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呂宋の変と江戸初期の海外政策



呂宋の変と江戸初期の海外政策



 1543年に、九州種子島に到来したポルトガル人は、その後、貿易目的に九州各地に貿易船を送るようになり、所謂、南蛮貿易が始まった。

 南蛮貿易の最初のプレイヤーはポルトガル人だった。

 直ぐにスペイン人が加わり、遅れてオランダ人とイングランド人が参加した。

 オランダ人とイングランド人は赤毛の者が珍しかったので紅毛人と呼ばれ、南蛮人のポルトガル人とスペイン人とは区分されたものの商取引の内容は同じだった。

 南蛮貿易の伸長は、日本の戦国時代の進展に密接な関わりがある。

 貿易初期の推進者は九州南部で三州制覇を目指して戦争を繰り返していた島津氏である。

 島津氏が求めたのは火縄銃に用いる火薬の原料である硝石であり、武器製造に必要な南蛮鉄(輸入鉄)であった。

 南蛮貿易とは血生臭い香りが漂う武器取引そのものであり、さらにダーティーなことに硝石と南蛮鉄の代金は島津家が征服してえた土地に住む人々・・・要するに奴隷であった。

 九州北部に覇を誇った大友氏についても南蛮貿易の主要な輸出品は占領地で捕まえた奴隷であり、大名にとって新たな占領地の住む人々は同じ人間ではなく、売買可能な商品でしかなかった。

 むろん、当時の人々に基本的な人権の尊重を求めることなど、無理難題であることは百の承知の上ではあるが、そうした人々と同じ目線に立つ人物がやがて九州に現れた。

 20万の大軍を率いて。

 豊臣秀吉による九州征伐の際に、これらの奴隷貿易が明るみに出て1587年に奴隷貿易禁止するバテレン追放令が出されることになる。

 農民出身の秀吉にとって、九州の農民で戦場で武士に誘拐され、外国に売れていくことは到底容認できないことであった。

 ただし、このバテレン追放令は徹底されたものではなく、また貿易を禁止するものではなかった。

 南蛮貿易そのものはその後も拡大の一途を辿っていき、九州から中国、四国、堺、大阪、遠く関東の浦賀まで拡大していくことになる。

 こうした動きにブレーキがかかるのが、17世紀初頭、江戸幕府成立前後のことである。

 1600年の関が原の合戦以後、日本国内の戦乱は絶えて久しくなくなり、平和な時代が訪れることで、武器弾薬製造のための硝石や南蛮鉄の輸入が大きく減少するのである。

 代わって明朝で生産される生糸が主要な貿易品となった。

 当時、日本では絹の生産は小規模で品質も悪く、絹織物の生産に必要な生糸はもっぱら明からの輸入に頼っていた。

 生糸はポルトガルのマカオか、スペインのマニラから南蛮船によって運ばれ、その代金として日本各地で算出される銀が輸出された。

 資源小国とされる日本であるが、17世紀半ばまでは世界有数の銀の大鉱山を抱えており、日本で算出される銀は遠くヨーロッパの銀相場を左右するまでになっていた。

 しかし、一方的に日本から銀が流出することに危機感を抱いた江戸幕府は、徐々に貿易制限を課して、銀の流出をせき止めようとするようになる。

 要するに貿易赤字が酷すぎたのだ。

 また、貿易制限は海外への渡航制限を兼ねており、これをもって国内のキリスト教勢力の伸長を食い止めようとする意図があった。

 豊臣政権下において、既に述べているようにバテレン追放令や禁教令は出されていたが、宣教師の追放は不徹底であり、日本での滞在は黙認状態であった。布教活動についても同様であり、大名の入信は禁止されていたものの、それ以外は勝手であり、キリシタンの数は増え続けていたのである。

 江戸幕府の初期対キリスト教政策は、豊臣政権と同じ不徹底的な禁教令に終始していた。

 しかし、幕府の機構が整備され支配権が強まるつれて、統制に反抗的な修道士会の存在が邪魔になり始めていた。

 しかし、ポルトガルやスペインとの貿易にはイエズス会などの宗教勢力が密接に関わっていたので、南蛮貿易を推進する限り、宗教勢力との縁切りは不可能だった。

 ここで、日本は一つ岐路に立っていたと言えるだろう。



進路その1

 海外貿易からの大幅な後退と引き換えに国内のキリスト教勢力を完全に撲滅する


進路その2

 貿易を推進する代わりにキリスト教勢力と妥協するか体制に取り込む。


 この2つのどちらかであった。

 ここまで江戸幕府がキリスト教勢力を危険視したのは、当時、江戸幕府の政務顧問となっていた金地院崇伝や天海僧正といった日本古来の仏教勢力巻き返しという側面がある。

 また、対日貿易を独占したかったオランダがポルトガルやスペインを排除するため、両国に関係が深かったイエズス会などの宣教師が侵略の尖兵であるとした流言飛語の影響も大きい。

