満州事変への道
満州事変への道
話は一旦、講和直後に戻る。
大戦終結後の太平洋における戦後秩序を定めたワシントン講和条約とそれによる秩序をワシントン体制とよぶ。
ヨーロッパのおける戦後秩序を定めたベルサイユ講和条約による秩序をベルサイユ体制と呼ぶのと同じ理屈である。
ワシントン体制下において、日本の安全保障はもっぱら現状維持を指向する列強各国との国際協調に依存していた。
戦艦のような主力艦をもつことを禁じられた日本の軍事力は戦勝国に対して劣勢であり、また合藩国構成国の分離独立で本国の政治経済は混乱の中にあったから他にとり得る手段はなかった。
ワシントン体制の大意は日本合藩国の解体と復讐戦争を予防することであったから、それは完全に達成されたと言えるだろう。
だが、戦勝国となったイギリス、アメリカも無傷だったわけではない。
数百万の犠牲者を出し、国家崩壊、革命勃発まで突き進んだドイツやロシアの例を見るまでもなく、先の大戦のような国家総力戦は二度と御免だった。
イギリスは10年原則を発表し、今後いかなる理由があろうとも10年間は対外戦争を行うことを自ら封印した。
アメリカも膨大な戦傷者をだしたことから国内世論に平和主義が台頭し、国家間の緊張は外交による解決を第一とする方針を定めている。
その上で、アジア・太平洋は現状維持を基本として、各国の利害は外交で調整することになった。
そのために国際連盟のような常設国際機関が設立されたのだ。
もちろん、日本に不満がないわけがなかった。
不満というか、強烈な怨念にも似た負の感情を溜め込んだ。
大戦末期には講和に反対する軍部の謀反が起こったほどである。
賠償に戦艦をとられた海軍の恨みが凄まじいものがあり、暗い血の匂いがする感情を連合国に向けていた。
しかし、永く公儀の海軍であることを自認し、護民の組織であることを誇りにしてきた海軍が戦争終結に反対して暴発し、江戸市中を艦砲砲撃したのは致命的だった。
海軍の信用は失墜し、長く低迷の時代に突入する。
それほどまでに海軍が謀反を起こしたことは驚くべきことであり、これまでの優等生的なあり様からして、栄光と失意の落差は大きかった。
なにしろ海軍が謀反を起こしたことを政威大将軍の徳川家達は中々信じられず、旗本衆の展開が間に合わなければ討ち死にしていたところだった。
海軍の謀反はそれほどのことだったのである。
であるがゆえに、戦後の粛清は凄まじいものがあった。
謀反を起こしたこともだが、江戸市中を砲撃し、多数の一般市民を殺めたことは許しがたい蛮行だった。
責任追求で海軍を去った将官は数百名に及び奉公構として一切の公職につくことを禁じらた。直接謀反に関わったものは例外なく切腹となった。
それでも禊が済んだとは思われてはいなかった。
戦後に江戸市中で海軍の制服のまま市電に乗ったある海軍将校が、戦艦薩摩の砲撃に巻き込まれ家族を失った市民によって暴行を受ける事件が起きている。
警官隊が到着したときには、怒り狂った市民数十人によって海軍将校は内臓破裂となるまで痛めつけられていた。
戦前戦中の栄光の日々からの転落は、日本海軍をして再起不能ではないかと思い至らしめるほどの失墜であった。
なお、この謀反において海兵隊は海軍の一組織でありながら反乱には同調せず、旗本衆と共に鎮圧にあたったことからその忠節が高く評価され、海軍から独立が認められた。
海兵隊はこの後、先の市街戦で壊滅した旗本衆に代わって、将軍直轄兵力となるのである。
海兵隊は独自の輸送艦のみならず護衛の駆逐艦や軽巡洋艦を保有し、航空戦力まで有するに自己完結性の高い独立したミニ軍隊へと発展していくことになる。
話が逸れたが、ワシントン体制に対する人々の不満は大きなものだった。
しかし、疲弊した国家経済の立て直しと再編成、さらに関東大震災後から復興に注力しなければならない日本は、ワシントン体制への異議申し立てをできる余裕はなかったのである。
では、ワシントン体制は盤石だったかといえば、決してそんなことはなかった。
現状に不満を持つものは日本以外にもいた。
中華民国、満州王国、朝鮮王国である。
所謂、特亜三国だ。
とはいえ、どの国も正面きってワシントン体制に立ち向かえる力はない。
それどころか、中華民国は辛亥革命で満州族の中央官僚を追放したことから国家レベルの行政能力が崩壊、群雄割拠となって内戦の日々を送っていた。
だが、中華にとってワシントン体制は列強国による中国の半植民地体制の護持であり、とうてい容認できるものではなかった。
これまで、中華世界における一番の敵は日本人だった。
日清戦争以後の大陸への日本の干渉政策を考えれば当然のことだろう。
だが、日本人は戦争に敗れて中華世界から去った。
