次の戦争のために
次の戦争のために
第一次世界大戦における日本軍の最大動員数は1,000万人に達していた。
このうち約200万人が死傷した。純粋な死者数はそのうち半数に達しており、4年及ぶ戦争で膨大な人名が失われた。
しかし、損害率としては20%程度であり、850万人動員して67%が死傷したフランスや41%のイギリスに比べればずっと少ない数字と言える。
これはもっぱら、シベリア戦線においては常に質的、数的な優勢を確保して戦いを進めたことや、アジア太平洋の戦いで短期間で圧勝したこと。北米戦線でも殆どが持久戦とにらみ合いに終始し、アメリカ軍との戦いでも勝利しつづけたことが大きい。
戦傷者の数や損害率だけ見るとどちらが勝ったのか分からない戦争であった。
日本軍の物量を本気で恐れた戦勝国は、講和条約により環太平洋国家としての日本を解体し、その軍事力も分断した。
特に日本海軍は徹底的に破壊された。
営々と整備してきた超弩級戦艦を全て召し上げられ、10,000t以上の戦闘艦を作ることは禁じられた。
開発も、試射も終了していた次世代戦艦用の40サンチ砲は全て破棄させられ、大口径砲製造設備も連合国の対日軍事制限監視委員会の手によって持ち去られた。
こうした過酷な戦勝国の報復に反発した日本海軍は謀反を起こして幕府転覆を図った。
結果は既にご存知のとおり、謀反は失敗に終わる。
日本海軍は多数の一般市民を巻き添えに凄惨な市街戦を経て、国民からの信頼を決定的に失ってしまうことになる。
日本海軍、冬の時代である。
だが、それでも海洋国家である日本にとって、海軍はなくてはならないものであり、厳しい国民の視線と乏しい予算の中でも、次の戦争に向けて準備と研究が開始された。
そうした中、次の戦争のために日本陸海軍の枠を超えた横断的な先の大戦を振り返る反省会が数多く開催されたことは画期的なことだった。
大戦中、前線で戦った佐官や尉官クラスを集めた日本陸海軍の各種反省会は極めて実際的な戦訓の研究の場であり、次の戦争で何が必要とされるか未来の戦争を占う場でもあった。
この反省会は公式なものであり、数百名の将校が参加して各種のレポートが大量に作成され、このレポートの中から次の戦争の向けた準備が始まる。
研究の方向性は4つあり、
1 世界大戦前に予想できなかった想定外の状況とは何だったか?
2 そうした想定外の事態に戦前の準備はどの程度有効だったか?
3 大戦中の新兵器開発とその運用によって発生した新たな指針は何か?
4 その中で出現し、未だ解決されていない問題とは何か?
という極めて現実的かつ実際的なものであった。
こうした研究の中で特に重視されたのは航空軍備の研究だった。
1918年の春季攻勢の成功要因と攻勢が停止した原因は航空戦の推移状況から説明可能と考えられた。
攻勢成功の要因はまずもって火力の優勢にあった。砲兵火力が届かない場所では地上攻撃機の濃密な近接航空支援により火力優勢が確保されていた。
敵の地上攻撃機は味方戦闘機の妨害により活動できず、アメリカ軍は航空火力も砲兵火力も集中させることができていなかった。
そして、その航空戦力の消耗から航空優勢が確保できなくなり、航空火力と砲兵火力も拮抗したとき、日本軍の攻勢は停止するに至った。
故に、次の戦争における地上戦においては航空優勢の確保が絶対要件と認識された。
戦闘機が制空権を確保し、その援護のもとで地上攻撃機が濃密な近接航空支援を提供。機動力の高い地上軍が塹壕線を突破して、敵の後方へ進出。敵の指揮系統中枢を叩くのである。
機動力の高い地上軍は当初は騎兵という想定だったが、次は戦車が担うものと考えられた。
これにより騎兵の代わりとなる快速な騎兵戦車と後に続く歩兵を支援する歩兵戦車という用途別の戦車開発構想が想起された。
制空権を確保する航空機も高速化、高高度飛行するのが当然とされた。
対空砲の妨害を回避するため、最低でも高度6,000m以上の高高度を飛ばなくてはならなかったし、その後の研究で高度8,000mからの高高度爆撃が理想となった。
高高度精密爆撃のための高精度な爆撃照準器の開発要求はこのレポートを以って始まる。
興味深いのは、高高度投弾によって不足する爆撃精度を補うために自立誘導する爆弾の開発提案が終戦直後から既になされていることである。
戦間期に鳩や猫、犬などの動物の習性を利用した自律誘導装置の開発を日本軍が大真面目に行うのはこのためである。
現代のインターネット空間でしばしば物笑いのネタとされる白衣を来た博士たちが真剣な顔をして鳩や猫に向き合うシュールな写真はこのとき撮影されたものである。