 後者については完全なデマであり、そうした事実は存在しないが、情報収集能力に限りがあった当時としては、危機感をもって受けいれられていたのである。

 また、1511年のポルトガルによるマラッカ征服は幕府も承知しており、外国勢力による侵略は十分、ありえる話だった。

 しかし、大きなブレーキがかかった南蛮貿易は、一時的な停滞の後、大きく回復した。

 理由は専ら単純で、貿易が黒字転換したためである。

 幕府の金蔵には、御用商人から冥加金として新大陸産の輸入銀が積み上がり、国内の銀流出は完全に停止、それどころか銀がダブついてその扱いに苦慮するほどであった。





 黒字転換が実現したのは、豊臣家が領する摂津での技術革新に依るところが大きい。

 この技術革新は、多方面に渡り、その内容を網羅して紹介することは困難であるが、変革の旗手となったのは豊臣家直臣の隅友家とされることが多い。

 関が原の合戦後、大阪の大名屋敷の大半が江戸に移ったが、その跡地には商家が進出し、摂津はその立地条件から淀川水系、瀬戸内海上交通、四国航路の結節点として商業的な繁栄の時を迎えることとなる。

 大阪の繁栄はむしろ、豊臣家の没落後から始まったのである。

 1614年の隅友家による反射炉建設はその象徴とも言える出来事だった。

 しばしば誤解されることであるが、1614年に建設された日本初の反射炉は銅製錬のものであって、製鉄用のものではない。摂津での大規模な製鉄は1644年の高炉及び転炉法を完成からである。

 この反射炉は石炭を乾留したコークスを用いることで高火力、高効率を実現しており、連続した効率的な銅製錬を行うことができた。

 日本のコークス(石炭の蒸し焼き)の利用は、ヨーロッパ諸勢力よりも圧倒的に早かった。

 また、同レベルの効率を出す銅製錬の反射炉がヨーロッパに現れるのは、18世紀半ばのことであり、ほぼ1世紀に渡って日本の銅生産の中心となるほど優れたものである。

 この反射炉建設に要する耐火レンガとそれを固めるセメントも、隅本家で大量生産された。

 そして、緑青を吹いた銅葺き屋根と赤レンガの多層建築は大量のばい煙を撒き散らす反射炉の煙突と併せて、永く大阪繁栄の象徴となる。

 当時、銅鉱石は日本の重要な輸出品目であったが、この銅鉱石輸出には裏があり、銅鉱石を買ったポルトガル、スペイン商人は、アマルガム法で銅鉱石に含まれる金銀を抽出し、多大な利益を得ていた。

 日本には銅鉱石から金銀を分離抽出する技術なく、また金銀を含有していることも知らなかったため、半世紀近くスペイン、ポルトガル商人は荒稼ぎすることができた。

 隅本家が何時どのようにしてそうした事実を把握したのかは不明だが、隅本家の反射炉建設後は銅の輸出は精錬インゴットの形となり、南蛮商人は大打撃を受けることになる。

 大阪はすでに述べたとおり海上交通路の結節的であり、鉱石搬入の利便性の高さから日本全国の銅鉱山から鉱石が集まり、銅製錬の中心地となっていった。

 しかし、銅製錬は大量の亜硫酸ガスを発生させるため、環境汚染が深刻なものになるのが普通である。

 しかし、隅本家の反射炉は当初から亜硫酸ガスの回収及び窒素酸化物を触媒とした硝酸式により硫酸製造に転用することで、環境汚染をある程度、回避している。

 亜硫酸ガスからの硫酸製造もまたヨーロッパ諸勢力の100年以上先をいく画期的なものであり、コークス製造により発生するアンモニアと硫酸を反応させ肥料の硫安も製造している。

 化学合成窒素肥料として、硫安は画期的なものであり、畑作の枢要な肥料として大量に海外へ輸出されるようになる。

 これら一連の殖産興業は、専ら隅友家初代の功績とされる。

 しかし、近年の資料研究から、その功績は豊臣秀頼のものであるという異説が唱えられるようになった。

 どちらの説においても、隅本家の初代はかなり低い身分の出身であり、苗字帯刀を許し、武士として取り立てたのが、秀頼なのは間違いない。

 隅友家初代と秀頼はかなり親密な間柄であり、ともに錬金術の研究を行う過程で、一連の画期的な殖産を成したとされる。

 秀頼がいつどのようにして錬金術に学んだのかは現在に至るまで不明であるが、当時、大阪に出入りしていた南蛮人から学んだとするのが定説である。

 16世紀に最盛期を迎えた錬金術は、17世紀には自然科学へ昇華していくことになるが、江戸時代初期は錬金術の全盛期であり、秀頼は政務をそっちのけで鉛から金を製造する研究に没頭していたとされる。

