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WWⅡ 終局

WWⅡ 終局



 ゼーレーヴェ作戦、それに連なる北海海戦或いはドーヴァー海峡海戦は枢軸国艦隊の圧倒的な勝利に終った。

 陸の防衛線こそ未だにドイツ軍の侵攻を防ぎ止めていたが、最後の航空燃料を使い尽くした航空部隊は機能停止しており、連合国軍はイングランド上空の制空権を完全に喪失した。

 これ以上の抗戦はもはや無益であり、イギリス本土を救うすべは連合国艦隊が壊滅したときに喪われていた。

 この時ロンドンに備蓄されていた小麦は、3ヶ月分を切っており、次の冬は越せない。


「イギリスは戦い尽くした」


 と、チャーチルが敗戦の弁を述べるのは当然のことだった。

 1944年8月27日、イギリスは枢軸国に停戦を申し入れた。

 イギリスが停戦、実質的な降伏を申し出たことは即座にあらゆる手段を以って全世界に伝わり、ベルリン、ローマ、江戸など枢軸国の主要都市は歓喜の声で満ち溢れた。

 誰もがこれで戦争が終わると考えたのである。

 人々は長い戦争に疲れていた。

 ドイツなど1939年9月から5年も戦っている計算である。

 アメリカ軍の奇襲攻撃を受けて怒り狂った日本人でさえ、この頃になると戦争がいつ終わるのか不安な面持ちをすることが多くなっていた。

 日本軍の死傷者は、民間人を含めて400万人を超えており、1945年の最終攻勢ではさらに300万人以上の死傷者がでるという観測であったから、不安は当然であった。

 復讐感情がないわけではなかったが、時間は多くの人々の冷静さを取り戻させた。

 毎日、身近な誰かが死んだり、障害者になって帰国するのを見れば、次が自分かと考えるのは当然のことであり、いつまでも戦争の熱狂に煽られていることはできなかった。

 そこへ飛び込んだイギリス降伏のニュースで、一気に戦争終結へ向けての流れが作られる。

 各国の政府関係者は、膨らみ続ける軍事費と戦時国債に恐怖しており、一日も早い戦争終結を望んでいたことも大きかった。

 特に戦前から綱渡りの経済運営を行ってきたナチス・ドイツは、国家レベルで粉飾決算を行って糊口をしのぐ有様だったから、なおさらだった。

 ヒトラーはしばしば数字、或いは現実を無視することがあったが、そのヒトラーをしてももはや無視できないほど債務が膨らんでいた。

 そこで、ヒトラーの呼びかけにより、枢軸国首脳がロンドン郊外のウィンザーに集まることになる。

 戦後世界の形作ることになるウィンザー会談である。

 この会談には、日独伊仏露の首脳が集まったが、実質的に日独のトップ会談による世界分割会議といえた。

 3日間続いた日独頂上会談、豊臣英頼とアドルフ・ヒトラーの直接対決の内容は21世紀現在に至るも非公開とされており、どのような話し合いが持たれたのかは不明である。

 だが、首脳達による集合写真で英頼が浮かべる笑みと、ヒトラーが妙に神妙な顔をして写っていることと、21世紀現在の日本とその友好国の版図の広がりを考えるとどちらが勝ったのかは明らかだろう。