戦闘機も高高度対応し、爆撃機と同じかそれ以上の高度を飛んで、飛来する爆撃機を撃墜する能力がなくてはならなかった。
次の大戦において日本軍の高高度戦闘機を支えた機械式過給器や排気タービン、タービンロケット機関はこうした認識が具体化したものである。
航空機が高高度を飛ぶなら、対空砲もそれに対応して高高度射撃を求められた。
対空砲が強化されるなら、地上軍を支援する地上攻撃機が対空砲火に耐える装甲を具備することは当然と認識される。
先の大戦にはおいては既にコクピットに装甲を備えた地上攻撃機が一部実用化され、戦線に投入されているほどだった。
だが、そうした装甲地上攻撃機でも敵戦闘機の要撃に遭えばひとたまりもない。
そこで地上攻撃機を如何にして守り、航空支援を継続させるかが、戦闘機部隊の課題となった。
戦闘機パイロットには任務達成率による評価が導入され、撃墜スコアのカウント等による評価は廃止されることになる。
いくら撃墜スコアが高くても、地上攻撃機を守れないパイロットは軍全体としては評価に値しないとされたのである。
第二次世界大戦において、マスコミはともかく、日本軍がプロパガンダを除いてエースパイロットやその撃墜スコアに冷淡なのはこのためである。
戦闘機の防空もそうだが、先の大戦においてさえ対空砲火の有効活用は多大な成果があり、さらなる発展を目指すのは当然としても、陸海軍が開発した対空火器はあまりにも雑多で重複が多く、整理統廃合して標準化することが求められた。何しろ、対空砲だけで20種類以上あった。
これは他の兵器開発においても同様であり、共通性の高い新装備開発行政は陸軍奉行所の兵器開発部門に集約されることになった。
地味だが後に大きな意味を持つことになる提案としては、各種高射砲が高初速を発揮することから対戦車砲への転用である。
日本軍の高射砲部隊が対戦車戦闘に転用され大量の連合国軍戦車を撃破したことは有名であるが、そのために必要な徹甲弾の配布や対戦車戦闘訓練の実施は第一次世界大戦終戦直後から始まっていた。
それを実戦で試す機会が20年ほど訪れなかっただけのことである。
以上の提案等から分かる通り、第二次世界大戦に実際の戦場で使用された殆どの軍用航空機や各種兵器とそれらを運用するドクトリンは、終戦直後の1920年台代には全て予見されていたものだったのである。
「反応兵器以外は全て予想の範囲内だった」
と語ったのは第二次世界大戦における日本軍北米総軍司令官楊文里元帥である。
彼のこの発言は、楊元帥の卓越した戦略眼を現したものとして名高いが、実際のところは軍組織内部で終戦直後に編纂されたレポートを読んでいただけだった。
結論を述べると日本軍は終戦直後から、電撃戦への道を歩きだしていた。
機械化された地上軍と航空軍による空陸一体の機動攻勢により、塹壕戦という膠着状態に陥ることなく、一気に戦争の帰趨を決し、短期決戦で戦争を終えることを理想としたのである。
とはいえ、それは本当に理想論だった。
現実には、1920年台の日本は敗戦不況に、震災恐慌が続いて経済は20年台末まで上向かず、不況に喘いでいた。
そうした状況下では、機械化軍備は現実に実施不可能だった。
また、これまで敵対勢力だったロシア帝国は革命を経て分裂し、東のロシア・シベリア帝国と共産主義のソビエト連邦に別れた。
ロシア・シベリア帝国はソビエト連邦に対抗するため日本の支援を期待しており、日本もまた共産主義という得たいのしれない連中をウラル山脈の向こうに封じ込めるためにロシア・シベリア帝国を支える必要があった。
前線がシベリアの遥か向こうのウラル山脈まで遠ざかったのだから、ロシア・シベリア帝国様様であった。
独立間もない朝鮮王国やアメリカの植民地である満州王国の軍備は恐れるに足らない。
伝統的な敵国であったイギリスも一定の和解が成立しており、ワシントン体制下においては現状維持のための共犯者であった。
アメリカも同様である。
列強国のどの国も、もう一度国家総力戦をしたいと思ってる国はなかった。
結果として、本国周辺の安全保障体制はとりあえず充足した状況になる。
1920年台のこの平和的な状況下において論じられる次世代戦争の構想計画は、当初から実現可能性に乏しいものだったのである。
そもそも日本国内の世論からして、かなり極端な平和主義が台頭し、軍部にプロパガンダの必要性を迫るほどであった。
戦後の日本陸軍は、18個師団まで戦力を減らしている。領土割譲や分離独立で防衛範囲が減り、本国とその周辺を守るという防衛陸軍に立ち戻ったためである。
そうした防衛陸軍にとって、空陸一体の機動攻勢というは理想論としては素晴らしいが、ではそれを実施する相手はどこにいるのかという根本的な問題につきあたった。
