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WWⅡ バーニング・アイランド



WWⅡ バーニング・アイランド


 ソコトラ島は、アラビア半島の南300km、アフリカ大陸の東端アシル岬の東北東240kmに浮かぶ孤島だった。

 紅海入り口のイギリス軍の拠点ジブチからはおよそ1,100km離れていた。

 島の面積はおよそ410,000ha。東西約70kmで、南北は20km程度の細長い島である。

 孤立した島で厳しい自然環境のもとで珍しい独特の生態系が育まれた。人口は約40,000人で、殆どがアラブ系だった。

 降水量が少なく、モンスーンの時期に発生する霧だけが水源だった。5月から9月は強風が吹き荒れ、海も大荒れになって島は完全に孤立状態となる。

 もちろん、上陸作戦は完全に不可能だった。

 10月から3月までは海も穏やかで風もなく、航空戦も可能となる。半年間しか使えない島ではあったが、それまでに北アフリカの戦いもケリがついているものと思われた。

 ロンメルのDAKがエジプトを制圧してしまえば、インド洋航路は完全に遮断されるのだ。

 それまで島を使えれば、日本軍にとっては十分だった。

 ソコトラ島にはイギリス空軍の航空基地が建設され、1941年10月以後100機程度の戦闘機部隊が展開していることが偵察で分かっていた。

 対岸のオマーン、イエメン、ソマリアにも航空基地が建設され、インド洋航路の最後の灯火を守っていた。

 この島の占領には、イギリスがそれと気付いて戦力の集中を図るよりも早く、制空権を奪取して電撃的に上陸、制圧するのがベストだった。

 なにしろ英インド洋艦隊の根拠地であるジブチの目と鼻の先にある島である。上陸中に敵艦隊の突入を許せば完全な破滅だ。

 そこで日本軍は大規模な陽動作戦を立案する。

 カルカッタ攻略、ガンジスデルタ上陸作戦である。

 日本陸軍はビルマ戦線において1941年5月までにインド国境近くのチンドウィン河まで前進していた。

 フランス流の攻勢主義を信奉する日本陸軍がそこで止まったのはビルマに激しい雨季が到来したためである。

 雨季が終わるのは10月以後で、それまで大規模な地上戦など悪夢であった。もちろん、飛行機も飛べない。

 その間、日本空軍はビルマ方面の航空部隊を後方に送って練成と補充に努めていた。

 イギリス軍も秋になれば、沿岸伝いに日本軍のカルカッタ侵攻が始まることを確実視していた。

 カルカッタこそ、イギリスのインド支配の中心地であるからだ。

 カルカッタ陥落がもつ政治的な意味はとてつもなく大きかった。

 しかし、日本軍のカルカッタ上陸は陽動であった。

 もちろん見え透いた陽動が通じるイギリス軍ではない。本気の本気でカルカッタとインド本土への侵攻を狙っていると敵味方に思い込ませる必要があった。