 ドイツ軍が接収したイギリス王室の離宮、ウィンザー城で開かれた日独伊露仏による首脳会談はウィンザー宣言としてまとめられた。

 その内容を端的に表現すれば、


「軍隊の無条件降伏」


 であった。

 実際、イギリス軍は無条件降伏したがイギリス政府は存続しており、チャーチル内閣は瓦解したが外務大臣のアンソニー・イーデンが組閣して戦後処理に当たってた。

 ちなみに、イギリス降伏交渉で大問題になったのが、在英アメリカ軍の処理だった。

 今だに戦闘力を残したアメリカ陸軍20万がイングランド南部に展開していたのである。

 最終的に在英アメリカ軍の総司令官アイゼンハワーがイギリス政府の管理での拘禁を条件に降伏を申し入れてきた。

 アイゼンハワーは、これ以上の抵抗は無意味な人命の浪費と考えており、在英アメリカ軍の降伏を以ってイギリス本土の戦いは終結することになる。

 なお、降伏をよしとしなかったアメリカ海軍の残存部隊はスカパ・フローから脱出を図ったが、日本海軍の機動部隊に捕捉され大西洋上で全滅している。

 そのまま日本海軍はアイスランドの連合国軍基地を爆撃し、東海岸の沿岸各都市を空襲するなど大暴れであった。

 この攻撃で、ノーフォーク海軍基地とニューヨーク海軍工廠が壊滅した。1600機の艦載機で殴りかかられたら、どんな防備を施した基地であってもひとたまりもなかった。

 少し話が逸れたが、ナチス・ドイツをしてもイギリス本国の完全占領やイギリス抹殺のようなことは望んでおらず、政治的な解決が実現していた。

 日本にしても、民意は復讐を望んでいたが、国土の完全占領という形は望んでおらず、相手国を完全消滅させるような形の戦争終結は考慮の埒外だった。

 そもそもアメリカ合衆国は国中の各家庭に拳銃やらライフルやらの武器があり、占領地のほとんどでボウフラのようにパルチザンが湧いてくるような土地だった。

 現在の占領地でも、兵站線や補給基地への襲撃が相次ぎ、日本軍はその対応に追われていた。これがアメリカ全土占領となれば、占領コストだけで国家財政が破綻しかねなかった。

 さすがはボストンに紅茶を投げ捨てた国だったが、そうしたパルチザンを日本軍が例外なく国際法に則り処刑していたことは言うまでもない。

 交戦規則を満たさない民間人の武装勢力は全てゲリラとして処理され、容赦なく銃殺刑に処されるのが常だった。

 だが、そうした国際法に適した処置であっても、被占領民のアメリカ人達の憎悪を煽るのは言うまでもなく、前線はともかく後方は泥沼の様相を呈していた。

 勝っている日本軍にしても、このあたりで戦を手仕舞いにしたい塩梅といえた。

 そこで、この降伏条件であれば、十分に理性的だと言えるだろう。

 だが、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトの回答はやや右斜上を行っていた。

 ルーズベルトは徹底抗戦を宣言した上で、


「ウィンザー宣言の受け入れは、国民の審判を仰ぐ」


 と述べたのである。

 1944年晩秋、アメリカは大統領選挙の季節だった。

 ルーズベルトはアメリカ史上初の4選に臨んでおり、その選挙戦は終盤に差し掛かっていた。

 ニューヨークが連日爆撃され、シカゴが25万人の市民を巻き添えにして陥落したその日も、アメリカ大統領選挙戦は続いていたのである。

 日本軍の占領下にある地域でさえ、選挙ポスターが貼られ、地元の共和党・民主党議員による演説集会があったぐらいである。

 それを許可したのは、日本軍の占領地民生担当した日本海軍中将井上成美で、今日では民主主義の擁護者として高く評価されているが、当時の評判は散々だったという。

 大多数の日本人は、


「そんなことしている場合か?」


 と考えていたのは、無理もないことと言える。

 実際に、当のアメリカ人の多くもそう考えていた。選挙に費やされた予算を使って、対空砲や戦闘機を作る方がよほどマシだった。

 だが、1944年11月7日の投票は日本軍の激しい戦略爆撃下で強行された。

 選挙会場の幾つかが爆撃で吹っ飛んだりもしたが、投開票はその日のうちに行われている。

 アメリカ民主主義の底力といえばそれまでだが、その結果は無残なものだった。

 1944年の大統領選挙は、ウィンザー宣言について再交渉すると述べつつも枢軸国との即時停戦を掲げた共和党のトマス・E・デューイが敗れ、徹底抗戦を掲げた民主党のルーズベルトが勝利した。