 結局、鉛から金をつくることはできなかったが、銅鉱石から金銀を分離することには成功し、銅製錬と金銀の抽出のため反射炉が作られる大儲けしたのだから一応、その研究は報われた形であった。

 これらの研究は豊臣家の財力がなければとても不可能なことである。

 反射炉にしても、当時の最新技術であって、その建設に要する技術は専ら南蛮人が伝えたものとするのが定説である。しかし、秀頼が独自に考案したという異説もあり、その出所については長年の研究にかかわらず不明のままである。

 しかし、秀頼が錬金術の研究を行い、これらの技術革新に関わったのはほぼ確実であろう。

 また、同時期の重要な輸出産業となったものに、製薬産業が挙げられる。

 製薬産業の旗手としては、これもまた豊臣家の直臣に取り立てれた符藍家が著名である。

 符藍家の初代もまた秀頼とともに錬金術の研究を行っていたという伝承が残っている。

 その研究の目的は、不老不死だった。

 生命のアクアウェイタ霊薬エリキシルを製造したという記述が残っている。

 もちろん、それらに不老不死の効果はなかったものの、ジパングの秘薬として同量の黄金に匹敵する貴重品として取引された。

 生命の水、として南蛮人が競って買い求めたものは、現代いうところの「抗生物質」と呼ばれるものである。

 抗生物質は、ペスト、赤痢、コレラ、チフスのような死病とされてきた病に対する特効薬として、スペイン商人の手でヨーロッパに持ち込まれた。ジパングの奇跡の秘薬として、天文学的な値段で取引されたという記録が残っている。

 富貧聖悪を問わず殺し尽くすペストの大流行を迎えていたスペインにおいては、抗生物質を巡って家族で殺し合いが起きるほどであった。また、偽薬が大量に出回り、死亡事故も多発したようである。

 符藍家の初代が考案した抗生物質は、伊丹の日本酒醸造技術を応用したものであり、青カビを大量に培養し、菜種油と混合して、水溶性の抗生物質のみ抽出。砕いた炭に吸着させ、酸性水で溶出して濃縮するものであった。

 如何にして符藍家初代がこの技術を考案したのか、そもそも何時どのようにして青カビに抗菌作用があることに気づいたのかは現在に至るまで不明である。

 秀頼と共に不老不死の秘薬を研究している最中に偶然気がついたという説明が多いが、具体的な一次資料がないため通俗説の領域を出ていない。

 また、隅友家の初代と同じで符藍家の初代も、秀頼と親交があった人物であるが、前半生の活動が全く分かっていない。符藍家の初代は南蛮人であったという説が有力であり、DAN解析から符藍家の先祖が白人であることが判明している。

 符藍家初代の元の名前が何だったのかは諸説があるが、語感からファイザーであったとする説が有力である。

 なお、20世紀後半に、世界規模の企業に成長した符藍製薬は、海外での販売に注力するにあたって社名をファイザー製薬に変更したのはこのためである。

 符藍家が製造して、ヨーロッパ・・・というよりも全世界で珍重された薬はもう一つあり、エリキシルとして輸出された薬は、現在ではアセチルサリチル酸と呼ばれる物質である。

 商標としては、アスピリンという名前で広く知られている。

 こちらもどのように考案、製造法が確立されたのかは歴史研究の対象となっているが、現在に至るまで判明していない。

 柳の樹皮には鎮痛作用があることは、紀元前から知られていたが、具体的な薬効成分の特定と製薬方法を確立したのは符藍家初代が世界初である。

 柳の樹皮から抽出した薬効成分であるサリチル酸は胃障害を齎す重大な副作用があるが、サリチル酸を無水酢酸と反応させアセチル化することにより副作用を回避しており、現代でも他に代わるものがないほど画期的な消炎鎮痛剤である。

 アクアウェイタ、エリキシルはどちらもその製法が国秘とされ、厳重に秘匿された。漏洩は例外なく死罪であり、製法を文書に残すことも禁止され、口伝のみとされている。

 こうした秘匿がその後の歴史研究を困難なものとしているのだが、200年間もの間、秘密を守り通し、日本に莫大な財貨をもたらした以上は止む得ないものする他ない。

 摂津での殖産興業はその後も続き、隅友家や符藍家と時を同じくして創業に至った武家商人は数多い。彼らは何れも豊臣家の家臣として遇された。

 同時代の技術革新の全てを紹介することは困難であるが、代表的なものを挙げると


 ・発酵法による味塩(グルタミン酸ナトリウム)の量産

 ・おがくず菌床による食菌類栽培法の確立

 ・瀬戸内農法(四輪作)の普及

 ・上記による牧羊の普及と羊毛の利用拡大

 ・水力式木製自動紡績機、自動織機の発明

 ・摂津焼(陶磁器)の生産

 ・摂津切子(ガラス食器)の生産

 ・印加芋ポテト、唐芋の栽培法の確立

 ・壊血病治療薬としてのキャベツ栽培と塩漬けキャベツ(ザワークラフト)の生産

 ・脚気治療法の確立(麦飯の奨励)

