WWⅡ 飛龍の反撃
WW2 飛龍の反撃
1941年12月26日に硫黄島沖海戦は一つの転換点となった。
日米開戦以来、一方的に続いていたアメリカ軍の攻勢に終止符が打たれたのである。
日本軍は奇襲攻撃の動揺から立ち直りつつあった。
マッカーサープランでは1ヶ月で江戸を占領し、日米戦争を終わらせる計画だったが、日本軍の防衛戦闘の前に陸の攻勢は限界に達しようとしていた。
奇襲開戦で北九州や山陰地方に上陸したアメリカ軍は、奇襲による混乱を最大限に活用し僅か1週間で北九州一帯を制圧し、山陰は出雲まで進出。山陽方面は広島を占領するに至った。
広島につづいて、海軍の大基地である呉軍港もアメリカ軍の手落ちた。
在泊の艦艇は避難民の乗せられるだけ乗せて退避したが、大破着底して動けない戦艦高千穂、建造中の長門型戦艦3、4番艦及び大鳳型空母5、6番艦は爆破処分されている。
開戦初日から12月14日までの間に日本に上陸したアメリカ軍は総兵力20万に達した。
しかし、弾薬の不足は深刻であり、食料に至ってはほぼ全てを現地徴発に頼っていた。燃料さえも日本のガソリンスタンドから徴発することで賄われていた。
ガソリンの徴発など冗談のような話であるが、日本本国は世界有数の富裕国であり、モーターリゼーション先進地であったからガソリンの現地調達も可能だったのである。類似例としては1940年5月の西方戦役でもドイツ軍の戦車師団がフランスのガソリンスタンドから現地調達して補給のやりくりしている。
さらに北九州の港湾には幕府の燃料備蓄基地があり、アメリカ軍は接収した日本の資産を最大限活用した。
徴発や接収に抵抗する民間人や幕府の職員がいたら、銃を水平に構えるだけで解決した。
日本本国は道路インフラが完備されており、これもアメリカ軍の迅速な進撃を助けた。
アメリカ軍の迅速な進撃は、奇襲効果を活かすための絶対要件だった。
それと同時に一箇所にとどまると食料と燃料がなくなり、戦闘不能になるという蝗の群れのごとき補給状況が背景にあった。
或いは死ぬまでで泳ぎ続けるマグロのようなものか。
ともかく、足が止まったら死んでしまうのが1941年12月のアメリカ日本侵攻軍であった。
最低限の補給港として北九州の港湾を押さえたアメリカ軍は山陽と山陰の2正面から大阪に向けて東進し、遅滞戦闘をする日本軍と激戦となった。
山陰方面には日本陸軍第13、20師団、山陰方面には第5、11師団が展開し、避難民の収容しつつアメリカ軍と戦いながら後退した。
本国戦において、日本軍は古の高潔な侍のように戦場で振る舞った。
避難民収容の時間稼ぎに自殺的な陣地固守が連発され、12月26日に第13、20師団が岡山にたどり着いたときには2個師団は2個連隊規模まで戦力をすり減らしていた。
だが、その犠牲は無駄ではなかった。
膨大な犠牲の果てに、日本軍は態勢を立て直す猶予を得たのである。
硫黄島沖海戦が生起した12月26日から、日本陸軍と米軍による岡山決戦が始まる。
高梁川、旭川、吉井川という有数の大河川に流れる岡山に日本軍は絶対防衛線を構築。米軍の兵庫、大阪方面の侵攻を阻止する布陣を敷いた。
旭川は岡山市の市街地を流れており、ここで戦うことは市街戦を意味していたが、2個師団を犠牲にした遅滞戦闘により住民を避難は完了しており、日本軍は河川と市街地を巧みに利用して陣地を構築し、アメリカ軍を待ち構えていた。
時間が敵であるアメリカ軍は航空支援を頼みに岡山防衛線突破を図り、日本軍と激突した。
だが、その航空戦力は限界に達しようとしていた。
日本軍は、宣戦布告同時攻撃で西日本各地や、琉球、台湾、シベリアで僅か1日で1,545機におよぶ航空戦力を失った。
12月8日から26日の間に空中戦で日本軍が失った航空戦力は1,645機と記録されており、3,000機近い航空戦力を失っていたことになる。
だが、初日を除けば以後は地上撃破されることは殆どなくなり、損失の大半は空中や事故で発生したものである。
では、それに対して補充がどの程度あったのかと言えば、アジア・太平洋方面のみに限ればおよそ1,800機の新造機が引き渡されていた。
初日以後の損失と同じだけの新造機が補充されていたのである。