日本が負けたことに少なくない中国人が喝采を送ったが、代わりにアメリカ人がやってきて、満州王国の新しい支配者に収まった。
日本鬼子が去りて、美国鬼子がやってきただけだった。
そのため中国人達の怒りは自然と華中最大勢力のイギリスと新参者のアメリカ合衆国へと向けられることになる。
逆に日本は中華民国、というよりは国民党の最大支援勢力となった。
こうした日中の接近は、実は先の大戦から既に道筋ができていた。
大戦が勃発すると日本軍は香港や広東のイギリス、フランス植民地を占領した。
そして、中華民国から戦争協力を引き出すために、これらの利権返還をもちかけたのである。
中華民国は大戦にあって中立を保ったが、実態としては日本の戦争に協力していた。
シベリア戦線の兵站を支えた膨大な数の苦力提供や、軍需工場への中国人労働者の派遣。さらに各種国内資源の友好国価格での販売である。
そうした戦争協力によって、戦時中、香港や広東は中華民国の手に戻った。
植民地支配からの解放は部分的ながらも達成されたのである。
ただ日本の敗戦によって、これらの約束は反故となった。
戦争終結後、中国に戻ってきたイギリス、フランスは軍事力を背景に、各種利権の再確認を中華民国政府に迫った。
中華民国の戦争協力は全て列強の知られるところになっており、最悪、中立国ではなく日本と同じ敗戦国の列に並ぶことを覚悟しなければならなかった。
敗戦国よりも少しはマシな現状を維持するために、中華民国は涙を飲んで香港や広東を列強に差し出すしかなかったのである。
列強としては収まるところに収まった形であったが、多くの中国人にとっては恥辱以外の何者でもなかった。
ワシントン講和会議後、アメリカが満州王国に駐留するようになると中国全土で「反美愛国運動」が盛り上がった。
その中心人物が孫文で、彼は亡命先の日本から革命運動を指導することになる。
なお、日本での滞在費用や活動資金は全額、幕府が第3者経由で支払っていた。
日本は中華世界からフェードアウトしつつ、裏口から接近していたのである。
理由はもちろん、イギリスとアメリカの足を引っ張るためだ。
戦後日本外交の基本は、国際協調だった。
国際協調は国際協調として立派に協調してみせたが、水面下では全く別の論理を以って動いていた。
そもそもテーブルの上でにこやかに談笑していても、テーブルの下で相手の足をけたぐり倒すなどということは当然の行為であって、日本外交筋にとってこれは何ら罪悪感を持つ必要ない極当たり前の日常業務の一環であった。
中国国民党への支援は多岐に渡り、資金援助から人材育成のための留学生受け入れ、武器弾薬の提供など質、量ともに豊富なものであった。
そうした日本の支援を活用し、権力基盤を固めたのが、孫文亡き後の蒋介石だった。
蒋介石は満州を未回収の中国と規定し、”回収”の機会を伺うようになる。
未回収の中国といえば、台湾もそうだったがスポンサーに喧嘩を売らない程度には分別があった。また、香港や広東に向かわなかったのは、イギリスやフランスも彼のスポンサーだったからだ。
要するにアメリカ一人負けの状況だった。
このような状況を招いたのはアメリカの一方的な中原への経済進出があった。
日本から得た満州を生産拠点に、中華大陸中央部へ強引な市場進出を図ったことがイギリスやフランスの反感を買っていたのである。
アメリカの行動はワシントン体制の国際協調を逸脱するものとして、非難轟々だったが1920年台はアメリカ黄金時代である。多少の非難ではアメリカの勢いは止められなかった。
空前の好景気を背景に強気のアメリカは、商売はワシントン体制の管轄外と考えて行動している節があり、他の列強の神経を逆なですること甚だしかった。
日本とヨーロッパ諸勢力の支援を受けた国民党政府軍(国府軍)が満州王国国境に集まるとアメリカ合衆国も国民党政府との対決姿勢を強めた。
国民党の一党独裁体制を固めた蒋介石は、アメリカからすれば民主主義の敵、悪の独裁者以外の何者でもなかった。
悪の独裁者から新たなフロンティアを防衛することは、アメリカ合衆国の極東政策における最大の課題となっていく。
だが、同時にアメリカ国務省のスタッフを悩ませていたものがある。
コントロール不能に陥りつつあった満州王国だ。
満州王国は、日本の満州利権追認機関だった。
愛新覚羅溥儀を擁して、いくら清朝後継国家を自認していようとも、実態としてはそういう認識で間違っていない。
それでも清朝遺臣にとっては他に縋るものがないギリギリの状況での選択であり、日本もそれを理解していたので、清朝後継国家であることを最大限に尊重した。
日本の出した金で清朝伝統の華やかで全く内実が伴わない盛大な朝議を挙行することで清朝遺臣の体面は守られ、その自尊心を大いに満足させた。日本の利権を侵さない範囲なら自治も認められた。
