WWⅠ 戦局の転換
WWⅠ 戦局の転換
1916年12月
日本海軍は運命のセイロン島沖に、再建成った印度洋艦隊を用意した。
その戦力は、超弩級戦艦6隻、弩級戦艦2隻、弩級巡洋戦艦4隻である。
詳細は以下のとおりである。
第一戦隊
戦艦 伊勢、日向、出雲、呂宋
第二戦隊
戦艦 加州、有砂
第三戦隊
戦艦 播磨、伊予
第五戦隊
巡洋戦艦 高千穂、橋立、浅間、妙高
超弩級戦艦6隻の内訳は1915年7月のセイロン沖から生還した戦艦伊勢と日向。同型3番艦出雲、4番艦呂宋。さらに改伊勢型の1番艦加州、2番艦有砂である。
伊勢型の呂宋、改伊勢型の加州、有砂は国民から多額の献金が建造費に充てられたため、当初予定していた艦名から献金があった地域名に変更となった。
改伊勢型の加州、有砂はイギリス海軍の高速戦艦クイーン・エリザベス級に対抗するべく、伊勢型から砲塔を1基下ろして機関を増設し、艦首延長工事を行った結果、25ノットの高速を発揮することになった本格的な高速戦艦である。
なお、同じ設計で砲塔を2基下ろしてさらに機関を増設したのが金剛型巡洋戦艦となる。
播磨、伊予は改扶桑型の最後の生き残りだった。古い船だけあって乗員にベテランが揃っており、砲撃命中率は印度洋艦隊においてはトップクラスである。
巡洋戦艦、高千穂、橋立、浅間、妙高も先のセイロン沖から生還組だった。いずれの艦も1年に渡る工事で防御力を改善している。
この他に金剛型巡洋戦艦4隻があったが、彼らはアラビア海で遊弋しており第二次セイロン島沖海戦には未参加に終わる。
1年半前に戦艦10隻を失ってから、戦時予算による突貫工事とはいえ、新たに8隻の戦艦を揃えてみせたのは、日本の底力と言えよう。
しかも新たに就役した全ての戦艦が超弩級型であった。
総力戦体制下の日本国内の工場は増産に次ぐ増産で、膨大な兵器を吐き出しており、日本軍の膨張を支えていた。
日本海軍はさらに改伊勢型7番艦、8番艦も艤装最終段階にあり、改金剛型5、6番艦も就役間近であった。
これに対して、英インド洋艦隊は苦境にあった。
先のセイロン島沖海戦の生還組である超弩級戦艦8隻に、増援のクイーン・エリザベス級5隻と巡洋戦艦レナウン、レパルスを加えて戦力の均衡を図ったが既にレパルス失われ、レナウンは大破、クイーン・エリザベス級4隻は、金剛型4隻の討伐に向かっていた。
砲火力は、前回の日本側が30サンチ砲が主力であったのに対して、イギリス側は34.3サンチ砲で火力はイギリス側が優越していた。
しかし、1年半後の今になっては日本軍の主力艦載砲である36サンチ砲に更新され、イギリス海軍は劣勢となっている。
巡洋戦艦の劣勢を補うために、準戦艦として使える装甲巡洋艦4隻が急遽、船団護衛から引き抜かれ艦隊に加わったが、これもまた日本海軍が投入する弩級巡洋戦艦を相手にどこまで渡り合えるかは疑問である。
他に前弩級戦艦4隻を艦隊に加えていたが、前弩級が足手まといにしかならないのは幾多の今次大戦の海戦で既に立証済であり、気休め以上の意味はないと思われた。
だが、英インド洋艦隊司令長官のデイビッド・ビーティー大将はいささかも闘志の衰えはなかったとされる。
彼の信念はシンプルだった。
「海軍に臆病者は必要ない」
だが常に闘志あふれるビーティー提督の横顔にも、どこか悲壮感が漂っていた。
戦艦クイーン・エリザベスに大将旗を掲げてコロンボを出港するときに、同艦から士官候補生と老年兵を全員、離艦させている。
その理由をビーティー提督は黙して語らなかったが、提督には自艦隊の運命が見えていたと思われる。
戦力劣勢の英インド洋艦隊は、日本艦隊との直接対決を避け、輸送船団を攻撃することで上陸作戦を阻止しようとしていた。