本土の機械化軍備にやや立ち遅れが目立ったのはこのためである。
それに対して、北米列藩同盟は空陸一体の機動攻勢という新理論を熱心に取り入れた。
北米大陸で、アメリカ合衆国相手に長大な国境線を抱える北米列藩同盟にとって、陸軍こそが戦争の主役であり、1918年の春季攻勢こそ次の戦争のあるべき姿だったからである。
陸軍の濃密な航空支援の要求に耐える戦術空軍が北米列藩同盟で編成されたのは必然的であったし、周辺に敵がいない日本本国においては戦略空軍に向かったのも必然的である。
しかし、戦略空軍、戦術空軍の何れであるにしろ、消耗率の高い航空戦の連続に耐えられるだけの機材とパイロットを大量生産、大量養成する体制がなければ勝利がおぼつかないのは当然と認識された。
航空機そのものも重要だが、それを支える支援組織も重要だった。
急速に進撃する機械化陸軍の後に続いて前進する機械化された設営部隊と機械化された燃料運搬供給システムが求められた。
機械化された設営部隊と燃料運搬システムは構築するためには、土木建設機械とタンクローリーが必要であるが、それを動かすオペレーターがなくては話にならない。
だが、そうしたオペレーターや機材を平時から大量にかかえておくのは予算上不可能であるから、戦時の徴用は不可避であったし、そうした徴用に耐えるだけの平時のストックがいる。
また、平時のストックがあるとしても、徴用には産業界との調整が不可避であり、協力を取り付けるには膨大な量の折衝とそれなりの見返りが必要だった。しかも継続的な。
前線に運ばれる航空燃料は北米大陸の加州油田から運ばれる原油を本土の製油施設まで運び、航空機用ガソリンとして精製して得られるものである。
北米大陸の油井から前線飛行場まで続く長大な経路が全て完全に機能するには、海軍を巻き込んだ海上護衛のみならず、油を運ぶタンカーや船会社、製油場を経営する経済界を巻き込んだ膨大な積み上げがなければならなかった。
また、航空戦の結果に地上戦の結果が左右されるのならば、地上戦の指揮官は当然、航空戦に対する知識が求められた。もちろん、その逆もまた然りである。
つまり軍士官学校の教育制度も抜本的に改めなけれならなかった。
教育制度を改めるということは、学校組織の変化が不可避であり、教本からして書き換える作業が必要なのである。
書き出せばきりがなくなってしまうが、つまるところ国家総力戦に備えるということは、平時からの膨大な地味で細かい準備を摩天楼にように積み上げることに他ならなかった。
戦時中に肥大化した軍官僚組織が、動員解除による大幅な縮小を経ても戦前の3倍近い規模で維持されていたのは、そうした平時の事務処理と折衝を行うためにそれが絶対必要と認識されたためである。
次の戦争のために様々な細かい準備は進んでいたが、それが一定レベルで積み重なると人々の目に止まる変化として現れる。
1925年、日本空軍が建軍された。
新生空軍は陸軍航空隊を基礎に編成された。
陸軍航空隊そのものは残ったが、直協機や小型連絡機等の小規模な編成となり、大部分は空軍へと移管されることになる。
海軍航空隊においても、殆どの機材が空軍に移管されたが、その中でも大量に移管された22年式双発飛行艇「青鷺」は、空軍において巨大な存在感を放つことになる。
空軍創設を巡る動きの中で、日本海軍の協力姿勢は特異なものだった。
列強各国の海軍は、概ね一般的には海軍の主力を戦艦に据え、強力な対空砲火と装甲を備えた戦艦を航空攻撃で撃沈することは困難であるとしていた。
もちろん、制空権の有無が海戦に与える影響が無視されたわけではない。
しかし、空母をもっぱら戦艦の補助戦力と位置づけ、偵察と防空に力点をおいた運用を模索している。
それに対して日本海軍は、航空戦力こそ次世代の海戦の主役であると考え、その効率的な運用のために空軍発足に全面的に協力している。
それどころか、海軍の将校の全てに航空戦の知識を教育し、水上艦のみならず航空戦の指揮さえ可能であることが理想とし、海軍士官学校の教育を全面的に改定した。
艦隊は空軍機の傘のもとで行動し、艦隊が資材の輸送することで航空基地を適宜前進させ、その傘を敵前方へ広げることで制海権を拡大、確保する戦略を打立てた。
所謂、海軍航空主兵論だった。
22年式双発飛行艇は、その最初の一歩である。
1924年9月には、12機の青鷺飛行艇隊が世界初の長距離対艦攻撃演習を行っている。
横須賀から発進した飛行艇隊は途中で着水と給油を繰り返し、千島列島の単冠湾まで進出。
そこから折り返して横須賀に戻り、泊地で停泊中の軽巡洋艦を仮想標的に航空雷撃を行ってこれを撃沈することに成功している。