 ・牛痘(予防接種)の普及

 ・公式文書に明朝体を採用

 ・活版印刷術の確立

 ・アラビア数字及び0の概念の導入

 ・日本最古の蒸留酒製造工場である山崎蒸留所の建設

 ・上記によって製造した蒸留酒によるアルコール消毒法の確立


 という革新的なものばかりである。

 このような技術の爆発的な発展が可能になったのは、戦国時代の終焉により軍備に使われてきた金が産業開発に振り向けれたことが大きい。

 また、大阪のような水上交通の結節点が存在し、人、金、モノが集積され、外国の新しい思想や知識が流入したことによる化学反応が起きたと考えるべきだろう。

 近似該当の例では、ルネサンス期のフィレンツェに近い。

 また、秀頼のような、新しい知識や技術に対して貪欲に興味関心を持つ指導者がいたことも幸運といえる。

 新しいもの好きで、南蛮趣味だった秀頼は惜しみなく勃興する新しい産業や技術に資金援助して、これらの発展を助けている。保守的で、復古調の徳川将軍家にこうした新しい文物への投資という考え方が生まれるのは随分、後になってからである。

 とはいえ、秀頼の資金援助には一貫性が欠けているところがあり、興味のないことや飽きたものには冷淡であったとされる。実益もあった錬金術の研究だが、摂津藩の財政を傾けるほどの金の使い方は異常だったと言わざる得ず、元和偃武の借金王という異名もある。秀頼の死後、借金の踏み倒しを恐れた商人が葬儀に詰め寄せたという逸話があるほどだ。

 科学の発展に多大な功績があったとする一方、秀頼の行動は趣味の世界に耽溺する現実逃避という側面もあり、摂関家として豊臣家を崩壊させ、徳川家による乗っ取りを許すなど、政治的には無能という評価もある。

 また、上述の発展の全てはそれぞれの分野に第一人者が既にいて、趣味的な交友関係から資金援助したに過ぎず、定説では秀頼は後援者という位置に留まっている。

 しかし、異端的な歴史研究者にはこれらの全て革新的な出来事は、秀頼が一人で作り上げ、それぞれの始祖とされる人物は影武者に過ぎず、秀頼は東洋のパララケルスであり、幕府を欺くためにバカのフリをしていたという珍説を唱える者もいる。

 トドのつまり、秀頼が単なる暗君として歴史の裁きを受けていないのは、秀頼の功績がその後の日本史に果たした役割があまりにも巨大であるからだろう。

 貿易制限(鎖国)に傾きかけた幕府は、大幅な貿易黒字達成に気をよくして路線を変更。

 日本人による大航海時代へと突入していくのである。

 その先頭を切ったのは摂津商人であり、その中には隠居後の秀頼も姿があった。






 寛永5年(1628年)、5隻のガレオン式帆船(推定500t、それぞれ真田丸、後藤丸、明石丸、木村丸、土佐丸という名で伝わる)は隠居した秀頼を乗せて大阪を出港した。