 ビルマにチャンドラ・ボース率いるインド国民軍が展開していたが、そのボースにさえ日本軍は真実を伝えずカルカッタ作戦のみを吹き込んだ。

 チャンドラ・ボースについては多くを語る必要はないと思われる。

 マハトマ・ガンジーに並ぶインド独立の父である。

 だが、その評価はインド国内においては高いとはいえない。

 ガンジーと異なり武力闘争に基づく彼のインド独立運動はインド社会に多くの傷跡を残したためである。

 後々のことはともかくとして、ボースは第二次世界大戦の勃発をうけてインド独立の好機と考え、当初ソ連を頼ることを考えていた。

 しかし、ソ連はイギリスとの関係を重視してボースの受入を拒んだため、アフガニスタンで立ち往生することになる。

 ボースは日本とドイツを両天秤にかけて日本を選んだ。

 アメリカ合衆国に並ぶ経済力とアジア・太平洋における日本の絶大な政治・軍事力を考えれば当然の選択であった。

 しかし、あまりにも強すぎる力がインドの独立と自主性を損なう可能性(実際にそうなった)もあり、ボースの日本行きは止む得ない選択といえた。

 日本に渡航したボースはインド洋作戦を考えていた日本軍から歓迎され、日本におけるインド独立闘争の第一人者となっていった。

 インド国民軍は、ボースの指揮下で主にマレー半島やスマトラ島、セイロン島で捕虜になったインド兵を基幹に、イギリス軍から鹵獲した武器で編成された。

 カルカッタ攻略作戦においては、インド国民軍は全軍の先鋒を務め、ラングーンに展開した日本空軍の支援のもとでビルマ沿岸を陸路でカルカッタを目指すものとされた。

 もちろん、これはイギリス軍の目を東に向ける欺瞞だった。

 日本軍は本気でカルカッタ侵攻を企図していると見せかけるため、多数の偵察機を送り込みカルカッタの偵察を強化していた。

 さらに潜水艦で海兵隊の特殊部隊を送り込み、カルカッタ周辺の小規模な軍事基地や沿岸砲台への襲撃作戦を繰り返した。

 イギリス軍はこれを受けて、カルカッタ上陸作戦が近いと判断し、北アフリカへの増援を削ってでもカルカッタ防衛の強化を図った。

 カルカッタはイギリスのインド支配の象徴であり、これを失うことはインドを失うも同然と認識されていた。

 だが、日本軍の真の目標はソコトラ島だった。

 日本軍は、セイロン島にカルカッタ・ガンジスデルタに上陸作戦を行うためとして、海兵隊3個師団を集めたがこれもまた欺瞞であった。

 実際にセイロン島に上陸したのは、モルディブ諸島にあるアッズ環礁の秘密基地に集められた日本陸軍一木支隊だった。

 アッズ環礁は日本海軍が急造した一種の秘密基地だった。

 日本海軍はセイロン島のツリンコマリーを母港としていたが、この港は大陸に近く空襲に脆弱で諜報活動も容易であり、艦隊の母港にはふさわしくなかった。

 他に適当な物件がないか探していた日本海軍はインド洋に浮かぶモルディブ諸島のアッズ環礁を発見し、潜水艦母艦やタンカーや工作艦、給糧艦を派遣して臨時基地を設営していた。