なお、往復飛行と雷撃を成功させたのは1機のみで、残り11機はエンジントラブルや航法ミスにより途中で脱落した。
だが、演習は大成功と判定される。
3,000km飛行した飛行艇が、泊地への航空雷撃を成功させたのである。
これは画期的なことだった。
本土から南へ3,000km離れたアメリカ海軍太平洋艦隊の大泊地トラック環礁への泊地航空雷撃への道が開かれたのである。
もちろん、克服すべき問題は山のようにあった。
燃料を満載してヨタヨタと飛ぶ低速の飛行艇が戦闘機の迎撃に遭えばひとたまりもなかったし、対空砲火に対する対策も無いに等しかった。悪天候にも弱く、途中で11回も着水と給油を繰り返すなど、戦時下では絶対に不可能だろう。
だが、絶対不可能と、やろうと思えば可能、では全く軍事的な意味は違った。
この演習は海軍航空黎明期の挑戦として多くの人間に記憶され、最後には映画にもなった。
これが第二次世界大戦において、連合国艦船を大量に撃沈することになる日本空軍陸上攻撃機部隊の幼き日の姿だった。
だが、こうした極めて先進的な試みは、実際のところは、他に方法がないゆえに消去法的な結論だった。
なにしろ、日本海軍には戦艦がない。
講和条約で全て賠償艦として召し上げられ、麗しき鋼の麗人は異人さんに連れられて、どこにいってしまった。NTRだった。
海軍の失意は凄まじいものだったが、それでも明日がやってくる以上、どうやって戦艦のない海軍で、戦艦をもっている海軍と戦うのか真剣に議論された。
航空主兵はその一つの回答であった。
同時に、日本海軍がもう一つの回頭を用意する。
それが水雷戦隊だった。
軽巡洋艦と12隻の駆逐艦で編成された水雷戦隊を海軍の主力とし、魚雷攻撃で戦艦を撃沈し、制海権を確保するのである。
こうした考え方は別に日本海軍独自のものではなく、金のない小国には一般的に見られた考え方である。
すなわち、装甲艦の弱点である水面下を叩くための魚雷とそれを装備する安価な水雷艇、魚雷艇を整備して沿岸防衛を行うのである。
水雷艇や魚雷艇は航洋性が低く、外洋への進出は困難であるので、できることは沿岸防衛だけだが、海外通商路を持たない小国ならそれで十分である。
対して、列強国の海軍は、海外通商路を守るために作られた。
そのためには航洋性を確保した大きな船が必要であり、それは防御をのため必然的に装甲をもつ装甲艦/戦艦になっていくのである。
日本海軍の特異な点は、沿岸防衛にしか使えないはずの水雷戦力を、外洋で戦える形に発展させたところにある。
魚雷は、一撃の破壊力こそ強大であるが、艦砲に対しては射程距離が短いため、肉薄攻撃が基本であった。
よって、阻止砲撃は必至であり、対策として俊敏で小型な(従って外洋には出られない)水雷艇や魚雷艇を用いることが一般的な解法であった。
だが、外洋で戦う必要がある日本海軍は、航洋性の高い大型艦に魚雷を装備して、敵艦隊主力に突撃させる方法を編み出した。
既にそうした戦術は1917年のインド洋や、1918年の東太平洋で実践され、イギリス・アメリカ艦隊を撃破していた。
すなわち、巡洋戦艦や装甲巡洋艦の支援砲火のもとで、軽巡洋艦や大型駆逐艦が突撃する夜間水雷襲撃である
戦艦の保有が禁止された日本海軍は、支援砲火を提供するプラットフォームとして、条約限度ぎりぎりのサイズである10,000t級条約型巡洋艦を多数整備した。
ただし、条約型巡洋艦のファイア・サポートは二次的なものであり、支援砲火がなくとも水雷戦隊は機があれば支援なしでも突撃するものであった。
日本海軍が最初の整備した条約型巡洋艦は軽巡洋艦に8インチ砲を装備した古鷹、青葉型から始まる。
次級として妙高型のような8インチ砲(20.3サンチ)連装5基という破格の砲火力をもつものが現れた。
8隻が建造された妙高型巡洋艦は、純粋な砲戦用巡洋艦であり、水雷戦隊の突撃を火力支援するものであった。
なお、妙高型にも魚雷を装備させようとする動きもあったが、広大な太平洋やインド洋まで進出して戦った日本海軍にとって長距離進出を考慮した居住性の確保は無視できる問題ではなく魚雷装備は見送られている。
ただし、魚雷装備を欠く巡洋艦は戦術的な柔軟性を欠くことから、次級の高雄型巡洋艦からは魚雷装備となった。
高雄型は居住性を維持しつつ旗艦設備と魚雷装備の二刀流を追うため、日本型巡洋艦で初めて3連装砲塔を採用し、8インチ3連装3基9門となる。
ただし、旗艦設備収容のため肥大化した高雄型の艦橋は被弾面積が大きく、必ずしもベストとは考えられていなかった。
また、乾舷の高い高雄型の上甲板に装備した魚雷は発射の際に海面に激しく衝突して破損することが多く、魚雷装備はあまり有効ではなかった。