近代化や行政改革といった小うるさいことも、日本人は全く言わなかった。
中世のままで、ありのままの姿でいいと現状を肯定した。
満州王国は利害の一致による日本と清朝残党による共犯共演の自作自演国家だったのである。
これはヨーロッパの植民地支配でもよくある話だった。
例えば、印度だ。
イギリスの支配を受け入れる代わりに、インド各地の藩王はその中世的権力を守った。
満州王国の立ち位置も、大きさが違うだけで似たようなものだった。
重要なのは現地勢力の権力を巧妙に制限し、権威だけは尊重する微妙なさじ加減だった。
だが、日本の後釜に座ったアメリカ合衆国には、その手の微妙な調整ができない。
独立から200年足らずの植民地人に、アジア的な、曖昧な権威と権力の共依存関係を理解しろという方が無理かもしれなかった。
アメリカ合衆国が満州王国を遅れた中世国家として全否定した。
東海岸から持ち込んだ近代政治改革は、日本と清朝残党が作った微妙な均衡と秩序を木っ端微塵に吹き飛ばしたのである。
清朝遺臣は政権から排除され、近代憲法と議会をもつ立憲君主制国家が生まれた。
遅れた中世国家が近代民主主義国家になったとアメリカ市民は喜んだが、ではその実態がどうだったのかといえば、英語のできるだけの有象無象が集まっただけだった。
もちろん、行政能力など皆無である。
確かに彼らはアメリカ人と英会話をすることができたが、話ができることと国家統治ができることは全く別だった。
中世国家としては恐ろしく完成度の高い行政府が失われ、あとに残った有象無象の混沌を強力なドルの力で無理やり押さえ込んだのがアメリカの満州支配だったと言える。
金の力は偉大だが、そうした金の力で権力を握った満州王国首相張学良をアメリカ合衆国はコントロールできなかった。
張作霖、張学良、今日において張親子として知られる。
張親子は親子二代に渡って満州に君臨した軍人一家だった。息子の張学良は後継者として大勢の家庭教師がつけられ、英会話を覚えたことが出世に転機となった。
逆にいえば、英会話ができなければ、満州王国の首相になることは決してなかった男である。
張は英語力を活かしていち早くアメリカの満州支配に食い込んだ。
知的で涼しげな風貌の、如何にもアメリカ東部のエスタブリッシュメントが好みそうな東洋的な顔立ちも、立身出世に一役買ったことだろう。
父親の張作霖は満州王国軍の首領であり、強大な軍閥を形成していた。
金と暴力が揃えば、なんでもできるのが当時の満州王国であった。
アメリカが導入した近代選挙制度はほぼ骨抜きにされ、不正選挙が横行して政治腐敗を逆に加速させるだけだった。
議会政治はアメリカ人に見せるためのショーであり、実際の政策決定は張親子の前に賄賂を積み上げることで行われていた。
満州王国での張親子の権力は異常なまでに肥大することになるが、そうした肥大した権力が導き出した結論は、張親子による中華大陸統一という、誇大妄想的なものだった。
そして、恐るべきことに、アメリカ国務省は張親子の野望に全く気がついていなかった。
アメリカ政府が派遣した政治顧問は、張親子を従順な中国人召使か何かのように扱っていたが、実際のところは、彼らはマンチュリアマネーの走狗に成り果ててていた。
張親子は万里の長城の向こうにある中華世界の中心である北京を窺うようになる。
さらに同時期、北京に熱い視線を注いでいる男がいた。
愛新覚羅溥儀である。
日本は日露戦争で得た満州の利権を守るために、溥儀と満州王国を利用した。
しかし、万里の長城を決して越えようとしなかったし、清朝の復権や北京復帰はあらゆる手段を用いて排除、阻止してきた。
理由は言うまでもなく、危険だからだ。
万里の長城は一種のデッドラインで、この線を超えることは、伝統的に中華世界を侵す行為であり、中国を刺激しすぎると考えられていた。
そうした日本の対応は、溥儀にとって長年の不満であった。
もう一度、皇帝に返り咲くために北京を脱出したのに、傀儡の王位に押し込められ、溥儀は大きな失望を味わった。
中華世界における王とは、皇帝の下について地方を治める役であり、ラストエンペラー溥儀にとっては王位は家臣の位でしかなかった。
溥儀は清朝後継国家の君主でありながら、皇帝を名乗ることを許されなかったのである。
だが、日本の支配下にあって不平不満を述べる自由は溥儀にはなかった。
不都合があれば幕府は国王を弟の溥傑に挿げ替るだけの話だった。その点において、日本の満州支配は徹底しており、容赦ないものだった。
だが、第一次世界大戦により日本の支配が終わって、溥儀は自由を手に入れる。
自由になった溥儀は、紫禁城への帰還を夢見るようになっていった。