だが、上陸船団は日本艦隊によって堅固に防衛されており、上陸船団だけを選択して攻撃することは当時の日英の作戦記録を付き合わせて検討しても殆ど不可能だった。
1916年12月23日、ついに日本軍の上陸船団がセイロン島に姿を現す。
前弩級戦艦による艦砲射撃の援護下、大発、小発舟艇に乗った海兵隊が海岸に殺到した。
上陸海岸の戦いは日本側が圧倒なレベルで火力の優勢を確保しており、ガリポリ上陸作戦のようなことには全くならなかった。
英インド軍の通報を受け、日本軍上陸船団の位置を特定した英インド洋艦隊は上陸地点に向けて突撃を開始する。
日本海軍印度洋艦隊はコロンボからイギリス艦隊が出港済であることは把握していたが、その所在については掴んでいなかった。
そのため、厳戒体制を敷いてその出現を待ち構えていた。
索敵のために多数の潜水艦を動員するのみならず、飛行船母艦や水上機母艦を動員して空からの索敵に努めていた。
日本艦隊の巡洋艦や戦艦には、最低1機は偵察用の水上機が搭載されており、印度洋艦隊全体では38機も航空機を運用することができた。
これは空母を用いない艦隊としては異例の数値であり、1916年時点で日本海軍の航空戦力運用は世界最先端に達していたと表現しても過言ではないだろう。
日本海軍は泊地攻撃用の魚雷搭載可能な大型飛行艇すら開発中だった。
1年半前にイギリス海軍が撃退した日本海軍と、1916年12月23日の日本海軍は全く別の軍隊へと質的変化を遂げていた。
そうした変化を、イギリス海軍は察知しておらず、日本海軍の偵察機が上空に現れたときも、殆ど無反応だった。
まもなく日没という時間ではあったが、手元の水上機をつかって追い払うことも可能だったのにもかかわらず何もしていない。
この時代の水上機が搭載できる無線電信装置は出力が低く、水上艦の無線機なら電波妨害も可能だったが、それも行っていない。
偵察機の存在に気がついていなかったのではないかと思われたが、艦隊司令部には報告が上がった記録は存在していることから、気づかなかったわけでもない。
つまり、日本海軍の偵察機は無視されたということになる。
これは致命的なミスだった。
偵察機の通報により、日本艦隊はイギリス艦隊の正確な所在を掴み、全力で迎撃に出動するのである。
イギリス海軍は洋上航空戦力を軽視していた節があった。また、英インド洋艦隊は彼我の距離から戦闘は明朝と考えていた。
イギリス海軍はユトランド沖海戦でも、夜間戦闘を避けている。光学観測機器の性能が低く、探照灯の運用でもドイツ海軍に劣っており、夜間戦闘は不利と考えられていたからだ。
だが、日本本軍はその真逆に夜戦に妙な情熱を注ぐ海軍だった。
これは世界の海軍戦術の常識からすると異常なことである。
そもそも大規模な艦隊戦において、情報が錯綜して混乱が広がりやすい夜戦は避けるべきものだったからだ。
1916年6月のユトランド沖海戦も、1915年7月のセイロン沖海戦も昼戦である。
無論、夜間戦闘が全くなかったわけではない。水雷艇の襲撃は専ら艦砲の迎撃が困難になる夜間に行われるものであった。
だが、大口径砲の長距離射撃が困難になる夜戦は、戦艦主体の艦隊においては益が少なく同士討ちの危険があるので忌避されるものだった。
しかし、日本海軍は夜間に戦端を開いた。
日本海軍には勝算があったのである。
この時、英インド洋艦隊に対する夜襲に参加した艦艇は以下のとおりである。
第五戦隊
巡洋戦艦 高千穂、橋立、浅間、妙高
第九戦隊
装甲巡洋艦 筑波、生駒、蔵馬、伊吹
第一水雷戦隊
軽巡 天龍
駆逐艦 神風型16隻
第二水雷戦隊
軽巡 龍田
駆逐艦 睦月型16隻
指揮官は日本海軍水雷戦術の権威、鈴木貫太郎中将だった。
前路警戒の駆逐艦神風が英インド洋艦隊の主力との会敵に成功。駆逐艦神風は我が身を省みない探照灯照射を行った。
