WWⅠ 対米戦の始まり
WWⅠ 対米戦の始まり
第一次世界大戦におけるアメリカ参戦については、様々な議論がある。
直接的な原因とされた日本のスパイ飛行についてだが、日本の言論空間においては後付の理由にすぎないと看做されている。
アメリカ合衆国は自国が参戦する最も都合の時期を選んで参戦したに過ぎず、それを正当化する理由として日本の偵察機墜落が使われたという理屈である。
実際、1917年春の時点で、北米の国境線にはアメリカ軍200万が集結し終えていた。
日本陸軍はその展開状況をかなり正確に捕捉していた。日米の国境線は真っ平らの平原にあり、隠し事ができる余地はないからだ。
日本陸軍のスパイ飛行はそうしたアメリカ軍の展開について情報を集めるために極秘で行われていた。
なお、スパイ飛行をしていたのは、アメリカ軍も同じだった。
アメリカ軍の偵察機も1917年1月14日にエンジントラブルのため日本領内に墜落して、パイロットが地元の同心に逮捕されている。
ただし、パイロットは即日強制送還されていた。
国務奉行所は、この措置をアメリカ合衆国を刺激しないためと肯定しているが正式に抗議すべきだったという指摘もある。
また、アメリカ合衆国の世論も参戦に肯定的になっていた。
アメリカ世論は第一次世界大戦開戦当初は、参戦に否定的だった。
しかし、1915年5月7日に、ドイツ海軍のU-20がイギリス商船のルシタニア号を撃沈し、多数のアメリカ人が巻き添えの犠牲になったときから、アメリカの国内世論は徐々に反ドイツに傾いていた。
1915~16年のインド洋通商破壊戦でも、イギリス船籍の商船に乗っていたアメリカ人が日本軍の攻撃に巻き込まれ死亡している。
海外で活動するアメリカ人が多数、日独の攻撃によって死傷していたことから、アメリカ国内世論は報復を望む声が大きくなっていった。
しかし、アメリカ合衆国は直ちに参戦には向かわなかった。通商条約の破棄や国交断絶などの外交的措置に留めている。
なぜならば、その時点ではアメリカの戦争準備は整っておらず、参戦しようにも軍備が不足していた。
日本との長大な国境線の警備には平時から多くの兵士が従事していたが、全面戦争となるとアメリカ軍の装備は質、量ともに不十分だった。
何しろ、日本陸軍は北米大陸の国境線におよそ200個師団を並べていた。この内の50個師団がカナダ軍と対峙しており、150個師団がアメリカ国境で防備を固めていたのである。
兵員数で言えば、およそ150万だった。なお、日本陸軍の編成は源流がフランス大陸軍に遡り、1個師団あたりの兵員数は多くて1万人程度だった。
なお、これは戦時編成の話であって、平時にこれほどの大兵力が国境に張り付いているわけではなかった。師団の大半は予備役兵が動員されたもので、常設師団に比べると格段に練度が劣っていた。
それでも平時体制のアメリカ軍が太刀打ちできる兵力ではなかった。
それを徴兵制と大軍拡で兎にも角にも対日戦線布告まで持っていけるだけの規模まで拡大したのが、1917年の春であった。
後の視点から見ると、アメリカ軍の軍拡は首をかしげるほどスローペースで、小規模なものだったと言える。
アメリカ世論は参戦には肯定的だったが、軍拡のための増税には否定的だったのである。
これもまた、民主主義政治の一面と言えるだろう。
だが、1917年4月、国境に200万の大軍を集めたアメリカ軍の大攻勢はアメリカ合衆国の生産力を見せつける凄まじいものだった。
5日間の準備砲撃の後に1,600kmに及ぶ国境を超えたアメリカ軍は、月面のようになった国境だったものを目にして、日本兵は一人も生き残っていないと確信したとされる。
だが、彼らの戦い方は日本軍からすると周回遅れであった。
