亨保のエクソダス
亨保のエクソダス
享保元年(1716年)、八代将軍徳川吉宗が将軍職に就任した。
以後、吉宗は幕政改革に努め、その在位期間の年号にちなんで亨保の改革と称せられることとなる。
この改革は江戸幕府の大きな転換期となり、歴史研究上、それ以前の時代と明確に区分される。
ヨーロッパの歴史研究家においては、徳川朝第二帝政期と表現されることも多い。
八代将軍となった吉宗は紀州藩主時代から英邁な君主であると知られており、同時に豪運な人物でもあった。
何しろ、四男の生まれでありながら父と兄二人の相次ぐ死による藩主就任であり、普通に考えれば一生を部屋住みで終わった人物である。
また御三家筆頭の尾張家は藩主の早逝が相次いで早々に将軍後継レースから脱落しており、紀州家が徳川宗家を相続したことは当時の人々にとっても意外な結果であった。
そのため、吉宗の将軍就任には陰謀論が囁かれることになった。
7代将軍家継の死因は風邪をこじらせた上の急性肺炎だったが、肺炎に効果的な抗生物質があるにもかかわらず家継は命を落としており、これも不自然である。
家継の死は毒物による暗殺ではないかという噂は根強く残った。また家継の墓は後に改葬される際に綿密な調査が行われているが、遺骨が全く残っていなかった。
雨水流入により溶けてしまったという説明も不可能ではないが、遺骨に残留する毒物が検出されることを恐れた吉宗が遺骨を粉砕して処分と考える歴史研究家は多い。
とはいえ、全ては状況証拠に過ぎず、確たる証拠もないことから、ここでは吉宗はひたすら幸運な男であったとして話を進める。
亨保の改革とは結論から言ってしまうと、海外植民地獲得政策に尽きる。
これは人口爆発により日本列島の国土開発が限界に達したことによる不可逆的な結論であった。
亨保年間に編纂された人別帳(戸籍)によると18世紀初頭には、呂宋、台湾を含めた日本全国の人口は推定で5,000万人に達していた。
江戸初期、戦国時代末期の日本の人口は推定1,200万人であったとされるので、100年で人口が約4倍に膨れ上がった計算となる。
なお、鎌倉時代の日本人口は推定約700万人で、それから500年後の江戸時代初期に漸く1,200万人である。500年かけて倍増した人口が、次の100年で4倍に増えたのだから、この時の人口増大は日本史において際立ったものである。
この人口爆発の背景は複合的なものであるが概ね以下のとおり集約される。
1 元和偃武による天下太平の到来。死因としての戦争の根絶
2 連作が可能な稲作の優位性
3 抗生物質普及による感染症の制圧
4 牛痘による天然痘の制圧、麦飯奨励による脚気根絶
5 印可芋、唐芋、唐土、落花生の生産拡大
6 瀬戸内農法(四輪作)の普及による牧畜、畑作の生産力拡大
7 金肥(魚肥、下肥、硫安)利用による農業生産性の改善
1は徳川家の功績である。
2は稲作文化を有するアジア全般に普遍的な備わっているものであり、日本固有のものではない。米作の作付面積あたりの収穫量は小麦に対して圧倒な優位にある。中世を通じて小麦の作付に対する収穫は約5倍だった、これに対して稲は20倍以上に達する。21世紀現在、稲は130倍だが、小麦は24倍に留まっている。
3、4は江戸時代初期の大阪が発祥地となり、全国に広まった。豊臣秀頼とその取り巻きだった錬金術師による偶然の発明である。死亡率が高く伝染性の高い天然痘の制圧は日本人の平均寿命を大きく伸長させた。脚気根絶も同様である。また、山崎醸造所が生産するアルコール度数の高い蒸留酒は経験則からアルコール消毒液としての利用法が確立され、乳幼児死亡率第一位の産褥熱を激減させた。