そうなるように仕向けたのが張親子で、溥儀は二人にとって操り易い人形だった。
溥儀と張親子の思惑が一致したとき、アメリカ合衆国の預かり知らぬところで、満州王国の戦争が始まることになる。
1926年4月11日、孫文の死後、内部抗争を繰り返す国民党を北京から叩き出すため、満州王国軍が万里の長城を越えて北京に向けて進軍を開始した。
北京戦争の始まりである。
この戦争はアメリカ合衆国にとっては寝耳に水だった。
アメリカは満州王国から何も知らされておらず、日本とヨーロッパ各国から「飼い犬のしつけもできないのか」と侮蔑され、面子は丸つぶれとなる。
だが、既に始まった戦争を治める方法はどこにもなかった。
事実上アメリカの植民地とはいえ、満州王国はワシントン条約で認められたれっきとした独立国であり、その国権の行使である宣戦布告を無理やり撤回させることなどできるはずもなかった。
なんとか溥儀とそれを操る張親子を翻意させようとアメリカ国務省は全力を挙げたが、
「注射みたいなものだ。すぐ終わるよ」
と、張作霖は全く相手にしなかった。
そして、戦争そのものが満州王国軍の連戦連勝だったことから止めることも難しかった。
北京は戦争開始からわずか1ヶ月足らずで陥落し、黄河より北の広大な土地が満州王国の支配下に収まった。
紫禁城に溥儀が復帰し、皇帝即位と清朝復活を宣言した。
皇帝即位を宣言する喜びに満ちた溥儀を写した写真が数多く残ってるが、これが彼の遺影になると考えた人間は少なくなかった。
溥儀の皇帝即位は完全に失策だった。
北京では学生達が公然と皇帝復活を批判するデモ行進をおこなった。国民党のみならず各地の軍閥から総スカンを食らった。家臣の(家臣と思っていたのは溥儀だけだったが)張親子までもが公然と皇帝即位を批判し、溥儀に退位を勧めた。
異民族の皇帝が受け入れられる余地など、最早どこにもなかったのである。
溥儀は絶望し、3日後に退位した。
そして、日本やイギリス、フランスの支援を取り付けた国民党の巻き返しが始まる。
中国全土から兵員を動員した国府軍の反撃により、満州王国軍は徐々に押し返されていった。
結局、満州王国の北京占領は3年あまりで終了。
溥儀と張作霖は北京から逃亡したが、逃亡鉄道が奉天にたどり着くことはなかった。
国境付近の線路に仕掛けられた爆弾によって、溥儀は張作霖ともども死亡したからだ。
満州事変の始まりである。
さて、満州事変を語るにあたって、キーマンとして登場するのが朝鮮王国である。
朝鮮王国もまた、ワシントン体制に不満があった。
不満というよりは、不安という方が正しいかもしれない。
ともかくワシントン体制には否定的だった。
これは奇妙な話であった。
朝鮮王国こそ、ワシントン体制で最も利益を得た東アジアの国だったからである。
宗主国が日本からアメリカ合衆国に変わっただけの満州王国や半植民地状態が継続した中華民国と異なり、朝鮮王国は完全な独立国となった。
保護国時代に取り上げられた国内の各種経済利権は全て返還された。
しかも、無料である。
日本にとっては痛手であったが、戦略的必要性から無償で返還された。
そうまでして日本が朝鮮王国独立の体裁を整えたのは、満州は諦めるとしても、隣国である朝鮮王国がアメリカやイギリスの植民地に転落することを回避するためだ。
釜山や済州島に英米海軍が停泊するなど、絶対に考えたくない悪夢だった。
そうなれば、開戦と同時に本国への着上陸さえ覚悟しなくてはならない。
国家の安全保障上、朝鮮王国は最低でも中立であるか、親日国でなければ日本本国の安全保障は立ち行かないのである。
であるがゆえに、朝鮮王国は完全な独立国として再出発することができた。
しかし、当事者である朝鮮王国はいきなり与えられた独立の意味も日本の思惑も全く理解していなかった。
朝鮮王国が独立してから最初に行ったことは、朝鮮半島から日本の存在感を完全に消し去ることだった。
日本語の書籍は焚書され、日本語の道路標識などは全てハングルに置き換えられた。
各地の貿易港には監視所を設けて、日本から入ってきた商品には正式な関税を支払っているにもかかわらず、民族再生税を上乗せして支払うように要求した。
「盗売国土懲罰令」を制定し、日本人に土地を貸したり売ったりした者を国土盗売者として処罰した。保護国時代に朝鮮において既に土地を所有していた日本人は強制的に没収され国外追放された。
日本企業は保護国時代に正当な許可をえたものは朝鮮独立後も営業できることになっていたが、一方的な許可取り消しや警察による事業妨害のために次々と倒産していった。
花見は日本の風習であるとして禁止され、保護国時代に植えられた桜の木を全て切り倒された。