 アメリカの民意は徹底抗戦を選択したのだ。

 と、考えるのは早計である。

 軍事的に完敗していたとはいえ、アメリカの一般市民に枢軸国の軍事的な脅威がどのようなものか正確な理解していたとは言い難い。

 マスコミは実質的な報道統制により正確な戦況を市民に伝えることを放棄しており、誤った情報が氾濫していた。

 一方的なワンサイドゲームだった北海海戦にしても、架空の戦没艦を作り出し、日米相打ちのような書き方をしているほどである。


「戦艦ヒデヨリ沈没!」


 というのは、1944年8月13日のニューヨーク・タイムズの見出しである。

 もちろん、戦艦ヒデヨリなどという軍艦は日本海軍には存在しない。 

 また、降伏か、徹底抗戦か、という究極の二者択一で、降伏を選べる人間は少ない。

 人には体面や建前というものがある。

 日本軍の無差別都市爆撃で大量の一般市民が死亡していたアメリカには報復論が渦巻いており、理性では降伏したくても、感情面で降伏に投票するのは実質的に不可能だった。

 日本軍の爆撃で焼き殺された幼児や幼女の写真が新聞に載り、それを見て怒り狂った人々が武器を手に一億総ミニットマン(独立戦争時代の民兵)になろうと叫んでいたのが当時のアメリカ世論である。

 市民の怒りは、身近な隣人だった人々にも及んでおり、日本軍のスパイとして黒人や中国系アメリカ人が私刑に遭い、一部の地域では虐殺されていた。

 特に人種差別が根強いアメリカ南部では、木に吊るされた中国人や黒人の死体が日本軍の進軍先で次々と見つかり、日本兵を恐怖のどん底に陥れた。

 また、


「そもそもこのような大事な話を選挙で決めていいものだろうか?」


 と多くの人々は首を傾げていた。

 実際、これならくじ引きで決める方がまだマシである。

 なぜならば、この問題はどのような選択をしたところで、責任追求が不可避であるからだ。

 徹底抗戦を選択したところで、軍事的に勝利の見込みはなく最終的な破滅は明らかである。

 であるならば、その時の破滅的な損害について誰がその選択の責任を負うのだろうか?

 ルーズベルトに投票した選挙民がその責任を負って、損害を賠償し、社会的な制裁を受けてくれるのだろうか?

 もちろん、そんなことは不可能である。

 それを強制する方法がない。国民の半数近くを制裁することなど不可能だ。

 逆に降伏を選んだところで、その後も交渉がうまくいく保障はなく、過酷な条件での降伏となる可能性が高かった。

 その時、発生する損失、損害について、誰が責任を負うのだろうか?

 これまた、責任追及など不可能な話である。

 国論を二分するような大問題は、どちらの選択肢を選んでも必ず相応にデメリットが発生することが避けられず、そうなったときに責任追及は必至である。

 そして、その責を負うのが政治であり、時の指導者であった。

 その点において、チャーチルは色々問題があるにしろ、責任ある指導者と言えた。

 彼は枢軸国に降伏を申し入れることをほぼ独断で決め、イギリス国王の裁可も仰いでいない。全てを自らの判断に押し込め、降伏という決断の責任を自分ひとりで引き受けた。

 ルーズベルトは責任から逃げた。

 敗戦も含めて、ルーズベルトの評価が歴代大統領最下位であるのは当然といえる。

 彼は選挙民に判断と責任を丸投げしたのである。また、選挙民もそれを良しとしてしまった。

 一部の心ある人々は、鋭くルーズベルトの無責任を追求したが、大勢の中でかき消されてしまった。

 これは民主主義の誤用であり、乱用である。

 故に、アメリカ合衆国はその報いを受けることになる。

 選挙結果が公表された直後から、アメリカ南部で分離独立運動が先鋭化したのである。

 これは過去に繰り返されたことだった。

 アメリカ南北戦争の原因の一つとなったカンザス・ネブラスカ法である。これは住民主権の考え方を取り入れていた。各準州の住人が自由州を選ぶか奴隷州を選ぶかを決められるというものだった。