5、6もまた大阪から全国に広まった。南米産の印可芋、唐土はスペインとの貿易によって流入したと考えられる。これらは水利の確保が困難で稲作に向いていない瀬戸内海沿岸に広まって、四輪作の普及にともなって高い食料生産性を達成している。落花生の導入は唐出兵の略奪により南京豆として国内に持ち込まれたことを起源とする。マメ科植物の落花生は地力回復力が高い上に家畜飼料や食料としても有用であり、四輪作の生産性をさらに高める重要な構成要素であった。
7も発祥の地は大阪である。世界初の合成化学肥料の硫安は銅製錬の副産物だった。魚肥の利用は、海外貿易の進展による造船技術の発展によって漁船の大型化し、漁獲量が増えたことによって一般化した。
これらの恵まれた環境の中、余剰食料の激増と衛生環境の改善が17世紀の日本に人口爆発を巻き起こした。
そして、亨保年間にある種の限界に達した。
つまり亨保年間の日本は、ハーバー・ボッシュ法による合成化学肥料の登場前において、マルサスの限界に達していたといえる。
すなわち、単位面積あたりの農業生産力が従来農法による限界まで拡張され、食料生産の限界から貧困が発生していた。
元禄年間末期においては既に奥羽での飢饉は慢性化していた。
食糧増産のための新田開発と燃料のための森林伐採は、日本中の山々を禿げ山に変えていきこれまで森林だった場所を広大な草原に変えいった。
そうした草原は家畜の牧草地となったが、もともと急峻な日本の地勢では保水力が失われた場所では大雨の際に洪水がおきた。
国土の砂漠化も進行し、21世紀現在では全く考えられないことであるが、発掘調査によると中国地方の鳥取ではその大半が砂漠に飲み込まれていた。
広大な鳥取砂漠に飲み込まれた鳥取藩はお家取潰となり、廃城となった鳥取城も砂に埋もれるままになったが、発掘調査によって当時の姿が明らかになりつつある。
なお、廃城になった鳥取城に一人残って切腹となった藩主の菩提を弔った居合斬りの達人がいたことはよく知られていない。
話が逸れたが、食料不足と居住環境の悪化による社会不安の増大は江戸幕府に抜本改革を決意させるに至るのである。
すなわち、海外植民地の獲得と余剰人口の移民である。
特に移民事業は、同時期におきた亨保の飢饉が深刻であったことから、強権発動、あるいは武力行使も辞さない強引なものであった。
とはいえ、にわかに海外植民地の獲得が始まったわけではなく、亨保年間以前に既に海外探索はある程度行われていた。
その目的は製糖のためにサトウキビ栽培地の確保と木材資源、毛皮、鯨油の調達であった。
サトウキビ栽培は、琉球、台湾、呂宋の独壇場であった。その利益は独占的なものであり、新たに砂糖販売に乗り出すには別にサトウキビ栽培地を得る他なかった。
砂糖貿易の巨利に目をつけた上方商人は、自費で多くの探査船を派遣して、太平洋各地を探索した。サトウキビ栽培が可能な土地を探して、スペイン領のマリアナ諸島や、その南に位置するカロリナス諸島を訪れた。そこからさらに南下して大南島に至っている。
ただし、大南島は熱帯雨林と湿地が続き、赤道の無風地帯でもあり、帆船時代にはほぼ利用価値がなかった。一応、日本語の標識などを立て領有を宣言しているが、宣言しただけで植民は行っていない。
探査船は現地人と苦労して交渉して水や食料を補給し、さらに南下してオランダ人が先に見つけていた南天大陸にたどり着いた。
最初に南天大陸を訪れたオランダ人は不毛の土地として植民を諦め、地図にその場所を記すにとどめているが、日本の探査船は砂糖栽培地を求めてさらに大陸沿いに南下。ついに農業が可能な土地を発見した。
また、周辺に大量のクジラが生息しており捕鯨に適している場所だった。
しかし、元禄年間には僅かな寄港地を設ける程度で南天への植民は行われていない。
この時点では南太平洋への植民はコストの面から否定されていた。まだ日本国内で開発できる地域が残っており、植民地建設は不要だったのである。
だが植民地可能な土地として幕府の御文庫には記録された
