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幼年期の終わり





 幼年期の終わり

 


 元禄文化とは、江戸時代前期、元禄年間(1688年 - 1707年)前後の17世紀後半から18世紀初頭にかけての文化を指し、歌舞伎や浮世絵のような現代まで続く日本文化の原型が出揃った時期となる。

 この頃の幕府将軍は五代将軍綱吉であった。

 綱吉は生類憐れみの令といった傍迷惑な悪法を敷いた暗君として低く評価されてきたが、近年の資料研究によって再評価が進んでおり、生類憐れみの令も日本初の社会福祉制度の創設であったと再定義がなされている。

 生類憐れみの令は、公家や寺社仏閣に留まっていていた死や血を汚れとする習慣が民衆に広まるきかっけともなり、傾奇者が戦場食として野良犬を殺して食べるような戦国の遺風はほぼ消し去られた。

 愛玩動物として犬や猫、鳥類を愛でる習慣もこの頃から一般化する。

 日本国内の最後の戦乱となった関ヶ原の戦いから80年以上が経ち、唐出兵からしても40年近くが経過していた日本は大きな戦乱もなく、平和の只中にあり、天下太平という言葉が人々の中に定着していった。

 この元禄年間の文化爛熟は、その担い手となったのが都市に住む町人(大衆)という点で、それまでの如何なる日本の文化興隆とも異なる意味も持つものであった。

 これまでの文化は、一般的に生活に余裕がある一部の貴族や大名、僧侶がその担い手であり、その流行は狭い範囲に留まっていた。

 それに対して元禄文化は都市に住む膨大な数の町民が担い手となって、その流行範囲がこれまで如何なる文化興隆よりも広大な範囲で発生した。

 それは継続的に発展し、後の化政文化や現在の大衆文化の魁となるものである。

 大衆文化は生活にゆとりのある富裕大衆なくして成り立たないものであり、商工業の先進地域であった摂津、大阪がその最先端を担うことになった。

 この頃の大阪はスペイン、ポルトガル、オランダ(ネーデルラント)、イングランド、フランスと言ったヨーロッパ主要国の貿易船が常に出入りする国際港であり、ヨーロッパの先端ファッションが最初に紹介されるのは常に大阪であった。

 ヨーロッパ文化の流入も元禄文化の特徴である。

 将軍家大奥で一世を風靡することになるフランスのレースが流行ったのも、大阪が最初であった。

 菱川師宣が馬鹿馬鹿しいまでに華美なレースで着飾った花魁道中の屏風絵を描いたのも大阪でのことである。

 女性用のフリルつきスカートが初めて日本で販売されたのも同時期だった。

 和服に混じって、洋服を来た人々が屏風絵や浮世絵に登場し、当時の人々のファッションを現在にまで伝えている

 また、呂宋や台湾産の砂糖が大量に輸入され、日本食にも大変化が訪れていた。

 砂糖を入れてコーヒーを飲む習慣が一般化し、アイスクリームの製造が始まるのも元禄文化からである。

 カステラや金平糖といった戦国時代にポルトガルから流入した高価なお菓子も、一般大衆の手の届く値段となっていった。

 将軍家のお膝元では生類憐れみの令があって困難な肉食も、瀬戸内農法が広まって牧畜が普及していた大阪では大っぴらに行われていたことが確認されている。

 琉球から入った豚の飼育が広がり、神戸にて食肉目的の和牛の改良も著しく進んでいる。また、今風のすき焼きの原型が出来たのもこの頃である。

 清酒の低温殺菌技術を応用した牛乳の販売が都市部で広がり、バターの生産も始まっている。戦がないので火薬の原料であった硝石が余り、保存料としての使用法が考案され、南蛮人向けのハムやソーセージの生産も始まっている。

 喫茶とともに喫煙も広がり、マニラ葉巻が珍重された。マニラ葉巻は呂宋藩の重要な財源となった。 

 江戸時代初期の海外藩となった呂宋藩は、元禄年間には製糖と果物のプランテーション栽培で巨万の富を築いて日本有数の富裕藩となっており、1,000万両に及ぶ借金も早々に返済を完了して、逆に貸付を行うほどになっていた。