排水量を10,000t以内に収めるため、重量軽減に艦橋は極めて高価なアルミ合金製となり、しかも溶接を多用したことから強度不足であり後に大問題となる。
それでも高雄型は8隻が建造され、各方面の艦隊旗艦として配備された。
用兵側が満足できる砲火力と雷撃装備を併せ持つ条約型巡洋艦としては、最上型巡洋艦を待つことになる。
なお、似たような軍備制限を受けたドイツ海軍は、条約の制限ギリギリいっぱいの大口径火砲として11インチ(28サンチ)砲装備の装甲艦を建造した。
日本も同時期、28サンチ砲の試作を行っているが、条約型巡洋艦への搭載は見送った。
これは28サンチ砲では超弩級戦艦に対して有効な打撃にならないためだった。
また、条約型巡洋艦に28サンチ砲を搭載した場合、船としてのバランスが著しく悪いものになることは避けられないという判断もある。
戦艦に通用しない大口径砲よりも、一撃必殺が狙える魚雷を日本海軍は重視したのである。
ただし、日本海軍も大口径砲の装備を諦めたわけではなく、ワシントン条約に違反しない無反動砲やロケットで代用できないか研究していた。
そうした研究は、40サンチロケット推進砲弾無反動発射器のようなゲテモノを生み出した。これはロケット推進の16インチ砲弾を無反動砲で撃ち出すものである。
無反動砲なので駆逐艦にさえ搭載可能で、一時はこれでアメリカ海軍を全滅できると考えられたほどだった。
しかし、試験を重ねるとこれは完全に失敗作と判明する。
射程距離は3,000m程度しかなく、砲撃精度は劣悪でとても艦砲の代替になるものではなかった。弾頭重量からして一度発射すると砲戦中に再装填することは全く不可能だった。
ロケット推進砲弾は横風に弱く、風が強いと、どこへ飛んで行くか分かったものではなかった。ひどい時には迷走して、もと来た場所に戻ろうとさえした。
問題は山積みだったが、それでも研究が破棄されなかったのは他に選択肢が乏しいが故にであった。
同時に、こうした研究に潤沢な資金を投入できるのは、戦艦を持たないからだった。
平時において保有しているだけで多額の予算を要する戦艦を日本は1隻も持っていなかった。
各国海軍が戦艦に予算とエリートと呼べる人材を投入しているとき、日本は別のことに資金と人材を傾けることができた。
そして、次の戦争において実際に必要となったものは各国海軍が抱えていた戦艦ではなく、その他大勢として等閑視されていたものばかりだった。
なお、ロケット推進砲弾は改良を重ねて直進性を確保した上で、航空機に搭載されて対艦攻撃に多用されることになる。
高度3,000mという水平爆撃並の投弾高度から急降下爆撃並の命中精度を達成した500kgロケット爆弾は日本空軍の主要対艦攻撃兵器の一つである。
発射機を小型化したものは歩兵用の対戦車榴弾発射器となった。
パンツァーファウストという呼び名の方が有名だろう。ロシア陸軍では同じものをRPG(РПГ:Ручной Противотанковый Гранатомёт(ルチノーイ・プラチヴァターンカヴィイ・グラナタミョート)と呼んでいる。
火薬式のロケット推進では戦艦の大口径砲並の射程距離は確保できないため、燃焼制御が可能な液体ロケットの開発が行われ、その中でヴァルター機関と呼ばれるドイツ人の発明品が注目を集めることになる。
しかし、これらが日本海軍の兵器体系の中で主要な存在となるのはずっと後のことだった。
戦間期、日本海軍は戦艦に対抗できるものは当面の間は魚雷しかないと考え、水雷戦隊を海軍の中心に据えた建艦政策を推進していくことになる。
なお、水雷主兵論にも問題がないわけではなかった。
まず夜間水雷襲撃は、読んで字のごとく夜間に行うもので、昼間には無効だった。
幾つかの演習においても、昼間に戦艦部隊へ突撃を行った水雷戦隊は遠距離阻止砲撃によって壊滅し、何もできないままに全滅判定を受けている。
1920年代は砲システムの改良によって大口径火砲は大仰角射撃が可能となり、砲戦距離が飛躍的に伸びた時期だった。
それに対して魚雷の有効射程距離は3,000m程度が限界で、20,000m先から射撃可能な戦艦は魚雷装備の駆逐艦や巡洋艦をアウトレンジすることができた。
外洋で戦える巡洋艦や大型駆逐艦は的が大きく、昼間は戦艦の長距離砲撃をまともに受けてしまうため、接近は困難だった。
大口径火砲の遠距離砲撃が不可能になる夜間のみしか、魚雷を命中させるチャンスはなかったのである。
また、夜襲でも相手が適切な防御砲火を配置していれば、水雷戦隊の突撃は失敗する可能性が高かった。
水雷戦隊の突撃は陸戦における騎兵突撃と同じで、成功すれば敵を一撃で壊乱させるだけの破壊力があったが、失敗すれば突撃した騎兵は全滅というリスキーな戦術だった。