開戦から1年が経過して日本の総力戦体制は完成の域に達しつつあり、消耗を補ってなお戦力を拡大できるところまで戦時生産は拡大していた。
奇襲開戦による大混乱がなければ計画値では3,000機(西海岸除く)が引き渡さている予定だった。サプライチェーンの途絶で部品が足りず、一部の部品が欠損した未完成機が1,200機近く出荷不能になり各地の航空機組み立て工場周辺に滞留していた。
尾張藩にある豊田自動車の40式戦闘機の組み立て工場では、部品不足の未完成機が工場から溢れ出し、周辺の道路や近隣の学校校庭を占拠する事態となった。
ちなみに本国戦の初期において、こうした航空機工場への攻撃は殆ど行われなかった。
強力なB-17も岡山決戦においては市街地に立て籠もった日本軍を絨毯爆撃するために使用されている。
これは当然といえば当然で、速攻で江戸を陥落させればこの戦争を勝利で終わるのだから、日本本国侵攻部隊に対する近接航空支援が最優先された。
アメリカ軍に効果が現れるのに時間がかかる戦略爆撃をやっている時間などないのだ。
弾薬のストックを切り詰めて、食料も燃料も現地調達に頼るアメリカ軍は兵站の負担が軽いゆえに迅速な進撃が可能だったが、その素早い進撃に牽引式重砲は追随できず、進撃を支える火力は迫撃砲のような軽砲と航空火力だけだった。
それが不足する場合には、一気呵成な戦車と歩兵の突撃で障害は突破された。
1937年から4年に及ぶ支那事変でアメリカ軍は戦慣れしており、戦闘経験なら世界高レベルに達していた。
日本軍もこの1年の対英戦争で多くを学んでいたが、本国の日本軍は戦線後方にあったこともあり、士気はともかく経験不足であっけなく壊乱することがしばしばだった。特に下士官レベルになるとアメリカ軍の層は厚く、歩兵戦闘では圧倒的だった。
また、日本軍は敵制空権下での戦いに慣れておらず、対空擬装が未熟でしばしば簡単に空爆を浴びた。
航空戦力運用の巧みさもアメリカ軍の特徴で、緒戦の快進撃を支えた原動力といえた。
開戦当初にアメリカ軍が朝鮮半島、満州、中国に展開していた航空戦力はおよそ2,400機だった。
戦闘経験豊富なアメリカ軍航空部隊は、間違いなく世界最高水準に達していた。
これが僅か2週間の間に半数の1,267機が喪われていた。
低空に下りて敵の対空砲火と戦闘機の要撃に晒される近接航空支援は極めて損耗率が高い航空作戦だった。
だが、戦闘爆撃仕様のP-40が500ポンド爆弾を抱えて飛行場と前線を往復しなければ日本侵攻軍が岡山まで来ることはできなかっただろう。
鈍重な牽引式重砲による砲兵火力の展開を待っていたら、広島にさえたどり着くことは不可能だった。
だが、苛烈な航空戦力の消耗に対する補充は満州共和国の航空機産業の総力をもってしても月産200機程度でしかなかった。
対中戦なら十分だったのだが、対日戦には全く不足だった。
12月26日から1月3日にかけてが、ちょうど日本軍とアメリカ軍の航空戦力が均衡する分水嶺であり、岡山決戦は文字通りの決戦になった。
岡山決戦は3つ川(高梁川、旭川、吉井川)をめぐる戦いである。
日本軍はこれらの川に河川防御陣地を築いて、アメリカ軍という洪水を食い止めようとしていた。
だが、中国地方としては比較的水量豊富なこれらの河川も冬の間は降雨が少なく歩いて渡れる箇所が多かった。
そうした場所にはもれなく地雷が埋設されていたが、戦略的に立ち止まることが許されないアメリカ軍は構わず突撃徒渉を敢行してきた。
地雷だらけで身を守る遮蔽物もない河原は、絶好のキルゾーンであり、砲兵の阻止砲撃と対岸の機関銃陣地からの射撃でアメリカ軍は死体の山を築いた。
毎分1,200発の7mmスミトモ弾を吐き出す日本製のMG34はアメリカ兵を恐怖のどん底に突き落とし、その独特の音色から「ヒデヨリの電動のこぎり」として恐れらた。
日本軍は前年のウラル戦線で遭遇したソビエト軍のパックフロントを再現し、88mm高射砲の砲列を敷いて歩兵支援のM4中戦車を撃破した。
M4中戦車は支那事変の戦訓に対応した完成度の高い中戦車だったが、88mm高射砲の水平射撃を前しては防御力が不足していた。