 特に見送りのない寂しい船出だったと伝えられる。

 隠居後の秀頼は、諸大名の迷惑を顧みず日本全国の名所旧跡を漫遊し、趣味の錬金術の研究に没頭していたが、暫くするとそれにも飽きたのか海外渡航を希望するになっていた。

 前右大臣が危険な・・・というよりもこの時代は命がけの海外渡航を言い出すなど、制止されそうなものであるが、摂津藩からの制止は一切なかったとされる。

 もはや秀頼は政治的に死んだも同然であり、むしろさっさと物理的に死んでほしいと思う人が大半だった。

 そうすれば、豊臣家の残滓は完全に拭い去られるからだ。

 秀頼はこの時34歳、もはや世間から忘れさられた人であった。

 当時の海外渡航は命がけであるため、この渡航は死出の旅路として、出港前に詠んだ辞世の句が残っている。


「潮騒や 砂に埋もれし 我が身かな なにわの夢の 夢の又続き」


 なお、秀頼には詩才はなかった模様である。

 船団は途中、琉球(1609年薩摩藩が征服)に立ち寄り、その後は呂宋、ボルネオ、ヴァダビア、マラッカに寄港、半年後に船団はゴア、カリカットに至る。

 船団はさらに西進し、日本商船団として初めてペルシャ湾に入って、サファヴィー朝イランの達し、その後は陸路でイスファハーンまで足を伸ばしている。

 世界の半分がここにあると称されるほど繁栄の極みにあったイスファハーンで、秀頼はバザールでペルシャ絨毯を買い求めたり、水タバコに挑戦して嘔吐したという。

 また、壮麗なイマーム広場や、シェイフ・ロトフォッラー・モスクを見て驚嘆した様子が筆記され残っている。

 秀頼は既に無位無官であり、江戸幕府とサファヴィー朝イランは国交がない国であったが、オランダ東インド会社が便宜を図って、王宮にも案内されている。また、友好の品として摂津切子や銀1,000枚をシャー(イラン王)に贈っている。

 なお、この摂津切子は国宝として今でもイランの国立博物館に展示されている。

 この時、日本から持参した交易品は、銅インゴットや銅銭、日本刀や甲冑、マスケット銃といった武器に始まり、屏風や毛織物、摂津焼き(陶磁器)、摂津切子(ガラス食器)といった美術工芸品、抗生物質など各種医薬品だった。

 さらに途中で立ち寄った東南アジア各地で砂糖、香辛料も仕入れており、その商談にはイラン王宮も関心を示していた。

 東の果てにあるジパングに、ペスト(死病を)治癒する奇跡の薬があることは、スペイン商人を通じて中東にまで知られるようになっていたからである。

 これらの品々をイスファハーンで売り捌き、イランで仕入れたのは有名なペルシャ絨毯、トルコ石、アフガニスタン産のラピスラズリ、そしてアラブ馬だったとされる。

 この船団が日本に戻ったのはそれから1年半後であった。

 日本では秀忠が最晩年を送っており、秀頼は帰国すると病床の秀忠を見舞って、献上品としてこの時購入したアラブ馬のうちの1頭を贈っている。

 三代将軍の家光はこの時贈られたアラブ馬の巨体に狂喜したとされ、その後、アラブ馬の繁殖と日本馬との交配実験を命じている。

 この時、日本に持ち込まれたアラブ馬は10頭程度だったと考えられているが、これが日本馬改良の基礎となった最初の10頭と後に広く知られることとなる。

 また、この航海は、壊血病で死亡したものが一人もいなかったという点で画期的なものであった。

 壊血病の特効薬として、船団に持ち込まれていたキャベツの塩漬け(ザワークラウト)の効力が確認され、以後、日本人の海外進出を多いに助けることになるのである。

 その後、国内に居場所がない秀頼は、頻繁に海外渡航を繰り返し、ほとんど一年中、日本にいない状態が続くことになる。

 このため秀頼はしばらく公記から姿を消すことになった。

 秀頼が衝撃とともに歴史の表舞台に復帰するのは、5年後の呂宋の変となる。





 寛永12年(1635年)12月、後に呂宋の変と呼ばれる大事件が発生した。

 事の起こりは新任のフィリピン総督セバスティアン・ウルタド・デ・コルクェラによる不良外国人掃討作戦だった。

 当時、フィリピンは極めて治安が悪化していた。

 スペイン本国はドイツ30年戦争の只中にあり、しかもその戦況が不利とあっては、遠いアジアのことなどかまっていられなくなり、駐留する兵士の数が極端に減っていたのである。

