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WWⅠ インド洋通商破壊戦



 WW1 インド洋通商破壊戦


 1915年の終わりが見え、戦争は3年目に突入しようとしていた。

 シベリア戦線は古のモンゴル軍団が蘇り、夏の間はシベリアの大地を蹂躙した。しかし、冬になったので進撃がぴたりと止まった。

 冬のシベリアは日常生活だって命がけなのだ。戦争どころではない。

 ロシア軍は待望の冬将軍到来を心の底から感謝したが、冬季反攻は行われなかった。

 帝政ロシアは革命前夜で戦争どころではなくなりつつあったからだ。

 そのため、冬のシベリア戦線は自然休戦期間として機能している。

 北米戦線カナダ自治領にあっては、山と森と雪の間に無数の塹壕が結ばれ、終わることないにらみ合いが続いていた。時折、迂闊な兵士が雪壁から頭をのぞかせて、スナイパーに撃ち抜かれる程度に平和で、殆ど戦いらしい戦いはなかった。

 ただし、挺身騎兵隊は戦線の遥か後方で、発電所や送電所を爆破してカナダ市民の生活から電気を奪った。

 冬でもアクティブな活動していたのは日本海軍だけだった。

 ただし、重大な欠陥が露呈した主力戦艦は全く動いていない。セイロン島沖海戦以後、1年に渡って修理と改装工事に明け暮れ、ドックと泊地の間のみを行き来していた。

 建造中の戦艦も全て設計変更が施され、砲塔の給弾システムと水平防御が飛躍的に強化されることになった。

 主力戦艦が動けないのは、イギリス海軍も同じだった。

 本国のグランド・フリートは全て戦艦が改装工事中となり、開店休業状態となっている。

 ドイツ海軍も1915年1月のドッガーバンク海戦で日英がセイロン島沖で体験した砲塔の欠陥に気付いており、主力戦艦全てが改装工事中だった。

 動けない主力戦艦に代わって活発に活動していたのは巡洋艦だった。

 日本海軍の装甲巡洋艦、防護巡洋艦、軽巡洋艦、仮装巡洋艦がインド洋で通商破壊戦を展開し、イギリスの海上交通を締め上げた。

 ドイツ東洋艦隊もペナンに進出し、日本海軍と協力して通商破壊戦に参加している。

 終戦までインド洋で活動した軽巡エムデンの活躍は一種の伝説といえた。ドイツ製の武器を使い果たした後は、日本製の14サンチ砲に武装を載せ替え、最終的に158,450tのイギリス商船を撃沈している。

 イギリス海軍もまた巡洋艦を多数投入してこれに対抗した。

 一時期、インド洋には日英独合わせて130隻以上の巡洋艦が活動し、後に巡洋艦戦争と呼ばれることになった。

 これほどまでに巡洋艦が多用されたのは、広大なインド洋で活動するには、発展途上で航洋性能の低い駆逐艦では限界があったからだ。

 しかし、日本海軍が多数の潜水艦を整備し、通商破壊戦に用いるようになると、そうも言っていられなくなった。

 多数の潜水艦に対抗するには、巡洋艦よりも小型の駆逐艦が大量に必要だった。

 大西洋と同様にインド洋でも護送船団が組まれ、駆逐艦が牧羊犬の役割を果たすようになり、潜水艦に対抗するため駆逐艦に爆雷が搭載され、水中聴音器を装備するようになる。

 駆逐艦の航洋性も改善され、外洋での活動は増えていくことなるが、第一次世界大戦では駆逐艦の性能改善は完結せず、外洋活動での主力は巡洋艦が務めた。

 そのため、日英海軍ともに今次大戦において、それぞれ70隻以上の軽巡洋艦を建造している。日本海軍は初期においては3,000t級の天龍型軽巡洋艦を多数建造したが、小型すぎるとして拡大再設計した5,500t級の球磨型軽巡洋艦に切り替えた。

 なお、天龍型だけでも22隻、球磨型に至っては55隻の大量建造が行われたが、随伴する駆逐艦はさらに大量建造され、江風型、神風型、睦月型など艦隊型駆逐艦だけでも155隻も建造されている。