日本軍は80mm以上の迫撃砲を含めて各種1,000門の砲兵火力をかき集めて岡山決戦に投入し、豊富な火力でアメリカ軍の突撃を阻止しようとしていた。
この砲兵集団の中には沿岸防衛用の28サンチ列車砲も含まれており、26km先からアメリカ軍の頭上に巨弾を降らせた。
対するアメリカ軍は同じ条件で3分の1以下しか砲が用意できず、しかも砲弾の集積があってないような状態であり、砲兵戦ではお話にならなかった。
M4中戦車も戦車というよりも自走砲として使用されているのが実態であり、アメリカ軍は砲兵火力の不足を航空支援で補っていた。
岡山決戦には日米合計1,600機の航空部隊が激突し、大規模砲兵戦と併せて岡山市は完全に廃墟と化すことになる。
アメリカ軍は河川防御陣地を破壊するためにB-17による絨毯爆撃を敢行し、日本軍の防御陣地に突破口を空けることに成功している。
だが、その突破口は日本軍戦車部隊によって迅速に塞がれ、突破を図るアメリカ軍は39式軽爆の急降下爆撃を浴びた。
日米の戦闘機部隊は大挙して出動し戦場上空の制空権掌握を試みたので、狭い範囲で膨大な数の戦闘機が衝突し、両軍併せて数百機の戦闘機がハエのように堕ちっていた。
低空でのP-40はあなどれない優秀機だったが、飛燕Ⅱは速力でも火力でも勝っており、制空戦闘は日本軍の優勢に運んでいた。
制空権が奪取できず、航空支援が阻止されるとあとは砲兵火力がものをいった。
1週間に渡る攻防戦でアメリカ軍は高梁川、旭川の防衛ラインは突破したが、吉井川を破ることはできず、弾薬が底をつき戦闘不能におちいった。兵員の死傷者は5万人を超えており、元より無いも同然の医療看護体制も崩壊寸前だった。
日本軍はアメリカ軍の攻勢停止を確認すると豊富な砲兵火力で逆襲を開始し、アメリカ軍を押し戻した。
弾薬が尽きていたアメリカ軍は戦線が崩壊し、50km後方の福山まで敗走することになる。
山陰方面のアメリカ軍は海路で補給が得られるため、山陽方面よりもマシだったが、国道が1本しかなく日野川より先へ進むことができていなかった。そのため堺港を使うことができず攻勢限界に達していた。
航空戦力の消耗は著しく、アジア方面のアメリカ軍航空部隊は稼働機が200機まで低下して、全滅を避けるためには一度後退して再編成しなくてはならなかった。
これまでアメリカ軍の一方的な攻勢を担保してきた制空権が喪われ、戦場の上空を日の丸の戦闘機や急降下爆撃機が飛ぶようになると形勢は逆転した。
移動中のアメリカ軍は復讐に燃える日本軍機の激しい銃爆撃に遭うようになり、弾薬の欠乏を悪化させた。
さらに、1942年1月5日、アメリカ軍の震撼させる凶報が届いた。
「トラ・トラ・トラ」
という短いモールス信号の羅列は、日本本国から13,500km離れたパナマ沖から発せられ、北米諸藩を経由してただちに本国へ届けられた。
意味は「我、奇襲に成功せり」だった。
この短い電文は以後、奇襲に成功した場合に用いられる軍事上の常套句となった。
1942年1月10日の早朝にパナマ運河を正体不明の小型単発機が襲撃した。
大型の双フロートを装備した正体不明の航空部隊は、ぽかんと空を見上げるパナマ市民を横目に、3つあるパナマ運河の各閘門に航空魚雷を投下、これを爆砕した。
各閘門以外にも運河を形成するダムにも航空雷撃が実施され、ダムの崩壊により運河から水が抜けて航行中の船舶が流され運河中で玉突き事故を起こすなど大惨事となった。
この奇襲攻撃でパナマ運河は閉塞され、太平洋のアメリカ軍は一時的に本国との連絡を絶たれることになった。
太平洋のアメリカ軍が思い描いていた戦争計画を根底から覆す会心の一撃を放ったのは日本海軍が密かに整備を進めていた潜水空母艦隊だった。
先の大戦によって中部太平洋の島嶼とアラスカを失った日本は太平洋上のアメリカ軍がパナマ運河を経由して本国から補給を得ているという点に着目し、これを遮断するために長年に渡って研究を進めてきた。
大型爆撃機の片道攻撃や小型潜水艦を使った破壊工作など、様々なアイデアが検討されたが最も現実的とされたのは潜水艦に航空機を搭載し、パナマ運河を爆撃することだった。