 航空部隊は当初は水上機のみだったが、飛行場が建設され空軍機も進出している。

 セイロン島上陸作戦のため編成された日本陸軍一木支隊は兵員2,000名だったが、浮航軽戦車や装甲艇、水陸両用トラクターをもつ機械化上陸戦部隊だった。

 また、38式歩兵戦車を装備した戦車1個中隊が支援兵力として増強された。

 この他に潜水艦から発進する海兵隊の特殊部隊がおよそ50名が参加することになっていた。

 ソコトラ島上陸作戦は、1941年10月1日決行とされた。

 何も知らされていないチャンドラ・ボースがラジオ放送でカルカッタ解放の日は近いと発表したまさにその日が作戦決行の日だった。

 作戦名は、夜のワタリガラス。

 日本軍の作戦名は防諜のため辞書から無作為抽出されて生成されるが、この作戦名を聞いた多くの将兵が間に何か挟まるような感覚を覚えたという。

 欺瞞の総仕上げとして、セイロン島のツリンコマリー港に日本海軍の空母機動部隊が結集し、盛大な見送りの元で出港。無線封鎖を行って全速でインド洋を西進した。

 ソコトラ島上陸作戦に参加した日本海軍機動部隊の陣容は以下のとおりである。


 旗艦 金剛

 空母 飛龍、蒼龍、雲龍、剣龍、祥龍

 戦艦 比叡、榛名、霧島、高千穂、穂高

 巡洋艦 利根、筑摩、吉野、揖斐、阿賀野、能代、矢矧、酒匂 

 駆逐艦 24隻


 修復を終えた飛龍型空母1番艦飛龍、2番艦の蒼龍。さらに改飛龍型の1番艦の雲龍、2番艦の剣龍、3番艦の祥龍が集まった。

 祥龍は、就役したばかりの新鋭艦でペンキの匂いが香る若い船だった。

 5月のセイロン沖航空戦で大打撃を受けた航空隊も再建され、新たに空母1隻を加えた日本海軍空母機動部隊は質、量ともに満足すべき状態を確保していた。

 一箇所に5隻も空母を集中させた艦隊は、1941年10月の時点では、世界に1つしかない。

 その世界に一つしかない空母機動部隊を率いるのは、真田雪村海軍中将だった。

 真田提督は航海科出身ながら独学で飛行機の操縦を覚え、パイロット免許をとった努力家で、海軍将校でありながら空軍士官大学校に転入して航空戦を学んだ。

 空母機動部隊指揮官として将来を嘱望されるエリートの一人であり、乾坤一擲の大作戦を担うにふさわしい人材だった。

 なお、これまで日本海軍の空母部隊を率いてきた後藤基次提督は、この作戦には不参加となった。後藤提督は熱帯病に冒され、シンガポールの海軍病院に入院中だった。

 ちなみに真田提督は南天大陸出身で、南天の名族真田家の傍系である。

 完全な無線封鎖を実施した真田艦隊は、アッズ環礁から出港した上陸船団と洋上で合流し、ソコトラ島へ接近した。

 この間、カルカッタ周辺では激烈な航空撃滅戦が行われ、イギリス軍の注目をインド東部に集めていた。

 10月5日、攻撃に先立って海兵隊の特殊部隊が潜水艦から夜間、ソコトラ島に上陸し、沿岸監視哨やレーダー基地を襲撃して、これを使用不能とした。

 こうした特殊部隊の上陸にはまるゆと呼ばれる輸送潜水艦が使用された。

 まるゆは物資揚陸を目的に設計・開発された特殊兵器で、破壊工作員を秘密裏に上陸させるために建造された。

 非常に使い勝手が良かったことから、まるゆは大量生産されて秘密輸送作戦に多用されることになる。まるゆの活動として特に有名なのは、南天大陸の反政府勢力への秘密武器輸送だろう。

 一度に40tの物資を輸送できるまるゆは様々な武器弾薬を送り届け、オーストラリアで抵抗運動を行う日本人ゲリラ軍を支えた。

 特殊部隊から暗号通信でレーダーの無力化を知らされた真田艦隊は、各空母から20機の40式艦戦「海燕Ⅱ」を夜間発進させた。

 選りすぐりのベテランパイロットに操られた海燕Ⅱは夜間低空飛行でソコトラ島の航空基地に接近し、計画通り夜明けと同時に低空銃爆撃を開始、地上駐機中のイギリス空軍機を撃破した。

 この攻撃は完全な奇襲となり100機近くあったイギリス軍戦闘機部隊は哨戒飛行中だったものを除いて全てが地上撃破される大惨事となった。

 攻撃開始から僅か15分で、ソコトラ島の制空権は日本軍の手に落ちた。

 さらに夜明け同時に各空母から発艦した第一次攻撃隊146機がソコトラ島に殺到し、各地の防衛施設を爆撃した。

 なお、この作戦から日本空母機動部隊には、新たな戦力として41式艦上攻撃機”鯵刺”が加わっている。

 鯵刺は中島飛行機が設計開発した3座単発の艦上攻撃機である。設計開発段階からの艦上運用することを目的とした(空軍機からの改造品ではない)純粋な海軍機だった。

 日本海軍は鯵刺を以って初めてまともな艦上雷撃機を得たと言える。

 中島製の強力な「護」空冷14気筒エンジン(離昇1,700馬力)を備え、防弾翼内タンクとパイロット保護のための15mm防弾鋼板を持っていた。風防も防弾ガラスとなっており、防御機銃もMG17を連装化した動力銃塔を備え、火力を増していた。