どう考えてもただの八つ当たりだったが、彼らは大真面目にそれを実行した。
こうした自殺行為以外の何もでもない政策を連発する朝鮮王国を幕府関係者は唖然として見つめるばかりだった。
意味が全く分からなかったのである。
さらに朝鮮王国は一方的に漁業制限海域を設定し、警備艇で日本漁船を銃撃するなど、日本の神経を逆なでする行為にでる。
これもまた、幕閣にとっては意味不明な行動だった。
朝鮮が日本に喧嘩を売って万が一にも勝ち目があるはずないことは自明のはずだった。
軍事力を使うまでもなく、経済制裁でも致命傷だった。朝鮮が日本経済の下請けであることは周知の事実であったし、日本との貿易が途絶したのなら、朝鮮は瞬く間に干上がるのだ。
ちなみに、日本とって朝鮮は戦前からどうしてこれほど貧しいのか分からないほど貧しく購買力が致命的なまでに欠ける市場で、何の旨味もない土地だった。
大陸への陸橋としての機能以外は朝鮮に求めていないし、求めてこなかった。
米は台湾や呂宋からいくらでも入ってくるので食料庫としての価値はなく、北部で採掘される石炭ぐらいしか、朝鮮から輸入するものがなかった。
反対に日本には朝鮮が欲しがるものが山ほどあったので日本は大幅な貿易黒字だった。
保護国時代やそれ以前から国内の製造業は壊滅状態であり、石炭を掘って日本から生活必需品をバーター貿易で買うのが朝鮮経済の基本構造だった。
ちなみに日本はバーター貿易しか受け付けなかった。朝鮮に外貨がないためである。
他国も同じ対応だった。
日本からの輸入に徹底的に依存する朝鮮経済が日本から離れて一日でも保つならそれは奇跡か魔法の類だった。
もちろん、20世紀の資本主義経済に奇跡も魔法もなく、ただでさえ貧しい朝鮮は深刻な経済不況に陥り、さらに貧しくなった。
だが、貧すれば鈍するを地で行くようなことを朝鮮は実行する。
なんと対馬を朝鮮固有の領土として、日本に引き渡しを要求したのである。
幕府は一応外交ルートで領土要求そのものは受理したが、即日拒否した。
当たり前だった。
そもそも、なぜそんなことを思いついたのか理解に苦しむ話だった。
「やつらはこちらの予想よりもやや右斜上をいく」
と記者団に語ったのは当時の国務奉行であったが、朝鮮の日本敵視政策は暴走機関車のようにエスカレートしていった。
無人島だった竹島への朝鮮兵の上陸である。
当初は外交ルートでの解決を図った幕府だったが、朝鮮の警備艇によって付近で操業中の日本人漁師への無警告射撃から死者が出たことで、ついに幕府も軍事力の投入を決意する。
といっても、妙高型巡洋艦を1隻遊弋させただけである。
それだけで朝鮮の警備艇は退散したし、竹島からも朝鮮兵は撤退した。
妙高1隻だけで朝鮮王国海軍全軍を全滅させられるだけの火力があった。
日本と朝鮮の軍事力はそれほどまでに隔絶していたのである。
だが、ここから事態は全く解決に向かわなかった。
朝鮮王国は巡洋艦遊弋を日本の侵略であるとして、国際連盟に提訴したのだ。
朝鮮王国は独立国であったし、国際連盟にも加盟していたから提訴そのものは可能だった。
だが、国際連盟の分担金さえ滞納し、先に軍事力を用いて竹島を占領した朝鮮が、国際連盟で日本の侵略を訴えるというのは幕府からすると質の悪い冗談のように思われた。
幕府は即座に反論し、先に侵略行為を行ったのは朝鮮であり、正当な自衛権の行使であると主張した。
結果、日本の主張は認められ、朝鮮王国の主張は退けられた。
だが、これによって国際世論を喚起することに朝鮮王国は成功する。
そしてアメリカ合衆国が動きだした。
アメリカ国務省が、日本の巡洋艦遊弋を懸念するステートメントを発表したのである。
もちろん、口先だけでアメリカが何かしたわけではない。
だが、アメリカが朝鮮の肩を持つというのは、危険な徴候だった。
圧倒的な国力差から余裕で構えていた日本外交はなりふり構わない朝鮮外交に一本取られた形になるだろうか。
朝鮮にとって主張の勝ち負けや正当性など最初からどうでもよく、日本を悪者に仕立て上げ、アメリカの関心を引き寄せることが目的だったといえる。
敗戦国の日本にとって、この種のイメージダウン戦略は地味に手痛いものだった。
朝鮮王国はアメリカに国家安全保障のため、軍事同盟の締結を求めるに至る。
朝鮮王国の最終目標は、日本に対抗するためにアメリカ合衆国を抱き込むことだった。
もちろん、抱き込むといっても、抱き込める力が朝鮮王国にあるわけではないので、アメリカの力を後ろ盾にする程度の意味だった。
虎の威を借る狐といえばそれまでだが、彼我の圧倒的な国力差を考えれば、それしかとる道はなかったとも言える。
とはいえ、ライオンと喧嘩するために虎を呼び寄せるのが賢者の振る舞いかと問われれば、果てしなくNOとしか言いようがない。