数日におよぶ大砲撃は破壊効果こそあるものの、それは逆に自軍進撃路を破壊することに他ならなかった。
また、長時間の連続砲撃は、敵が砲撃に慣れてしまい心理的な衝撃から回復する時間を与えてしまう。ベテランの兵なら砲撃のさなかに仮眠をとることさえできた。
そして、特に砲撃が激しいところが敵の攻勢正面なのだから、鉄道で予備隊を速やかに送れば、その攻勢を頓挫させることは容易かったのである。
よって、攻勢にあたっては、準備砲撃は短時間の止めて心理的な衝撃から立ち直る猶予を与えず、さらに攻勢正面を厳重に秘匿して、即座に陣地に取りつくのが1917年春ごろにおける最新の攻勢戦術であった。
いわゆる、浸透戦術である。
アメリカ軍は事前のスパイ飛行で日本軍の展開状況をかなり正確に捉えていたものの全てを完全捕捉するには情報不足であった。
空中偵察からでは把握できない地下陣地や、対空偽装された砲兵を発見できていない。
そしてなによりも、日本にとってアメリカ軍の参戦は半ば覚悟の上であり、国境の防備については抜かりなく準備がなされていた。
準備砲撃が終わり、アメリカ軍の歩兵が攻撃のために塹壕から姿を現すと日本軍の反撃がすぐに始まった。
反撃の主力は、機関銃と迫撃砲だった。
迫撃砲も第一次世界大戦の塹壕戦が生み出した最新兵器の一種であり、高い発射速度と素早い展開能力から歩兵の突撃粉砕には絶大な効果を発揮した。
アメリカ軍の歩兵攻撃は、やはり周回遅れの旧式戦術で、密集したまま正面から突撃しては大損害を被った。
それでも大量の兵力を投入したことから、日本軍の国境防衛陣地は次々と占領されていく。
日本軍は奪われた陣地を反撃して奪い返すわけでもなく、守りきれないと判断した場合、防衛を放棄して後退していった。
ただし、この後退は敗走を意味していない。
後退した守備隊を収容する後方陣地が何重にも用意されており、日本軍は次の陣地でアメリカ軍を迎え撃つだけでよかった。
日本参戦から3年間の間、国境に作った縦深陣地は深いところで70kmの厚みがある。
計画的な後退と損害強要こそが日本軍の狙いだった。
なお、開戦緒戦の防衛戦で、軽くて展開が容易な迫撃砲と軽機関銃が攻勢のみならず、防衛戦闘でも効果的であることが分かり、重機関銃と軽機関銃の生産数が逆転することにもなった。
陣地据え付け型の重機関銃は高火力だったが、後退の際に重く持ち出しできずに廃棄される場合が多かったからだ。
歩兵砲も迫撃砲に比べて陣地転換が遅く、発射速度も劣っており、歩兵砲の生産は縮小され、迫撃砲に転換していくことなっている。
なお、重機関銃の欠点と軽機関銃の利点を経験した日本陸軍は、軽機関銃としても、重機関銃としても使用できる汎用機関銃という新しいコンセプトを着想するに至るのだが、それが形となって現れるのはまだ少し先の話である。
1917年4月から、5月までの間にアメリカ軍の各部隊は平均して50kmの前進に成功し、最大では100kmも進撃に成功したが、その間に死亡して天国へ転属した兵士は51万人を超えて、完全に攻勢能力を喪失することになった。
後に「血の30マイル」と呼ばれる屍山血河である。
1km前進するのに1万人が死んだ計算だった。
この数値は、4年間続いたアメリカ南北戦争の全期間に発生した戦死者の数を僅か1ヶ月で塗り替えるアメリカ軍史上最低最悪の大損害だった。
だが、アメリカ軍にとっての悲劇はまだ始まってすらいなかった。
日本軍はアメリカ軍が疲れるのを待っていたのである。
アメリカ軍は膨大な死傷者のみならず、補給の欠乏に苦しんでいた。砲弾穴で道路が使用不能となり、前進した部隊に補給が届かなくなっていたのである。また、攻防の要である砲兵は国境線で完全に立ち往生し、前進した歩兵は砲兵支援を受けることができなくなっていた。