 防御は充実していたが、発動機はややアンダーパワーで、速力は高度5,000mで時速430kmを超える程度だった。

 また、爆弾や魚雷を機外搭載するため爆装するとかなり速力が低下する欠点があったが、漸くまともな艦上雷撃機を持つことができた海軍の喜びは大きかった。

 ソコトラ島は鯵刺の初陣で、250kg爆弾4発を抱いた鯵刺は水平爆撃でソコトラ島の航空基地を粉砕している。

 空母機の援護のもと、輸送艦あきつ丸から発進した一木支隊は上陸海岸に殺到し、殆ど抵抗なく上陸に成功した。

 イギリス軍は1個大隊規模の守備隊をソコトラ島においていたが、分散配置されており上陸作戦阻止するには兵力の集中を欠いていた。

 どのみち、20.3サンチ砲弾や28サンチ砲弾が降り注ぐ上陸海岸への攻勢は無謀であり、内陸での抵抗戦を行う方がまだマシだった。

 だが、浮航軽戦車や歩兵戦車1個中隊の支援を受ける一木支隊を相手に、制空権も有力な対戦車火器もない歩兵が長く抵抗するのは不可能と言えた。

 ソコトラ島への上陸作戦はすぐさまイギリス軍の知るところになり、ジブチやアレキサンドリアから艦隊が緊急出港した。

 マレー沖海戦の生き残りである空母イラストリアス、増援の空母フォーミダブル、インドミダブル、ハーミス、戦艦ラミリーズ、レゾリューション、巡洋艦6隻、駆逐艦16隻がかき集められた。

 だが、艦隊は分散しており、集結には数日を要した。

 日本海軍の攻撃は完全な奇襲であり、イギリス海軍は後手に回った。

 寄せ集めの艦隊を率いることになったジェームズ・サマヴィル提督は当初から艦隊を送るプランには懐疑的だったが、本国から命令は速やかなる日本艦隊の撃攘であった。

 サマヴィル艦隊の到着が間に合うかどうかはイギリス空軍の活躍にかかっていた。

 既にソコトラ島の航空戦力は壊滅していたが、ジブチ、オマーン、イエメンとソマリアの航空戦力は健在であり、すぐに日本艦隊を探して偵察機を飛ばしている。

 対艦攻撃を主任とする沿岸航空隊は、ボーフォート雷撃機やブレニム軽爆、ウェリントン双発爆撃機などで編成されていた。

 普段は対潜攻撃に従事するこれらに爆装、雷装して対艦攻撃に充てるのは可能だったが、護衛戦闘機が不足していた。

 普段は空襲圏外にある上記の基地には戦闘機の駐留は最小限で済まされていた。

 連日、猛爆を浴びるカルカッタやインド南部にこそ、それらは必要だったからだ。

 唯一、まとまった規模の戦闘機が配置されているのはソコトラ島だけだった。故に、日本海軍はまっさきにこの島の航空戦力を奇襲で殲滅していた。

 移動航空基地である空母は、これまで空襲圏外だと思っていた場所を一瞬で戦闘の焦点に変えてしまったのである。

 それでも、かき集められたスピットファイア17機の護衛を受けたウェリントン爆撃機27機、ボーフォート雷撃機9機の攻撃隊をなんとかイギリス空軍は送り出している。

 だが、日本海軍は既に防御態勢を整えて、彼らを待ち構えていた。

 日本艦隊は早期警戒の対空レーダーを装備しており、攻撃隊の接近は100km以上先から探知され、奇襲は成立しなかった。

 水上艦からの戦闘機隊への無線誘導も開戦初期から格段に進歩していた。

 これらは死闘となったセイロン島沖航空戦からのフィードバックを受けたもので、戦闘機部隊は低レベルながらも要撃管制を受けるようになっていた。

 防空強化のため、セイロン島沖から引き続いて戦闘機隊の割合も全艦載機の50%と高く設定されており、さらに各空母に10機ずつ戦闘機を露天係止(過積載)していた。

 イギリス空軍は日本海軍空母機動部隊のシステマティックな防空戦闘に遭う最初の対艦攻撃部隊となった。

 結果は無残なもので、ボーフォート雷撃機は全滅。ウェリントンは半数が撃墜された。

 進路前方で待ち伏せていた海燕Ⅱは有利な位置及び圧倒な速度でイギリス空軍の攻撃隊に襲いかかり、殆どの攻撃機を一撃で撃墜した。

 緩急降下爆撃で戦艦と思われる艦に至近弾1を得たのがこの攻撃隊の全ての戦果だった。

 イギリス空軍は戦力をかき集め、編成が済んだ順番に攻撃隊を送り込んだが、その攻撃は集中を欠いており、最初の規模を超える攻撃隊は一つもなかった。護衛戦闘機が不足していたことから、護衛なしで飛び立つ攻撃隊さえもあったほどだ。