 マニラに築かれた和洋折衷の巨大な戦闘要塞、呂宋城が完成したのもこの頃である。

 現在も呂宋城は国定公園として一般に公開されている。

 呂宋の稲作は熱帯性気候を利用した三毛作が可能であり、呂宋米は日本に輸出され、江戸や大阪の貧しい都市生活者の胃袋を満たしていた。

 呂宋米は日本産のジャポニカ米と南方系のインディカ米の折衷であり、食味が日本人の好み合わないので、下男下女が食べるものとされたが、それでも貧しい都市生活者でも白米が食べられることは画期的なことだった。

 こうした白米には、脚気予防に雑穀の麦を混ぜて焚くことが推奨された。

 脚気はビタミンBの不足が原因であることが分かるのは20世紀になってからだが、白米に麦を混ぜて食べると脚気にならないことは経験則的に理解されていた。

 こうした脚気対策は大阪や呂宋から広まったものである。麦飯の他に蕎麦も脚気に効果があるとされ、立ち食いそばが都市部に広まった。

 しかし、雑穀である麦を混ぜた麦飯は、上級の武士からは体面が成り立たないとされ、忌避される傾向にあったことも事実で、脚気からの心不全と命を落とした幕閣などの政治指導者も多かった。

 なお、製糖と米輸出で儲けていたのは台湾の加藤家も同じである。

 加藤家が台湾防衛のために築いた高雄城は、呂宋城とは異なり純日本式城郭として建造され、江戸城や大阪城を除けば世界最大級の城郭建築である。

 また、江戸城、大阪城が度々火災で消失しているのに対して、21世紀現在に至るまでほぼ当時のままの原型を留めているという点で大変貴重なものである。

 呂宋と台湾の砂糖はヨーロッパにも輸出されており、奇跡の調味料としてフランス宮廷料理において珍重された味塩(グルタミン酸ナトリウム)に並ぶ重要な輸出品目だった。

 フランスの宮廷料理には舌がしびれるほど大量の味塩を使うのが貴族の嗜みとされた。

 太陽王ルイ14世は大量のグルタミン酸ナトリウムを摂取したため、緑内障を患い晩年は失明寸前だったという。

 本国も海外藩との貿易に負けじと殖産興業を勧めており、ヨーロッパ相手の貿易は圧倒的な黒字で推移し続けた。

 同時期に衰退過程を進むスペインやオランダは、その原因を日本相手の巨額の貿易赤字とする研究すらあるほどである。

 日本本国から輸出されたのは抗生物質などの医薬品と茶、陶磁器、ガラス製品、生糸、毛織物、味塩(グルタミン酸ナトリウム)だった。

 陶磁器と生糸は唐出兵の略奪から技術的にほぼ中国産と同等水準に追いつき、清が鎖国政策をとったために海外市場は日本の独断場となっていった。

 陶磁器の主な産地は当初は摂津のみだったが、製法が日本各地に伝播し、この頃には瀬戸焼、九谷、伊万里でも陶磁器に生産が始まり、ヨーロッパに輸出された。

 窯業は食器以外の用途も考案され、膨大な量のタイルが焼かれている。

 フランスのベルサイユ宮殿に装飾品として納められた日本製タイル数千点に及んだ。

 宮殿の建材として金泥をふんだんに使用した人工美の極北のような華麗なタイルが瀬戸や多治見で焼かれ、一枚ずつ油紙に包まれてフランスに送られている。

 喫茶文化は、オランダ、フランス、イギリスにも広まり、製法にも工夫が凝らされた。

 唐出兵での略奪により烏龍茶の製法が伝わり、日本の茶道も大きく変容することになる。

 戦国期の茶道は武家の抹茶茶道として発展し、武家以外の庶民の茶道としては烏龍茶や紅茶を使うのが一般的となった。

 日本製の毛織物は寒冷なヨーロッパにおいて多いに持て囃された。

 水力式の自動紡績機、自動織機は大阪で開発され、水力に恵まれた木曽三川を持つ尾張藩、一宮にて空前の繁栄を誇ることとなる。

 軽くてかさばらない衣類は、貿易船に積み込むのに好都合であった。

 これらの物産を運ぶ海運業も大きく発展し、1万石舟や2万石船と呼ばれる日本製大型ガレオン船がローロッパと日本を結んだ。

 造船は製造業の集積であり、船で使う様々な機械部品を製造する各種機械工業も発展。水力式の初歩的な工作機械が現れたのも元禄時代である。

 大阪湾に築かれた野放図なまでに広大な赤レンガの倉庫郡と砂よりも多いと称された港湾労働者、そして湾を埋め尽くす大小無数の日の丸商船団こそ元禄日本の繁栄そのものであった。