幕府の国務奉行所にとっては頭痛ものの展開となった。
なお、アメリカ合衆国は朝鮮から同盟の求めを拒否している。
ワシントン条約違反だからだ。
日本から独立した旧保護国との軍事同盟はワシントン講和条約で明確に禁止されていた。
そもそも三国協商のような広範囲な多国間軍事同盟が未曾有の大戦争を招いたとして、軍事同盟を否定するところが戦後外交秩序の基本骨子である。
だが、朝鮮王国のような大国の側に立つ弱小国にとって、ワシントン体制は全くあてにならないものだった。
そもそも、先の大戦で永世中立国であったベルギーがドイツ帝国にあっさり蹂躙された先例があり、国防に軍事力が必要不可欠であることは明らかであった。
そして、その軍事力がない、或いは必要十分な量を用意できない国が、国防のために軍事同盟を選択するのは必然的であった。
朝鮮王国はワシントン条約など全く信じていなかった。
信じられるのはより直裁的な力、或いは力の外交しかなかったのである。
多国間条約に対する無理解といえばそれまでである。
しかし、ワシントン体制はそれまで旧来の軍事同盟を基本とする国際関係を否定し、全く新しい秩序と紛争解決方法を模索する新しい取り決めであった。
これを独立間もない朝鮮王国に理解しろというのは困難だろう。
後から考えると実に奇妙な話であるが、朝鮮の独立を保障する最も効果的な手段がワシントン体制の護持であったことを考えると皮肉以外の何者でもなかった。
そこへ満州王国が万里の長城を越えて、北京戦争が始まる。
当初有利だった戦況は徐々に不利に傾き、北京陥落も近づいて、国府軍の満州侵攻さえも現実味が帯びてきた。
戦況不利の原因は、世界大恐慌と連動した満州経済の壊滅だった。
1929年10月24日、ニューヨーク株式市場で大暴落が発生。アメリカを中心に、世界経済は長期経済停滞に陥った。
アメリカの大規模な資本投下地であった満州王国は、その影響をモロに受けて、経済活動がほぼ壊滅するに至る。
何しろアメリカ資本がほぼ全て引き上げてしまったのだ。
アメリカの資本投下地だったドイツに状況は似ている。
人間に例えたら、血液がいきなり全部なくなるに等しい状況だった。
戦費調達のための増税は世界大恐慌以前から行われていたが、満州経済壊滅後はさらにそれがエスカレートし、国家予算の93%が軍事費という狂気の沙汰となった。
長引く戦争と経済の壊滅によって疲弊した満州王国の民衆も、公然と反政府デモを繰り返すようになり、国民党のシンパも増えていった。
このまま戦いが続き、敗戦となって満州王国が崩壊となれば、その後の満州の支配者は日本の支援を受けた国民党になるのは明らかだった。
そうなったとき、蒋介石がアメリカ合衆国の満州利権を認める可能性は0%だった。
世界大恐慌により経済は奈落よりも深く沈んでいたアメリカ合衆国だったが、満州の利権を手放すつもりは全くなかった。日本に勝利して漸く得ることができたアジアの植民地を失うことなど、絶対に容認できないことだった。
そこでアメリカ満州駐留軍は極秘に溥儀及び張作霖、張学良親子の排除とコントロール不能になった満州王国の解体、再構築を計画することになる。
計画の首謀者は、駐留軍の参謀長ダグラス・マッカーサー少将だった。
計画策定にあたって最大の問題は、兵力の不足だった。
ワシントン講和条約では、満州に駐留できるアメリカ軍は12,000人が限度であり、武装は機関銃までだった。
これでは広大な満州の全域への展開と勝利はおぼつかない。
一応、満州国軍は戦車や大砲をもつ本物の軍隊であった。精鋭でもなければ、士気が高いわけでもないが、既に3年に渡って国府軍と渡り合える程度には強力である。
ステイツから兵力を増派するのは不可だった。
兵力を増派すれば、溥儀や張親子に警戒される恐れがある。
また、兵力増派は条約違反であることから日本の反応は最悪なものが予想され、黄海の海上封鎖さえありえた。その場合は、アメリカ海軍の主力艦隊を投入し、全力で封鎖を突破することになるが、それは日本との全面戦争を誘発するおそれがあった。
如何にアメリカとはいえ、この時点での日本との全面戦争など全く考慮の外だった。
世界大恐慌によって経済が傾いているアメリカにとって、満州利権の維持は絶対条件であったが、そのためのとり得る手段は厳しく制限された。
そこで朝鮮王国の軍隊を使うアイデアが浮上する。
兵隊は朝鮮人で、実際の指揮を執るのはアメリカの将校というカラクリである。
朝鮮との軍事同盟は条約違反であるので、朝鮮関係法として、アメリカ合衆国の国内法として処理されるが、実質的な軍事同盟が朝鮮王国と結ばれることになる。