 護衛なしで真田艦隊に向かった攻撃隊は空中で全滅するなど、イギリス空軍は破滅的な大出血を続けることになる。

 しかも、艦を効果的に沈めるために必要な魚雷が致命的に不足していた。

 魚雷は高価で複雑な兵器であり、イギリス空軍といえども保有数は限られていた。また、この方面の沿岸航空隊は対潜作戦を主務としており、もとより魚雷のストックが少なかった。

 航空魚雷は上陸作戦が予想されたカルカッタ方面に集中的に蓄えられており、イギリス空軍は爆撃しか対抗手段がなかった。

 日本軍の海岸橋頭堡を爆撃したウェリントン爆撃機は小型爆弾を揚陸作業中の上陸舟艇にばらまいたが殆ど被害を与えられていない。

 決死の護衛戦闘を行うスピットファイア隊はなぜこんな無意味な攻撃を行うのか憤ったが、雷撃を行いたくても魚雷がなかったのである。

 さて、問題は救援に向かうサマヴィル艦隊だった。

 空軍による制空権奪取と漸減邀撃の見込みが付かなくなっていたが、それがただちに艦隊へ情報伝達された・・・形跡は見られない。

 恐るべきことに、空軍が被った凄まじい損害は艦隊には伝わっていなかった。

 この件について、イギリス空軍だけを責めるのは公平とはいえない。

 実際のところ、空軍も勝っているのか負けているのか判断に苦しむ状況となっていた。

 出撃のたびに70%近い損耗率が発生する戦闘が続いており、感覚が麻痺していた。

 攻撃隊も戦果の過大報告があり、日本艦隊にかなりの打撃を与えていると考えていた。

 損害の大きさがその誤判断を補強しており、これだけの大損害を受けているのだから、敵にも大打撃を与えているに違いないと考えてしまった。

 たしかに犠牲になったパイロットと機材の量を考えれば、何か成果があったと考えたくなるのが人間の情というものだったが、真田艦隊の空母5隻は全て健在であった。

 真田艦隊に接近する偵察機は片っ端から撃墜されており、イギリス軍は正確な情報を入手できていなかった。


「ゴーなのか、ノー・ゴーなのか?」


 サマヴィル艦隊の中でも意見が別れていた。

 情報さえあれば、既に勝機が喪われているとして即座に撤退していただろうが、判断材料がないので議論だけが続いていた。

 見敵必殺のイギリス海軍らしからぬ優柔不断さだったが、イラストリアス級正規空母3隻は1941年10月において、他に代えようのない最後の切り札だった。

 迷うな、という方が酷だろう。

 本国のイギリス海軍省は即座に攻撃することを繰り返し要求していたが、現場を預かるサマヴィル提督にはこの戦いが恐ろしく分が悪いことが分かっていた。

 何しろ日本の空母部隊にスピットファイアと互角に戦える艦上戦闘機が配備されているのだ。対してイラストリアスにはシーハリケーンとフルマーしかない。

 この2機は無いよりもあった方がいいというレベルの存在だった。しかも攻撃機は複葉のアルバコアだ。

 アルバコアは現場から不評で、先代のソードフィッシュの方が運動性高く、現場から元に戻せと抗議されるしろもので、こんなもので日本海軍の機動部隊と戦えば大規模な殺戮に遭うのは目に見えていた。