また、別の探査船はスペインのアカプルコ航路を用いて太平洋用を渡り、その後新大陸を北上した。
そしてスペイン人がカルフォルニアと名付けた場所にたどり着く。
既に少数のスペイン人が住み着いていたが数は多くないことや雪解け水を使用した灌漑により農業が可能な場所として幕府に報告が上がっている。
その後、探査船は新大陸沿岸を北上してアラスカまで到達している。
この次点では北太平洋航路はまだ開通しておらず、探査船は再び南下してカルフォルニアに戻ってる。そして、日本に帰国するために太平洋を渡る際に偶然、ハワイ諸島を発見した。
17世紀のハワイは未だ統一政権がなく、各島を族長が治める部族社会であった。
ハワイ人は日本船来航は神の降臨として受け止め、日本人船員が3週間酒池肉林の歓待を受けたという記録が残っている。
なお、ハワイはその寄港地としての有用性から幕府の関心を呼び、友好国のスペインやオランダにもその存在が秘匿された。
ヨーロッパがハワイ諸島を知るのは、日本船来航からおよそ100年後のことだった。
その頃には、ハワイ王家によるハワイ諸島の統一事業は完成の域に達し、徳川将軍家との婚姻同盟によって日本の勢力圏に組み込まれていた。
ハワイは新大陸よりも砂糖栽培に適していたこともあり、サトウキビ栽培を目的とした植民が元禄時代から行われている。しかし、規模は小さいものである。
新大陸側からの北方海域探索はメキシコ経由で行われたが、ユーラシア大陸からの北方海域探索は専門の探査船ではなく、捕鯨船がその役割を担った。
捕鯨は17世紀から19世紀を通じて日本の一大産業だった。
なお、捕鯨そのものは日本古代から行われてきた伝統的な漁業であった。しかし、元禄年間に発展した捕鯨は在来の伝統漁業の捕鯨と比べてかなり性格の違うものとなっていた。
食肉目的もあったが、近世捕鯨は工業原料や灯火用の鯨油を絞ることが最大の目的となっていた。特にマッコウクジラから絞れる油は潤滑油、ワックスとしては当時の最高品質のものであった。
元禄年間末期には日本沿岸で約1万頭の鯨類が捕殺された記録が残っており、遊泳力の低いセミクジラやミンククジラは絶滅寸前まで数を減らしている。
なお、捕鯨による採油は、獲ったクジラの脂肪部位を細かく刻んで船上に据えた炉と釜で煮出して行うものであり、大量の薪が必要不可欠だった。その為、捕鯨船は行く先々で上陸して、原木を切り出して補給する必要がある。
よって、捕鯨船の歩みは北方探査と同義であった。
日本列島沿岸での鯨類絶滅から捕鯨が困難になると捕鯨船は北へ進路を向け、蝦夷地沿岸、その先の樺太、千島列島、カムチャツカ半島に上陸して各地に足跡を残している。ロシア人と接触したのもこの頃であり、シベリア沿岸で最初の接触があった。17世紀末とされているが詳細は不明である。
そして、日の丸捕鯨船はクジラを追ってベーリング海を渡り、アラスカの発見に至る。
そのまま南下して新大陸沿岸で物資補給と鯨油の荷降ろしを行った船は再び北回りで捕鯨を行いつつ日本に帰国して鯨油を荷降ろしするようになった。
新大陸と日本を最短距離で結ぶ北太平洋航路の完成である。18世紀初頭のことだった。
北太平洋航路ならば、大型クリッパー(高速帆船)を使えば、江戸と新大陸を僅か1ヶ月で渡ることが可能となった。
亨保の改革はこうした下準備の上に大規模な植民政策を推し進めることとなる。
亨保5年(1720年)、最初の開拓令が下り、蝦夷地がその対象となった。
開拓令とは、幕府が20年間、開拓に要する費用を大名に貸付け、20年後から20年かけて開拓地からの税収でその費用を返済するもので、開拓令の指定地は基本、開墾自由の地としていくらでも領土を広げても勝手とされた。お手伝い普請や参勤交代も免除である。
開拓令の手本となったのは呂宋藩や台湾藩であり、現地の行政機構として海外藩を立藩する構想だった。