戦間期には潜水艦に索敵用のオートジャイロを搭載する研究が行われており、ワシントン条約破棄以後は固定翼水上機を使った潜水空母の設計開発が進められた。
1939年には伊第400号潜水艦として12隻が予算承認され、呂宋の秘密ドックで建造が始まった。なお、この建造計画は同時期に建造が始まる長門型戦艦よりも機密度が高く設定され、進水式の類も一切行われず、書類上は通商破壊用途のロ号潜水艦扱いとなっていた。
だが、その実態は水中巡洋艦というべき巨大潜水艦であり、基準排水量は3,500tに達していた。
完成した潜水空母は人目につかない奥千島半島の秘密潜水艦基地に配備され、特殊水上攻撃機の訓練を行っていた。
ちなみに日本軍機は殆ど全てが鳥の名前の愛称をもつものだが、機密保持のために制式化さえされなかった特殊水上攻撃機には愛称が存在せず、日本軍唯一の名前のない鳥となった。
名前のない鳥はハ40(DB601A)を装備の高速双フロート付き水上攻撃機だった。運動性が高く急降下爆撃と同時に雷撃も可能という高性能機である。
しかし、エンジンのパワー不足からフロート付きの状態では航空魚雷や大型爆弾の運用することはできなかった。
そのため当初は機を使い捨てにする予定だったのだが、途中からハ140、さらに先行量産型のハ240(1750馬力)を与えられ、700馬力近く出力が向上したことから、フロート装備でも航空魚雷が搭載可能となり、片道使い捨ての攻撃機ではなくフロート付きの通常攻撃機となった。
なお、発進は火薬式カタパルト方式を用いており、各艦から3機が15分で発進可能だった。
1942年1月10日の攻撃においても、航空雷撃はフロート付きで行われ、全機が母艦に帰投して回収されている。
日本海軍の潜水空母艦隊はアメリカ軍の奇襲開戦を受けて1941年12月12日に奥千島半島の基地を出撃し、パナマ運河へ向かっていた。
機密保持のために洋上補給はなく、北米諸藩の軍港にも立ち寄ることもできず、冬の北太平洋を横断して直接パナマに出向くという過酷な航海であった。
12隻の潜水空母は、パナマ沖に潜伏し現地に潜入した海軍忍者から連絡を待ち、アメリカ軍の詳細な防衛状況を把握した上で、1月10日に空襲を決行。
36機の特殊攻撃機は、それぞれの目標に殺到し、見事に攻撃を成功させたのである。
アメリカ軍はパナマ近海に空母がいると思い込み、哨戒機を飛ばして血眼になって探したが、潜行した潜水空母を発見することはできなかった。
パナマ運河には西海岸からの攻撃を警戒して多数の戦闘機や対空レーダーが配備されていたが、戦線の遥か後方ということもあって、警戒態勢が緩んでいた。
実際、日本本国にまで攻め込んでいたのだから、13,500km離れたパナマの駐屯部隊がもうすぐ戦争は終わると考えていたとしても無理はない。
しかし、過信の報いは高くついた。
パナマ運河破壊によりアメリカ軍の戦争計画は根底から変更を余儀なくされる。
物資の運搬はマゼラン海峡経由で可能といえば可能だが、その効率はパナマ経由とは比較にならないほど悪いものだった。
しかも、自動参戦条項によりアメリカ合衆国に宣戦布告したドイツ海軍のUボート艦隊が北米東海岸で通商破壊戦を開始したので、さらに物資の輸送は困難になった。
1942年1月から3月までの短くも輝かしい大西洋Uボート艦隊の黄金時代第2期の始まりである。
その猛威は凄まじいもので、Uボートが活動する夜間は東海岸の沿岸航路は封鎖されるほどだった。
もちろん、マダガスカルの日本海軍の潜水艦も希望岬を超えて南大西洋に進出し、マゼラン海峡付近でアメリカの商船を狩っている。西海岸にも潜水艦はあり、長駆南太平洋に進出して、マゼラン経由で太平洋に入るアメリカ商船を狩った。
イギリス海軍相手に修羅場をくぐり抜けて質、量ともに拡充された日独の潜水艦艦隊にとってアメリカ海軍の対潜作戦はお粗末の一言であり、マゼラン経由の輸送など飢えた狼に羊の群を差し出すような行為だった。
備蓄された物資があることから、直ちに太平洋のアメリカ軍が干上がるわけではなかったが、マッカーサープランの破綻が明らかになりつつあった時期だけあって、アメリカ軍の焦りは凄まじいものとなる。