はっきり言えば、一種のギャンブルである。
さらにアメリカ海軍には、コンステレーションに名を変えた金剛型巡洋戦艦があった。
巡洋艦並の快速と日本の手で改装され、アメリカ海軍がさらに重装化した装甲をもつ金剛は最悪の巡洋艦キラーだった。
もしも、コンステレーションが遊撃戦や通商破壊戦に投入されたらどうだろうか。
速力の面から対応できるのは条約型巡洋艦だけだが、10,000t級巡洋艦1個戦隊投入しても、金剛1隻に勝てるどうか妖しいところだった。
ましてやフッド級が来た暁には、殆ど為す術がないと考えられていた。
こうした状況を21世紀初頭のインターネット空間では、
「悪堕ち金剛が提督を逆レ、ショタ巡陵辱」
などと形容している。
現代なら薄い本のネタとして茶化すことができるが、当時は冗談ではなく金剛=コンステレーションは太平洋の脅威だった。
金剛が敵に回って、初めてその戦力価値を理解した海軍将兵も多かったという。
それでも他に代わるものがなければ、あるもので戦うしかなかった。
だが、海軍の望む強力な新世代艦艇の量産は遅々として進まないのである。
政治的に賊軍扱いの海軍の予算は乏しく、さらに戦時中に建造した膨大な数の余剰艦船があったからだ。
先の戦時中に日本海軍が建造した5,500トン級軽巡洋艦は70隻に達している。
神風型やその改良型である睦月型駆逐艦は150隻以上に建造され、途中から艦名が不足して番号で呼ばれることになった。
北米列藩同盟や呂宋に引き取られた船も多かったが、それでも軽巡洋艦も駆逐艦も余りまくっていた。
大半の船が予算不足で運用できずにモスボールされて保管状態だったほどである。
ただし、これは大戦中に船を作りすぎてその更新に四苦八苦しているのは他の列強海軍も同様だったので、日本海軍の固有事情ではない。
それでも特型のような革新的な大型駆逐艦の建造も徐々に進んで、アメリカやイギリス海軍から鋭い警戒を集めることになる。
日本の特型駆逐艦に対抗するため、各国海軍は大型駆逐艦の建造を開始する。
日本海軍が戦艦の代わりに造った条約型巡洋艦は、戦艦に準じる存在として大型巡洋艦の建艦競争を巻き起こした。
そこで新たな海軍軍縮構想が模索される。
1930年、ロンドン海軍軍縮会議である。
だが、この会議において日本は補助艦の数量規制は断固拒否している。
主力艦をもたない日本海軍に補助艦の規制を強要するのなら、主力艦の保有を認めるべきであると論陣を張って、各国を牽制した。
結局、会議は空中分解して主力艦の建造中止5年延長のみが成立し、補助艦の建艦競争は続くことになるが、世界大恐慌の真っ只中においては建艦競争は自然休戦となった。
各国とも緊縮財政に移行し、建艦競争は沙汰止みとなったからである。
だが、日本海軍だけはその歩みを止めることはなかった。
軍縮条約の翌年、1931年の満州事変は日本の安全保障環境を激変させた。
国際協調の枠組みであったワシントン体制は有名無実となり、国際連盟も無力さをさらけ出し、権威失墜であった。
朝鮮王国はアメリカ合衆国と軍事同盟を締結。満州王国は崩壊し、新たに満州共和国となってアメリカ軍が駐留するようになる。
開戦と同時にアメリカ軍が対馬海峡を渡って北九州、西中国地方への着上陸することさえ、想定しなくてはならなくなったのである。
著しい安全保障環境の悪化により、世界大恐慌下の苦しい財政の中で、日本の軍備拡張計画が始まることになる。
だが、直近の黄海海戦の結果は、日本海軍にとってあまりにも無残なものであった。
炎上して火にあぶられた妙高の痛々しい姿はまるで、
「これ以上…私にどうしろと言うのですか…」
と訴えかけるようであり、多くの海軍将兵が涙することになる。
戦艦を人身御供にさせられ、国民から目の敵にされて意気消沈する日本海軍のおいて、妙高のような重巡洋艦や水雷戦隊は最後の希望であった。
夜間水雷襲撃の戦術理論をまとめ上げた美樹海軍中将は、
「奇跡も魔法もあるんだよ」
などと語り、自らまとめた戦術理論レポートを片手に海軍奉行所内で同僚達を励まして回った逸話があるほど、追い詰められた精神の上での窮余の策であった。
実際、水雷主兵も航空主兵も、奇跡か魔法の類ではないかという疑いがあった。
戦艦には戦艦をぶつけるような単純な確実性がなく、理屈倒れではないかという意見が根強かったのである。
航空主兵にしても、実際にそれが可能かどうかは実践してみないと全く分からなかった。
そして、実践してみると奇跡も魔法もないことが明らかになる。
空母レキシントンの艦上機により巡洋艦妙高は大破、海軍主力の水雷戦隊も逐一所在を空中から通報され、ほぼ無力化された。