アメリカは朝鮮王国の国防近代化支援の名の下に、先の大戦で使い残していた兵器の在庫を提供する共に、その使用方法を訓練するためのインストラクターとして軍事顧問団を朝鮮王国に送り込んだ。
朝鮮王国は漸く届いた大量の兵器と軍事顧問団を大歓迎した。
これに対して、日本は懸念を述べるに留まった。
日本もアメリカ合衆国と本格的にことを構えられる経済状況ではなかったし、朝鮮王国軍の近代化程度なら許容範囲内だった。
朝鮮王国の経済力で揃えられる軍隊程度なら、さしたる脅威ではなかった。
妙に軍事顧問団の数が多かったのは気になったが、朝鮮王国軍のお寒い状況を考えれば訓練や指導に多くの人員が必要なのは理解できた。
軍事力近代化の中心は陸軍で、海軍力は増えないことも日本の軍事関係者を安心させた。
困るのは海軍力や空軍力の増強だったので一先ず静観する対応だった。
だが、訓練を受けた兵力が徐々に朝鮮半島北部の集結し、多数の軍事顧問が妙に活発に動いていることは把握していた。
また、満州駐留軍の参謀長ダグラス・マッカーサーに不穏な動きがあることも掴んでいた。
だが全ては等閑視され、特に対応はとられなかった。
世界大恐慌により日本経済も壊乱状態であり、まずその対処に全力を尽くしていたことから、幕府の対応は後手にまわることになった。
1931年9月18日、北京から逃亡する溥儀と張作霖を乗せた特別列車が満州国境で爆破され、両名は即死。
その直後、アメリカ満州駐留軍が鉄道爆破を国民党の仕業である発表。
満鉄防衛及び自衛を名目として米軍が出動した。
その行動は水際だったものであり、わずか1日で満州王国首都の奉天を掌握。首相の張学良は逮捕され、主要官庁街は制圧された。
朝鮮王国軍もまた満州王国内の朝鮮人保護の名目で越境し、アメリカ人将校の指揮のもとで満州王国の各地を制圧していった。
これに対して満州王国軍は何ら抵抗することができなかった。
軍主力は国府軍との戦いに投入され、壊滅するか北京から撤退中だった。
アメリカ軍は満州王国が手薄になる瞬間を待っていたのである。あるいは、そうするために”助言”を行って、軍の主力を国家の中枢から外していた。
後に、満州事変と呼ばれることになったアメリカの軍事謀略はほぼ完全な成功を納めた。
わずか1ヶ月で満州王国全土が制圧されたのである。
これがダグラス・マッカーサーの絶頂期と言われている。
朝鮮軍を併せても5万足らずの兵力で、数だけなら10倍の兵力をもつ満州王国軍をほぼ完封して勝利したのだから、彼が一種の天才だったのは間違いないだろう。
首相の張学良は、不正蓄財の罪で逮捕、投獄されて失脚した。
臨時政府は設置され、アメリカ軍の厳重な監視下のもと、国政選挙が行われた。
この選挙は明らかに恣意的なものだった。
正式に当選した議員でも、反米的な者は軍国主義であるとして公職から追放された。
アメリカ合衆国は自由を求める人々の新たな革命が始まったとして、これを歓迎する声明を発表。満州共和国を国家承認した。
新しいアメリカ合衆国の傀儡国家の誕生である。
その最初の仕事は、共和国防衛のためアメリカ軍の増派を要請することだった。
もちろん、それはワシントン条約違反である。
しかし、新国家の満州共和国は条約に加盟しておらず、条約違反には当たらないという無茶苦茶な理屈でアメリカ軍増派を肯定した。
これに対して当初事態を静観していた幕府は激昂した。
満州にアメリカ軍が溢れかえるなど、絶対に容認できなかった。
また、満州事変により朝鮮王国とアメリカの秘密同盟が明るみになった。
激怒した日本は、満州事変をアメリカ合衆国の一方的な現状変更であり、ワシントン条約違反であるとして国際連盟に提訴した。
中華民国も満州共和国はアメリカによる侵略であるとして国際連盟に提訴した。
国際連盟は調査団が編成して、情報収集と和解案を提案することになる。
所謂、リットン調査団である。
リットン調査団が提出した報告書は、アメリカ合衆国の特殊権益を認めつつも、満州事変は正当防衛とは言えないと明言した。また、満州共和国についても否定的だった。
さらにアメリカ軍の増派はワシントン条約違反にあたるとして中止を勧告した。
概ね、日本と中華民国の主張に沿った結果報告だったが、アメリカ合衆国の権益を守る方向性もあり、紛争解決のため、日本、中華民国とアメリカ合衆国の間で新条約締結交渉を行うことを提案していた。
しかし、これに対して、アメリカ合衆国は国際連盟未加盟を理由に一切の提案を拒否。
中華民国もまた、満州共和国は認められないとして提案を拒絶した。
交渉は決裂し、幕府は増援船団の大連入港を阻止するため、黄海を海上封鎖した。
この海上封鎖に対して、アメリカ海軍は太平洋艦隊の全力を投入。
日米海軍のにらみ合いが始まる。