なお、開拓費貸付の担保として日本国内の領地は収公され天領となり、開拓に失敗しても帰還不能・・・というよりも現地で野垂れ死にだった。
ほとんどの大名はこのような過酷な命令を受けて幕府を心の底から呪ったが、中には自ら志願して海外に向かう大名家もあった。
後に雄藩として名を挙げる大名家であり、上杉家、毛利家、鍋島家、真田家、蜂須賀家、伊達家、これに豊臣家、加藤家を加えて八英家と呼ぶことになるのは、さらに120年後の話である。
蝦夷地に赴いたのは上杉家であった。
上杉家は関ヶ原の合戦で西軍につき、会津藩120万石から米沢藩33万石へ転封となり、さらに無嗣子断絶の危機に陥って半地15万石での相続となり、領土が10分の1となったにも係わらず家臣が120万石並に居るというある意味で恐るべき大名家だった。
上杉謙信とそれを倣った上杉景勝のカリスマといえば美しいが領土の10倍以上の家臣を召し抱えるのは尋常なことではなく、藩の財政はその当初から苦しく亨保年間には破綻状態であった。
そこに下りてきた開拓令はある意味、渡りに船であり、借金取りからの夜逃げ、高飛びと同義語と言えた。実際、江戸屋敷から一夜にして藩士全員がいなくなり、事態に気がついた借金取りが押し寄せたときには手遅れであった。
上杉家による北方開拓は以後、100年続く大事業となったが、9代目藩主上杉鷹山の時代には概ね完成の域に達する。首府として旭川を開き、函館の松前藩と蝦夷地を二分する大大名となった。開拓地からの税収も大きかったが、ニシン、昆布といった漁業、ラッコやアザラシといった高級毛皮の貿易は上杉家を雄藩に押し上げる資金源となった。
上杉家は北の雄として、蝦夷地開拓が片付くとさらなる拡大と発展のため樺太、千島、そしてアラスカへと所領を広げていくこととなる。
なお、この開拓成功の要因として、農耕馬の大量投入と印可芋の存在が挙げられる。
瀬戸内農法で牧畜が進んだことにより人力よりも遥かに効率的な農耕馬の大量投入が可能になり、冷涼で痩せた開拓地でも実る印可芋がなければ開拓初期の人々は餓死であっただろう。
なお、18世紀の蝦夷地は寒冷な気候のため米作は不可能だった。
蝦夷地での米作が可能となるのは、品種改良と土壌改良、さらに蝦夷地農法が極まった19世紀半ばのこととなる。
上杉鷹山は蝦夷地開拓をほぼ完成の域へ高めた政治家としてその手腕が高く評価されているが、同時代における最も優れた人道主義者でもあった。
蝦夷地開拓において先住民のアイヌ民族の取扱は、上杉家を大いに悩ませたが、鷹山はアイヌに狩猟、漁労の特権を与えた上に、和人による狩猟、漁労を禁じて彼らの生活を保護した。
過酷な弾圧と搾取、そして反乱の応酬となった松前藩とは好対照である。
上杉領のアイヌは狩猟、漁猟の特権により生活を安定させ、以後開拓事業にも協力的となり、樺太、千島、アラスカの開拓における強力な尖兵の役割を果たしている。
温暖な本州出身者の開拓民に比べて、アイヌの極地における生活ノウハウの厚みは圧倒的であり、彼らの導きがなければ北方開拓は成功しなかっただろう。
上杉家の体制に取り込まれ、狩猟、漁猟で生活を立てるアイヌの民は、やがてアイヌではなく奥州において狩猟者を意味するマタギと呼ばれるようになっていく。
こうした体制に取り込まれた先住民は世界史に類例が多く、ロシア帝国のコサックと比較されることが多い。
それは上杉家が樺太から大陸に渡って、ロシアのコサック騎兵と戦うときに、上杉軍の先陣を切ったのがマタギ騎兵だったからであろう。
19世紀になると北方の地は、ロシア、日本、清の三つ巴となる混沌の地となっていく。
話を戻すが、蝦夷地につづいて開拓令が下されたのは新大陸だった。
最初から米作が不可能と見られていた蝦夷地よりも、カルフォルニアで米作が可能と判断されていた新大陸こそ幕府の本命だったと言える。
