WWⅠ 北と南と秋山と
WWⅠ 北と南と秋山と
1915年の春、国家総力戦はその全貌を明らかにしようとしていた。
ヨーロッパの片田舎にあったイープルという村では、喜びの春にあって不気味な静けさの中に、数千の死体を積み上げていた。
ドイツ軍は大規模な毒ガス戦を実行し、西部戦線で塩素ガスを使用した。
ガスマスクを持っていなかったフランス軍は数千人が10数分のうちに死亡した。
フランスの若者たちは、目には見えない恐怖と戦うことになった。ガス雲の中を無我夢中で走り、窒息し、苦しみのたうち回って死んだ。積み上げられた膨大な数の死体は、恐ろしい死に顔を晒していた。清浄な空気は汚染され、金属の味がした。
戦線を不気味な沈黙が覆い尽くした。
なお、沈黙の理由の半分は、当のドイツ軍がここまで効果的な兵器であるとは思いもよらず、何の追撃を行わなかったからである。
この時、ドイツ軍の主力は、ロシア戦線にあって大規模な攻勢作戦を計画していた。
ロシア戦線では前年のタンネンベルクの戦いで、ロシア軍の1個軍団が壊滅しており、ドイツ・オーストリア連合軍が全般的な優勢を確保した戦場だった。
タンネンベルクの戦いの要諦は、鉄道網を駆使するドイツ軍の機動力の高さと、暗号技術がないため、戦略的な軍命令を平文で無線通信するという致命的なロシア軍の欠陥の組み合わせである。
ドイツは、膠着した西部戦線と異なり運動戦の余地があり、フランス・イギリス軍に比べて弱体なロシア軍を片付けた後に西部戦線に全力を傾ける方針をとった。
こうした方針が採用されたのは、シベリアから西進する日本軍の存在が大きい。
1915年5月、いよいよシベリア戦線で日本軍が攻勢を発起。国境を越えて、バイカル湖西に街を広げるイルクーツクへと殺到した。
既に前年11月の宣戦布告から半年が経過しており、極東ロシア軍は塹壕を掘って日本軍を待ち構えていたので日本軍の攻勢は防ぎ止められることになった。
とはいえ、彼我戦力差からして突破されるのは目に見えていた。
ロシア軍は主力を対ドイツ戦に投じており、シベリア防衛に投入できるのは20個師団が限界だった。
日本軍の戦力はその3倍はあり、数的優位を確保した上での攻勢である。
故にロシア軍は、広大なシベリアの大地そのものを利用し、ナポレオンを破った後退戦略で物量に勝る日本軍に対抗しようとしていた。
日本軍は大軍を展開していたが、そうした大軍は大軍そのものが兵站に莫大な負担を掛けるため、侵攻距離が長くなれば長くなるほど負担が増えて補給が滞るのが常だった。
ナポレオンも大軍でロシアの大地に攻め込み、モスクワまで陥落させたが焦土作戦と後退戦術に苦しみ、最後は冬将軍と補給の破綻により敗走する羽目になった。
ロシア軍はその故事に習い、陣地や地形を活用した抵抗戦と焦土作戦で領土の奥深くまで日本軍を引き込んで逆襲する腹積もりだった。
また、シベリアの夏は短く、短い夏に耐えられれば冬将軍という増援にも期待できた。
もちろん、日本軍もそうしたロシア軍の戦略には気付いている。
他に有用な戦略などないためである。
ドイツと日本という二正面作戦を強いられ、列強の中でも特に工業力が貧弱で武器弾薬の製造にも苦しむロシア軍が、最後に頼りにするのは広大な領土と冬将軍の二つしかない。
故に、大胆且つ大規模な奇襲で、彼らの後退戦略を頓挫させることが求められた。
ロシア人はすっかり失念していたが、バイカル湖の南には広大なモンゴル高原が広がり、そこには辛亥革命で清朝から独立したばかりのモンゴル国があった。
モンゴル国に日本人の手が伸びていることにロシア人は全く気がついていなかった。
日本人は、ついこの間に満州王国を中華民国から分離独立させたばかりで、その手の秘密工作には非常に長けているのである。
極東ロシア軍がそれに気がついたのは、後方からの電信通信が途絶してから、さらに3日後のことである。
日本軍は秘密工作を完璧なものとするため、最前線に大出力無線機を持ち込んで、通信妨害まで展開していた。
そのため、ロシア軍が奇襲に気がついたときには、全てが手遅れとなっていた。