 勝機があるとすれば、それは奇襲以外になかった。

 それには日本艦隊が空軍機の空襲で忙殺されている瞬間を横合いから殴りつけるのが一番だったが、どうも航空戦が上手くいっていない気配が漂っていた。

 無線が使えれば問い合わせることもできたが、艦隊は逆探知を避けるために無線封鎖していたから、それはできなかった。

 そして、アデン湾の中途半端な場所で行ったり来たりしていた艦隊は、アデン湾で哨戒中のロ号潜水艦に見つかってしまった。

 ジブチに艦隊がいることは分かりきっていたし、狭いアデン湾に潜水艦で網を張っていれば艦隊を見つけることは容易いことだった。

 ロ号潜は距離3,000mから魚雷4本を発射すると同時に最大出力で英艦隊発見を通報して逃走した。

 発射された魚雷は命中しなかったが、この電文により状況は動き出す。

 潜水艦に見つかったことで、もはや無線封鎖が無意味となり、サマヴィル艦隊は空軍に無線で戦況を問い合わせた。

 これによって初めて艦隊は空軍が被っている凄まじい損害に気がついた。

 別の組織であったから、艦隊の判断は中立的で冷静だった。

 サマヴィル艦隊は作戦を即座に中止して反転したのである。

 だが、残念なことにその判断は少し遅かった。

 艦隊が反転したときには、既に空母飛龍、蒼龍から攻撃隊が発進していたのである。




 この時、攻撃隊を放ったのは5隻の空母のうち、最古参の飛龍と蒼龍の2隻だけだった。

 真田艦隊にとって、イギリス艦隊出現の知らせは予想の範囲内である。むしろ、当然そうなると考えられていた。

 しかし、対処については流動的だった。

 航空戦が上手くいっていない場合には、水雷戦で阻止する計画もあった。

 だが、航空戦は予定以上に順調に推移しており、空母艦載機による阻止攻撃も可能といえば可能だった。

 しかし、艦隊は敵の空襲圏下で行動中であり、もっぱら上陸部隊の援護に艦載機は使われていた。ここから対艦攻撃用の兵装転換するとなると爆弾と魚雷が空母の甲板に溢れかえることになり、一発の被弾で火だるまになる可能性があった。

 いつ飛来するか定かではない陸上機の空襲圏下でこうした行動をとるのは一般的にどの海軍の空母部隊も避けるべきことだと認識されていた。

 だが、危険を冒さなければ得られるものはなかった。

 問題はどこまでリスクを許容するか、だった。

 真田提督には5枚のカードがあった。

 飛龍、蒼龍、雲龍、剣龍、祥龍

 最強のロイアル・ストレート・フラッシュも可能といえば、可能だった。

 だが、真田提督が選んだは飛龍、蒼龍のツーペアだった。他の3隻から上空直掩機を追加発進させ、防御を固めることを選んだ。

 2隻以上のリスクはとれないという慎重な判断だった。

 これが積極果敢を信条とする後藤提督なら、全ての空母で攻撃を行ったかもしれないが、真田提督は冷静な戦い方を好んだ。

 真田提督にザ・ロックという仇名はこの時ついたものである。

 この選択については是非が別れるが、実際に飛龍・蒼龍は兵装転換中に英空軍のブレニム軽爆の空襲を受けている。上空直掩機の数を増やしていたことやレーダーによる早期発見により適切な迎撃を行うことができたため空爆は阻止された。

 ただし、襲来したブレニム軽爆はわずかに6機であり、対応が過剰だったという判断も成り立つところだった。

 飛龍、蒼龍から発艦した総数65機の攻撃隊は、反転してジブチに逃走中のサマヴィル艦隊を発見し、突撃を開始した。

 最優先攻撃目標はもちろん空母だった。

 サマヴィル艦隊のイラストリアス級3隻は、排水量こそ日本空母と同程度だったが飛行甲板を装甲化する代償に艦載機が少なく3隻合わせても艦載機数は100機を僅かに超える程度だった。

 しかも戦闘機はシーハリケーンとフルマーという微妙な機材で、海燕Ⅱの敵ではなかった。 直掩戦闘機を排除した攻撃隊は悠々と艦隊上空に達し、対空砲火を物ともせず急降下爆撃と雷撃を振舞った。

 この攻撃で、空母イラストリアスが魚雷2本を受けて大破。軽空母ハーミスは低速が禍して艦隊から落伍したところを集中攻撃され、250kg爆弾4発を浴びて火だるまになって沈んだ。

 また、ハーミスを護衛していた駆逐艦2隻が巻き添えに撃沈されている。

 ほぼ同数の第二次攻撃隊は、艦隊から落伍したイラストリアスに魚雷3本を命中させ、イラストリアスを救おうとしていた巡洋艦ハーマイオニー、デヴォンシャーを大破させた。空母インドミダブルと戦艦ラミリーズにも魚雷1本を命中させた。