開拓令が出るのが蝦夷地よりも遅れたのは、スペインと先に交渉を持っていたためである。
既にカルフォリニアに出入りしていたスペインといざこざを起こしたくなかった幕府としては慎重に手順を踏んだ形であったが、当のスペインはスペイン継承戦争の真っ只中であり、とても交渉が可能な状態ではなかった。
それどころか、本国が内戦状態になってカルフォリニアでは嘗ての呂宋同様に治安が悪化、弾圧していた先住民の報復が迫っている有様だった。
幕府としては呂宋の先例を以って、友好国の植民地の治安維持を頼まれてもいないのに代行し、軍を派遣して領地の横領を仕掛けることになった。
その程度のことは平然と行える程度に、江戸幕府の国際経験は豊富で、外交はスれており、機会を得たときの行動は大胆で、遠慮がなかった。
戦国末期から400年以上に渡って交流があるはずのスペインが、ヨーロッパ随一の反日国となっている理由は日本に領土を掠め取られ続けた恨み辛みの蓄積があるためである。
スペイン継承戦争を勝ち抜いてスペイン王に即位したフェリペ五世に出来たことは12年の戦争で積み重なった借金返済のためにカルフォルニア割譲を提案することだけだった。
このカルフォルニア開拓令により海を渡った大名家は数多いが、その中で最も成功したのは毛利家だった。
毛利家は関ヶ原の合戦の負け組で、尚且つ西軍の総大将であったため、領地が112万国から萩、周防36万石に減じていたにも係わらず家来が112万石並にいたというある意味、恐るべき家だった。
なお、当初の領地の石高112万石は徹底的な検地を行った結果ではなく目分量で測った時代のものであり、実際は200万石はあったと推定されている。つまり、200万石並の家来が36万石にぶら下がっているというある意味・・・以下略。
長州藩は立藩直後から新田開発を行って石高を増やしていたが安価な呂宋米の大量流入で米価が下落して藩の財政は火の車であった。
こうした状況下で海外へ転身を図るというのは一か八かの賭けである。
だが、毛利家は幸運なことにその賭けに成功する。
毛利家の成功は、まさに奇跡の一言に尽きた。
信じがたいことだが、毛利家が農地を拓いたその場所こそがカルフォルニア・ゴールドラッシュの始まりの地だったのである。水田用の用水路の切削工事に取り掛かったところ、水源の川底に堆積した膨大な砂金が見つかった。
知らせを聞いた毛利家の面々は即日、総動員令を発し、鍋釜笊を片手に川底を全力で浚ったという。
そうした集められたは砂金は、幕府が砂金発見の報を聞いて天領として召し上げとする前に、黄金200万枚分にも及んだという。
カルフォルニア・ゴールドラッシュは幕府の移民政策の起爆剤となった。
以後、カルフォルニア改め加州には、日本から膨大な移民が押し寄せることになるが、先に場所取りを済ませていた毛利家は絶対有利であり、砂金を元手に移民相手の商売で巨万の富を築き、一躍して分限者に名を連ねることになった。
なお、加州がゴールドラッシュ終了までに受け入れた日本人移民は100万人に及び、加州やその周辺地域へ農地を求めて散らばっていくこととなる。
なお、新大陸は加州で米が採れることから、やがて米大陸と呼ばれることが多くなった。
南のラテンアメリカとの関係から、北米大陸と認知されることになる。
北米大陸の植民地建設は、海路に有利な沿岸に植民都市が作られ、そこから内陸へ東進する形をとった。そして、富士山脈(英名:ロッキー山脈)に至って止まるのが常であった。
なお、北米大陸を南北に縦断する富士山脈は3000m級の山々が連なる姿を見て、日本人移民が全部が富士の山のように高いと称したことがその名の由来である。
日本人による北米大陸は以後、100年続く大事業となるが、その道程は容易いものではなかった。
富士山脈の西側に築かれた日本人のコロニーは、蝦夷地と同様に先住民との関係に悩まされることとなる。