 戦時大量建造は潜水艦においても同様であった。ただし、初期の日本潜水艦は小型艦で進出距離が短く、ベンガル湾のみで活動した。

 しかし、1916年に入ると1,000t級の潜水艦が多数就役して、アラビア海まで進出してイギリス商船を攻撃するようになる。

 初期の潜水艦は機関に揮発性の高いガソリンエンジンを用いるなど、危険すぎてとても長距離航海はできなかったが、ディーゼルエンジンが一般化すると船殻に軽油を満載して長距離進出が可能となった。

 また、そうした潜水艦の長距離進出を助けるために日本の仮装巡洋艦は潜水艦母艦を兼ねるようになり、イギリスの護送船団方式が徹底されると一部の例外を除いて全ての仮装巡洋艦が潜水艦母艦を主任務するようになった。

 仮装巡洋艦は武装しているため一定水準の自衛能力があるので、単独で長距離進出して潜水艦に武器弾薬燃料を補給するには都合がよかったのである。

 元仮装巡洋艦の潜水艦母艦の中で最も活躍したのは間宮丸という元貨客船だった。

 元は太平洋航路の貨客船だった間宮丸には非常に充実した厨房設備があり、潜水艦の乗組員は間宮で無制限に無料で飲み食いすることが許された。

 乗員ごと徴用された間宮には一流どころのコックが複数乗り込んでおり、あらゆる種類の食事とお菓子をつくることができた。特にアイスクリームが好まれた。

 過酷な潜水艦勤務において、間宮の食堂で供されるアイスクリームは人生の全ての希望に思えるほど甘く、切ない喜びであった。

 後に、海底資源探索の途中で、沈没した日本潜水艦が発見され、引き上げ調査された際に艦内から、


「間宮アイスが食べたい」


 という内容の遺書が発見されるほど間宮のアイスクリームは人気があった。

 ちなみに間宮が戦争終結のまでに提供したアイスクリームは1,245tに達している。

 後に、日本海軍の潜水艦は全艦にアイスクリーム製造機を備えることになるが、それはこの時の経験によるものが大きい。

 もちろん、間宮丸は食事以外にも魚雷、燃料、武器弾薬を補給した。終戦までに補給を受けた潜水艦は述べ188隻に達する。

 日本海軍は、イギリスの輸送船団を攻撃するために水上艦、潜水艦を組み合わせた立体攻撃を考案した。

 まず、索敵力に優れた巡洋艦が輸送船団を捜索した。巡洋艦には途中から水上偵察機が搭載されるようになり、索敵力は格段に強化された。

 巡洋艦は比較的、通信設備も充実しているので索敵力に劣る潜水艦に敵情を知らせるのに適していた。

 船団に接触した巡洋艦は対潜水艦装備を持った駆逐艦やフリゲートを優先的に攻撃した。爆薬の塊である爆雷は誘爆の危険があるので、水上砲戦になると水中投棄された。

 爆雷を失った駆逐艦やフリゲートは潜水艦に対して無力化され、潜水艦は自由に船団を雷撃することができる。

 この場合、巡洋艦は敵船団の撃滅にはこだわらなくてもよかった。数発射撃しただけで撤退する場合もあり、できるだけ損傷するリスクを避けるように指示されていた。

 通商破壊戦において、最重要事項は継続性であった。

 ただの一回で護送船団を全滅させるような大規模攻撃はむしろ悪手だった。

 そうした攻撃は武器弾薬を激しく消耗してしまうため、補給のために根拠地へ戻ることになり、その間は攻撃が止まってしまうからである。

 日本海軍印度洋艦隊はインド洋全域を七段にわけて、少しずつ梳るようにイギリスの船団を攻撃して、消耗させる作戦を立てた。

 こうした作戦を立案したのは印度洋艦隊の参謀長秋山真之少将である。

 船団攻撃七段戦略を実行するため、複数の巡洋艦、潜水艦に的確な指示を出すことが求められ、ペナンには専用の通信設備が作られた。

 高さ30mのコンクリート製電波塔には、専用の発電所が併設され、大出力無線で、インド洋の隅々までに艦隊司令部から指示を出すことができるようになった。

 この電波塔は恐ろしく頑丈に作られているため、20世紀後半に衛星通信が実用化されるまで100年近く現役で活動を続けた。

 21世紀現在では、戦争遺跡として観光名所になっている。

 話は少し逸れたが、最新鋭の陸上大型通信基地は命令の発信だけではなく、受信にも威力を発揮した。そして、無線によってインド洋全域の潜水艦や巡洋艦から情報が集まるようになると、その情報をさばくための膨大なスタッフが必要になった。