即座に神風は英インド洋艦隊から集中砲火を浴びたが、不思議なことに一発も被弾しなかったという。
神風の探照灯と砲炎で位置を暴露した英インド洋艦隊に向けて、巡洋戦艦高千穂、橋立、浅間、妙高が一斉に照明弾を発射。
英インド洋艦隊の全貌が闇の中から浮かびあがることになった。
これが日本海軍夜間水雷襲撃の始まりだった。
この時、高千穂以下巡洋戦艦4隻は未だ英艦隊から捕捉されておらず、照明弾の明かりを頼りに一方的な砲撃を開始する。
30サンチ砲弾を釣瓶撃ちを浴びたのは、戦艦部隊の側面援護をする巡洋艦戦隊であった。
格上の弩級巡洋戦艦に狙われた巡洋艦はひとたまりもなく、次々に脱落していったが、この砲炎で日本の巡洋戦艦部隊も位置を暴露し、英戦艦部隊から照明弾を浴びることになった。
日本艦隊もついに安全な闇の中から引き釣り出されたが、日本艦隊の動きはイギリス側の予想を全く超えるものだった。
弩級巡洋戦艦は戦艦に目もくれずに巡洋艦をつけ狙い、装甲巡洋艦は格下の駆逐艦を一方的に砲撃していた。
そして、軽巡洋艦を先頭に無数の大型駆逐艦の列が戦艦に向かって突撃してきたのだ。
これまでも夜間水雷襲撃というものはあった。
だが、それは昼間の砲撃戦の後にある残敵掃討や泊地への奇襲として行われるものであり、相手は抵抗力の乏しい損傷艦や油断している停泊中の船を狙うものだった。
昼間決戦の前日の夜に、コンディションとしては最高の状態にある主力艦隊向けて行っていい攻撃ではなかったのである。
また、それを行うことができる船がなかった。
夜間水雷襲撃は小型の水雷艇で行うものであり、そうした小型艦は外洋航行能力が低く、戦艦が戦う外洋での運用は困難だった。だから泊地襲撃に使われたのである。
より大きな駆逐艦に魚雷を搭載して水雷襲撃に使うアイデアはあったが、大型化した駆逐艦は夜襲であっても砲撃の的になりやすく、攻撃成功はおぼつかなかった。
だが、適切な支援砲火があれば、そして大規模な数を頼みにした攻撃であれば、勝算はあると考えたのは、日本海軍インド洋艦隊参謀長の秋山真之だった。
そもそも真之は、大艦巨砲主義には否定的な異端の海軍軍人の一人である。
1隻の戦艦よりも多数の潜水艦を整備するべきだと主張し、海軍中央から煙たがれてきた。
だが、第一次世界大戦が始まると戦艦は派手なだけで戦略的に無意味な艦隊決戦で消耗し、残った船は港に逼塞して動けなくなった。
代わって戦場の主役を務めたのは巡洋艦や駆逐艦、潜水艦だった。
こうした戦場の実相を海軍中央を認めざる得ず、大量に喪失した戦艦の補充は進んだが戦艦部隊の拡張は今次大戦には間に合わないとして中止されている。
弩級戦艦を置き換える目的で建造計画立案中だった40サンチ砲搭載戦艦は無期限中止に追い込まれていた。
これは戦時予算における戦艦の整備費があまりにも肥大化しているためだった。
1916年の国家予算における軍事費の割合は75%(翌年は95%)に達しており、破滅的な勢いで戦時債務が激増していた。
その上で、軍事費の中でも戦艦の整備費が全体の20%という異常な数値を示しており、座視できないものとなっていたのである。
また、大量の鉄資源を要する戦艦の整備は日本のような大国にも苦しいものだった。
1916年の時点で、日本の粗鋼生産量はおよそ年間3,000万tだったが、戦時においては鉄はどれだけあっても足りないものである。
陸軍戦備にも鉄は必要であり、軍備以外にも戦時経済の維持、拡大のために戦時標準船や鉄道機関車、貨車などの輸送機材や生産設備拡大のために鉄は必要だった。
軍需総裁は、粗鋼生産量3,500万tを目指して産業界の設備投資を煽っており、鉄を戦艦の建造のために確保するのは困難だったのは当然といえる。
