WWⅡ ソ連崩壊
WWⅡ ソ連崩壊
1941年6月に、ナチス・ドイツ軍の奇襲攻撃で始まった東部戦線は、その後、ロシア・シベリア帝国の参戦により、ソビエト連邦が東西から挟撃されて11月にモスクワを失う形で2年目に突入していた。
帝国の逆襲という事態に、社会は著しく動揺し、スターリンの独裁体制を持ってしてもその混乱を完全に抑えることは困難だった。
スターリンは、早期の冬季反攻でモスクワ奪還を企図していたが、大混乱により臨時首都のスターリングラード防衛も怪しい状況では、冬季反攻は全く不可能だった。
それどころか1941年12月の時点で、モスクワを中心にドイツとロシア帝国が手を結び、ソビエトは北部のレーニングラードと南部のスターリングラードに分断されており、国家体制は崩壊寸前ですらあった。
むしろ、よく体制を維持できていることに感心すらされるレベルであった。
強力なT-34戦車やKV重戦車も生産工場の疎開の混乱で生産が停滞しており、戦力の補充もままならなくなりつつあった。
ドイツ軍の侵攻を受けたソビエト政府は非情な決断を行った。損害を無視した後退戦略と既存兵器による時間稼ぎを行って、次世代兵器の生産工場を安全な場所に疎開させ、将来に反攻に備える青写真を描いたのである。
工場の疎開先はモスクワ東方のゴーリキーや、ノヴォロシスクだった。
だが、この構想はロシア帝国軍の侵攻によって破綻することになる。
ノヴォロシスクでは疎開中の工場が、移動中に設備ごとロシア帝国軍の手に落ちるという大失態となった。
ソビエト東部はもはや安全地帯ではなくなり、工場は再疎開となったが疎開でさえ大混乱のうちに進行なのに、それを再疎開するなど、ソビエトの強権政治を持ってしても殆ど不可能だった。
鉄道駅の集積所や貨車に積まれたまま行き先が決まらない内にロシア帝国軍に捕獲された資材や作りかけの兵器、工作機械は膨大な量にのぼり、ロシア帝国はありがたくそれを自国の体制に組み込んでいった。
ロシア帝国軍は、前年の戦いで大量のソビエト軍の投降を受け入れ、日本からの支援物資によってさらに強化されており、総兵力は300万を越えていた。
対して、ドイツ軍は前年当初の奇襲開戦時は総兵力300万であったのに対して、モスクワ戦までに兵力の半数を失っていた。
ドイツ軍は戦力の補充がままならなかった。
生産力と人口の限界である。兵員の不足から、特別親衛隊では外国人兵士の募集が始まっているほどだった。
ドイツ軍は1942年の戦いは前年の半数150万程度で始めるしかなかったのである。
ロシア帝国軍との情報交換で、ロシア帝国軍の充実ぶりを見たヒトラーは、
「う・・・うろたえるんじゃあないッ! ドイツ軍人はうろたえないッ!」
などと動揺する側近やお気に入りの将軍達をたしなめている。
自分自身が一番動揺していたのは言うまでもないことだろう。
モスクワ陥落後、日本・ドイツ・ロシア帝国の間では、以後の対ソ戦を検討する国際会議が開催されている。
開催場所は、モスクワのクレムリンであった。
この会議で、北部戦線についてはロシア帝国が優先権を得て、戦線南部についてはドイツ軍が優先権を得る方針が定められた。
こうした役割分担は比較的すんなりときまった。
ロシア帝国の首都であったサンクトペテルブルクの解放に、ロシア帝国が執念を燃やしていたため、南部重視のヒトラーと利害が一致したためである。
モスクワ協定成立を受けて、ドイツ軍は役割を終えた中央軍集団を解散させ、北方軍集団からも兵力の大半を引き抜いて1942年の夏季攻勢に備えた。