 インド洋艦隊司令部は、最終的に1,500人近い人員を擁することになり、艦には収まりきらず、仕方がなく艦隊司令部は陸にあがることになった。

 陸上から艦隊を指揮するというのは、感情的な反発があった。しかし、インド洋全域が作戦海域になった以上、狭い船の上からで的確な指示を出すことができなくなっていた。

 人員が膨れ上がった理由には、艦隊司令部の三直制採用があった。

 イギリスの輸送船団の運行は356日24時間行われており、それに対応する通商破壊戦も24時間体制でなければならなかった。24時間フルタイムで、インド洋全域に散らばった潜水艦や巡洋艦を指揮統制するためにも、艦隊司令部に三直制がなければ対応不能だった。

 膨れ上がった膨大な数のスタッフは簡単な将校教育を受けた大卒者の短期現役士官や民間の嘱託事務職員によって賄われた。

 もはや艦隊司令部というよりも、どこかの総合商社のオフィスビルに近い状態であったがやっていることは金儲けではなく、その真逆の通商破壊である。

 艦隊司令部の作戦室には、インド洋全域海図が用意され、展開中の巡洋艦、潜水艦、補給艦、航空機や飛行船、各地の天候や時刻が刻々と書き込まれ、全ての情報が集約されて一望に望むことができる環境が整えられた。

 イギリス人なら、これをチェスボードと呼んだだろうが、ここに立つのは日本人だったのでそれは中国発祥の知的遊戯になぞらえて碁盤と呼ばれた。

 世界最大規模の碁盤に向かってイギリス海軍相手に一局打つのはおそらく同時代において日本最強の智謀の持ち主である秋山参謀長である。

 なお、インド洋艦隊の新司令長官となった島村速雄大将は加藤友三郎大将の親友で、復仇に燃えていたが、印度洋艦隊の作戦立案や通商破壊については真之に白紙委任であった。

 通商破壊戦に際して、真之は情報を集めることに全力を挙げた。

 なぜならば、30~40隻のような大船団であっても、広大なインド洋の上では地図の染み程度の大きさしかなく、闇雲に索敵したところで会敵することは不可能に近いからだ。

 よって必要なのは、船団の運行情報だった。

 

「何時どのような規模の船団が何処から何処へ向かって進発し、いつ到着するのか?」


 それさえ分かれば待ち伏せるのは容易い。

 逆にいえば、それを隠し通し、欺瞞すればイギリスは日本通商破壊部隊の攻撃を躱すことができるのだ。また、イギリス海軍は逆襲のために日本海軍の展開情報を貪欲に収集した。

 通商破壊戦のために単艦で行動する巡洋艦は、各個撃破の好餌だったからである

 故に、後にインド洋忍者大戦と呼ばれることになる一大諜報戦争が勃発した。

 海軍忍者は、まずインド各地の湾労働者に浸透して情報を集めた。しかし、これは見え透いた手だった。イギリス軍情報部は海軍忍者の浸透に対抗して、集中的に警戒捜査網を敷いてスパイを摘発することができた。

 イギリス政府は戦後の自治、独立を約束してインド人から戦争協力をとりつけ、港湾労働者に入り込んだ日本の忍者を狩り出した。

 海軍忍者は次の手として華僑に接近した。商業的に成功している華僑はインドにも多く、成功者の華僑の元には自然と情報が集まるものだった。

 海軍忍者は、日本へ留学する中国人青年を一本釣りして忍者に仕立て上げると、中立国の中華民国経由でインドに送り込んだ。現地に華僑系のダミー会社を作り、商取引を装って情報を集め、印度洋艦隊司令部に送った。