なお、同時期のイギリスの粗鋼生産量は約900万tで、ドイツは約800万tだった。
イギリス海軍の苦境はむしろ当然といえば、当然であり、彼我の生産力の差からすればよく持ち堪えている方だった。
なお、1916年時点の粗鋼生産量の世界一はアメリカ合衆国であり年産およそ3,800万tである。
潜在的な敵国として日本がアメリカの奇襲参戦を恐れている理由が分かるだろう。
話は逸れたが、真之は潜水艦に着目した数少ない日本海軍軍人だったが、潜水艦以外の水雷戦力の運用にもその目は向いていた。
魚雷の性能向上により、水雷艇や駆逐艦でも運用法によっては戦艦に有効な打撃を与えられるのではないかと考えたのである。
小型の駆逐艦でも戦艦が撃沈できるのならば、海軍戦備に革命的な変化を齎し、より低コストの軍備が可能になる。
1916年時点では、真之にもそこまで踏み込んだ構想があったわけではない。
真之が行ったのは、昼間決戦後の残敵掃討の夜襲から、夜襲による漸減邀撃からの昼間決戦という倒置的な発想の転換である。
夜襲の水雷攻撃で主力艦隊を打撃し、その後の昼間決戦で敵艦隊を撃滅する構想である。
秋山の構想どおりに整備された2個水雷戦隊、軽巡2、駆逐艦32隻は装甲巡洋艦と巡洋戦艦の支援砲火の下、距離3,000mから世界初の統制雷撃戦を敢行。発射された53サンチ魚雷は172発に達した。
そのうち、18本が命中。効果は劇的であった。
この頃の戦艦は、水線下の防御が殆ど施されておらず、戦艦といえども機雷や魚雷が命中した場合、1発で致命傷になった。
3本被雷した戦艦オライオンは横転沈没し、2発被雷の戦艦モナークも急速に沈みつつあった。1発の被雷のコンカラーでさえ機関停止に追い込まれた。
イギリス艦隊でこの時無傷の戦艦1隻もなく、艦隊の全てが大混乱の中にあった。
ただちに艦隊が全滅しなかったのは、支援砲火を提供した巡洋戦艦部隊が倍のイギリス戦艦から集中砲火を浴びて火だるまになり、大中小破して撤退中だったからある。
また、この頃の日本駆逐艦は魚雷の再装填装置を持っておらず、雷撃は一度しか行えなかった。予備の魚雷は艦内に収用していたのだが、戦闘中に再装填することは不可能だった。
日本軍の追撃がないことは幸いだったが、混乱の夜が明ける前に日が昇り、太陽を背にした日本海軍の主力戦艦部隊が現れた。
英インド洋艦隊には5隻の戦艦が残されていた。だが、その5隻も船腹を魚雷に抉られ、這うように航行するのが精一杯だった。巡洋艦や駆逐艦も傷つき、沈んだ船から投げ出された負傷兵を満載していた。
ビーティー提督は選択を迫られる。
徹底抗戦か、それとも撤退か。
提督は両方を選んだ。
旗艦クイーン・エリザベスと動ける戦艦を率いて日本艦隊に向けて突撃すると共に、それ以外の全てにコロンボへの撤退を命じたのだった。
この時のイギリス戦艦部隊の自殺的な突撃は、日本艦隊を混乱させ、イギリス艦隊残存部隊の撤退を成功させることになる。
追撃する日本艦隊の前に立ちふさがった5隻の英戦艦は歴史に残る戦いぶりを示した。
この時のイギリス海軍の戦いは、クリミア戦争におけるイギリス軽騎兵旅団の突撃になぞらえ、「戦艦の突撃」として後に映画化されている。
集中砲火を浴びて艦全体が火だるまになった旗艦クイーン・エリザベスはその状態からでも3度主砲を放ち、戦艦日向を大破させる戦果を挙げた。
「海軍軍人として、あれほど完璧な死に方はない」
その光景を見た真之を感嘆させる見事な戦いぶりだった。
だが、そうであるがゆえにビーティー提督の死は、イギリスにとって痛恨事となる。
時の海軍大臣で、自らも闘犬の異名をとるイギリスの政治家、ウィンストン・チャーチルをして、
「我々は最高の闘志を失った」