アメリカ軍の攻勢停止を待って、日本軍は反撃を開始する。
砲兵戦力が機能していないアメリカ軍は日本軍の反撃に為す術もなく、後退を強いられた。
反撃開始から1ヶ月でアメリカ軍は元の国境まで押し返され、さらに死傷数を30万人追加することになった。
対する日本軍の損害も膨大で、36万人が死傷している。その内の24万人が反撃開始から1ヶ月間に生じた損害だった。
およそ3ヶ月間に渡る攻防戦により、日本軍も大損害と補給の不足で攻勢が停止する。
塹壕戦においては防御優位。その原則が再確認されて初期の対アメリカ戦は終了する。
しかし、本当の脅威は南からやってきた。
アメリカ海軍大西洋艦隊がパナマ運河に侵攻。これを占領したのである。
そして、太平洋航路への通商破壊戦を開始した。
開戦と同時にアメリカ軍は日本・アメリカの共同管理となっていたパナマ運河に侵攻した。
表向きの理由は、日本軍の侵攻に先じて運河を保障占領し、大西洋、東海岸への侵略を防ぐことであったが、その後の展開を考えるとこれは全くの詭弁であった。
アメリカ海軍は、占領したパナマ運河を通じて多数の巡洋艦、潜水艦を放ち、日本の太平洋航路を攻撃したからである。
一応、日本軍もアメリカ軍のパナマ侵攻を警戒していた。
それどころか、開戦となれば即座にパナマに押し寄せてこれを占領する計画さえあった。
アメリカ海軍の太平洋進出を阻止するには、それが最適だからだ。
だが、インド洋での戦いにはまり込んでいた日本海軍は、必要な戦力の手当が出来ていなかった。
そうした兵力こそインド洋で必要とされていたからだ。
アメリカの参戦、パナマ運河占領が伝わると、日本海軍は印度洋艦隊から戦力の大半を引き抜いて太平洋の各地に再配置した。
アメリカ海軍が保有する弩級戦艦、超弩級戦艦は参戦時、合計17隻に達している。
巡洋艦や駆逐艦、水雷艇主体の北米艦隊や南天艦隊の戦力で対抗できる相手ではなかった。
日本海軍が全力で当たらなければならない強敵である。
ようやく完全制圧したセイロン島だったが、コロンボ港に錨を沈める戦艦は、伊勢型4隻が限界だった。同格のクィーン・エリザベス級戦艦4隻相手にぎりぎり牽制が可能な戦力しか残せなかったのである。
それもかなりの苦渋の決断であり、セイロン放棄さえ真剣に検討された。
インド洋の通商破壊戦は継続されたが、その効果は全盛期に比べれば格段に見劣りするものだった。
参加戦力、特に巡洋艦の引き抜きによって、作戦効率が格段に低下したからだ。
潜水艦単独の通商破壊戦は、イギリス海軍の対抗策が完成の域に達していることから、犠牲ばかりが大きく決して効率的とは言えなかった。
水上艦と潜水艦を組み合わせた立体的な攻撃こそが最も効果的で、大量の水上艦を引き抜かれた印度洋艦隊は以後の戦いで苦戦することになる。
イギリスのインド洋航路は苦しいながらも、首の皮一枚で息を吹き返したのである。
アメリカ参戦はぎりぎりのところで間に合ったとも言えるし、イギリスをぎりぎりまで追い詰めて弱体化させたという判断もできる。
これにより戦後の大英帝国の覇権衰退は確定的となった。
そのため、アメリカ参戦のタイミングはイギリス国内で様々な憶測を呼ぶことになり、戦後の英米関係に微妙な影を落とすことになる。
だが、アメリカ参戦は連合国にとって最後の希望だったのは間違いないだろう。
反対に、日本とドイツの戦争指導者達は頭を掻き毟る羽目になった。
見えかけていた勝利の兆しが完全に吹き飛んだからだ。
戦争はまだまだ続くし、ドイツも日本も長引く戦争で疲弊していた。
対して途中参戦したアメリカはまだ元気いっぱいだった。