 しかし、中国人は有色人種という点で、白人社会に入り込むことができず、情報の核心的な部分にタッチできないことが多かった。

 そこでオランダ人を使った諜報組織がつくられた。オランダは中立国として協商、連合のどちらの陣営にも行き来することができた。

 後にダッチ・ニンジャと呼ばれることになったオランダ人諜報組織は、白人同士というイギリス人にとってのセキュリティーホールを突く海軍忍者部隊、渾身の策となった。

 また、苦労して集めた情報を安全に伝える技術が必要になった。

 つまり、暗号通信技術である。

 開戦時に使われていた暗号は既にイギリスは解読しており、せっかく集めた情報も筒抜けになっていた。そのため、多くの忍者がガンジス川に躯となって浮かぶ原因となった。

 日本海軍は、船団攻撃のために無線傍受と暗号解読に大量の予算と人員を投入し、イギリスの軍用、商船暗号を解読していった。

 結果として、自国の暗号がイギリスに筒抜けであることが判明し、大問題となった。

 日本海軍が民間から募集した大学教員を中心とする暗号解読チームは、鼻歌交じりに日本の軍用、商船、外交暗号を解読して見せて、幕府の暗号専門家を震撼させた。

 幕府や軍部の暗号はこれを機に全て刷新されたが、新たに作られた暗号もイギリス軍の解読班によって次々に突破された。

 日本の暗号解読班もイギリスの暗号を次々に解読して、これに対抗し、より強度の高い暗号技術が続々と開発された。

 だが、開発された新しい暗号技術も解読されるのは時間の問題であり、対抗手段が開発される間だけが安全に通信できる期間だった。

 日本軍はこの諜報戦争で多くのことを学んだが、最大の学習は絶対安全な暗号というものは存在せず、弛まない刷新と対抗手段の開発そのものが安全という状況認識を得たことである。

 暗号の戦いはイタチごっこの様相を呈したが、戦場の様相もイタチごっこだった。

 最初は独行したイギリス商船はすぐに船団を組んで航行するようになった。

 当初編成された船団は輸送効率重視で小船団が多く防御のための巡洋艦、駆逐艦も不足していて決して有効なものではなかった。

 だが、船団は大きい方が防御効率が高まることがすぐに分かり、護衛戦力も拡充された。

 日本海軍は、独行の巡洋艦部隊を戦隊単位で動かすようになり、護衛戦力を上回る火力でこれに対抗した。

 潜水艦も独行ではなく、群れで動くようになり、防御側の戦力を飽和する形で攻撃が行われるようになり、さらに前述の立体攻撃で対潜艦艇に対抗した。

 やがて、巡洋艦の襲撃に対抗するため、イギリス海軍は前弩級戦艦を船団の護衛につけるようになった。

 しかし、これは貴重な戦艦を潜水艦の標的に差し出すことにもなりかねず、危険な選択だった。実際に、前弩級戦艦2隻が船団護衛中に、潜水艦の雷撃によって沈んだ。

 とはいえ戦艦の護衛がついた船団を巡洋艦で攻撃することは無謀だった。

 また、水上砲戦を挑んでも、砲戦は戦艦が受け持つようになったので軽巡洋艦や駆逐艦、フリゲートが爆雷を放棄しなくて済むようになったのは大きな変化だった。

 これにより潜水艦が爆雷攻撃を受けるようになり、攻撃効率が格段に低下した。

 潜水艦には駆逐艦を、駆逐艦には巡洋艦を、巡洋艦には前弩級戦艦を、前弩級戦艦には弩級戦艦で対抗するしかなかった。

 幸いにしても、日本海軍は徐々にではあるが数的優勢を確保しつつあり、主力艦を通商破壊戦に投入できる余裕が生まれていた。

 1916年5月に生起したユトランド沖海戦は戦局の転換点となった。

 イギリスは弩級、超弩級戦艦12隻、準弩級戦艦6隻、巡洋戦艦3隻を大艦隊グランド・フリートに集め、ドイツは弩級、超弩級戦艦数は合わせて16隻、各種巡洋戦艦5隻を大洋艦隊ホーホゼーフロッテに集中させていた。