モンゴル国に賄賂を積み上げて無害通行権を認めさせた日本軍は、秘密裏に6個騎兵師団をモンゴル領内を通過させ、シベリア中央のノヴォニコラエフスクを直撃したのである。
6個騎兵師団は、日本軍がもつ騎兵師団の全部だった。
秘密保持に失敗してロシア軍が防備を固めていたら目も当てられなかったが、馬に乗った日本兵がノヴォニコラエフスクに突入したとき、それを出迎えたのは呆然とする市民達だけだった。
ノヴォニコラエフスクはシベリア最大の都市であり、オビ川河川交通とシベリア鉄道の交差点であった。市内には近代的な農産物の加工工場、発電所、鋳鉄工場、日用雑貨市場、銀行、船会社や商社などが立地し、シベリアで唯一映画館のある街でもあった。
ここが陥落するということは、シベリア鉄道の半分とオビ川河川交通を失うことであり、イルクーツクで戦うロシア軍20個師団が退路を完全に失うことであった。
なお、この奇襲作戦を指揮したのは日露戦争の騎兵英雄、秋山好古大将だった。
秋山はこの戦いでもその軍才を遺憾なく発揮してロシア軍を翻弄することになる。
なお、6個騎兵師団を支える兵站線は膨大な数のモンゴル人軍夫とモンゴル馬によって維持されており、馬の総数は50万頭を越えていた。
日本軍の支払う高給に惹かれて多くのモンゴル人が家族や一族総出でこの遠征に参加している。巧みな馬術で馬を操るモンゴル人達は羊やヤギを連れてゲル(モンゴル式テント)で生活しながら軍需物資を運びつつ日本軍の後に続いた。半ば日本モンゴル連合軍と化したその雑多な集団は、蘇ったジンギスカンの軍勢そのものだった。
青々とした若草が茂る広大なユーラシアの大地を、騎馬の大軍が銅鑼とチャルメラと馬蹄を打ち鳴らしながら西へ西へと進んでいった。
なお、日本人とモンゴル人は顔立ちがよく似ているので、遠くから見ても、近づいて見ても殆ど区別がつかない。
「モンゴル人が攻めてきたぞ!」
という冗談とも正気ともとれない叫びはロシア全土を震撼させた
300年もロシアをタタールのくびきにおいたモンゴル軍ほど恐ろしいものは、ロシア人にはなかったのである。
チンギス・ハーンが蘇りモンゴルが攻めてきたという噂はサンクトペテルブルクのニコライ2世の舌にまで登ったという。
ちなみに、騎兵軍団総司令官の秋山大将は、モンゴル人からハーンの名誉称号を贈られ、軽く困惑したとされる。ただし、質素な秋山はモンゴル人の素朴な遊牧生活を気に入って、占領地のホテルよりも、ゲルで起居することを好んだ。
ロシア軍は秋山好古を暗殺するため、日本軍司令部のあるホテルを爆破したが好古はホテルの庭にあるゲルで寝ていたので助かったという逸話がある。
モンゴル襲来というDNAレベルの恐怖に襲われたロシア軍は、最良の装備を持った1個軍を迎撃に差し向けている。
しかし、それは対ドイツ戦での絶望を生むことになり、ドイツ軍の攻勢を相まって、ポーランド全域を失う大敗を喫することになった。
なお、ロシア軍はシベリア鉄道の鉄橋やトンネルを爆破して日本軍の侵攻を阻止しようとしたが、騎兵主体で馬に乗って進む遊牧民の軍団にとっては大した痛手ではなかった
また、橋を爆破しても、日本海軍海兵隊の河川艦隊が軍需物資を運搬したので日本軍の進撃は止まらなかった。
元々シベリアはシベリア鉄道が完成する以前は、河川交通によって東西の移動が行われてきた地域であった。そのため、川船や艀、装甲艇や水雷艇、河川砲艦を投入することで、日本軍は兵站線を維持することができた。
なお、この河川艦隊で用いられた動力付きの艀が大変、物資の輸送に便利であることが分かり、ランプを備えたものが多数建造された。
後に、海兵隊の上陸作戦において必須装備となる小発、大発舟艇の原型である。
どうしても陸上交通が必要な場所には新技術の自動車が活躍した。
さらに日本軍は5つしかない手持ちの鉄道工兵連隊のうち、4つをこの戦線に投入して、シベリア鉄道を修理しながら西へ進んでいく。
シベリアの大地を歩兵は列車で進み、騎兵は馬で進んだ。
ただし、この時は馬の方が早かった。
鉄道復旧に必要な大量の労働力は捕虜によって賄われた。ロシア・シベリア軍20個師団の降伏後の最初の仕事は、自分たちが爆破したイルクーツクの鉄橋を修復することであった。