 この時期、日本商船団はアジア、太平洋地域の海上覇権を確固たるものとしていた。

 戦国時代に世界の海上覇権を誇ったスペインは既に衰退しており、その後に繁栄を築いたオランダも、イングランドとの戦いで大幅な退勢を余儀なくされていた。

 スペインもオランダもアジアに拠点を持っていたが、それらの維持に汲々としており、日本の助力がなければ維持できないほど窮乏していた。

 海賊対策に日本本国で失業した戦士階級、ローニンと呼ばれる傭兵を雇うのはオランダ東インド会社に所属する船なら常識的に行われていたことである。

 ジャワ、スマトラ島に建つオランダ商館の警護をしているのも皆、ローニンであった。

 彼らは非常に優れた戦士であり、特にサツマのローニンはジパング最強と誉れ高く、サツマのローニンを雇って身辺警護させるのは富裕者にとって一種のステータスでさえあった。

 ローニンは貿易船にのって遠くヨーロッパのアムステルダム、ロンドン、パリ、ヴェネツィアにも姿を見せており、洋服を着て丁髷を結った風変な格好のローニンがバロック美術の絵画に数多く登場している。

 この頃、アジア・太平洋において、日本のライバル足り得る国はなかった。

 唯一清朝のみが、この時の日本の上回る国力を有していた。しかし、清朝は陸続きの周辺への拡張は行っても、対岸が見える台湾海峡のような狭い海を渡ることはなかった。

 奇妙なまでに海の向こうへの興味関心がない清朝を訝しみつつも、日本もまた大陸への興味関心を失っていった。

 下手に刺激して寝た子を起こすような真似は厳に慎むべきことだった。

 この頃、日本の海上覇権は大きな平和の中で発展していくこととなる。

 スペイン、オランダを退けてヨーロッパの海上交通を制覇したイングランドはアジア、太平洋よりもインド洋や新大陸での勢力拡張に忙しかった。

 次世代の海洋覇権国家であるイングランドと日本の対決は次世代へと持ち越しされる。

 この時、もう少し無理にでもインドや新大陸への進出を強めていれば、その後の日本の歴史は全く違ったものになっていただろうと言われている。

 だが、急速な海外展開から、足場を固めることができずに崩れていったスペインや自力が致命的に欠けていたオランダの例を考えると日本の海外展開のスピードはむしろ適切であったという意見もある。

 また、国内を固めるあまりに海外への興味を失っていった清朝のような例もある。

 適度に国内を固めつつ外部への展開を両立するバランスが日本とイングランドにはあり、その限界がインド洋、新大陸とアジア太平洋の分断と併存を産んだといえるだろう。




 元禄時代、海外藩との取引や国際取引が増えるにつれて、それまでの貨幣制度の旧式化が明らかとなり、貨幣制度の改革(貨幣改鋳)が行われることとなる。

 貨幣改鋳はまず海外貿易の決済で使われる銀貨から行われた。

 これまで日本の銀貨は計量貨幣だった。

 商取引において一々秤で重さを図っていたので不便極まりなかった。また、計数貨幣である小判に両替する際に、金銀相場によって価値の変動が生じ、両替かかる手間暇が多く、両替商が手数料収入で莫大な利益をあげていた。

 国内の技術革新もあってヨーロッパ式銀貨の大量鋳造可能となっており、まず現役将軍の綱吉を刻印した計数貨幣の元禄銀貨が発行された。

 以後、銀貨はその時々の現役将軍の顔を刻印したものとなる。

 綱吉を描いた元禄銀貨はその中でも最古のものであり、希少性は極めて高い。

 21世紀初頭に大阪湾の浚渫工事中に海底から難破船に積まれた大量の元禄銀貨が回収され競売にかけられた時は1枚につき数百万円の値段がついている。

 その後、金貨の改鋳が行われ、こちらは初代将軍徳川家康を刻印したものとなった。図案はその後に数度改定されているが初代将軍を用いることは最後まで変わってない。

 後々に日本で最初に金兌換紙幣が発行された際も、肖像は初代将軍徳川家康である。

 この貨幣改鋳により国内の両替商は大きな転換期を迎えることになった。

 元禄銀貨、元禄金貨により貨幣流通は完全に統一され、両替商は手数料収入を得ることができなくなったのである。

 両替商達は、それまでに蓄えた資金を元手に貸付業へと転出を余儀なくされた。

 後の鴻池財閥はこの転出に成功した両替商の生き残りであり、近代的な銀行業の始祖的な存在でもある。

 また、貸付業ではなく海外貿易船に対する保険業を始めた両替商も多く、船舶保険、火災保険、生命保険といった各種保険が元禄時代に考案され、販売された。

 とくに火災保険は度々、大火に見舞われた江戸では大ヒット商品となった。

 この貨幣改鋳は綱吉の治世において最も評価された経済政策となり、日本の経済流通は飛躍的に発展した。近代的な貨幣制度の始まりであり、中世以来続く三貨制度の大改革であった。