 一見すると正しいことのように思えるが、これは政治家が判断すべきことを住民投票に丸投げするだけの最悪の選択だった。

 奴隷制の維持、廃止という当時のアメリカのおいて高度に経済的、政治的な問題を住民投票にかければ、それが国家を2分することになることは容易に想像できる。

 結果として、住民投票により奴隷制廃止、擁護と地域ごとにアメリカは分裂の道を歩み、アメリカは南北戦争に至った。

 そして、1944年にも同じことが起こった。

 比較的戦争被害の少ないアメリカ南部諸州がアメリカ合衆国からの離脱を宣言し、枢軸国との即時停戦を申し入れたのである。

 アメリカ南部諸州はこのまま戦争が続けば、日本軍による国土全面占領さえありうるという恐怖に襲われたのだった。

 南北戦争後もアメリカには人種差別が根強く残り、黒人の公民権さえ認められていない状況である。特に南部の差別は熾烈を極めた。

 あまりの差別の酷さに、合藩国に逃亡した奴隷も多かった。

 そうした逃亡奴隷の子孫が合藩国陸軍に在籍し、最高位では陸軍大将として活躍していることはアメリカ南部にとって悪夢だった。

 彼らは報復を心の底から恐れていたのだ。

 これまで支配者であった白人の上に、黄色人種の日本人が支配者として君臨し、かつて自分たちがやったことを今度は自分たちが行うのではないか?

 自分たちが何をやってきたか知り尽くしているが故に、その恐怖は凄まじいものだった。

 南部では黒人や有色人種の反乱を恐れて、予防拘禁や州兵や警察による”処分”さえ進められており、それが日本軍によって幾つか露見していたこともまた南部の人々を恐怖させることになる。

 そして、思い詰めた果てがアメリカ合衆国からの独立による戦争からの足抜けだった。

 このような事態はウィンザー宣言の想像の埒外だった。

 そのため、幕府の対応は一瞬遅れることになる。

 機先を制したのはナチス・ドイツで、一方的なアメリカ南部(アメリカ連合)の申し出を受け入れ、その独立を承認した。

 これには南部で活動していたアメリカ白人社会主義団結党が一枚噛んでいたとされる。

 白人至上主義を掲げるアメリカ白人社会主義団結党は南部によくある右翼団体のサークル活動のようなものだった。だが、ナチス・ドイツとのつながりを得てから党勢を拡大。連邦議会に議席を持つことはなかったものの、アメリカ南部に浸透していた。

 南部独立にも、アメリカ白人社会主義団結党は主導的な役割を果たしている。

 その活動資金がナチス・ドイツの一般親衛隊から出ていたことが後の情報公開で明らかになったが、ナチス党そのままの彼らの格好を見れば、情報公開を待つまでもなく背後に誰がいるのか容易に想像がつくものだった。

 アメリカ連合の独立により、ヒトラーは人種差別で意見を同じくする仲間を新大陸に得たのだ。

 日本の対応はやや遅れたが、アメリカが分裂することは戦後パワーバランスを考えれば好ましいことで、アメリカ連合の裏切りを承認することになる。

 おさまらないのは裏切られたアメリカ合衆国(北部)だったが、既に五大湖周辺の工業地帯は壊滅状態で、ニューヨークに爆弾の雨が降る状況では如何ともしがたかった。

 アメリカ南部の分離独立という大事件の最中でも、日本空軍の重爆撃機の定期便はいつも通りの任務をこなしていた。

 1944年12月8日は、アメリカ軍の奇襲攻撃からまる3年という記念すべき日だったので、ニューヨークに述べ3,600機の爆撃機を送り込み、焼夷弾及び通常爆弾5キロトンを投下。12万人を焼き殺し、誤爆で自由の女神が吹き飛んだ。ウォール街は完全に焦土と化し、アメリカの株式取引は全面ストップした。

 また同日は、日本海軍の空母機動部隊がボストンに現れ、空爆の後、戦艦7、巡洋艦8隻による無差別砲撃で、7万人の一般市民が死亡。ボストン港に停泊中のコンスティチューション (帆走フリゲート)が誤爆により破壊された。

 日本軍は文化的価値の高い遺跡や遺物に戦火が及ぶことを極めて警戒し、歴史的建造物がある地域への攻撃を控えていたが、誤爆なら仕方がなかった。

 戦況は八方塞がりだったが、ここでアメリカ合衆国に幸運が訪れる。

 極度のストレスにルーズベルト大統領の心臓が耐えられなくなり、1944年12月28日に心臓発作で彼は世を去ったのだ。

 大統領に昇格したハリー・S・トルーマンが最初にしたことは、情勢急変を受けてという前置きのあと、ウィンザー宣言受け入れの申し入れであった。

 これを以って、第二次世界大戦は終結に向かうことになる。




 

次週、最終回

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