盛りついた猫のように威嚇を繰り返す日米艦隊に慌てたイギリスが単独で調停に乗り出したが、その前に呆気なく戦闘が始まってしまう。
1933年4月4日、黄海海戦である。
この戦いは海上封鎖中の重巡洋艦妙高が、大連に向かうアメリカ船籍の貨客船サスケハナを臨検するため接近、護衛のアメリカ海軍駆逐艦スチュワートがその前に立ちふさがったことで始まる。
駆逐艦スチュワートは接近する妙高に対して警告を発し、無害通航権を行使を宣言したが妙高はこれを無視した。
さらに接近する妙高に対してスチュワートは、自衛のための止む得ない措置として武器使用を警告をしたがこれもまた妙高には黙殺された。
この時、妙高もスチュアートも発砲は禁止されており、武器使用の警告はハッタリだった。
妙高はスチュワートを無視してサスケハナに停戦命令と臨検を通知した。
10,000t級巡洋艦と1,200t級駆逐艦では、勝負になるはずもなかったが、スチュアートはアメリカ海軍魂を見せることになる。
スチュアートはサスケハナと妙高の間に割り込み、妙高に体当たりを敢行した。
この体当たりは、スチュアートが排水量の差で一方的に損傷する結果に終わる。
だが、驚いた妙高は一旦は、サスケハナから離れたが、すぐに落ち着きを取り戻すと再びサスケハナに接近した。
スチュアートは妙高の前に立ちふさがったが、妙高は増速し、体当たりでスチュアートを吹き飛ばした。
10,000t級巡洋艦に体当たりされたスチュアートはひとたまりもなかった。
衝撃によってボイラーが破損、火災が発生してスチュアートは洋上に停止した。
貨客船サスケハナは妙高の臨検を受け、武器弾薬が発見されたためそのまま拿捕された。
駆逐艦スチュアートの悲報と、サスケハナ拿捕の報告を受けた空母レキシントンは搭載機を発進させ、報復攻撃に出る。
この時、空母レキシントンから発進した複葉艦上爆撃機は12機だった。
抱えていた爆弾は4発の25ポンド爆弾で、重巡洋艦を沈めるような威力はなかった。
だが、妙高の受けた損害は深刻なものとなる。
12機の複葉艦上爆撃機に襲われた妙高は対空砲火を展開したが1機も撃墜することができず、回避運動の甲斐なく18発の25ポンド爆弾が直撃した。
低速で飛ぶ運動性の高い複葉機は後年登場する高速の単葉機よりも遥かに正確な投弾が可能で、多数の小型爆弾により妙高は大火災が発生して、艦全体が火だるまになる。
バイタルパートを貫通した爆弾はなかったものの、至近弾で舵が破損しており、妙高は副舵と手動操舵で命からがら佐世保に逃げ帰ることになった。
日本海軍最大最強の戦闘艦である妙高型巡洋艦が僅か12機の複葉機に撃破されたことは、日本海軍を震撼させた。
黄海を封鎖していた日本艦隊は空母レキシントンの搭載機に追いまくられ、海上封鎖どころではなくなってしまう。
悔しさと憤りに地団駄踏んだが、もはや日本海軍にできることは何もなかった。
「この船では奴らには勝てない」
という当時の海軍奉行が残したつぶやきが、日本海軍の思いの全てだった。
日米の武力衝突に慌てたイギリスは、東洋艦隊を派遣して日米を牽制すると同時に、本気で紛争調停に乗り出すことになる。
海軍力の劣勢を再確認した幕府は、イギリスの投げたタオルを拾ってリングを降りるしかなかった。
日本が降りたのなら、中華民国も同じだった。
蒋介石の国府軍は万里の長城にアメリカ軍が姿を現すと停戦協定を結んで撤退した。
今だに国内統一が未了である中華民国は、ひとまず北京を奪還したことで引き下がるしかなく、温存した戦力で国内統一事業を推進することになる。
アメリカ合衆国は、満州共和国と相互防衛条約を締結するに至るが、これはもう現状を追認する程度の意味しかなかった。
その条約に朝鮮王国が加盟したことも、もはや次いでという程度の意味しかない。
日本の巡洋艦が火だるまになって朝鮮人は喜色満面だったが、彼らの最大の守護神であるワシントン体制はもはや死んだも同然だった。
アメリカの一方的な現状変更は、ワシントン体制の崩壊を意味しており、その結果は重大なものだった。
また、アメリカのような大国の身勝手を阻止できない国際連盟の権威は失墜した。
そして、元からワシントン体制に不満しかない日本にとって、アメリカがワシントン体制を護持しないのなら、それを守る意味は全く見いだせなかった。
満州事変以後、日本は明確にワシントン体制打破に向けて舵を切ることになる。
ワシントン体制による平和で何とかアジア太平洋の植民地を維持していたイギリスは、アメリカの単独行動に対し、最大級の形容詞を用いて失望と落胆を表明した。
これまで日本の復讐を抑止してきた国際協調の構造は崩壊し、復讐心に満ちた日本の軍事的野望が太平洋を席巻するのは時間の問題となったのである。