 もしも、海外貿易が大幅な黒字ではなく、大量の金銀の流入がなかったとしたら、この改革は成功しなかったとされる研究が多い。

 むしろ貨幣改鋳の差益を利用した改悪が行われた可能性さえあっただろう。

 しかし、綱吉の貨幣改鋳は大成功に終わった。

 それにも係わらず、当世における綱吉の評価が今ひとつ芳しくない。

 もちろん、生類憐れみの令といった極端な動物愛護の強要が嫌われたこともある。

 しかし、それ以上に、当時、頻発した飢饉や大地震や火山の噴火といった天災が、天罰(主君の徳が無いために起こった)と捉える風潮があったことが大きかった。

 天災への対応で莫大な財政出動が生じ、幕府の財政が慢性的な赤字へ転落することとなったのもこの時期であり、その後の改革で苦労したことから綱吉への恨み節があるだろう。

 だが、綱吉がこれらの天災に対して無為無策であったわけではない。

 元禄年間に江戸の街を焼いた勅額火事では、その後に大規模な火除け地を整備すると同時に、建物の難燃化を図っている。

 具体的には、大阪で生産される耐火レンガとモルタルの大規模な採用であった。

 ただし、以前に比べて銅値が高騰していたので、屋根は大阪とは異なり銅葺きではなく、瓦葺きが基本とされた。

 元禄時代になると西洋建築と日本式建築の融合もかなり進んでおり、高温多湿の日本でも過ごしやすいレンガ建築術が考案され、江戸にも大阪のような赤レンガの街角が現れた。

 また、宝永地震・富士山噴火による飢饉には、呂宋、台湾から米を緊急輸入して対応し、復興建材の需要から木材が激しく高騰した際には、台湾に木材の緊急供出を命じて短時間に建材の暴騰を鎮静化させている。

 だが、その後も木材価格の高騰が止まらず、その対策に幕府は頭を悩ませることになる。

 同時期に発生した奥州の飢饉も、一時は凌いだものの二度三度と続くようになると一揆や打ち壊しが慢性化して社会不安を著しく増大させた。

 飢饉を頻発させたのは水害により田畑の流出が度々起こったからであり、なぜ水害が頻発するのか、当時の人々による理解は、専ら公方の徳のなさという結論に落ち着いていた。

 現代に生きる我々ならば、その理由を知ることができる。

 すなわち、元和偃武以来の天下太平により、人口爆発が生じ、食料増産のための新田開発と建材用の木材切り出しによる大規模自然破壊が全ての元凶であった。

 現在の緑豊かな日本列島からすると想像することは困難であろうが、元禄時代は日本の自然破壊が最も進んだ時代である。

 その証拠に、元禄時代の風景画には山々の緑の表現がないのである。

 なぜならば、建材や燃料としての切り出しによって人が簡単に立ち入ることができる場所から森や林は完全に失われており、自然回復すら不可能なほど破壊されていた。

 日光東照宮のような大規模寺社建築は森林資源の浪費の最たるものと言えよう。

 雑草や灌木が生えるだけのハゲ山が増え、簡単な雨でも山体が破壊されるほどの土石流が起きている。

 山の際や山そのものを水田にする棚田が日本全国に現れたが、山の獣による食害が度々起きたことから、日本鹿や猪が西日本を中心に狩りつくされた。 

 牧畜が進んだ西日本での日本オオカミの絶滅は早く、元禄時代には既に絶滅していたと考えられている。

 日本列島は元より自然環境が厳しく、台風の頻発地帯であったが、元禄時代以前は保水力豊かな森林によって守られてきた。

 その森林を自らの手で破壊しつくした日本人が、日本列島に住めなくなる時代がすぐそこまで来ていたのである。

 





今週は日曜日投下できないので、先に投下することにします。

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