太平洋のアメリカ軍が干上がる前に、日本本国周辺の制海権を確保して日本本国を干上がらせなければ、この戦争は負けだった。
ちなみに日本本国の石油備蓄は完全な輸送停止となった場合、60日しか保たなかった。
太平洋のアメリカ軍も追い詰められていたが、それと同じぐらい日本本国も追い詰められていたと言える。
1941年1月10日時点で、日本本国周辺にはシベリア油田と樺太油田があったが、冬季に石油積出港が凍結するという致命的な弱点があり、シベリア油田からの原油輸送は無理だった。樺太油田は豊原まで鉄道輸送で原油が届くのでそこから海路で太平洋岸の沿岸航路で本国に原油輸送が可能だった。
だが、小規模な樺太油田のみでは本国の石油需要を満たすことは不可能であり、延命にしかならなかった。
日本本国へ原油供給の大動脈は二つあり、一つは加州油田であった。
加州油田は世界最高品質の原油供給地であり、日本海軍には戦前から北太平洋航路防衛には多大な研究と準備の積み上げがあった。
もちろん、アメリカ軍の根拠地があるアラスカやアリューシャン列島付近を通過することから、熾烈な妨害が予想されたが、航路防衛は万難を排して実施された。
ちなみに冬の北太平洋はアリューシャン低気圧が発達するため、アメリカ軍の攻撃よりも悪天候の方が危険であり、輸送作戦は意外なほど少ない損害で進むことになる。
アメリカ軍は通商破壊戦の定石として潜水艦を投入したが、冬の北太平洋は魚雷が発射不可能になるほど大しけの海だった。さらに魚雷そのものに致命的な欠陥があり、発射された魚雷の多くが不発に終った。
空爆はよほどの幸運で晴れ間が見えた場合のみ可能だった。
このような海で戦えるのは10,000t級の巡洋艦や戦艦のような大型船舶のみであり、北太平洋の戦いには多数の巡洋艦が投入された。
アメリカ軍も多数の巡洋艦と戦艦、それも元日本海軍の金剛型巡洋戦艦コンステレーション級を配置して、船団攻撃に投入している。
3度におよぶ近代化改装を受けたコンステレーション(金剛)とコンスティチューション(比叡)は重防御の高速戦艦に生まれ変わり、北太平洋の女王として君臨した。
この2隻だけで3ヶ月の間に40万tの日本商船を撃沈している。
北の海でこの2隻に遭遇することは死を意味していた。
大改装を受けず日本時代の艦影を残していたイギリス海軍のレパルス・レジスタンスと異なり、3度の改装で艦容を完全に米式に改めたコンステレーションとコンスティテューションはもはや完全にあちら側に堕ちた船として、怨嗟の対象となり、いつしか深海棲艦という禍々しい蔑称を戴くことになる。
だが、大出血を伴いながらも日本海軍による護衛作戦と北太平洋航路での原油供給は続けられた。
アメリカ軍の妨害は日本側の決死の防戦と悪天候、さらに情報操作によって阻まれ、航路途絶に至らなかった。
また、日本本国への原油供給にはもう一つの大動脈があった。
スマトラ島のパレンバン油田を中心とする南方油田である。
南方最大の油田であるパレンバン油田は開戦初期に精鋭空挺1個旅団を投入した電撃的な侵攻作戦によりほぼ無傷で確保されていた。
南方からの石油供給で問題になるのは南シナ海の制海権及び制空権だった。
中国沿岸に近い台湾各地の空軍基地は奇襲開戦で大打撃を受け機能停止していた。
琉球の嘉手納基地も大損害を受け、既に琉球にはアメリカ軍が上陸していた。
アメリカ軍航空隊部隊は、台湾や琉球の日本空軍基地を沈黙させると洋上の日本商船への空爆を開始している。
南シナ海での空爆によって、僅か2週間の間に37万tの日本商船が撃沈されている。
航行中の商船はただちに最寄りの港に退避したが、制空権喪失から港内に停泊中に沈められた船は多かった。
並行して潜水艦による通商破壊戦も始まっており、本国への物資輸送を阻止しようとする強い意思が感じられた。
岡山決戦に敗北してマッカーサープランの破綻が明らかになるとアメリカ軍は奇襲による江戸占領ではなく、日本本国周辺の海上封鎖に戦略を切り替えつつあった。
太平洋のアメリカ軍が干上がる前に、日本本国を干上がらせれば、まだ短期間で勝利できる可能性があった。
そのためには日本周辺の島嶼を占領して航空戦力を展開し、制空権を掌握する共に日本海軍の主力艦隊を撃滅する必要があった。