 上陸支援と船団護衛があった真田艦隊はこれ以上の攻撃を行わなかったので、サマヴィル艦隊は全滅を免れたが、イラストリアスとハーミスを失ったのは激痛だった。

 魚雷が命中したインドミダブルとラミリーズも長期間の修理が必要で、東地中海の制海権維持さえ困難になってしまう。

 空母5隻で攻撃を行っていれば、おそらくサマヴィル艦隊は全滅していただろう。

 イギリス艦隊を全滅させる絶好の機会を逃した真田提督には戦闘終了後に非難が殺到したが、少なくとも本人は意に介しなかったという。

 真田艦隊の任務は上陸作戦の支援であって、敵艦隊の撃滅ではなかったからだ。

 この点は作戦計画書にも明記されており、それに沿った行動であると反論している。

 追撃不足については特に海軍内では問題とされなかったが、真田提督は次の大規模作戦からはずされることになった。

 遠回しだが、それが海軍上層部の評価と言えた。

 なお、ソコトラ島攻略そのものはイギリス軍の粘り強い抵抗を火力で粉砕して進む展開となり、およそ1週間で全島が日本軍の占領下となった。

 それよりも早く空母艦載機がソコトラ島の飛行場に展開して制空権確保と対艦攻撃を開始している。

 空母搭載機の地上展開は特殊技能である空母への着艦技術をもつパイロットを消耗することになり好ましいことではかった。しかし、半年以上この島に展開する気がなかった日本海軍は敢えて悪手を選ぶ余裕があった。

 半年後には、ロンメルのDAKがスエズを陥落させていると考えられていた。

 実際にそのとおりになった。

 ソコトラ島陥落によって、インド洋航路は完全に封鎖されることになる。

 イギリスは全ての船団の運行を停止し、独航の高速商船か軍艦を使った封鎖突破船による輸送に切り替えたが、大局に意味のある量の輸送はできかった。

 インド洋航路の閉鎖は、北アフリカ戦線の終焉を意味していた。

 1941年11月に実施予定だった北アフリカでの大規模反攻作戦、クルセーダー作戦は中止に追い込まれた。

 もとより武器弾薬の欠乏から反攻作戦は実施困難だったが、トブルク救援よりもエジプト防衛、そしてその背後の中東防衛が優先された。

 見捨てられた形になったトブルクは、ドイツ軍の波状攻撃によって陥落し、ロンメルは大規模な補給港を得て、補給を太らせることに成功している。

 海路、トブルクを目指すイタリアの輸送船団はソコトラ島沖海戦でアレキサンドリアの英艦隊が壊滅状態に陥ったことから何の妨害もなく運航することができた。

 トブルクを陥落させたロンメルはドイツ軍最年少の元帥へ昇進し、新たに増援を得てエジプト侵攻作戦が立案されることになる。

 以後、戦いの焦点はエジプト国境のエル・アラメインへと移っていくことになるが、インド航路が使えない以上、スエズを守る意味も、半ば消滅したも同然だった。

 エジプトのイギリス軍はもはや孤軍であり、補給の途絶から戦いの先行きは暗かった。

 11月にはモスクワが陥落し、ロシア帝国軍とドイツ軍が握手して、陸路で日独が連絡を取り合うことができるようになった。

 あとはスエズが陥れば、海路による日独の連携が完成する。

 日本海軍のインド洋の完全制圧を見た中東各国は枢軸勝利の観測から急速に枢軸同盟への接近を図っていった。

 1941年11月にはイラン王国が枢軸に加盟。さらにイラクではクーデタにより親枢軸政権が樹立された。11月末に空母護衛つきで日本軍の上陸船団がペルシャ湾奥地のクェートへ上陸。キルクーク油田はイギリス軍の破壊工作によって破壊されつくしてしたものの、ついに中東まで日本軍の手が伸びることになる。

 クウェートに上陸した日本軍3個歩兵師団(自動車化)は、イラクを横断して地中海を目指して突進することになる。

 日本軍は東からスエズを目指したのだ。

 宗派により微妙な違いはあったものの、日本軍は中東各地でイギリス支配からの解放者、イスラムの友として歓迎された。

 日の沈まぬ国と謳われた大英帝国の面影は既になかった。


 故に、今次大戦に未参加の最後の列強国、アメリカ合衆国の去就が問われることになった。




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