 英独艦隊の戦力はほぼ互角に近づいており、高速の巡洋戦艦に至ってはドイツ海軍の方が有利だった。

 大艦隊の弩級戦艦以上の船が12隻しかないのは、日本海軍の増強を受けて、主力戦艦のクイーン・エリザベス級戦艦をインド洋に送ってしまったためである。

 また、主力艦以外の戦力においても日本の通商破壊戦で、多数の軽巡、駆逐艦がインド洋に引き抜かれ、イギリス本国の大艦隊は弱体化していた

 このためドイツ海軍は、今こそ艦隊決戦を挑む絶好機と考えられていた。

 ここでイギリス海軍の撃滅できれば、北海の制海権を確保しイギリスを海上封鎖できる可能性があった。

 新たにドイツ大洋艦隊司令となったラインハルト・シェア提督は、5月31日に全力出撃を命令した。

 一方、イギリス大艦隊を率いるジョン・ジェリコー提督も総力を挙げて出撃。

 ユトランド沖にてヨーロッパ至上最大の艦隊決戦が行われた。

 イギリス艦隊が旗艦アイアン・デューク、以下各種戦艦18隻、巡洋戦艦3隻、各種巡洋艦15隻、駆逐艦58隻だった。

 ドイツ艦隊は旗艦フリードリ・デア・グロッセ、以下各種戦艦16隻、巡洋戦艦5隻、各種巡洋艦11隻、駆逐艦51隻などから成っていた。

 なお、双方の戦艦はともに戦訓を反映した防御改善のための工事を行った結果、防御上の欠陥は是正されており、戦艦は驚異的なタフネスぶりを発揮することになった。

 ドイツ巡戦部隊は、イギリス巡戦部隊をおびき出して叩いたが数的優位にあったにも係わらず、主力艦隊到着までにこれを撃滅することができなかった。

 結果、双方の主力はほぼ正面からぶつかることになり、ぐちゃぐちゃな殴りあいとなった。

 シェアもジェリコーもどちらかといえば、慎重で洗練された艦隊運用を好んでいたことからこの結果は不本意なものだった。

 狭い海域にあまりにも多くの艦艇が集中したため、どちらも艦隊司令部の指揮統制が困難になり、混乱拡大によって海戦は決着が付かないままに終わる。

 この戦いでイギリス海軍は巡洋戦艦3隻を喪失、対するドイツ海軍は戦艦1隻、巡洋戦艦1隻を失っている。この他に両国ともに殆ど全ての船が何らかの損傷を負って、修理が必要な状態となった。

 損害という点ではほぼ互角の戦いだったが、無傷のロシア海軍とフランス艦隊が連合国陣営には残っており、北海の制海権を奪取するには至っていない。

 要するに、セイロン島沖海戦の焼き直しような結果に行き着いた。

 だが、イギリス海軍が失った巡洋戦艦3隻は取り返しが付かないもので、1916年9月にレパルスが就役するまで、巡洋戦艦が僅か2隻(タイガー、ライオン)まで減少した。

 セイロン島沖海戦の生き残りであるタイガー、ライオンには、本国から帰還命令が出ており、これで英インド洋艦隊の巡洋戦艦は0となった。

 先の決戦の損傷も癒えて主力戦艦部隊がペナンに復帰した今、日本海軍は巡洋戦艦を通商破壊に用いる絶好の好機が巡ってきた。

 1916年7月に行われた日本海軍のBL作戦は、極めて巧妙なものであった。

 破損修復と砲塔改装工事が終わった弩級巡洋戦艦4隻をまとめて通商破壊戦に投入したこの作戦は、まず4隻の通信室を船から下ろして、別の巡洋艦と入れ替えるところから始まった。

 無線傍受でかなり正確に日本海軍の動向を掴んでいたイギリス海軍は、無線傍受で4隻の巡洋艦が出撃したことには気がついたが、それが弩級巡洋戦艦であることは分からなかった。