だが、硫黄島攻略は空母2隻と参加艦艇の大半を失う返り討ちの形となり、硫黄島攻略は無期限延期となった。
江戸から1,300kmしか離れていない硫黄島を攻略できなかったことは、海上封鎖戦略の上で大きな痛手だった。
そこでアメリカ軍が着目したのは琉球諸島だった。
奇襲開戦で上陸に成功した琉球は嘉手納基地を占領するなど大きな戦果が挙がっていた。
嘉手納基地にはアメリカ軍の航空部隊が進出し、琉球王国軍は南部と北部に分断され、悪戦苦闘していた。
なお、琉球王国は日本合藩国の中でも最小クラスの独立藩であり、製糖や観光ぐらいしか産業のない貧しい地域であった。
そのため藩兵の装備は合藩国内でも最も劣悪な部類に入り、上陸してきたアメリカ軍海兵隊に押しまくられる原因となっていた。
ただし、この戦いは彼らとっては祖国防衛戦争であり、兵士達の士気だけは異常に高く雑多な火炎瓶や対戦車地雷などの肉弾攻撃でアメリカ軍のM4中戦車を次々に撃破。サトウキビ畑に潜んで切り込みや狙撃でアメリカ軍に対抗していた。
琉球王国軍の奇襲攻撃に懲りたアメリカ軍はサトウキビ畑を火炎放射器や焼夷弾で焼き払って前進したが、琉球兵は土中に潜んでアメリカ軍の攻撃をやり過ごすと背後から切り込みを仕掛けてアメリカ軍を驚かせた。
だが、嘉手納空軍基地が陥落したことで制空権が喪われ、アメリカ軍の航空支援が動き始めると戦況は一気に悪化した。
琉球の陥落は日本本国の南方航路途絶を意味している。
また、米軍相手に決死の戦いを続ける同胞を見捨てる選択肢など、ない。
「彼らを犬死させてはならん。全艦出撃せよ」
呂宋第1師団を載せた逆上陸船団とそれを護衛する空母剣龍、祥龍、蟠龍を基幹とする呂宋の真田艦隊が出撃したのは、1942年1月15日のことだった。
この時、日本海軍は大きく二つの戦力を分断されていた。
本国の横須賀海軍基地を根拠地に、空母飛龍、蒼龍、雲龍を基幹とする後藤艦隊と呂宋のマニラ海軍基地を根拠地とする空母剣龍、祥龍、蟠龍を基幹とした真田艦隊である。
この内、後藤艦隊はレキシントンを討ち取り、サラトガを鹵獲する大金星を挙げたが、著しく艦載機を消耗しており、戦力が低下していた。
無傷で残っているのは真田艦隊の3隻の空母だけだったが、3隻のうち蟠龍は新造まもなく艦載機の訓練は未了だった。
対するアメリカ海軍は無傷の空母4隻も残っていた。
この時、琉球沖を遊弋するアメリカ軍の艦隊は以下のとおりである。
空母 ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネット、プロビデンス
戦艦 レンジャー、ユナイテッド・ステーツ、ノースカロライナ、サウスカロライナ
重巡洋艦 5隻
軽巡洋艦 3隻
駆逐艦 15隻
ヨークタウン型空母4隻、さらに新型のノースカロライナ級戦艦2隻に元日本海軍の金剛型巡洋戦艦レンジャー、ユナイテッド・ステーツが揃っていた。
さらにアメリカ海軍の主力戦艦部隊も艦砲射撃のために、トラック環礁を出撃して北上しており、水上艦(特に戦艦)はアメリカ海軍の方が有利だった。
占領した嘉手納基地に進出したアメリカ軍支那派遣軍の陸軍航空部隊も140機に達しており航空戦力は合計530~550機となり、日本海軍空母艦隊よりも数的に上回っていた。
指揮官はアメリカ海軍の随一の闘将と名高いウィリアム・ハルゼー提督だった。
ハルゼー艦隊は、これみよがしに周辺海域を遊弋し、誰が制海権を握っているのか誇示していた。
これを撃破し、増援を逆上陸させるのが真田艦隊の役目であり、後藤艦隊はそのための陽動役だった。
後藤艦隊は先の硫黄島沖海戦の消耗からは回復しておらず、充足率は50%に届いていなかった。
なお、この50%というのは海軍航空隊に、海兵隊航空隊も併せた数値であり、海兵隊航空隊は空母からの発艦はともかく着艦はできないというハンデを背負っていた。
一度発艦した海兵隊機は南九州の基地に戻るように指示されており、後藤艦隊の戦力は二撃目以降は定数の30%あるかどうかというぎりぎりの線だった。
空軍機の援護を受けられる南九州沿岸から離れず牽制役を務めることになっていた。