秋山=ハーンの軍勢(日本陸軍)が、シベリアの大地を西へ向かって進んでいる時、日本海軍もまた、インド洋を西へ向かって進んでいた。
日本海軍のインド洋展開は、シンガポール陥落前の1915年4月から始まっており、マレー半島のペナンや、スマトラ島のメダンが主要な根拠地となった。
最初にインド洋に進出したのは、装甲巡洋艦や防護巡洋艦、軽巡洋艦、仮装巡洋艦などの巡洋艦艦隊で、それぞれが割り当てられた哨区に散らばって、通商破壊戦を開始した。
水上艦の通商破壊は、遠くアデン湾まで広がり、インド洋の海上交通は大混乱に陥った。
既にインド洋の通商破壊戦はドイツ東洋艦隊の軽巡エムデンが先鞭をつけていた。
だが、軽巡エムデンは単艦であり、その作戦は決して組織的なものではなく、イギリスをパニックに陥れたものの継続性に乏しいものだった。
それに対して、日本軍のそれは50隻あまりの巡洋艦を投入した組織的な攻撃だった。
ペナンから近いベンガル湾には初期的な潜水艦も投入され、1915年5月には日本潜水艦による初戦果が挙がった。
日本軍の意図は、インド洋海上交通路の遮断だった。
既に北米やシベリアといった大規模な地上戦線を抱えてる日本にとって、広大なインド本土への侵攻、占領は不可能である。
そこでインド洋の海上交通を遮断することで、イギリスの戦争経済を破壊するのが日本海軍のインド洋戦略となった。
その上で、どうしても占領しておきたいのがインド亜大陸南部沖合に浮かぶセイロン島である。
この島を占領し、海軍根拠地とすれば、遠くアデン湾、紅海にも容易く艦隊を出動させることができる。
セイロン島は、インド洋の制海権を掌握するために必須の戦略要地であった。
その為、セイロン島のコロンボにはイギリス海軍が築いた軍港と要塞がある。
そしてコロンボには、既に終結を終えたイギリス海軍インド洋艦隊が錨を沈めていた。
イギリス海軍は日本海軍の侵攻を待ち構えていたのである。
この時、コロンボで日本海軍との決戦に備える英インド洋艦隊は超弩級戦艦12隻、弩級巡洋艦戦艦6隻を擁していた。
詳細は以下とおりである。
第2戦艦戦隊
第1戦艦隊
戦艦キング・ジョージ5世、エイジャクス、センチュリオン、エリン
第2戦艦隊
戦艦オライオン、モナーク、コンカラー、サンダラー
第5戦艦隊
戦艦コロッサス、コリンウッド、ネプチューン、セント・ヴィンセント
第1巡洋戦艦戦隊
巡洋戦艦プリンセス・ロイヤル、クイーン・メリー、タイガー、ライオン
第2巡洋戦艦戦隊
巡洋戦艦ニュージーランド、インディファティガブル
指揮官は1915年1月のドッガーバンク海戦でドイツ海軍を蹴散らしたデイヴィッド・リチャード・ビーティー提督である。
ドイツ海軍に対する押さえをギリギリ維持しつつ、出せるだけの戦力をイギリス海軍は集め、それをイギリス海軍将星で最も闘魂あふれる男に託したのである。
対する日本海軍も、弩級戦艦8隻、弩級巡洋戦艦8隻を基幹とする八八艦隊の全て投入する準備を終えていた。
詳細は以下のとおりである。
第一戦隊
戦艦 扶桑、山城、駿河、近江
第二戦隊
戦艦 播磨、土佐、伊予、周防
第三戦隊
巡洋戦艦 敷島、松島、厳島、橋立
第五戦隊
巡洋戦艦 高千穂、穂高、浅間、妙高
第七戦隊
戦艦 伊勢、日向
日本海軍は期待の新鋭戦艦2隻を艦隊に迎えている。
超弩級戦艦、伊勢型の1番艦伊勢と、2番艦日向だった。
伊勢型は36サンチ砲を搭載した日本初の超弩級戦艦である。36サンチ砲を連装6基12門、3群に分けて背負式に2基ずつ装備していた。
伊勢、日向は満載時は30,000tに達する日本海軍期待の巨大戦艦だった。
伊勢型は、前級の扶桑型弩級戦艦や、改扶桑型である播磨型弩級戦艦に比べると格段に進歩した戦艦と言えた。
日本最初の弩級戦艦である扶桑型は、ドレッドノートに衝撃を受けた日本海軍が慌てて建造した習作であり30サンチ連装5基10門で火力は十分なものだったが、砲配置の悪さから斉射が不可能だった。
改扶桑型の播磨型弩級戦艦は、この欠点は改めたものの砲配置の悪さから、片舷8門斉射が限界で、しかも防御に難がある代物だった。