 通信手が電鍵を叩く癖まで知り尽くしていたイギリス海軍は、通信室の人間を全員まるごと入れ替える日本軍のペテンに引っかかったのである。

 新月の夜を選んで、ペナンを離れた4隻の巡洋戦艦は、沿岸を監視するイギリス軍のスパイや潜水艦にも捕捉されず、完全ノーマークの状態で、インド洋深くまで侵攻した。

 7月11日には、最初の獲物にありつき35隻の船団を守る前弩級戦艦を正面から砲撃戦で沈め、輸送船団を壊乱させた。

 前弩級戦艦からの悲報が届くとペテンに引っかかったことに気付いた英インド洋艦隊は手持ちの戦艦4隻投入して、日本の巡洋戦艦を追跡したが速力の差から会敵もままならず、為す術もなく3つの大規模船団が壊滅することになった。

 この損害を受けイギリス海軍は、弩級戦艦を船団護衛に投入することを決意する。

 さらに、最新鋭の超弩級巡洋戦艦レパルス、レナウンが完成すると直ちにインド洋へ回航された。

 日本海軍は新鋭の金剛型超弩級巡洋戦艦を投入してこれに対抗するのである。




 1916年12月に生起したマダガスカル沖海戦は、日英の新鋭巡洋戦艦対決となり、インド洋の戦いは最高潮を迎えることなった。

 日本海軍インド洋艦隊は新鋭の超弩級巡洋戦艦、金剛、比叡、霧島、榛名を投入して大胆な通商破壊を企図した。

 作戦は前回と同様に通信欺瞞から始まった。

 ただし、同じ手が通用する相手で無いことは日本海軍はとてもよく知っていたので、欺瞞には別の手が用いられた。

 4隻の超弩級巡洋戦艦から通信室を別の船に移すところは前回と同じだった。

 違うのは、通信室を移した先の旧式軽巡洋艦をハリボテで徹底的にデコレーションして、金剛型そっくりに仕立て上げた点だった。

 日本海軍はハリボテ戦艦をペナンの泊地に堂々と並べてみせ、新聞記者などを呼んで盛んに新鋭巡洋戦艦ここにありとアピールした。

 この時撮影された写真や小型フィルムによる動画が現在も残っており、何も知らないで無邪気に喜ぶ人々がハリボテの金剛と共に写りこんでいる。

 当の日本海軍でさえ、事情を知らないものが見たら金剛型4隻の勇姿に感動を覚えるほどであった。至近距離まで接近しなければ絶対にバレないレベルの工作精度だった。

 遠距離から監視するしかないイギリス軍情報部のスパイに、この欺瞞は見抜けなかった。

 通信傍受と目視による監視のダブルチェックを潜り抜けた金剛、比叡、霧島、榛名の4隻は誰にも見送られることになく、新月の晩にペナンを出撃した。

 なお、イギリス海軍は長くペナンに停泊するハリボテの金剛を本物だと信じて疑わなかったために、8隻の超弩級巡洋戦艦がインド洋にいると勘違いすることになった。

 金剛4姉妹は二手に分れ、比叡と霧島は洋上で軽巡天龍、神風、谷風、江風と合流して、臨時の小艦隊を編成した。

 戦隊司令の毛利且永少将にちなみに毛利艦隊と呼ばれることになった新鋭艦が揃った高速打撃部隊は、遠くマダガスカル沖まで進出し、狩りの時を待った。

 後に太平洋の悪夢と呼ばれ、連合国海軍の全ての将兵から恐れられた金剛型巡戦のデビュー戦だった。

 なお、金剛型は伊勢型の設計を流用し、伊勢型の船体中央の36サンチ連装砲2基を除いて機関を増設した船である。戦艦並の装甲と36サンチ砲連装4基8門の火力、27ktの速力を高い次元で一致させた実質的な高速戦艦だった。

 暫くして、ボンベイを出港した20隻規模の船団がマダガスカル沖を通過すると情報が入り、毛利艦隊は予想進路に回り込み、待ち伏せすることになる。

 襲撃は、1916年12月10日の朝だった。

 戦闘は夜明けと同時に始まり、日の出に隠れて忍び寄った日本艦隊は必中の距離から第一撃を放った。護衛の弩級戦艦コロッサスは初弾命中まで毛利艦隊の接近に気がつかなかった。また、逆光に向かって照準することになり、一発の命中弾を得ることができないままに36サンチ砲弾を多数被弾し、撃沈された。