なお、南九州の知覧空軍基地には、220機の空軍機が展開して後藤艦隊を援護する手はずとなっていた。
知覧基地には、江戸防空の精鋭部隊すら一時的に転出しており、戦力の回復途上にある日本空軍においてまとまった数が揃った最良の戦力であった。
だが、後藤艦隊が本当に陽動役を果たせるかは疑問がないわけではなかった。
そもそも真田艦隊と後藤艦隊は3,000kmも離れており、これだけ離れた距離にある二つの艦隊が有機的に連携した作戦を展開できるかどうかは疑問であった。
江戸の海軍奉行所では、可能と考えていたが実際のところ、綿密な打ち合わせもなく、ぶっつけ本番に近いこの作戦は各個撃破されかねない危険を当初から指摘されていた。
そして何よりも、後藤基次という闘志の塊のような男に牽制のような慎重な指揮を求められる役割が務まるかどうか疑問がもたれていた。
「くれぐれも功を焦ることなく、牽制に努めるように」
という海軍奉行山本五十六の訓電が残っているほどである。
だが、呂宋海海戦における後藤艦隊に動きには牽制と思えるものは一切見られない。
実際のところ、真田艦隊は琉球近海に達するのは米潜水艦の妨害により翌日までずれ込み、この海戦には間に合わなかった。
本命の真田艦隊が間に合わない以上、牽制など全く無意味だった。牽制している間に全滅してしまう。
後藤提督にそこまで全体を俯瞰した判断があったのかは不明だが、当初の作戦に拘っていたらこの海戦の行方はどうなっていたか分からなかった。
「空母戦は先手必勝。先手をとらなきゃ、袋叩きにされるぞ」
懸念を述べる幕僚に対する後藤提督の発言が彼の発想の全てといえるだろう。
知覧の空軍機が索敵に成功してハルゼー艦隊を発見すると後藤艦隊は艦載機の発進準備を行いつつ、増速して間合いを詰めていった。
ハルゼー艦隊を発見したのは知覧基地を発進した39式重爆だった。
これが呂宋海海戦の始まりを告げる号砲となる。
知覧基地からは即座に40式陸攻と飛燕Ⅱ、39式双軽爆の55機編隊が離陸し、ハルゼー艦隊に攻撃を行った。
だが、この攻撃は犠牲の割には戦果が乏しかった。
戦艦1隻に魚雷1本命中させただけで、空母への攻撃は失敗に終わる。
厳重に守られた洋上の空母を攻撃するには戦力が少なすぎた。護衛戦闘機は12機に過ぎず、以前から防御に不安があった40式陸攻は大損害を出してしまう。
長距離飛行のため大量の燃料を積むためにインテグラルタンクを採用した40式陸攻は防御力が不足しておりインド洋の戦いでも戦闘機の迎撃で高い損耗率を記録していた。
だが、先制に成功したことは決して無意味ではなかった。
間合いを詰めた後藤艦隊から発進した第一次攻撃隊45機が続けざまにハルゼー艦隊上空に殺到して、39式艦爆隊が空母ヨークタウンに250kg爆弾3発を命中させた。ヨークタウンは格納庫の艦載機が誘爆して大火災となる。
攻撃隊は半数を失う大損害となったが、米空母機動部隊はヨークタウンが再起不能となり戦力の4分の1を失う結果となった。
さらに後藤艦隊の放った第二次攻撃39機は大半が未帰還になるものの米空母プロビデンスに航空魚雷2本と250kg2発を命中させ、大破させた。
先手必勝を絵に描いたような展開であった。
だが、空母艦載機の大半を失った後藤艦隊には、嘉手納基地を発進したアメリカ軍航空部隊が迫っており、復讐の刃を浴びることになる。
残存の艦載機と知覧基地からの飛燕Ⅱが展開する戦闘機の傘を突破した米海兵隊航空隊の攻撃機85機が飛龍、蒼龍、雲龍に殺到した。
SBD艦爆12機に襲われた蒼龍は1,000ポンド爆弾2発を受けて大破、炎上。魚雷装備のB-26から航空雷撃を受けた雲龍は1本命中で済んだものの航空機用ガソリンタンクが歪んで燃料が漏れ始める。
大将旗を掲げる飛龍1隻のみ全ての攻撃を回避した。
空襲終了後、後藤艦隊は飛龍、雲龍から第3次攻撃隊26機(戦闘機9機、艦爆10機、艦攻7機)を発進させた。
さらに第4次攻撃隊の発進準備が進められたが、発艦前にハルゼー艦隊のホーネット、プロビデンスの艦載機88機が後藤艦隊に襲いかかる。