日本は海外貿易が続いていたので、国内経済はドイツよりはマシだったが、開戦当初から海上封鎖が続くドイツ経済は危機的な状況であった。
見えかけた勝利の兆しが消えたことで、ドイツ世論の戦意喪失は深刻となり、ドイツ軍首脳部は戦争集結を急ぐことになる。
戦場での勝利よりも先に、国内経済破綻から体制崩壊が見えてきたからである。
ロシア帝国のような革命勃発も、視野に入っていたとされる。
北米大陸の地上戦は、2ヶ月程度でアメリカ軍が壊滅的な打撃を受け、膠着状態に至ったが海の戦いはこれからが本番であった。
むしろ、無為な戦いであった地上戦に比べて、こちらの方が本当の戦いと言えた。
インド洋では、日本海軍が攻める側であったが、太平洋では守る側であった。
アメリカ合衆国は、ドイツの無制限潜水艦戦を戦争犯罪と糾弾したが、太平洋で日本相手にそれを行うことには全く躊躇がなかった。
開戦初期に後手に回ったことは日本海軍にとって大きく不利に働く。
1917年5月には、月間に74万tの商船が撃沈され日本経済にパニックが広がった。
アメリカ海軍の通商破壊部隊は、開戦当初から7月まで太平洋航路の日本商船団をハイペースで撃沈し、黄金時代を築くことになった。
装甲巡洋艦ピッツバーグは、僅か3ヶ月間の間に102,920tの日本商船を撃沈し、連日、東海岸の新聞紙面を賑わせた。
その神出鬼没の戦いから、アメリカのマスコミから幽霊戦艦の仇名を贈られている。
なお、ピッツバーグは装甲巡洋艦であって戦艦ではない。
日本海軍は面子丸つぶれで、海軍奉行所に群衆がおしかけ投石される羽目になった。
これまで安全な太平洋航路の上にあぐらをかいてきたツケが回ってきたのである。
日本海軍はインド洋では攻める側で、守るイギリス海軍が通商破壊に回せる余力が僅かだったことから、これまで防備体制の不備が大きな問題にはならなかった。
対して、太平洋にアメリカ軍は守るべき航路などなく、全てが攻撃対象だった。
アメリカ海軍はイギリス海軍と共同して西大西洋でドイツ潜水艦を封じ込め、他は全力で太平洋航路の切断に力を注ぐことができた。
ドイツ海軍の大洋艦隊はイギリス海軍の大艦隊が封じ込めているので、アメリカ海軍は17隻の戦艦を全てをパナマ周辺に集めて、日本海軍を牽制した。
日本海軍が太平洋に回すことができたのは、超弩級戦艦4隻、弩級戦艦2隻、弩級巡洋戦艦4隻、超弩級巡洋戦艦6隻、合計16隻だった。
改伊勢型戦艦7番艦台湾、8番艦南天、金剛型巡洋戦艦5番艦春日、6番艦朝日が就役して艦隊に加わって、ようやくアメリカ海軍の全力と互角の状況である。
ただし、アメリカ海軍は巡洋戦艦を保有してないので、その点において日本海軍が有利だった。速度が優越していれば、相手の頭を抑えて自在に戦えるからだ。
また、インド洋で威力を発揮した夜間水雷襲撃もある。
しかし、太平洋航路防衛のためには大量の駆逐艦と軽巡洋艦が必要であり、艦隊決戦用の水雷戦隊は駆逐艦を引き抜かれて攻撃力が減少していた。
そのため海軍力に明確な優位性はなかった。
だが、日本には目に見えない要素で、有利な点が一つあった。
情報戦の優位である。
日本軍は、アメリカ軍の軍用暗号を完全に解読していた。
この時期のアメリカ軍、政府共に暗号通信というものには無頓着だった時代であり、インド洋で熾烈な情報戦を戦い抜いてきた日本にとっては、ちょろい相手だった。
また、アメリカ軍のスパイ活動は素人臭かった。
経験不足と言ってしまえばそれまでだが、日本の同業者が絶対にやらないような露骨なやり方をするので簡単に見つかった。
途中から、敢えて逮捕せずに泳がせてニセの情報を掴ませる作戦が立案されたほどである。