 残余の駆逐艦と巡洋艦も義務を果たして全滅した。

 船団は戦艦の攻撃が始まった時点で解散して、バラバラに散らばって逃走を開始したが、血に酔った毛利艦隊はこれを追いかけまわして時間を空費することになる。


「狩りごっこのつもりだった」


 などと毛利且永少将は後に意味不明な述懐をしているが、これはルール違反の危険な行為だった。

 船団を解散させた時点で、毛利艦隊は役割を終えており撤退すべきだったのである。

 マダガスカルに停泊していた超弩級巡洋戦艦レパルス、レナウンはコロッサスからの通報を受けて最高速力30ノットで誰よりも早く現地に到着、商船を追いかけ回していた毛利艦隊を捕捉した。

 久々の艦隊決戦となったマダガスカル島沖海戦は、同数の戦艦が正面から殴り合う真っ向勝負になった。

 砲火力は比叡、霧島が36サンチ砲で、レパルス、レナウンが38.1サンチ砲と若干、イギリス海軍が有利だった。

 しかし、日本の36サンチ砲は45口径であるのに対して、イギリスの38サンチ砲は42口径で口径の割には短砲身であり、実用上の火力はほぼ互角であった。

 防御は日本側が有利で、セイロン沖海戦の戦訓から砲塔の給弾システムを徹底的に改良し、誘爆対策が徹底されていた。防御力は速力を犠牲にしてでも強化され、甲板や砲塔天蓋に装甲板を追加することで、遠距離砲戦に対応出来る形になっていた。

 それに対してイギリス海軍は、引き継続き速力を重視しており、レパルスの防御についてはむしろ前級のライオン級よりも装甲が薄くなっていた。

 甲板の弾薬庫直上は僅か51mmの装甲しかなかった。

 距離20,000mで始まった比叡、霧島の砲撃は僅か3斉射でレパルスの弾薬庫を直撃し、貫通誘爆せしめた。


「なんちゅう脆い船だ」


 と毛利少将は爆発炎上するレパルスを見て呟いたという。

 僚艦があっけなく沈んだレナウンは反転した。勇気と無謀は違う。

 しかし、レナウンは毛利艦隊に近づき過ぎていた。レナウンよりもずっと遠い距離でレパルスに弾を当てた比叡、霧島にとってレナウンはより狙いやすい標的だった。

 レパルスと同じきっちり三斉射でレナウンは大破したが、幸運な一撃は発生せず機関も破損しなかったことからレナウンは逃げ延びている。

 だが、修理には6ヶ月要することになり、再び英印度洋艦隊の巡洋戦艦は0になった。

 勝利した比叡、霧島は別働隊の金剛、榛名と共にアラビア海を封鎖した。

 4隻の超弩級巡洋戦艦は盛んに電波を発信して、自艦の位置を暴露すると共に、これみよがしにアフリカ沿岸のイギリス商港を艦砲射撃した。

 この挑発をイギリス海軍は座視することができなかった。

 英インド洋艦隊は討伐のためにクイーン・エリザベス級戦艦4隻を派遣する。

 しかし、この決定はこれは重大な問題を含んでいた。

 シンガポールに日本軍の上陸船団が終結しつつあったからだ。

 日本軍の意図は明らかである。英インド洋艦隊の戦力を分散させ、各個撃破してセイロン島を奪取する作戦だった。

 だが、英インド洋艦隊はそれが分かっていても、アラビア海を封鎖する金剛4隻を無視することができなかった。

 1年前と異なり、既にイギリスの海上交通は危機的な状態であり、動脈が止まったに等しい現状を放置して、セイロン島防衛に全力を傾けることは、戦時経済の運営上、不可能だった。

 逆にいえば、日本は1年半かけてこの状況を積み上げたとも言える。

 

 1916年12月18日、日本海軍印度洋艦隊は全艦、ペナンを出撃した。

  



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