 しかもフィリピン総督は交代要員の手当がつかず2年近くも不在とあって、スペインの統治力は地に落ちる。

 その中で中華系海賊、日本人海賊、現地人海賊が跳梁跋扈。さらにフィリピン南部のイスラム教徒のモロ族が反乱を起こすに至って、マニラ市はほぼ無政府状態に至る。

 そうした中、マニラ市に居を構えていた秀頼が私財を投じて、自警団を組織した。

 この頃の秀頼は無位無官の一個人としてマニラを拠点に海外貿易を勤しんでいたが、マニラの日本人社会の中では顔役となっていた。

 マニラにいた日本人の多くが商人と水夫だったが、その次に多かったのが浪人達である。

 浪人の多くが豊臣家恩顧の大名家出身者だった。

 同時期の日本は江戸幕府初期の武断政治全盛期であり、大名家の改易、取り潰しから浪人が激増し、社会問題となっていた。

 そうした浪人は国内に居場所がないので、朱印船に乗って海外の紛争地帯に流れるのが一つのパターンの定着していたのである。

 シャムの山田長政はそうした浪人衆を集めて組織化し、暗殺の危機も乗り越えてシャムの大臣に登りつめた江戸時代初期の海外成功者の一人である。

 マニラもまた、浪人の集まるホットスポットの一つだった。

 治安が悪化していて、しかもスペインの重要な商業拠点である。金が集まり、稼げる場所だと考えられていたのである。

 故に、金さえあれば秀頼が自警団を作ることなど造作もないことだったのである。

 秀頼がどこまで考えてそうしたのかは不明だが、マニラの治安が極端に悪化していたのは事実であり、自衛のために武力を持つことは止む得ない判断であったと言える。

 しかし、組織された自警団は半月足らずで3,000人以上に膨れ上がり、マニラ市郊外まで自警の範囲を広げるに至る。

 現地のスペイン軍ですら手のつけられない”自警団”となった秀頼とその一味は、マニラ市の安全宣言を出すが、これは事実上のマニラ征服宣言と言えた。

 当時の行政組織とはそのまま治安維持組織に直結していたからである。

 つまり、マニラの支配者はもはやスペイン軍ではなく、日本人の自警団であることは明らかであった。

 とはいえ、秀頼は頼んでもないのに勝手に集まってくる上納金(税金)の扱いに苦慮していたという記録も残っており、秀頼にとって一連の動きは不慮のものだった可能性が高い。

 しかし、状況は坂道を転げ落ちるように悪化していく。

 2年ぶりに着任したフィリピン総督セバスティアン・ウルタド・デ・コルクェラが見たのはマニラを制圧する日本軍そのものであった。

 即座に開戦に至らなかったのは、頭数で圧倒的に不利なためである。

 よって、一先ず秀頼と会談を持ち、話し合いでの解決策が模索された。秀頼もそれを受けて自警団を解散すると約束している。

 だが、解散により職を失うことになる浪人達が反発し、武装蜂起。

 ここに至って後に引けなくなった現地スペイン軍と自警団との間で、武力衝突が発生する。

 そして、戦いは自警団の圧勝で終わった。

 この時の戦いで活躍した武将は晩年の真田信繁、毛利勝永と言われる。

 摂津で徳川家の傀儡藩主に仕えることを良しとせず、秀頼に付き従って呂宋まで流れてきた二人は、この戦いでその卓越した軍事的才覚を示すことになった。

 ただし、自警団は水軍を持っていなかったので、フィリピン総督の逃走を阻止することはできなかった。

 逃亡したフィリピン総督の行く先は日本だった。

 江戸幕府は総督の猛抗議を受けて、漸く事態を把握する。

 そして、恐慌状態に陥った。

 幕府は秀頼が呂宋にいることすら把握しておらず、ましてや自警団設立の動きも何も知らなかったのである。

 それどころか、


「前右府殿(秀頼)は、生きておられたのか?」


 などと、時の将軍家光が下問する有様だった。

 一応、幕府にも対外交渉機関として外国奉行があり、対外交渉の窓口は在るにはあったが、それは日本に来た外国人の相手をするもので、積極的に海外に出向いて交渉する機関ではなかった。

 さらに、外国の情報収集活動は全く想定されておらず、この時の反省から対外情報収集組織として伊賀者を使った南蛮忍軍を編成するに至るが、この時はまだ影も形もない。

 総督は、このままではスペインと日本の全面戦争となると幕府を脅迫し、即刻、マニラを不法占拠する犯罪者集団を討伐し、スペインの権利を回復すべしと主張した。

 これを聞いて、


「呂宋出兵か!?」

 

 と、幕府内はいきり立ったが、老中の松平伊豆守信綱は流石に冷静だった。

 おそらく、信綱は江戸時代初期における傑出した最大の政治家である。

 知恵伊豆(知恵出ず)と称せられる切れ者の信綱は、一方的な非難と戦争の脅威を煽るフィリピン総督の話を聞き流し、マニラ商人から聞き取り調査を行って、事態の把握に努めた。