また、巡洋戦艦についても、決して満足できるものではなかった。
扶桑型から砲塔を2基除いて機関を増設した敷島型巡洋戦艦は日本初の巡洋戦艦である。
敷島型巡戦は、防御は戦艦並でありながら速力は巡洋艦級という船だった。しかし、30サンチ連装3基6門は弩級戦艦としてはギリギリのラインである。
播磨型から砲塔を2基除いて機関を増設したのが高千穂型巡洋艦艦で、日本巡洋戦艦の第二バッチにあたる。
高千穂型も戦艦並の防御力を持ちながら巡洋艦並の高速発揮が可能だったが、砲火力は敷島型と同じだった。
イギリス海軍の巡洋戦艦は、火力が戦艦並で装甲は巡洋艦に準じるものとして防御を切り捨てることで高速発揮を狙っているのに対して、日本海軍の巡洋戦艦に見られる防御重視は際立っていた。ただし、代償に砲火力は敷島型も高千穂型も30サンチ砲連装3基6門であり、場合によっては前弩級戦艦にすら撃ち負ける可能性があった。
総じて、日本の八八艦隊は速力と防御に重きをなし、全艦が30サンチ砲装備艦で、イギリス海軍が装備する34.3サンチ砲に比べると火力の面で劣っていた。
しかし、30サンチ砲は高初速を発揮する50口径砲であり、イギリス海軍の34.3サンチ砲にも対抗可能というのが日本海軍の意見である。
近距離での砲戦なら、高初速砲によりイギリスの超弩級戦艦の装甲も抜けるからだ。
とはいえ、火力の劣勢は日本海軍も十分自覚していた。故に、砲火力の劣勢を覆す36サンチ砲搭載艦の伊勢、日向は、日本海軍待望の新鋭戦艦であった。
ビーティー提督は本国に繰り返し、新鋭の38.1サンチ砲搭載艦であるクイーン・エリザベス級戦艦の回航を要求していたが、本国のドイツ重視によりその要求は却下された。
イギリス海軍は日本海軍を侮っていたわけではない。
だが、世論の手前、切り札ともいうべきクイーン・エリザベスを本国から遠く離れたインド洋に送ることはできなかったのである。
代わりに本国からは前弩級戦艦4隻が回航されたものの、速力の低さから共闘は困難であり、ビーティー提督はいよいよ不満を爆発させたとされる。
1915年4月にシンガポールが、貯水池陥落で全市断水となり呆気なく降伏すると、いよいよ決戦の時が近いことが両軍に理解された。
日本海軍は通商破壊を強化し、潜水艦等による偵察に余念がなかった。
しかし、八八艦隊や伊勢、日向はペナンに錨を下ろして出撃しなかったので、多くの人々に首を傾げさせた。
海軍は何をやっているのだろうか?
「何もしないのが最良である」
というのが、日本海軍印度洋艦隊の参謀長に抜擢された秋山真之少将の意見である。
この頃の真之は、日露戦争の英雄である兄の秋山好古大将に比べて無名に近い存在だった。
ああ、そんな人もいるのか、という扱いだった。
日露戦争において殆ど海軍の出番がなかったことを考えれば、止む得ないものであろう。
海軍にとって日露戦争とは、圧倒的戦力で旅順を囲んで、その他はイギリスの奇襲参戦を警戒しているうちに終った脇役の戦争だった。
旅順艦隊は自沈し、バルチック艦隊は来なかった。海軍は途中でやることがなくなってしまった。
後に新聞社の取材を受けた真之は、
「あの頃は、暇を持て余していた」
と語るほど日露戦争は海軍にとって暇な戦争だった。
日清戦争も同様である。
故に、今次大戦における日本海軍の意気込みは凄まじいものがあった。
海軍にとっては古のナポレオン戦争以来の本当の戦いと思われた。
一種の熱病に冒されていたと言っても過言ではない状態だったのである。
セイロン島の攻略も、戦略上の理屈ではその意義は誰も反論できないものだったが、上陸船団の護衛よりも敵艦隊撃滅の方が優先度が高く設定されており、海軍の本心がどこにあったか如実に示している。
インド洋の通商破壊や戦争経済へのダメージなどアレコレ戦略的な議論を並べて理論武装をしていたが、要するに日本海軍は戦艦同士の艦隊決戦というものをやってみたかった。
その一心でインド洋まで来たのだ。
そして、それはイギリス海軍も同じだった。
理屈としては艦隊決戦の概念はあったが、実際に近代以後でそれを成した海軍は1915年の時点で、存在しなかった。