その証拠に、1917年7月以後、船団護衛と情報封鎖が徹底した太平洋航路ではよほど運が悪くない限り、船団がアメリカ海軍の通商破壊艦に遭遇することはなくなった。
日本海軍はイギリス海軍に倣って、船団に前弩級戦艦を護衛につけ、巡洋艦による通商破壊戦を無力化した。
さらにハンター・キラーを編成して積極的にアメリカの通商破壊艦を狩りだした。
この場合、情報戦の不利は致命的で、いつ、どこに、どれだけの戦力が展開しているのか、全て筒抜けでは、単艦で行動する通商破壊艦は、各個撃破されるしかなかった。
特に目覚ましい戦果を挙げた装甲巡洋艦ピッツバーグは最優先攻撃目標として金剛型巡戦を投入してでも撃沈することが求められた。
ピッツバーグを沈めたのは金剛と比叡で、偽の情報でおびき出されたピッツバーグは待ち伏せていた金剛型巡戦2隻、金剛、比叡から36サンチ砲の集中砲火を浴びた。
なお、日本は世論対策に多数の報道記者をこの作戦に参加させており、炎上して沈むピッツバーグの写真が多数撮影され、現在も戦史関連書籍で使われることがある。
ピッツバーグ撃沈は、1917年8月11日のことであり、日米の海軍関係者にとって一つの転機となる事件だった。
以後、通商破壊戦に参加したアメリカ海軍の巡洋艦は次々に撃沈されることになった。
ハンター・キラーとしての金剛型巡洋戦艦の働きはめざましく、1917年9月には1ヶ月で12隻の各種巡洋艦が通商破壊戦中に撃沈され、アメリカ海軍は水上艦の通商破壊戦を一時中止することにした。
なお、巡洋艦キラーとして名を馳せる金剛型巡洋戦艦で最も大量の巡洋艦を沈めたのは1番艦の金剛で、戦争終結までに大小旧式仮装装甲併せて8隻を沈めている。
戦争英雄となった金剛だが、その艦長はイギリス大使館駐在武官の経験が長く、紅茶好きなことで有名だった。
ピッツバーグ追撃戦中に記者から質問に対して、
「コーヒーより、紅茶が飲みたいネー」
などと返して、アメリカ海軍を挑発している。
パナマ陥落から3ヶ月もすると、日本海軍は初期の動揺から完全に立ち直った。
そして、パナマに陣取るアメリカ海軍を相手に、野心的な攻勢計画が立案される。
1917年10月のHS作戦で、パナマへ長駆、金剛型巡戦4隻が出撃した。
特別挺身艦隊を率いるのは、インド洋で英巡戦レパルスを撃沈して名を挙げた毛利且永中将だった。
作戦の骨子は簡単だった。
アメリカ艦隊を挑発し、おびき出すことである。
途中、遭遇したアメリカ海軍の通報艦を片っ端から撃沈しつつ、パナマに向かって突き進んだ毛利艦隊は、戦艦8隻を基幹とする迎撃艦隊に遭遇。
全艦、一斉回頭して逃げた。
逃走は容易だった。そのための快速27ノットの巡洋戦艦である。そして、長時間高速で逃げ続けられるように長大な航続能力を与えられていた。
日没まで毛利艦隊を追撃した迎撃艦隊は、待ち伏せを警戒してパナマに引き上げる。
迎撃艦隊の追尾を振り切った毛利艦隊は再度、反転してパナマに向かって突入し、途中遭遇するあらゆるアメリカ海軍の中小艦艇を沈めて回った。
毛利艦隊の接近を知った迎撃艦隊は再び出撃したが、毛利艦隊は迎撃艦隊を認めると全艦反転して逃げた。
日本艦隊の目的は明らかだった。
アメリカ軍を挑発し、自軍の有利な地点で戦うことである。そして、それが敵わないと見るや目的を変更しアメリカ軍の警戒網をズタズタにした。
そして、これは巡洋戦艦をもたないアメリカ軍には対処不能な攻撃だった。
日本海軍は好きなタイミングで攻撃し、何時でも離脱できるのに対して、アメリカ海軍の戦艦は全速21ノットしかなく、追尾できなかった。
高速の巡洋艦なら追いつけるが、金剛はその巡洋艦キラーである。
パニックを起こしたアメリカ海軍はレキシントン級というちょっとどうかと思うほど装甲が薄い30ノットオーバーの高速巡洋戦艦の建造を大車輪で進めるが、それはこの時の苦い経験が元になっている。