海軍自慢の水雷戦隊は、敵戦艦に近づくことさえできず敗北したのである。
エアカバーがなければ水上艦は例え相手が蚊トンボのような複葉機であっても無力であることが判明した。
以後、日本海軍はエアカバーのない海域に艦隊を出すことを極度に恐れるようになり、自前の航空戦力として空母をもつことを悲願とするようになる。
満州事変後、陸軍は18個師団から36個師団への師団大量増設となり、その内6個師団を戦車師団とすることを決めた。
理論上の存在だった空陸一体の機動攻勢作戦が、アメリカ軍の満州展開により、真剣に起こり得ることとして認識されたのである。
アメリカ軍の着上陸戦に備え、上陸海岸への突入を図るとしたら、それは空陸一体の機動攻勢作戦になるに違いなかった。
海軍においては、条約型巡洋艦の決定版である最上型巡洋艦8隻(戦時量産化で最終的に52隻)の予算が認められ、特型の改良発展型である2,500t級駆逐艦の甲型建造が始まる。
さらに将来の空母建造に備え、データ収集を目的とした空母型輸送艦「あきつ丸」の建造が予算承認された。
艦隊にエアカバーを提供する空母の建造に備えるということは、日本海軍が防衛海軍ではなく、敵制空権下に足を踏み入れる侵攻海軍へと変化したことを意味している。
同時に、ワシントン条約の破棄が政治レベルで議論の対象となっていたこと現していた。
海軍の空母建造準備は、そうした政治レベルの変化を感じ取ったものである。
これまで封印されてきた、失地回復という言葉が、海軍内部で公然と語られるようになるのに、多くの時間は必要なかった。
ただし、本物の空母建造にはワシントン条約の脱退が必要であり、それは政治マタ―に属する問題だった。
過去に幕府に謀反を起こした海軍は政治への関与を病的に恐れていたため、自らワシントン条約からの脱退を言い出すことはできなかった。
なお、輸送艦あきつ丸に搭載する航空機は航空機搭載禁止という条約の抜け穴をついたオートジャイロだった。
日本海軍は北米のシコルスキー・エアクラフト社に多額の資金を援助し、ワシントン条約の軍備制限を回避しつつ艦艇搭載できる回転翼機の研究を行っていた。
シコルスキー博士は、オートジャイロをより発展させた完全な回転翼機であるヘリコプターを目指していたが、その前段階であるオートジャイロであっても、既に画期的な性能をもっていた。
1934年に制式採用となる34式艦上弾着観測機「海鳥」はクラッチ切り替え機能により、事実上垂直離陸が可能で、着陸もほぼ0距離で可能であった。
海鳥観測機はあきつ丸に搭載された他、日本海軍の巡洋艦にはほぼ全てに搭載され、場合によっては駆逐艦にさえ配備されることがあった。
ただし、低速で航続距離も短いオートジャイロは弾着観測はともかく、航空偵察の主力とするのは困難と判断されている。
とはいえ、駆逐艦にさえ搭載可能なオートジャイロは、条約の制限を回避しつつ艦隊が自由に使える航空戦力として重宝された。
そして、次の戦争において、船団護衛戦で縦横無尽の活躍を見せるのである。
船団護衛戦には大量に作りすぎた旧式駆逐艦が充てられる見込みだったが、戦時に大量生産するための新型フリゲートも技術検証目的に建造が始まるのも満州事変以後である。
燃費効率の高いディーゼルエンジンと大量の爆雷、対空火器を装備した対潜フリゲートは、後の熾烈な船団護衛戦において大活躍することになる。
そうした船団護衛用艦艇には、もれなくレーダーが装備されることになる。
レーダーの開発も船団護衛戦が深く関わっていた。
アメリカ合衆国を仮想敵としたとき、まず北太平洋航路の途絶が問題となる。
北米大陸と日本列島を最短時間で結ぶ北太平洋航路はアラスカ沖合を通過する。アラスカがアメリカに割譲されたのは、戦時にこれを遮断するためだった。
日本は講和条約によってアラスカ以外にも多数の植民地を失ったが、スマトラ島とボルネオ北部を失ったことで勢力圏にある自前の油田は、北米の加州油田と樺太、シベリアの3個所となった。
この内、最大且つ最良の油田は加州油田あり、本国で消費される石油製品の70%が加州油田で採掘された原油を基にしている。
樺太油田は質量共に不足しており、シベリア油田は採掘環境が厳しすぎた。
北太平洋航路はアラスカ沖合を通過するため、もし戦争となればアメリカ海軍は容易に輸送船団を攻撃することができる。
北米からの石油輸入が止まれば、日本経済は立ち枯れるしかなかった。
アメリカ海軍は当然、それを狙ってくるだろう。
北太平洋は一年を通してたびたび濃霧に覆われるため、目視以外の索敵手段が求められた。