巨砲を搭載した弩級戦艦も、理論と技術の存在であってそれが本当に有効であるか、実際に戦えるのかはやってみないと分からない部分があったのである。
意外なことかもしれないが、巨大戦艦というものは第一次世界大戦直前に出現した新兵器であり、世代的には飛行機と変わらないものだった。
戦船というものは昔からあったので古く見えるが、生まれたての新技術の塊といえる。
そして、そういう真新しい何かというのは奇妙なまでに訴求力をもつものだった。
「艦隊決戦を。一心不乱の艦隊決戦を!」
実際に当時の海軍奉行が議会で言い放った言葉である。
そのような一種の躁状態の日本海軍を、真之は覚めた目で見ていた。
「そもそも艦隊決戦とは、制海権を確保するために行うものであり、艦隊決戦そのものが目的というのは本末転倒である」
というのが真之の主張だった。
それは上司の加藤友三郎印度洋艦隊司令長官も同意見だった。
二人は日露戦争時に参謀長と作戦参謀として組んだことがあり、関係は良好だった。
参謀長の秋山が立てた戦略は、現存艦隊主義に基づく千日手と通商破壊戦によるイギリス戦時経済の破壊だった。
八八艦隊は存在しているだけで相手の主力を拘束できるのだから、その間に巡洋艦や潜水艦で敵の通商路を破壊すれば、戦わずして勝てるという理屈である。
実際、ドイツは同年2月に無制限通商破壊戦を行って大戦果を挙げていた。
ルシタニア号事件によりドイツ海軍の無制限通商破壊戦は一時休止となったが、発想としては真之と同じ考えだった。
真之は戦艦よりも潜水艦をもっと建造すべきと本国に繰り返し督促しており、ベンガル湾の潜水艦作戦も真之の努力によって実行されたようなものだった。
1隻の巨大戦艦よりも小さな潜水艦を大量建造すべしとは、大艦巨砲主義全盛時代において異端信仰を表明するようなものだった。
江戸の海軍奉行所では真之は脳性マラリアで発狂したとして参謀長交代まで真剣に議論されたほどである。
しかし、艦隊司令長官の加藤から厚い信頼を得ていた真之は、己の信念を決して曲げず、艦隊出撃に反対しつづけた。
そもそも戦力差がないに等しく、勝てるという確実な策が立たない以上、艦隊の作戦を預かるものとして絶対に出撃は承服できないとした。
これは正論だった。
勝つために戦うならともかく、戦うことそのものが目的であって良い理由がない。
そうした秋山の主張は恐ろしくウケが悪かった。
各戦艦の艦長は全員が一致して、艦隊の出撃を主張していた。集団で加藤司令長官に直訴するなど、戦艦部隊はイギリス海軍との決戦に血をたぎらせていたのである。
また、海兵隊も時間経過でセイロン島の防備が強化され、攻略が困難になるとして一日も早いセイロン上陸を主張した。上陸の第一波を受け持つ彼らにしてみれば、沿岸防備が整う前に海岸に殺到したかったのである。
マスコミも秋山も敵にまわった。港に錨を沈めて動こうとしない戦艦部隊を税金の無駄遣いであると攻撃し、世論もそれに同調したのだった。
秋山は万策を尽くして出撃遅延を図ったが、サイクロンの季節が去り気候が安定する7月にセイロン攻略作戦が発動されることになった。
これ以上は抗命となるため、秋山も出撃に同意した。
しかし、後に秋山の危惧は的中して、日本海軍は大きな代償を支払うことになる。
日英のインド洋決戦となったセイロン島沖海戦は、7月11日に生起した。
根拠地のペナン、マダン、シンガポールを出撃した日本海軍印度洋艦隊は、洋上で先発する上陸船団と合流して西進した。
こうした日本海軍の大規模出撃は、当然、イギリス軍に察知されることになる。
残地の諜報活動や無線傍受で日本海軍の出撃を察知したイギリス海軍インド洋艦隊も全力出撃して決戦の地へ向かった。
イギリス海軍の出撃は、湾口で見張っていた偵察の潜水艦で即座に通報され、日英は惹かれ合うように海上のある一点へと向っていた。
艦隊の接触は前衛の軽巡洋艦、駆逐艦同士によって始まり、お互いの主力艦隊をほぼ同時に視認することに成功する。
この時、天気は晴朗で視界は冴え渡り、波は穏やかで、理想的な海戦日和であった。
水上砲戦の定石どおり、お互いが相手の頭を抑えるため、高速の巡洋戦艦が突出し、最初に砲火を交わすことになった。