と嘆かせるほど、その死は重かった。
第一次セイロン島沖海戦で日本海軍を撃退したビーティー提督は国民的な英雄であり、その死はイギリス国民の士気を大きく挫いたのである。
また、英インド洋艦隊が壊滅したことは取り返しがつかなかった。
しかもこの戦いで沈んだ日本の戦艦は1隻もなかった。大破した船はあったものの、全艦が生還している。
沈んだ船で一番大きかったのは軽巡洋艦で、他は駆逐艦が10隻失われただけである。
そうなるように策を立てたものの、作戦立案をした秋山も想定外の一方的な勝利だった。
なお、金剛型巡戦4隻の討伐に向かったクイーン・エリザベス級4隻は結局、金剛以下4隻を捕捉することはできず、虚しく帰投することになった。
英インド洋艦隊の敗北で、セイロン島の戦況は絶望的となる。
セイロン島で3ヶ月は持久できるはずだったのだが、戦闘が始まるとそれが甘い見通しであったことがすぐに明らかになった。
イギリスの植民地支配に反感を持つインド兵は、日本人と命がけで戦うつもりなど全くなく、形勢不利となればあっけなく降伏、逃亡したのである。
本国兵とグルカ兵だけは最後まで抵抗したが、日本軍海兵隊は数も、装備も、士気も圧倒的に勝っていた。
特に歩兵火力の差は圧倒的だった。
この戦いで日本軍は初めて大規模に自動小銃を戦線に投入している。
スミトモ・モンドラゴンM1915歩兵銃は、ロングガスピストン・ボルト回転閉鎖方式の本格的な半自動小銃だった。
製造は日本が、開発は友好国のメキシコで行われた。
この革新的な半自動小銃は、メキシコ軍の将校であり、銃器デザイナーでもあったマニュエル・モンドラゴン将軍が外貨獲得のために開発したものである。しかし、試作品ならともかく、大量生産になると必要な工作技術がメキシコにはなく、友好国の日本に生産委託することになった。後にメキシコ本国でも生産可能になったが、日本以外ではドイツ帝国で少数が採用されただけで終わっている。
なお、この新型銃を制式採用したのは海兵隊だけだった。
日本陸軍は半自動小銃には懐疑的であり、歩兵火力増強のために軽機関銃の生産を優先していた。海兵隊は軽機関銃よりも、歩兵一人一人の火力を高める半自動小銃の採用に動いたのである。
これは軽機関銃の生産が、陸軍優先で海兵隊になかなか回ってこないという政治的な事情の産物であり、純粋な戦術的な要求ではなかったものの自動小銃は歩兵火力増強には効果的だった。
自動小銃の採用でネックになるのは弾薬消費の増加とそれを支える補給体制の構築であるが、海兵隊は船で移動するので徒歩が基本の陸軍とはやや事情は異なる。
また、海兵隊は基本的に上陸戦部隊であり、陸軍とは違って長期戦に備える用意も必要なかった。上陸後の戦いは陸軍の管轄であるから、短時間に大火力を発揮できればよかった。
とはいえ、それがかなり甘い見通しだったことは間違いない。
日本陸軍がシベリアと北米戦線で精一杯だった第一次世界大戦のインド洋では海兵隊の内陸進撃も頻繁に起きている。
そうした場合、やはり弾薬の欠乏が問題となった。
ただし、メキシコは日本の長年の友好国であり小銃弾も日本軍と同じ7mmスミトモ弾を用いていたので、スミトモ・モンドラゴンM1915を採用する上で補給上の不具合は起きていない。
自動小銃の全面的な運用は、歩兵の自動車化が必要だった。
それでも以前のボルトアクションライフルに戻そうということにならない程度に、スミトモ・モンドラゴンM1912歩兵銃は優れた兵器であった。
セイロン島東側のトリンコマリーが陥落したのが1917年1月14日、西側のコロンボ陥落は1月28日だった。
セイロン島全域が完全制圧され、イギリス軍守備隊が降伏したのは1月31日である。