しかし、どういうわけか開拓村を襲ったインディアン達はしばらくすると現れなくなり、こちらからインディアンの村を攻めかかるとほとんどが病気で全滅していることが多かった。
これは日本人が持ち込んだ天然痘やペスト、チフス、コレラといった伝染病によるパンデミックであることは現代を生きる我々なら知っていることだが、当時の人々にとっては不可解な謎の現象であった。
日本人は17世紀初頭から予防接種や抗生物質によりこれらの疫病を制圧してきたが、そのことが逆に病原菌の毒性を強化することとなっていた。
日本人の持ち込んだペストやコレラは、場合によっては欧米人にとっても危険なレベルで感染力や毒性が強まったものだったのである。
基本的に、病原菌は文明が進むほど毒性や致死性が強まる傾向があり、現代でも薬剤耐性を獲得した感染症はおろそしい致死性を持っている。そうした薬剤耐性菌を作らないために、抗生物質の処方は厳密に管理されているのである。
話が逸れたが、亨保年間、日本人が環太平洋への進出を推し進めた時、その進出先で恐ろしい勢いで先住民の大量絶滅が進むことになる。
この時に失われた文化伝統、伝承は数多く、後に彼らの権利回復運動が起きたときに、大きな障害となった。
だが、当の日本人は何も知らなかったし、暫くして先住民がてきめんに流行り病に弱いと知っても、特に対策や救いの手を差し伸べることはしていない。
先住民が開拓の邪魔はすれば容赦なく滅ぼしたし、そうした武力行使は武家政権である江戸幕府や各藩に躊躇はなかった。開拓地を襲われて何もしなければ武士の面子に係ることであった。面子を保つには徹底した報復あるのみである。
しかし、恭順した部族に対しては寛容であり、場合によっては苗字帯刀を許すなど、家臣団として取り込むことは大っぴらに行われた。
大名家と婚姻関係を結び閨閥となった部族もいる。
中でも伊達家の姫を娶って同盟関係を結んだアパッチ族が有名であろう。現在でも、日本アパッチ族として有砂の砂漠に広大な領地を有している。
幕藩体制の中にインディアンに対する差別がなかったわけではないが、人間扱いせず野良犬のように撃ち殺すような真似は決してしなかったし、そうした蛮行が行われれば処罰の対象となった。
当の日本人はそれを当然と信じて疑わなかったが、そうではない連中がいることをやがて知ることになる。
毛利家の奇跡の成功を受けて、爆発的な加速がついた開拓令であるが、やはり毛利家は例外中の例外というべきだった。
海外位封した殆ど大名は農地を拓いてそこそこの成功を納めるか、運の悪い家が餓死か野垂れ死にという状況には変わりなかったのである。
基本的に、増えすぎた人口を調整するための移民なので失敗しても幕府にとっては悪い話ではなかった。
故に毛利家のような例外中の例外的な成功は都合が良かったといえる。
あまりにも成功がまばゆいので、過酷な失敗を覆い隠すよい目眩ましになるからだ。
しかし、そうした幻のような光を掴む幸運な人物というものは確かに存在するもので、遠い南太平洋に浮かぶ南天大陸に入植した真田家が再び砂金川を発見する。
真田家は亨保年間も後半に入って海外移封となった家で、当初から熱心に砂金を探していた。金属を用いない先住民がいる場所に、それはあるはずだった。
そしてついに、南天大陸南東部の川底で砂金堆積層を発見する。
幕府により天領指定となるまでに100万両分の砂金を浚って、一躍、真田家は南天の雄として立場を確立することになる。
なお、南天に入植した真田家は、呂宋国盗りで活躍した真田信繁の子孫ではなく、関が原の合戦において徳川家に従って松代藩を開いた真田信之の子孫である。
以後、真田家は砂金を元手に南天大陸を切り開いていくことになるが、降雨が少なく、土地が痩せているので稲作は不可能ではないが、効率が恐ろしく悪かった。