日本海軍巡戦部隊は、防御を切り捨ててまで高速発揮を狙ったイギリス海軍巡戦部隊に、速力で僅かに劣り、頭を抑えられ不利な形で砲戦を開始する羽目になった。
だが、砲撃命中率で日本海軍は優勢であり、イギリス側に被弾が続出することになった。
日本海軍が有利に戦えたのは、光学機器の性能差に依るものだった。
この時、日本海軍が装備していた射撃照準装置にはドイツ製のレンズが使われていた。
20世紀の初頭において、顕微鏡やカメラ用のレンズ開発などでドイツの光学産業が果たした役割は他に代替物が存在しないと言い切れるほど偉大なものだった。
光学産業の巨人であるカール・ツァイスを筆頭に、シュナイダー、シュタインハイル、フォクトレンダー、ローデンシュトックといった錚々たる面々が揃っていた。
レンズ設計における基本的な形式は全て20世紀のドイツで開発されたものであり、その光学産業は他の追随を許さないレベルに達していたのである。
ドイツの誇る精密加工技術とて、高品位な産業用レンズがなければ成り立たないものだった。検査に必要な産業用レンズの精度は製品の品質に直結するものであり、他国が像の歪んだ低品位なレンズで検品を行っているときに、ドイツは歪みのないレンズで精密検査を行うことができたのである。
カメラ好きの政威大将軍徳川慶喜も、日本製のレンズは衆民が使うものとして退け、自分が使うカメラにはドイツ製のレンズを愛用したほどだった。
21世紀現在においても、日本人の写真愛好家は日本製のレンズを安物と見なして、ドイツ製のレンズを珍重する傾向がある。
話はやや逸れたが、各国の弩級戦艦は遠距離砲戦のために距離、方角測定のために高性能な光学観測機器を装備しており、その性能の優越は砲撃の命中率に直結していた。
ただし、遠距離から大落下角で降り注ぐ大口径砲弾に対して、この頃の戦艦は全く防御力が不足していた。
遠距離から降り注ぐ砲弾は船舷ではなく、甲板に落下する確率が高いことに各国海軍は全く気付いていなかったのである。
そのため、甲板には薄い装甲しか施されていなかった。
それは防御重視の日本海軍とて例外ではなかった。
砲戦開始から僅か25分で、巡戦穂高、敷島、松島が遠距離から飛来したイギリス製34.3サンチ砲弾に砲塔を撃ち抜かれて、爆沈の憂き目を見ている。
だが、イギリス巡戦部隊も無傷では済まなかった。
巡洋戦艦クイーン・メリーが砲塔を貫通され爆沈。続いて、インディファティガブルも命中弾多数で落伍し、その直後に砲塔を撃ち抜かれて爆沈している。
砲戦開始から半時間たらずで、日英の巡洋戦艦部隊は半数が沈没し、無傷の艦は一隻もいないという惨状を晒すことになった。
頑丈極まるはずの戦艦の砲塔がびっくり箱か何かのように吹き飛ぶのを見て、何かがおかしいことに日英の艦隊司令部は気付いていた。
しかし、どちらにも撤退という考えはなかった。
ビーティーも加藤も海軍に臆病者は必要ないと考えていたからである。
そして、これは決戦であり、どちらかが完全に倒れるまで戦う必要があった。
故にほぼ対等の条件で艦隊主力同士の同航砲撃戦が始まったとき、その結果は地獄の惨状を曝すことになった。
射撃諸元を単純化するため進路を固定し、防御に欠陥がある戦艦同士が、大口径火砲でひたすら殴り合ったのである。
生き残る道は、自分よりも先に相手を全滅させるしかなかった。
崖っぷちに向かってアクセル全開のフルスピードで突っ込むチキンレースと化した砲撃戦は、戦艦の墓場を作り出すことになる。
10隻の日本主力戦艦部隊は、砲撃戦半ばで3隻が沈み、3隻が自沈させるしかないほど破壊され、残り4隻にまで減少した。
12隻のイギリス海軍主力戦艦部隊も、4隻が沈没。3隻が大破して漂流中だった。
どちらにも幸運の女神が微笑み、同じ数だけで幸運の代償を求める不幸な一撃があった。
そして、先にチキンレースに耐えられなくなったのは日本海軍だった。
日本海軍には、アメリカ海軍という潜在敵が存在し、アメリカ合衆国の奇襲参戦に神経を尖らせていた。
先のことを考えるとここで戦い尽くすわけにはいなかったのである。
また、イギリス側には増援があった。