1942年のドイツ軍夏季攻勢”ブラウ作戦”は、前年の戦いと同様にスターリンの死守命令で身動きが取れないソビエト軍をドイツ軍が包囲殲滅する形で進行した。
もはや逃げる場所がなく、体制の動揺で全てが信じられなくなったスターリンは、将軍たちの助言にも耳を貸さなくなっており、前年と同じ失敗を繰り返していたずらに兵力を失った。
また、北部では僅か1ヶ月あまりでレーニングラード包囲中のドイツ軍とロシア帝国軍が握手を交わした。
北部方面はもはや戦闘が成立せず、徹底抗戦を唱える政治将校や秘密警察の要員をソビエト軍将校が射殺して、ロシア帝国軍に投降していくだけの戦場だった。
ドイツ軍相手には頑強に抵抗したレーニングラードだったが、ツァーリの軍隊には無抵抗であった。
共産主義社会しかない知らないコムソモールの青少年や、政治将校が抵抗を行った程度で、1942年7月28日には陥落した。
ロシア皇帝、アレクサンドル四世はサンクトペテルブルクへ帰還し、帝国の復活を宣言するに至る。
サンクトペテルブルクへの帰還は、ロシア帝国の悲願だった。
レーニングラード陥落により北部戦線は消滅し、いよいよドイツ・ロシア帝国軍は全力を南部戦線に集中する体制をとなる。
なお、戦線南部は補助戦線と考えていたロシア帝国だったが、この方面でも快進撃がつづいていた。
南部にはごく少数の兵力しか配置していなかったのだが、ソビエト軍は士気が崩壊しており、ただ単に前進するだけで、勝利することができた。
むしろ、ドイツ軍に投降するのは絶対不可として、武器を捨てた兵士たちが向こうからやってくるほどだった。
多くのソビエト軍将兵は、無理矢理連れてこられた被害者のような状態になっており、またドイツ軍が占領地で行っている蛮行を伝えるメッセンジャーの役割を果たした。
そのため、ロシア帝国軍は半ば善意のレスキュー隊のような状態となっており、いかにして徹底抗戦を主張する政治将校や秘密警察から被害者を救出するのか課題となっていた。
こうした戦場で活躍したのは、狙撃兵だった。
有名なのはヴァシリ・ザイツェフ大尉だろう。
ウラル山脈の麓にある山村で生まれたザイツェフは幼いころから猟師として腕を磨き、ロシア帝国軍においては天才的な狙撃兵としてその名を轟かせることになる。
ザイツェフは入念な擬装と複数人での狙撃チームを率いて、後方で兵士を督戦する政治将校や秘密警察の要員を狙撃し、次々と殺害していった。
無理矢理戦わせられているソビエト軍兵士は督戦隊を忌嫌っており、ザイツェフの狙撃で彼らが死亡すると雪崩打って投降していった。
ザイツェフの狙撃は、膨大な数のソ連兵士を救うことになり、その活躍はスターリンが彼に懸賞金をかけるほどにまでなっている。
だが、そうした武勲よりも、ザイツェフが誇りとしたのは、多数のロシア人を無益な戦いから救ったことだった。
ザイツェフの戦後、皇帝アレクサンドル四世から直々に勲章を授かる名誉に浴するが、与えられた勲章は戦功勲章ではなく、人命救助に功績があった者に贈られる赤十字章であった。
こうした狙撃以外にも、政治将校やNKVD要員の位置を把握した場合には、高射砲での狙撃や、急降下爆撃機を使ってピンポイント爆撃が行われた。
明確に抹殺対象と指定された政治将校の中には脱走を試みるものが続出し、ますますソビエト軍組織の崩壊に拍車がかかることになる。
だが、こうした光景はロシア帝国軍戦線だけのものであり、ドイツ軍相手にはソビエト軍は頑強に抵抗した。
理由は言うまでもないだろう。
ドイツ軍は母なる大地を侵す侵略者に他ならなかった。
結果、補給の不足と損害を省みないソビエト軍の抵抗によって、ドイツ軍は進撃は止まることになる。