 結果としては、総督の言い分には一面の真実があるものの大半は誇張された内容だった。

 無敵艦隊はとっくの昔に沈んでいるし、スペイン軍10万が日本に攻めてくるなどありえないことだった。

 それどころか、マニラの治安維持さえできず、総督不在の間に秀頼に”国盗り”を仕掛けられ、まんまと出し抜かれた実態が明らかになる。

 マニラに商館を構える日本人商人は概ね秀頼に好意的であり、治安回復の功績を称えたが、幕府にとってはそんなことはどうでも良かった。

 葬り去ったはずの豊臣の亡霊が遠い海の向こうで蘇ったこと。

 それこそが幕府とっての最重要政治課題だった。

 選択肢は2つしかない。

 秀頼のやったことを肯定するか、否定するか、そのどちらかだ。 

 否定して、秀頼を処罰すればそれで済むわけではなく、浪人たちは反発するのは確定的なので、処罰するには呂宋まで軍勢を送るしかない。

 だが、そんなことをしても喜ぶのは労せずして権力を回復出来るほら吹きのフィリピン総督だけで、幕府にとっては少しも面白くない。

 では、肯定するのかと問われれば、秀頼の存在はあまりにも重い。

 だが、考えようによっては豊臣家を永久に島流しにするチャンスでもある。そして、呂宋が手に入るのは悪い話ではなかった。

 日本の対外貿易は増加の一途を辿っており、さらなる発展のために海外寄港地がほしいと思っていたところである。

 ともかく、幕府は秀頼の出方を確認するため、高速の飛脚船を使って詰問の使者を送った。

 使者は半月ほどで戻り、返信の船には秀頼の乳母兄弟の木村重成を伴っていた。

 重成は秀頼の代理として改めて臣従を誓う誓詞を提出し、幕府の裁定を仰ぐ旨を伝えた。

 こうなると幕府としても、秀頼を認めるしかなくなり、スペイン本国と直接、交渉を持つことになる。

 その後、年単位の交渉が始まるが、最終的に幕府がフィリピンを買い取る形で決着する。

 スペインとしては、ドイツ三十年戦争の真っ只中で、しかも戦況不利とあっては地球の裏側で日本と開戦する力などどこにもなく、むしろ、鮮血のように赤字を垂れ流す対日貿易は、抗生物質の輸入以外、もう止めたいと思っていたところである。

 マニラは治安悪化から不良債権化しており、敢えて維持する意味が見いだせない場所となっていたのだ。

 そこで、マニラ港の利用権やフィリピンを禁教令の例外とすることを条件に、1,000万両でフィリピン全域を日本が買い取る契約が成立する。

 同時に、呂宋藩の立藩となり、初代藩主として豊臣秀頼が就任する運びとなった。

 なお、1,000万両は20年分割払いとなり、幕府が建て替えて支払うが、20年後からは呂宋藩が全額、幕府に分割で返済する形をとった。

 買い取り費用は、最終的に呂宋藩が全額返済する形となるし、借金で呂宋藩を紐付きにしておける上に、寄港地としてマニラが自由に使えるようになる幕府としては何も失うことがない万々歳の形であった。

 なお、豊臣家には勝手に戦を起こした罰により永代国外追放の沙汰が降った。

 豊臣家は以後、毎年、赦免を求める使者を江戸に送ることになる。

 ただし、呂宋の経済発展と豊臣家の土着化によって、使者は徐々に形骸化していった。

 使者の業例は祭礼の色彩を帯びるようになり、呂宋からやってくる珍行列を見て楽しむ江戸の年中行事となっていく。

 なお、家光、家綱に仕えて幕藩体制を完成の域に高めた松平信綱は当世において秀頼を高く評価する人物の一人であり、後に秀頼を敢えて天下をとらなかった男と評している。

 秀頼は摂津時代と同じく政務は重臣任せの形を貫き、数年で2代目藩主となる長男、豊臣秀勝に代替わりとなった。

 2代目藩主、秀勝は幼名を国松といって、次男の竹次郎が摂津藩を継いだ日に、跡目争いの芽を詰むため出家させられ、以後20年以上も僧として読経と写経を綴る日々を送っていた苦労の多い人物である。

 が、ある日突然、還俗させられ、呂宋まで連れてこられた上に、永代国外追放となり、大名となった後にスペイン人貴族の娘とモロ族の族長の娘を娶って大名家初の国際結婚する運びとなって、もはや存在そのものが冗談の類であった。

 僧として20年以上も修行の日々を送っただけあって政治的能力は皆無ながら公正公平の人格者として慕われた。家臣にも恵まれたことから呂宋藩は海外藩として幕藩体制の中で安定を見ることとなる。