本国から寄せられた無傷の前弩級戦艦4隻は当初、海戦の展開速度に追随できず艦隊から落伍していたが、日英双方が損傷して速力が低下したため後方から追いつきつつあった。
この増援到着が海戦の勝敗を分かつことになった。
日本艦隊にも前弩級戦艦はあったが、このときは上陸船団護衛に投入され、決戦には間に合わなかった。
退却を開始した日本主力艦隊に対して、ビーティー提督は追撃戦を指示したが、イギリス巡洋戦艦部隊を壊滅させた日本巡洋戦艦部隊が引き返して後衛戦闘を行って、撤退を援護した。
巡洋戦艦同士の戦いは、速力を重視して防御を切り捨てたイギリス巡洋戦艦が、速力に劣るが防御力を保持した日本の巡洋戦艦艦隊に撃ち負けたのである。
ただし、後衛戦闘での奮戦で、さらに日本海軍は巡洋戦艦1隻を失うことになった。
最終結果として、
日本海軍
生還
戦艦 伊勢、日向、播磨、伊予
巡戦 高千穂、橋立、浅間、妙高
喪失
戦艦 扶桑、山城、駿河、近江、土佐、周防
巡戦 穂高、敷島、松島、厳島
イギリス海軍
生還
戦艦 キング・ジョージ5世、エイジャクス、オライオン、モナーク、コンカラー、
サンダラー、コロッサス、コリンウッド
巡戦 タイガー、ライオン
喪失
戦艦 センチュリオン、エリン、ネプチューン、セント・ヴィンセント
巡戦 インディファティガブル、クイーン・メリー、プリンセス・ロイヤル
ニュージーランド
という、痛み分けに近いかたちになった。
他に両軍ともに多数の巡洋艦、駆逐艦がこの戦いで沈み、両国の主力艦隊は暫くどちらも再起不能なレベルで壊れることになった。
ただし、日本軍の上陸船団は港に引き返し、イギリス海軍はセイロン島を保持したので、戦略的にはイギリスの勝利である。
同程度の質と量の艦隊が、真正面からぶつかった結果は、大変順当な結論として、引き分けに終わったのである。
そして、引き分けなら、セイロン島が手元に残るイギリスの戦略的な勝利だった。
秋山の懸念は的中した。
日本海軍の冒険は、ただひたすら人命を浪費しただけで終わったのである。
なお、ドイツ海軍はイギリス海軍が半壊したこの絶好機を利用することができなかった。
1915年1月のドッガーバンク海戦で、セイロン島沖海戦に見られた戦艦の防御上の欠陥が露呈したことから全ての戦艦の改修工事を行っている最中だったのである。
また、ロシア海軍のバルチック海軍は旧式戦艦多数だったものの未だに有力なものがあり、イギリス海軍の損耗を差し引いても迂闊な行動はとれなかった。
セイロン島沖海戦は終った。
しかし、それは戦いの終わりを意味しなかった。
両国のインド洋艦隊は廃墟のようになった戦艦を修理のため後方に下げると残った戦力で戦争を継続する方法を模索することになった。
一度の決戦で戦争の決着がつく時代はとうの昔に終わっていた。
生産力の拡大は短期間で戦力の補充と拡大を可能としており、国家総力戦という全く新しい戦争形態が姿を現そうとしていた。
そうした次の戦いにおいて、日本海軍の中心的な役割を担ったのが秋山真之だった。
真之は新しい戦略のグランドデザインを提示し、パニックに陥った日本海軍の混乱を沈め、粘り強い戦略指導を行った。
作戦失敗の責を負って海軍を去ることになった加藤友三郎大将だったが、彼は予備役編入前に、自身が持つ全てのコネクションを使って海戦前に真之が主張していたことを各方面に宣伝し、参謀長として真之がインド洋艦隊に残れるように取り計らった。
秋山残留工作は、イギリス海軍に最悪の厄災を齎し、後に加藤友三郎最後の勝利として歴史に記録されることになる。
また、海軍を去っても加藤の戦いは終わらなかった。
未曾有の大損害に青くなった海軍は、その対策に躍起になるのだが、その道程は大きな紆余曲折を経ることになる。
海軍建艦行政を担う艦政本部は戦艦の防御上の欠陥を頑として認めようとしなかったからである。
そうした艦政本部の態度に業を煮やした加藤は、大損害の責任を問う議会の公聴会において海戦の経緯や砲塔の欠陥を暴露することになる。
艦政本部は突然の暴露に泡を食ったが、戦術のミスであるとしてあくまで責任回避を図った。また、海軍奉行所に働きかけ、加藤を軍機漏洩の罪で軍法会議に招集し、裏切り者として徹底的に攻撃した。