また、ドイツ軍の夏季攻勢はいくつかの戦略的誤りを犯していた。
ブラウ作戦は、スターリングラード攻略とバクー油田制圧を同時に目指す、かなりアクロバティックな作戦だった。
当初の作戦計画では、スターリングラードのみを攻略し、東部戦線に終止符を打つことが目標だったのだが、ヒトラーの介入によりバクー油田の制圧が加わったことで、兵力を2分するという致命的な欠陥を抱えることになっていた。
ヒトラーはソビエト軍の抵抗力を過小評価していた節がある。兵力の按分もバクー油田制圧にかたよって配置されていたことから、スターリングラードに向かうB軍集団の苦戦は必至であった。
スターリングラード攻略を任ぜられたB軍集団のパウルス元帥がスターリングラードの外縁部にたどり着いたのは、11月も半ば過ぎのことである。
その時、既にスターリングラードはロシア帝国軍に包囲されていた。
またしても、ロシア帝国に遅れをとったヒトラーは激怒して将軍達に当たり散らしたが自業自得といえる。
今度はスターリンの逃亡を許さないように、厳重に包囲されたスターリングラードは、絶望的な抵抗を行う政治将校や、NKVD、一般市民を巻き込んだ壮絶な市街戦となり、3週間に渡って続いた。
なお、スターリングラードがいつ陥落するかは賭けの対象となっており、クリスマスまでに陥落する方に賭ける者が多かったという。
スターリングラードが陥落したのは、12月18日のことであった。
クリスマスまでに、東部戦線は終ったのである。
なお、スターリンは最後まで抵抗を続け、最終的に立て籠もった地下壕にしかけた自爆装置を作動させ、爆死するという壮絶な最後を遂げた。
10t以上の爆薬が仕掛けられていたスターリンバンカーは完全に崩壊しており、戦後の発掘調査でもスターリンの死体は発見できなかった。
疑り深いヒトラーはスターリンが脱走し、カフカス山中に逃れたと信じており、戦後も長年に渡ってスターリン探索が続くことになる。
死体が行方不明といえば、モスクワ郊外のレーニン廟に安置されたレーニンの死体も行方が分からなくなっており、ロシア帝国軍が制圧したときには廟は既に空っぽだったという。
スターリンの生死はその後も不明のままであるが、レーニンの死体は20世紀末に当時のNKVDの要員の証言によりスターリンの命令でモスクワ川に沈めて隠した事が判明した。
証言にもとづいて川底調査を行った結果、白骨死体の一部が回収されている。
話が逸れたが、スターリンの死はソビエトの崩壊を意味しており、1942年12月をもって東部戦線は枢軸国の勝利で終った。
カフカスで抵抗していたソビエト軍もスターリングラード陥落を前後して、軍組織が崩壊してドイツ軍に投降して、カフカスを越えてドイツ軍はバクー油田を占領することになる。
こんなことなら原案どおりにスターリングラードを目指せばよかったのだった。
以後、ヒトラーの戦争指導力には疑問符がつけられるようになり、ヒトラーの作戦指導への介入は減っていくことになる。
バクー油田を制圧したドイツ軍はさらに南下し、先にイラン王国に入っていた日本軍と握手した。
ロンメル元帥は、エジプト、スエズを越えてシナイ半島を渡り、パレスチナに至っており、そこで日本軍と握手していた。
スエズ運河の復旧は急ピッチで行われ、1942年末までに最初の日独連絡船団が稼働し、50隻規模の船団がスエズ経由で地中海に入った。
トルコ、イラン、イラクやシリアも枢軸に参加し、ユーラシア大陸の戦いは枢軸の勝利が確定することになる。
残りは、英国本土と北米大陸のアメリカ合衆国のみとなった。