弔旗と訃報に包まれた1月を送ったイギリスは、2月を迎えるとさらなる凶報に襲われた。
ロシア帝国で、長引く戦争に国民の不満が爆発し、大規模なストライキと暴動が発生。
責を負って皇帝のニコライ二世が退位したのである。
ロシア2月革命の勃発だった。
なお、臨時政府はドイツ、日本との戦争継続を表明したので、即座にドイツ軍の全てが西部戦線に向かってくるわけではなかったものの、ロシア軍は大混乱に陥っていた。
革命前から既にボロ負け状態だったロシア軍が、さらに弱体化して、どうして戦争継続が可能なのかは当のロシア臨時政府にさえわからず、水面下では既に和平交渉が始まっていた。
イギリスはその動きを掴んでおり、ロシアが戦争から脱落しないようにあらゆる外交手段を尽くしていた。
しかし、ロシアを戦争から脱落させないためには、即座に大規模な軍事援助を与える必要があり、そのための輸送手段がどこにもないという点で、既にイギリスの努力は詰んでいた。
どう転んでロシアの戦争からの脱落は時間の問題となる。
ドイツ帝国はロシアの混乱をさらに加速させるため、スイスに亡命中だったロシア人革命家ウラジーミル・レーニンを封印列車でペトログラードに送り、さらなる混乱を煽った。
後に、それが致命的な誤りだったことにドイツは気づくのだが、この時はとにかく東部戦線を早急に始末することでドイツ帝国首脳部は頭がいっぱいだった。
ロシアが戦争から脱落すれば、日本・ドイツの全軍がイギリス、フランスへ向かってくることになる。
イギリスは追い詰められていた。
フランスも1916年いっぱいの戦いで、膨大な損害を積み上げ、大規模な抗命事件が起きるなど軍組織が崩壊寸前まで追い詰められている。
ドイツもイギリスの海上封鎖で国民生活は破綻寸前まで追い詰められていたが、ロシア革命と日本軍のインド洋制覇で、この戦争に明るい兆しを見ていた。
日本はさらに楽観的で、インド洋を押し渡って中東、エジプトまで進撃する計画を立てていた。インド洋に残ったイギリス海軍残存部隊は、遠くインド北部のカラチまで逃亡しており、インド洋航路は日本軍によってズタズタだった。
船会社も、船員も出港を拒否し、インドの港から一隻の船も出そうとしなかった。
護衛つき大規模な船団を組んでも、優勢な日本海軍によってまるごと殲滅されるのがいいオチだからだ。
これによってインド経済は本国と切り離され大混乱に陥ったのだが、インド人の生活窮乏は植民地政府への不満に転嫁され、暴動が相次いだ。
日本軍も暴動を煽り、独立派に武器弾薬や活動資金を気前よくばら撒いたので、インドでは連日の爆弾テロによって治安と民心が極度に悪化していった。
暴動がインド独立戦争に転化するのは時間の問題と見られていた。
インドが独立すれば、その影響は広大な植民地をもつイギリスにとって計り知れない政治的な破壊力を持つことになる。
ブロークンイングリッシュ
大 英 帝 国 崩 壊
それが極めてリアルな未来予測となったのが1917年春のことだった。
だが、イギリス人にとっての悲観と日本人にとっての楽観は裏切られることになる。
1917年3月16日、日本陸軍航空隊の偵察機が国境付近を偵察飛行中、エンジントラブルによってアメリカ領内に墜落。逮捕された日本軍のパイロットはFBIの厳しい尋問によって、アメリカ領空内をスパイ飛行していたことを自白させられた。
アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンは連邦議会に日本の侵略が間近に迫っており、国家防衛のために止む得ない措置として対日宣戦布告を求めた。
アメリカ連邦議会は、1917年4月6日にアメリカ参戦を承認する。
同日、アメリカ軍200万が国境線を超えて、日本領に雪崩込んだ。




