君臨することになった。

 講和会議から数年後、日独の相克が深まり冷戦という言葉が新聞に載るようになった頃、この日本を中心とした世界の半分の国々と東側諸国、東側陣営と呼ぶようになった。

 東側諸国には多くのアジア独立国が加わった。

 日本があっさり手放したアジアの欧米植民地にしても、何故か完全実働状態で大量の遺棄兵器が、戦中に日本軍から軍事教練を受けていた在地独立勢力の手に渡り、数年の独立戦争を経て次々と独立していった。

 インドネシアでは、ドイツ植民地公社に雇われたほとんどやる気のないオランダ人傭兵をスカルノのインドネシア独立軍が一掃していった。

 フランスは仏印から叩き出され、アジア各地に独立国が次々と誕生していった。

 独立が保留となった英領インドにしても、ドイツの支援を受けているにも係わらずイギリス軍は名誉ある撤退以上のものを得ることができなかった。

 なお、独立インドの初代首相には、チャンドラ・ボースが就任した。

 1954年には、独立したアジア諸国を包摂した環太平洋の巨大な国際条約、環太平洋経済協定(TPP)が発効する。

 TPPは日独冷戦激化を受け、経済協定から安全保障を含む軍事同盟へと発展していくことになる。後にロシア帝国も加入し、ドイツ・ロシア国境線に数万両の戦車を並べてドイツ軍を恐怖のどん底に突き落としたTPP条約機構軍の始まりである。

 植民地独立の波は、アジアからアフリカ・中東へと波及していくことになり、日本は優生主義・植民地主義を掲げるナチズム・ファシズム国家との相克を深めていった。

 欧州諸国は、戦後ほとんどが国家社会主義によるファシズム国家へと転落していき、1955年には、ヨーロッパ連邦(EU)が結成される。

 実質的には、ドイツによる欧州帝国であった。

 

「一つの家、一つの宗教、一人の総統」


 を掲げるヨーロッパ連邦は、アフリカ、中東の植民地護持を国是とし、


「民族自決、自主独立、人種平等」


 を掲げる日本合藩国とその同盟国との間で、世界を二分した。

 こちらはウラル山脈の西側にある国々として、西側諸国として世界史の政治的タームに記録されることになる。

 ドイツは旧ソ連の広大な占領地を東方植民地として支配していたことから、英仏の植民地主義とは相性がよく、戦争で疲弊した欧州諸国は、ドイツの支援を得て植民地護持に汲々とすることになる。

 そして、それが果たせないとわかるとナイジェリアや南アフリカやローデシア、コンゴ共和国のように白人優位のアパルトヘイト国家として独立していった。

 半世紀後、軍事負担に耐えかねたヨーロッパ連邦は、経済的に自滅し瓦解することになるが、それまで世界を二分する超大国として世界に君臨した。

 これはローマ帝国を除けば、常に分裂、内紛を繰り返してきたヨーロッパの歴史において統合と団結がなされた奇異な出来事であった。

 ヨーロッパ連邦が瓦解した後、ヨーロッパ各地で発生した凄惨な民族紛争を考えれば、半世紀もの間、極端に高圧的な方法だったしても欧州の統合が図られたことが如何に奇跡的だったか分かるだろう。

 この奇跡的な欧州統合の歴史について、多くの歴史家がその要因をドイツによる高圧的な支配体制にもとめてきたが、近年の歴史研究では否定されつつある。

 欧州統合の歴史は、外的要因によるもので、それは日本合藩国の圧倒的な力によるものだったとするのが近年の主流である。

 つまるところ、太平洋のほぼ全域を支配し、21世紀において6億人の人口を抱える日本合藩国の圧倒的な力を恐れた欧州諸国が生き延びるために統合の道を選んだという解釈である。

 第二次世界大戦において、ドイツやロシアの助けを借りつつも、白人最強国家であったアメリカ合衆国を打倒した日本合藩国は、欧州諸国が単独で対抗できる相手ではなかった。

 海軍力にしても全欧州を足しても、やっと日本と戦艦の数だけでは同等で、空母に至っては日本から貰ったもので充足している有様だった。

 日本海軍が本気になれば、単独で欧州全海軍を殲滅することさえ可能であった。

 アメリカ、イギリス海軍を壊滅させた日本海軍は、第2位のイタリア海軍を引き離して圧倒的な第1位であり、その軍事力は恐怖そのものであった。

 陸軍力にしても、最大1,200万人を動員して、数万両の戦車を並べてアメリカ合衆国を蹂躙した日本陸軍の戦力は、欧州には逆立ちしても用意できないものである。

 さらに究極の大量破壊兵器である原子爆弾を保有し、それを用いて躊躇なく軍事恫喝を行って、自国の敵と認定したものを一方的な裁判により抹殺した。

 

「ジンギスカンの再来」


 というのが、欧州から見た日本合藩国であった。

 日本軍は古来からヨーロッパの悪夢であった東からの異民族襲来そのものであり、それに対抗するには団結するしか方法がなかった。

 確かにモンゴル人と本国の日本人は顔貌がよく似ており、第一次世界大戦においては秋山好古による日本・モンゴル連合軍の長征があり、悪夢の下敷きは十分に整っていたといえる。

 一方的に悪夢の主役にされた日本人にとってはいい迷惑であった。

 ただし、こうした悪夢の連鎖と対立構造の成立の一方に日本の責任が全くなかったというのは早計であろう。

 アジア各地の独立戦争においても、日本から派遣された軍事顧問団の有形無形の援助は公然の秘密であり、日本がその力を奮うことに全く躊躇がないことは明らかだった。

 アメリカ軍の奇襲本土上陸を受けた日本は、それまで防衛的な国家戦略から、先制的な攻性戦略へと転換しており、安全保障確保のために全世界規模での政治・軍事介入を繰り返すことになる。

 1950年6月25日、日本の支援を受けて戦後復興を成し遂げたアメリカ合衆国は、突如、北米南部のアメリカ連合国へと侵攻。第二次アメリカ南北戦争が勃発する。

 アメリカという国家を完膚なきまでに焼き尽くした第二次南北戦争において、北アメリカの侵略の背景に日本の承認と援助があったことはヒトラー総統のみならず、欧州各国の指導者を震撼させたのは言うまでもない。

 アジア独立国や北アメリカを尖兵とした日本の侵略に立ち向かうには欧州は団結するしかなく、日本もまたそれに対して力の論理で向き合う以上、血塗られた冷戦構造へ向かうことは必然的であった。

 その中で、日本は第二次南北戦争や、満州紛争、中華紛争、アフガニスタン紛争など多くの戦場で血を流し、苦しみ続けることになる。

 だが、その苦しみこそ、21世紀唯一の超大国ニッポンという覇権国に至る生みの苦しみだったというのが歴史の記すところである。



 日本合藩国物語 完



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] インド人は主にアーリア人とドラビダ人でカースト上位はアーリア人ですよ [一言] めちゃくちゃ面白かったです!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