艦政本部と加藤の死闘は、議会の合同調査委員会開設まで続いた。
最終的に、議員バッチを身に着けた調査団が艦政本部や大破して修理中の戦艦に乗り込む事態に発展することになる。
第三者調査委員会による調査の結果、砲塔構造や給弾システムに重大な欠陥が指摘され、艦政本部の全面敗北で事態は終息することになる。
なお、海軍は伝統的に将軍の直臣という意識が強く、政威大将軍以外からのいかなる干渉も拒絶してきた歴史があり、議会に対しては超然主義的であった。
過去の不祥事も将軍に泣きつくことで不問とされてきた悪しき伝統があったのである。
今回も政威大将軍徳川家達に海軍は泣きつき、海軍内部での調査と処分でお茶を濁そうとした。
しかし、逆に議員調査団への全面協力を命じられ、絶望のどん底に叩き落された。
家達からすれば、ただでさえ不人気の戦争で議会や世論との調整で四苦八苦しているところにこの騒動であり、議会に非協力的な態度をとる海軍には怒り心頭であった。
結果、軍法会議を開催した海軍上層部は、逆に職権濫用の罪を問われることになった。
この事件を経て、既に軍人だけで戦争ができる時代はとっくの昔に終わっていることに、海軍はようやく気がついた。
また、議会も軍人だけに戦争を任せることの危険性にようやく気がついた。
この事件以降、議会は軍事的な問題について数多くの調査委員会を開設し、積極的に戦争に関与する方向へ転換していくことになる。
そうした文民の第三者的関与は、海軍自身ではどうにも手がつけられない海軍の暗部を排除する上で大きな威力を発揮した。
兵科と機関科にまたがる差別的で非合理的な軍令承行権の制限や、新兵いじめ問題、海軍機密費の濫用、退役将校の天下り問題、縦割り兵器開発行政に、文民のメスが入った。
また、士官学校卒業時の席次がその後の海軍内の出世にそのまま反映される旧態依然とした人材登用システムも議会の調査介入によって初めて改められることになった。
海軍自身ではおそらく永久に改革できなかったのではないかと思われることさえ、文民の手によってあっさりと修正されることになり、その良性変化を海軍も認め、以後は積極的に議会と協力することになる。
こうした変化を齎したのは、議会というよりも、日本国民自身の意識変化が大きかった。
全世界規模の国家総力戦の展開は、国民生活を直撃しており、一部の嗜好品は配給制や許可制と移行しつつあった。若者は戦地に出征し、或いは軍需工場へ動員され、繁華街からは人気が消えた。
戦死者の葬列が日常の一部となり、日露戦争の比ではない速度で死傷者が激増した。
戦地から帰還した傷痍軍人が保険医療制度の不備から病院で適切な医療を受けることができず、職場復帰もできないことから巨大な社会問題となった。
日本が海外藩も含めて国民皆保険制度を設立したのは第一次世界大戦中のことである。
また、激増する未亡人や孤児対策も急務であった。
若年男性が戦地に駆り出されたことから、不足する労働力を補うために女性の社会進出が幕府主導で推し進められた。
だが、殆どの職場では女性用のトイレや更衣室さえ欠く状況だった。職場内での性的嫌がらせも深刻となる。
女性労働力投入でも不足する分は外国人労働者(中国人・朝鮮人)が投入されたが、彼らの処遇についても社会的に何の手当もされていないことがすぐに分かった。言語も文化も違う人々を労働の現場に投入することには初期において巨大な混乱を齎した。
第一次世界大戦は日本社会全体に巨大な変化を強制し、国民一人一人が戦争とは無縁では居られないことが実感されるようになっていた。
その上で、選挙で選ばれた議員がこの未曾有の大戦争にあって何をしているのか強く意識されるようになった。
もとより、不人気なこの戦争が、知らないうちに途方もなく巨大化していくことに多くの人々が恐怖していた。
故に、巨大化の一途をたどる戦争をコントロールするため、自分たちの代表である議会が戦争の運営に大きな役割を果たすことが当然と考えられるようになった。
つまり、第一次世界大戦によって、日本は戦争の政治的な近代化を完成させたのである。