既に大破していた蒼龍は攻撃回避もままならず魚雷3本の命中で総員退艦が命じられ、気化したガソリンが艦内に充満していた雲龍は1,000ポンド爆弾1発の命中で艦が火だるまになって放棄された。
ただ1隻残された飛龍はその生涯において特筆すべき力量を発揮した。
飛龍は公試以外で発揮したことがなかった最大戦速35ノットで海面を駆け回り航空雷撃8本を全弾回避した。
いつもなら確実に機関が故障して動けなくなるのだが、何故かこの時だけは不思議なことに最後の最後まで足が止まることはなかった。
だが、雷撃回避のために転舵を繰り返したことで艦隊から孤立。急降下爆撃機12機に狙い撃ちにされ、1,000ポンド爆弾2発を受けてしまう。
「いいぞ。面白くなってきた。これより反撃する」
爆炎を吹き上げる飛龍の飛行甲板を見て後藤提督はそう言い放ったとされる。
飛龍の格納庫で爆発した2発の1,000ポンド爆弾は艦そのものへの打撃は大きかったが、艦載機が払底し、格納庫内に誘爆するものがなかったから発生した火災は短期間に消し止められた。
だが、飛行甲板は破壊され着艦はもはや不可能となった。
生き残った艦載機は極わずかで、飛龍に最期の時が迫っていた。
そんな中でも飛龍最後の攻撃隊が編成された。
滑走発艦が不可能だったので、圧縮空気式カタパルトで彼らは発艦した。
攻撃隊は戦闘機2機と艦攻4機だった。
本来、重い魚雷を抱いた艦上攻撃機はカタパルト発進させることは不可能だったのだが、燃料を片道分だけに限定することで、魚雷装備の艦上攻撃機を発艦させた。
先に発進した第3次攻撃隊はほぼ全滅したが、ホーネットに250kg爆弾1発を命中させ飛行甲板を破壊し、魚雷2本命中で機関停止に追い込んだ。
第4次攻撃隊は戦闘機2機を除いて艦攻隊は全機未帰還となったが洋上に停止したホーネットに魚雷1本を命中させ止めを刺した。
これによりハルゼー艦隊は壊滅状態に追い込まれた。
米太平洋艦隊の無傷の空母はエンタープライズ1隻まで減少したのである。
ハルゼー艦隊の半数以下の戦力でありながら後藤艦隊の果敢な攻撃は、3倍近い戦力差をひっくり返し勝利の道を切り開いた。
なお、ホーネット、エンタープライズから発進した第二次攻撃隊により、飛龍は集中攻撃を浴びて18発の魚雷、爆弾が命中。艦全体から炎を吹き上げて、飛龍は轟沈した。
大量の攻撃が集中したことから飛龍の生存者は全乗員の1割未満の98名に留まっている。
その98名の中に後藤提督は含まれていない。
真田艦隊が到着した時、既に海戦は終了していた。
稼働空母が1隻まで減少したハルゼー艦隊には撤退命令が下りて戦場を離脱、後藤艦隊もまた提督と空母3隻を失って横須賀に撤退中だった。
アメリカ海軍太平洋艦隊の戦艦部隊も、ハルゼー艦隊の敗北を受けて反転していた。
なお、米空母のヨークタウンとプロビデンスは撤退の際にアメリカ軍が自沈処分しており、既に波間から消えていた。
サラトガ鹵獲という失敗に懲りた米軍は魚雷を4発以上撃ち込んで念入りに艦底に穴を空けていたので、ヨークタウンとプロビデンスは数分のうちに転覆して沈んでいった。
後藤提督の死は真田艦隊に伝わっており、艦隊には消沈した気配が漂った。
「後藤殿を死なせてしまったのが、あの戦争における私の最大の不覚だ」
と真田提督は後に述べている。
なお、逆上陸作戦そのものは大きな妨害もなく進んだ。
空母剣龍、祥龍、蟠龍から発艦した艦載機が嘉手納基地を爆撃し、船団上空を守った。
呂宋藩の最精鋭である呂宋第1師団の到着により、陥落寸前の首里からアメリカ軍は撃退された。
呂宋第1師団が持ち込んだ20サンチ榴弾砲は長距離射撃で嘉手納基地には砲弾の雨を降らせて使用不能に追い込み、真田艦隊の艦載機も加わって琉球諸島近海の制空権、制海権の奪還に成功する。
琉球に上陸したアメリカ軍3個師団は日本軍の反撃と補給の欠乏で追い詰められ、1月28日には降伏に追い込まれた。
これによって日本本国は南方航路途絶の危機を乗り越える。
台湾と琉球の航空戦力の立て直しは徐々に進み、それに伴って南シナ海の空と海から米軍機と米潜水艦は締め出されていった。
開戦から2ヶ月経過するとアメリカ軍の奇襲は失敗に終ったことが明らかになり、戦線を立て直した日本軍の反攻が始まるのである。