 なお、親子仲は秀頼の無責任ぶりからして悪いはずだが、なぜか良かったと伝わってる。

 その後、秀頼は呂宋で趣味に没頭する人生を送って、62歳で世を去る。

 父親の秀吉と同じ歳のことであった。




 呂宋の変は幕府の目を海外に向けることとなった。

 呂宋藩の立藩後に大量の浪人が仕官を求めて呂宋に渡ったことは、浪人対策に苦しむ幕府にとって福音となったのである。

 スペインからフィリピン全土の権利を買い取ったといっても、フィリピン南部のイスラム教徒はその支配に服せず、頑強に抵抗を続けたことから戦働きの場所は多かった。

 呂宋は今こそ戦国時代であり、上手くすれば一国一城の主も夢ではない場所だった。

 事実、浪人の由比正雪は赫々たる武功により、フィリピン南部に束麻藩を立藩することを許され、浪人達が憧れる立身出世の星となる。

 そうした浮ついた空気の中で、大事件が起きた。

 1644年、明が滅亡したのである。

 南京に南明(亡命政権)が樹立され、幕府に援軍を求める使者がやってきた。

 これに応えるべきかどうか、幕閣の中で大激論となる。

 最終的に家光の裁定によって、唐出兵の運びとなったが、これは秀頼の成功に触発されたものとするのが一般的である。

 衰亡の豊臣家に出来たことが、天下を治める徳川家に出来ないはずがないという理屈である。

 勝利の暁には大陸に領地を得るという密約を結んで、10万の大軍が起こされ、台湾次いで厦門に上陸。華中にて清軍と激突することになる。

 大陸での戦いは、大量の歩兵銃で武装した幕府軍が各地で清軍を破って、長江を越えた清軍を各地で撃退することに成功する。

 援明はひとまず成功を収めたのである。

 この時、幕府及び南明から大量の武器の発注があり、戦国時代が終わって下火になっていた日本全国の鉄砲鍛冶が息を吹き返すことになる。

 また、摂津の隅本家は高炉による大量の製鉄に成功しており、膨大な量の鉄砲受注を請け負って摂津最大の大商人となる。

 この時、幕府に納めた鉄砲は、火縄銃よりはるかに進化したフリントロック式マスケット銃であり、隅友筒の名を与えられるほど画期的なものであった。

 隅友家はその後世界中に武器を売る死の商人として、21世紀現在においても世界最大の武器製造会社として日本経済界に君臨している。

 話は逸れたが、唐出兵は当初こそ華々しい成功をおさめたものの、最終的には失敗に終わった。

 清軍撃退に成功した後、どこからか領土割譲の密約が暴露され、政治問題となってしまったのである。

 領土割譲の密約など、明確な売国行為であり、南明は一気に民衆からの支持を失ってしまう。

 南明政府は慌てて密約を否定したが、幕府軍から論功行賞の催促があり、これを拒否したことから民衆のみならず、幕府軍も敵にまわしてしまうことになる。

 かくして、中華大陸中央で南明軍と幕府軍、清軍の三つ巴の戦いが始まるが、民衆からの支持がない南明軍が早期に瓦解。幕府軍は南明政府からの物資供給もなくなり、自慢の歩兵銃も火薬が尽きて鉄の筒に成り下がり、清軍に押しまくられ壊滅状態となる。 

 幕府軍の残存部隊は長江を下って、台湾に撤退した。

 なお、この時、幕府軍は論功行賞が得られなかった腹いせに長江流域で大規模な暴行略奪事件を起こしている。

 絹の産地であった杭州や蘇州、陶磁器で著名な景徳鎮はこれにより壊滅した。

 後に清朝の手厚い保護によって復興を遂げることになるが、この時に略奪された技術により、台湾や日本でも中国本土並に高品質の絹や陶磁器が生産されることになった。

 最終的に台湾まで撤退できた幕府軍は1万人程度であり、そのまま報酬代わりに台湾を武力占拠。以後、海禁政策を採った清朝とは没交渉となる。

 なお、この幕府軍残存部隊を率いたのは、最晩年の加藤清正であった。

 豊臣家と距離をとって幕府に忠勤を尽くした加藤家は順当に二代目加藤忠広に熊本藩を引き継いで清正自身は隠居の身であった。しかし、朝鮮出兵の経験を買われて助言役として子の忠広共々、唐出兵に参陣を求められた。

 最後の奉公として応えた清正だったが、上位者の相次ぐ戦死で実質的な総大将として幕府軍残存部隊を纏めて長い撤退戦を戦う羽目になったのである。

 既に鎧をまとうことさえ困難な老体だったが、的確な指揮で幕府軍を撤退させた手腕は幕閣から激賞されるものの台湾に撤退した数日後に過労により死去。また、子の忠広も戦死した。

 三代目の加藤光広は清正の功績により、台湾への転封となる。

 2つ目の海外藩、台湾藩の立藩である。

 台湾は九州全土に匹敵する大領であり、加藤家は台湾開発の進展によって徐々に海外雄藩として幕藩体制の中で重きをなしていくようになった。

 なお、大失敗に終わった唐出兵であったものの死んだ兵士の大半は浪人であって、治安対策としては成功であった。

 とはいえ、費やした軍資金に対して得たものは小さく、清とは完全な敵対関係となってしまったのは大きな失点である。

 幸いなことに清は有力な水軍を持っていないので日本や台湾への侵攻は不可能であり、本土の安全が確保されるならば放置していても問題ないと認識されるようになる。

 これは清に朝貢した朝鮮についても同様であり、幕府は唐出兵の失敗に懲りて、大陸とは距離をおいた外交政策を推進していくこととなった。






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