様々な索敵装備が試作され、ラッパのバケモノのような聴音器や赤外線探知機などが考案されたが、音波も熱探知も技術的な限界からものにならず、電波を使う方式が最有力となった。
所謂、電波探知器である。
1930年代後半には、日本海軍の艦艇はレーダーが標準装備となるが、もともとは北太平洋の濃霧の中で戦うための装備だった。
日本には八木秀次博士のような電子工学の権威が存在し、幕府も北米に移転していった繊維産業などに代わる産業として電子産業を重視していたことから、レーダー開発は日本海軍の想定を上回る成果を挙げる。
高精度のマイクロ波水上レーダーは、酸素魚雷と併せて夜戦における日本海軍水雷戦隊の切り札となるのである。
なお、ラッパのバケモノのような聴音器は対潜戦闘用水中聴音機の開発に転用され、赤外線探知器は、大戦末期に登場する誘導爆弾の基幹技術となったので全く無駄だったわけではない。
また、北太平洋航路防衛と同時に、パナマから満州共和国へ伸びるアメリカ合衆国のシーレーン遮断のために多数の潜水艦が整備されることになる。
通商破壊戦用の潜水艦に加えて、劣勢な海軍力を補う方法として艦隊型潜水艦も整備された。
高速の艦隊を追跡できるだけの水上速力と長大な航続能力をもつ2,000tクラスの伊号潜水艦である。
伊号潜水艦は広大な太平洋でアメリカ艦隊を索敵攻撃するため、航空機を搭載することが当然と考えれ、オーロジャイロ搭載のため、格納筒を備えたものが建造された。
これを見た誰かが潜水艦に水上攻撃機を搭載して、パナマ運河を爆撃できないか考えるようになるのに、長い時間は必要なかった。
日本海軍内に潜水空母構想が浮上するのも満州事変以後のことだったとされる。
日本空軍においては、満州共和国の旅順港に停泊するアメリカ海軍艦艇への空爆作戦が計画立案された。
同時にアメリカ陸軍航空隊の重爆撃機による本土爆撃への防空網整備も理論研究から、実戦装備の開発へと向かっていった。
本土防空は、元より日本空軍の存在意義の一つであり、先の大戦においては北米大陸での飛行船都市爆撃の恐怖が日本空軍の源流の一つだった。
1930年台には全金属製の航空機が一般的なものとなり、複葉だった主翼は単葉に変わった。
海軍力の劣勢を覆すために航空技術の研究開発と産業育成は膨大な予算が投じられており、満州事変を前後して、日本の代表的な航空機メーカーがほぼ全て出揃うことになる。
日本本国においては、三菱重工業、中島飛行機、川崎重工業、川西航空。呂宋の東亜重工。北米の北米航空、シコルスキー・エアクラフト、フォッカー・アエロプラーンバウである。
高出力の空冷、水冷エンジンが実用化され、太平洋横断飛行や世界一周飛行などの各種イベントや商業航空路の設営が行われている。
飛行機の輝かしい発展は続いたが、そうした発展を彩ったイベントにシュナイダー・トロフィー・レースがある。
水上機のスピードレースで、元はヨーロッパのみで開催されるものだった日本チームが参戦すると太平洋や北米でも開催されることになった。
水上機はフロートなどの余計な重量物から高速発揮には本来向かないのだが、1920年台の陸上機はフラップなどの離着陸補助デバイスを持たず高速発揮が可能な翼型を採用すると長大な滑走路が必要だった。
その点、静止水面さえあればどれだけでも滑走できる水上機は陸上機では採用できない高速翼型を利用できるので、一時的に水上機の方が陸上機よりも高速という逆転現象が生まれていた。
シュナイダー・トロフィー・レースはそうした時代の平和な航空機愛好家のイベントだったのだが、徐々に各国の航空技術の威信が激突する場所へと変質していった。
当初はイギリスとイタリアの戦いで、アメリカ合衆国がそこに加わり、1926年大会を最後にアメリカが離脱すると代わりに日本が加わった。
最終的に大会そのものは世界大恐慌により中止となるが、イギリスによる大会三連覇がかかった1931年大会おいて、北米航空が送り出したN.A.M701が優勝し、イギリスの三連覇を阻止する。
シュナイダーカップは、大会三連覇によって永代タイトルホルダーとなる権利が与えられるため、優勝候補のイギリスと対抗馬の日本の熾烈な戦いとなったが、ここは日本の航空技術が鼻の差で勝利を掴んだ。
N.A.M701は、140オクタンの特殊燃料と二段式過給器を用いて離床3240馬力を発揮するタンデム結合エンジンを搭載し、最高速力701km/hを発揮した。
この記録は、イタリアのマッキ M.C.72によって塗り替えられるが、シュナイダーカップがその後、第二次世界大戦勃発で再開されなかったことから、1931年大会の優勝トロフィーは、今も加州の国立航空博物館に展示されている。