挑発と格下いじめを繰り返す毛利艦隊に、アメリカ海軍は翻弄されることなった。
当初はアメリカ軍も冷静な対応ができていたのだが、一方的に振り回される戦いのなかでフレストレーションが溜まり、上級司令部から絶対に深追いするなと厳命されているにも係わらず、日没後も追撃を継続してしまうことが増えた。
多くの場合は、途中で待ち伏せを警戒して引き返すのだが、1917年11月3日の戦いでは、日没後、深夜近くまで迎撃艦隊が毛利艦隊を追尾することになった。
それこそ、日本海軍の思う壺だった。
アメリカ海軍は気付いていなかったが、毛利艦隊の遥か後方には、常に1個水雷戦隊が控えて待ち伏せの機会を伺っていたのだ。
深夜過ぎ、金剛以下4隻の巡洋戦艦が放つ照明弾に照らし出された迎撃艦隊に、日本海軍の水雷戦隊が襲いかかった。
結果は、第二次セイロン沖海戦の焼き直しである。
魚雷68発が発射され、そのうち6本が命中。戦艦3隻が大破するという大敗となった。
なお、アメリカ軍は夜戦なれしておらず、味方へ誤射を連発して、随伴の巡洋艦や駆逐艦にも大損害が発生した。
日本海軍の損害は駆逐艦2隻沈没で、巡戦霧島が小破に留まった。
以後、アメリカ海軍の戦艦部隊は港に逼塞して動かなくなった。
こうなると日本海軍も手が出しようがなく、戦いは通商破壊の潜水艦とそれに対抗する駆逐艦が主役となる。
日本、アメリカ、イギリス、ドイツ、何れの大海軍国も主力艦隊は睨み合って港に逼塞し、海軍ではこの戦争を終わらせることができないことが明らかになった。
戦争集結は陸の戦いに委ねられることになったのである。
それも、イギリス、フランス、ドイツが直接対峙する、西部戦線が鍵を握っていた。
西部戦線で勝つために、ドイツは泥沼の東部戦線をなんとかしなければならなかった。
日本もまた、泥沼のシベリア戦線を一日も早くどうにかしたかった。
何しろ、1917年夏の夏季攻勢で、日本シベリア軍団はとうとうエカテリングブルクまで進撃することになった。ヨーロッパとアジアの境にある街である。
日本・モンゴル連合軍は3年かけてシベリア踏破を成し遂げたのである。
軍団長の秋山好古元帥の目前には、アジアとヨーロッパを分かつウラル山脈が広がっていた。
この山々を超えれば、そこから先はヨーロッパだった。
騎兵主体の軍隊が、これほどまでの長距離侵攻を成し遂げたのは、チンギス・ハーン以来の出来事である。
侵攻速度を考えれば、チンギス・ハーン以上かもしれなかった。
秋山についてきたモンゴル人達は感激し、今度こそモンゴルは地果て、海尽きる場所へたどり着くとして秋山への忠誠を新たにし、戦意を高揚させていた。
なお、日本兵はいつまでも終わらない行軍に疲れていた。
日本兵以上に疲れていたのはロシア兵達だった。
革命の混乱で、もはや何のために戦っているのか分からなくなったロシア軍の兵士達は、恐怖のモンゴル軍団に次々と投降して自分自身の戦争を終わらせた。
専ら日本軍の戦いとは、進めば進むほど困難になる補給を如何にして支えていくか。
つまり補給戦につきていた。
なにしろ、本気でシベリアを横断してしまったのだ。
日本軍の前線部隊はこの時46個師団だったが、その4倍人員で後方支援体制が構築され日本本国から延々と補給線を伸ばしていた。
もはや補給線そのものを支える補給線が新たに必要な状況だった。
始発点の浦塩港から計算しても片道およそ8,000kmもあった。
この時の経験から、日本陸軍は地球規模の後方支援体制構築と物流ノウハウを持つ軍隊となり、退役将校が起こした運送会社が戦後に物流革命を巻き起こしたがそれは別の話である。