北部は熱帯なのでそちらでサトウキビを育てつつ、水が確保できる場所で真田家の人々は信州から持ち込んだソバや小麦、印可芋を育てることになる。
なお、乾燥した気候の南天大陸は、非常にソバの育成に適しており、21世紀現在でも日本で消費される蕎麦粉の70%は南天大陸で生産されたものである。
元禄時代には、蕎麦は今日的な形である麺食品として提供されており、ソバ粉の需要は高く、入植の10年後には南天から日本にソバが輸出されていたことが確認されている。
南天といえば、ソバ名産地となった。
しかし、南天からの最重要輸出品はソバではなく、広大な放牧地で生産する羊毛と牛肉である。
国土の50%が農地で、その90%が放牧地である南天は大量の羊毛と牛肉を生産して本国やヨーロッパへ輸出することで経済を回す構造が早々に完成する。
農産物以外にも鉄鉱石や石炭などの鉱物資源も豊富であったため、南天は日本経済とっては無くてはならない資源供給地として発展していくことになる。
鉱山経営では農地開拓で遅れをとった鍋島家が先行した。
南天大陸初の反射炉建設を行ったのも鍋島家である。
農業の真田家と鉱業の鍋島家の住み分けは、以後、その支配が歴史の遺物となるまで続いていくこととなった。
しかし、実り豊かな土地を探しているのは日本人だけではなかった。
南天大陸には、同時期、イングランド人が流刑地兼植民地として入植を開始しており、日本とイングランドの摩擦が絶えない紛争地帯となっていく。
日本人が海外へ大挙して向かうということは、外国勢力との衝突を意味しており、日本人の進出した先々で多くの血が流れることとなる。
しかし、本国が人口限界に達した日本は海外への膨張を止めることはできなかった。
なお、亨保の改革を総決算をするとしたら、その目的とするところはほぼ完全に達せられたと言えるだろう。
開拓令で日本を去ることになった大名家は百余家に及び、日本列島に残ることを許された大名は極僅かだった。
薩摩藩のような収公後、天領として治めるにはあまりにも難治の土地であるような例外を除いて、外様大名は半世紀かけてほぼ全てが海外に移封か絶家となっている。
外様大名が転出し、天領となった土地は改めて厳しく検地が行われた。
表石高、裏石高といった税収帳簿の二重化が横行していたためである。
例えば、長州藩は表石高は39万石であったが、実際には新田開発によって100万石近くに達していた。これが裏石高であり、長州藩の実際の国力であった。大名家の石高は自己申告であって、多く申告してもお手伝い普請などの労役に駆り出されるだけであった。
ただし、申告した石高によって幕府内の序列が決定されることもあり、面子を重んじる大名家にとっては石高は低すぎても困るものだった。
また、それまで検地がずっと行われてこなかった天領でも太閤検地以来の全国規模の検地(所得調査)が行われ、農民一揆などの抵抗に遭いつつも全国で税収の再捕捉がなされた。
さらに加州ゴールドラッシュの発生により、莫大な黄金が齎された。
ゴールドラッシュ期間中に幕府の金蔵に修められた黄金は数千万両に及び、神君家康公が残した遺産を遥かに超えていた。
つまり亨保の改革は大成功をおさめたのである。
幕府は大幅な税収増となり、悪化していた財政は息を吹き返すこととなる。
八代将軍吉宗が幕府中興の祖と称えられ、死に際しては初代将軍と同じく神号を賜る寸前までなったのは当然と言えるだろう。
だが、亨保の改革は幕藩体制を決定的に変質させることとなった。
そうした変質の一つに貫高制の復活がある。
海外藩が増えるにつれて、それまで国力を表すための指標となってきた石高が使いにくくなった。
1石は成人1人が一年に消費する米の量であり、石高は食料の生産力のみならず、その国がどれだけの兵力を動員できるか表す重要な指標である。