また、自軍のみならず膨大な数の捕虜の衣食住を保障することに、兵站将校の頭を悩ませていた。
あまりにも捕虜の数が多すぎた。
1917年末までに日本軍が得たロシア軍捕虜は150万人を越えている。
中には、衣食住が保障されると聞いて、兵士の服を奪って投降した乞食も混じっており、状況は喜劇的な様相を呈していた。
捕虜があまりにも多すぎるので、適正な数まで処分すべきと発言した将校もいるほどだ。
なお、その将校は即日、総司令官の秋山好古によって自分自身が処分された。
古式ゆかしい武人の秋山にとって、降参した兵士を殺すなどというおぞましい考え方は到底、許されるものではなかったのである。
とはいえ、食料の不足は如何ともしがたく、捕虜を使った農地開発がシベリア各地で行われた。監視は大幅に緩むことになったが、不思議と脱走する捕虜はいなかった。
逃げ出したところで、シベリアの大平原に放り出され、どうやって一人で家まで帰ればいいのか、逃げ出せるものなら逃げ出してみろという話である。
なお、ロシア各地の農村から徴兵されて連れてこられた捕虜達はシベリアの農地開発でも大きな成果を挙げた。秋の収穫は、全て日本軍の買い上げとなったが、膨大な売上金が捕虜達の手元に残った。
まさか本当に日本軍が正当な価格で買い上げてくれるとは思っておらず、全て強奪されると覚悟していた捕虜たちは呆気にとられたという。
それどころか、重税や貴族の搾取に喘いでいた農村出身者は、まともな値段で農産物が売れたことに、驚き、呆れ、最後に秋山を崇拝した。
ロシアの歴史上、もっとも慈悲深いツァーリ―と称賛されることになった秋山だったが、意識して行っていることではなく、日本国内の常識的な値段で買い取っただけに過ぎない。
シベリア鉄道の沿線に、自活のために多くの捕虜村が作られたが、そのまま居付いてしまった捕虜は多く、アキーヤマや、ヨーシフルという地名がシベリアに大量に残ることになった。
結局、捕虜の自活村はないよりはマシという程度に落ち着くことになる。
不足する分は、やはりシベリア鉄道で運んでくるしかなかった。
なお、秋山についてきたモンゴル人達は家畜に草を食べさせる牧草地さえあれば、特に補給の問題は生じなかった。
困惑するような過大評価をロシア人から得た秋山だったが、まさか、ロシア皇帝まで得ることになるとは思っていなかっただろう。
1917年12月、日本軍はロシア皇帝ニコライ2世を捕虜してしまう。
もっとも既に退位していたので、元皇帝という但し書きがつくが。
何事にも動じない秋山も、この時だけは驚き、2回も伝令兵に確認したという。
ロシアはレーニン主導の10月革命で2月革命による臨時政府が倒れ、ボルシェビキ政権が成立していた。
このとき臨時政府はエカテリンブルク郊外に皇帝一家を幽閉していたのだが、臨時政府崩壊でこの処遇について混乱が生じていた。
結局、どのような経緯を経てそうなったのかは不明だが、日本軍の手に渡さないように皇帝一家の身柄を別の場所に移そうとしたところ、偵察中だった日本軍の騎兵に見つかってしまったというのが直近の状況である。
偵察の騎兵も、まさか捕虜にした人物がニコライ二世であるとは気づかず、ニコライ二世を名乗る不審者として後方に移送し、3日後にようやく本人であることが判明したという笑えない話がある。
とはいえ、擦り切れたボロボロの兵隊服を着た白髪交じりの老人をみて、即座に皇帝本人と気付けと言う方が無理だろう。
人生に絶望し、疲れ果て、抜け殻のようになったその姿はとても巨大帝国の皇帝だった人物には見えなかったという。
とはいえ、あまりにもやつれ果てたその姿を見て、見舞いにきた秋山は思わず手をとり、
「皇帝陛下、お助けに参りました」
と言ってしまったはまずかった。
また、それを国内外のマスコミの前で言ってしまったのはよろしくなかった。
日本軍シベリア軍団総司令官である秋山の発言を多くの人々は、日本がロシア帝国の復活に力を貸すと解釈したのである。
秋山としては、衣食住の面倒をみますとか、その程度の意味で言ったつもりだったのだが、日本軍の協力が得られると勘違いしたニコライ二世が俄に元気になってしまった。
「余にはジンギスカンの軍勢がついておる!」
などと、興奮してまくし立てるので、周りの人間も徐々に本気になってしまったのだ。
秋山は本国に戻って江戸の陸軍奉行所で弁解する羽目になった。
しかし、幕閣はこれを奇貨としてシベリア戦線の強引な幕引きを画策する。
北米戦線がいよいよ厳しさを増しており、幕府はロシアとの戦争は一秒でも早く終わらせたかったのである。
さすがに既に退位したニコライ二世が復位するのは無理があったので、皇太子のアレクセイ・ニコラエヴィチがエカテリンブルクで新皇帝に即位した。
少年皇帝アレクサンドル四世の誕生である。
新皇帝の最初の仕事は日本と講和条約を結ぶことだった。
実質的な白紙講和を結んだあとは、日本の支援を得た(というよりも鹵獲した武器と捕虜を返還しただけなのだが)新ロシア帝国軍がウラル山脈に沿って、ボルシェビキ政権と対峙することになる。
シベリア軍団は解散され、その兵力は3年かけて西進してきたシベリアを鉄道で逆戻りして、船に乗って北米大陸に向かった。
なお、秋山はそのまま軍事顧問としてロシアに残った。
迂闊な発言の責任を取らされた形である。
自業自得と言ってしまえばそれまでだが、わずか14歳の幼い新皇帝に何かと頼りにされるのは悪い気分ではなかったらしく、そのままエカテリンブルクに居付いてしまった。
これは余談だが、秋山についてきたモンゴル人もまたモンゴル高原に帰らず、そのままエカテリンブルクに住み着いている。
21世紀今日でもエカテリンブルクにある広大なモンゴル人居住区”アキヤマ・ハーン・記念公園街区”には6万人のモンゴル系ロシア人が生活を営んでいる。30mもある巨大な乗馬姿の秋山好古の銅像があるので、初訪問の観光客でも場所が分からないことはない。
秋山は退役まで新生ロシア帝国の軍事顧問をつとめ、退役後は地元の日本人小学校の校長先生になろうとした。
流石にそれはアレクサンドル四世から待ったがかかり、宮廷の特別侍従武官として日ロ外交取り持ち、不安定なロシア皇室を外交面から支えることになる。
これは後にアキヤマ・コネクションと呼ばれる日露外交の巨大な資産として活かされることになる。
また、秋山は人類史上初の共産主義国家、ソビエト連邦を間近で見聞きし、その他に例のない残虐性に最初に気付いた日本人となった。
ボルシェビキ政権は権力を確立すると反革命の名のもとに、ロシア帝国の皇族や貴族、ブルジョワを超法規的に処刑し、戦時共産主義の名のもとに経済テロルが横行してヨーロッパ・ロシアでは数百万人が餓死した。
まさかそんな愚かなことがおきるはずがないと秋山は考えたが、膨大な数の難民からの聞き取り調査で事実であることが判明する。
難民の数は一時的に増えたが、その後は減っていった。
問題が解決したからではなく、ソビエト連邦が国境監視が厳しくしたためである。
それでも鉄条網とサーチライトをくぐり抜けて逃げてくる亡命者は後を絶たなかった。
秋山はエカテリンブルクから、詳細な調査報告書を本国に書き送ったが、それが活用されるのはずっと後のことだった。
ロシアは2つの国家に分裂して第一次世界大戦を終える。
ヨーロッパ・ロシアのソビエト社会主義共和国連邦とウラル山脈から東に広がるシベリアの議会制立憲君主国家として再出発したロシア・シベリア帝国である。