しかし、米がとれない蝦夷や南天、ハワイのような太平洋島嶼では石高で大名を格付けすることは不可能だった。
松前藩のような無石で、10万石格という形式も考えられたが、南天のような国土面積だけなら本国を超える大藩に同じ手は無理があった。
そこで部分的に銭で国力を表す戦国期の貫高制が復活することとなる。その藩の経済力を貨幣単位で表し、それをもって大名の格付けを行うことになった。
また、貫高制が適用された地域は、納税も銭(金納)で行うこととされ、それまで物納で納税してきた農村も貨幣経済に参加することになり、日本の資本主義化が前進した。
しかし、石高制も依然として残っており、当の幕府も石高制のままだった。
これは石高制が土地を家臣に分割給付して主従関係とし、家臣間あるいは農民間においては石高の多寡によって上下関係を決定づけることが出来るという封建制度の根幹を成すものだったからである。
故に、貫高制の復活は封建体制の変質を意味していた。
つまり初期的な資本主義社会への移行である。
扶持米の支給も徐々に債券化が進み、実態としては金銭給付と変わらない形となっていった。
扶持米を買い取って現金化する札差商人が幅を利かせ、高利貸しを兼ねて暴利を貪っているとして処罰される例が増えていくが、扶持米の債券化は止められなかった。
城下町に集住する武士は都市生活者であり、生活に必要なのは米ではなく、現金だったのである。
そして、都市生活者となった武士はもはや戦国期の武士とは似ても似つかないただのお役人と成り果て、旗本や御家人の風紀紊乱は見過ごせないものとなっていた。
そこで吉宗は武芸を奨励し、綱紀粛正を図ることとなる。
なお、誤解があるが奨励したのは武芸だけではなく、学問も同程度、奨励されていた。
ただし、奨励されたのは日本の古典文学のような文芸ではなく、ヨーロッパで発展著しい実学(自然科学)だった。
吉宗は武士を柔弱にするとして文芸や芸能を敵視していた。
心中事件を起こして生き残ったものを晒し者するなど徹底した体育会系の野暮天だったが、実用本位の学問は高く評価していた。
この頃、ヨーロッパでは自然科学で大きな発見が相次ぎ、ニュートン力学の確立や微積分法の発見など、科学の面において日本の立ち遅れが見られた時期である。
吉宗の意向で、アイザック・ニュートンのプリンシピアが翻訳、日本で出版され、大人も子供も意味が分からないにも係わらずプリンシピアを大真面目に読みふけるという珍事が起きたりしたが、和算(日本数学)の発展には大きく寄与している。
また、再建された財政から軍事費の増額も行われ、洋式鉄砲や大砲などのサンプルが購入された。鉄砲装備の革新はさらに進み、未だに残っていた当世具足のような甲冑はもはや無用のものとして幕府の制式な装備から外されることとなった。
とはいえ、アジア・太平洋はヨーロッパから遥か遠く、まだまだ平和な時間がひたすらに過ぎていくことになる。
幕府軍や藩兵の相手になるのは、開拓の妨害をする先住民のような弱小勢力か、海賊のような犯罪者だった。よって、その軍事力は治安維持に必要な最低限で済まされることになる。
幕府という軍事政権下にあって、この軽軍備路線は人類の歴史においてかなり奇異なものであるが、軍事費のような再生産性のない支出を抑えた健全な財政運営があってこそ、次の100年も江戸幕府は生き延びることに成功したとも言える。
延享2年(1745年)、吉宗は大いなる満足の中、将軍職を長男、家重に譲り大御所となった。
隠居した形ではあるが、家重が障害者で政務をとることが困難であったことから政治の実権を握り続け、幕府財政の規律を固く守り、移民政策を推進しつづけた。
幕府中興の祖となった吉宗は将軍引退の6年後に死去。
以後、実務能力に欠ける家重を補佐する側用人田沼意次が頭角を現し、その権勢から田沼時代と呼ばれる時代へ移り変わっていく。
日曜日以外に投下したっていいよね?