WWⅠ 戦いの始まり
戦いの始まり
サラエボで銃声が鳴り響いたとき、それが世界を二分する大戦争になるとは誰も思っていなかった。
オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺したガヴリロ・プリンツィプとて、その引き金が全世界で1,000万人を鬼籍に送ることになると知っていれば、恐れ慄き暗殺を中止しただろう。
なにしろ、事件の結果、彼の愛したセルビア王国は滅亡してしまうのだから。
だが、オーストリア=ハンガリー帝国が、セルビアに宣戦布告し、汎スラブ主義に基づきセルビア独立を支持するロシア帝国がセルビア防衛のために総動員を開始。
それに反応したドイツも総動員を開始する。
フランスもイギリスもドイツの総動員を見て、総動員を開始した。
もちろん、日本もロシアの総動員に反応して総動員令を発動している。
なぜ、各国で動員が止まらなかったのか?
それは鉄道のような大容量移動交通手段が発展した結果だった。鉄道網が整備された国々では、鉄道を使って国民を動員することで、短期間のうちに国境線に大部隊を集結させることが可能になっていた。
その兵力は常備軍の数倍に及び、総動員下令のタイミングが遅れれば戦争の敗北に直結しかねないと考えられたため、各国は鉄道ダイヤを含む綿密な戦争計画を策定した。
結果として、各国の戦争計画は一度スイッチが入ってしまうと途中で停止させることが殆ど不可能な自動機械と化していた。
それは日本とて例外ではなかった。
ただし、ヨーロッパから最も遠いという地理的な優位があるため、各国ほど急速なものではなかったから、即時参戦には至っていない。
動員された兵力が国境で膨れ上がり、ロシアとフランスの二正面作戦という恐怖に駆られたドイツはフランスへの先制攻撃を決定する。
所謂、シュリーフェン・プランである。
ドイツは永世中立国のベルギーに無害通行権を要求し、それが受け入れられない(受け入れられるわけがない)とベルギーに宣戦布告。ベルギー領を通過しフランスへとなだれ込んだ。
無防備なベルギー領を通過することで、フランス軍の後方に回り込み、迅速にパリを目指す短期決戦戦略である。
ドイツにとっての喫緊の課題はロシアであったが、ロシアと戦うためにフランスを先に打倒しなければならないという点で、大いに捻くれた戦略であると言わざるえない。
もしも、ビスマルクが生きていれば、万難を排してフランスか、ロシアのどちらかを取り込む策を講じたに違いない。
また、ベルギーの中立侵犯は対英宣戦布告を意味するとイギリスから何度も警告を受けているにも係わらず、それを無視したドイツの軍事優先の政治も批判されるべきだろう。
イギリスはドイツ軍のベルギー領侵犯を確認すると外交交渉による解決を諦めて、ドイツに宣戦布告した。
セルビアから始まったオーストリアとロシアの対決は瞬く間に、ヨーロッパ各国を巻き込んだ大戦争に発展する。
1914年8月のことだった。
後から考えると奇妙なことだが、この戦争はクリスマスまでに終わると考えられた。
そのような楽観的な見通しが支配的だったのは、戦争経験の風化していたためである。
何しろ、ヨーロッパの大規模戦争は40年前の普仏戦争以来である。世代交代でどこの国にも実戦というものを知っている人間はいなくなっていた。
多くの若者は冒険旅行のようなロマンチックな戦争を想像し、短期決戦によりクリスマスまでに家族の元へ帰れると思っていた。各国の国家宣伝や新聞も愛国心を鼓舞するプロパガンダを喧伝し、人々の期待や好奇心を煽った。
ロシアだけは直近に日露戦争を戦った例外だったが、皇帝のニコライ2世はどこか現実認識に甘いところがある人物だった。
何しろ、革命前夜という国内の状況も正しく認識できていなかったほどである。
それが理解できていれば、強国ドイツとの戦争を選択しなかっただろう。
ベルギー領に侵入したドイツ軍は破竹の進撃を続けたが、フランス領に到達すると侵攻速度が鈍り、損害を省みないイギリス・フランス連合軍の反撃を受けると進撃が停止した。
そして、両軍ともに持久のためにその場に塹壕を掘り始めた。
過去の戦争では、こうした軍事的な膠着状態に陥ると政治的な妥協が図られたが、窓口となるべき王室同士の紐帯は全く機能しなかった。
王室というものが力を持っていた時代はとっくの昔に終わっており、各国は国民国家の時代に入っていた。
また、全ての国が参戦国だったため、講和を斡旋する適当な中立国もいなかった。
ヨーロッパ各国は戦争を早期に終結させる方法を見失ったのである。
そうなると戦局打開のため、外部勢力の取り込みが始まる。
ドイツには強力な同盟国がいた。
日本合藩国である。
環太平洋に広大な領土を持ち、イギリスに比肩する海軍力をもつ日本が参戦すれば、イギリスは海軍を極東へ回航せざるえなくなる。その時、ドイツ海軍が大挙して出撃すれば、大西洋の制海権が確保できると考えられた。
イギリスもその危険は承知しており、あらゆる外交手段を尽くして日本を中立に置くための努力を重ねた。
だが、阿片戦争からこの方、日本の外交は基本的に反英であった。
イギリスの侵略から自国の勢力圏を守るために、日本はあらゆる手段を尽くしてきた。
つい先日も、辛亥革命で大規模諜報戦を戦ったばかりで、膨大な数の忍者が上海や北京の裏路地や溝に躯となって転がったばかりである。
また、ロシア、フランス、イギリスによる三国干渉の屈辱を日本人は忘れていなかった。
主犯のロシアには復讐したが共犯のイギリスにも代償を払わせるべきだという意見は保守派や民族主義者には根づよく残っていた。
日露戦争が終わったあと、陸軍は大規模な軍縮を行って常設56個師団まで減らしていたが、海軍は財政難であっても維持されていたのはイギリスに対する備えだった。
ナポレオン戦争以後、日本海軍は常に対イギリス戦を考えて整備されてきた。
直近の日露戦争中、日本海軍が対ロシア戦で不安を覚えたことは一度もなく、イギリスの奇襲参戦とイギリス艦隊極東回航だけを心配していた。
最悪、バルチック艦隊とイギリス艦隊が同時に攻めてくることさえ日本海軍は想定した作戦計画を持っていたぐらいである。
イギリス海軍が弩級戦艦を造れば、対抗して日本海軍も弩級戦艦を造った。イギリス海軍が超弩級戦艦を造って日本を質的に圧倒すれば、日本も超弩級戦艦を作ってこれに対抗した。
さらにこの建艦競争にドイツが参戦し、日英独の建艦競争はエスカレートして大量の弩級戦艦が建造されている。
この時期、日本海軍が用意した主力戦艦は前弩級戦艦20隻、弩級戦艦8隻、弩級巡洋戦艦8隻という膨大なものだった。
日本海軍は独自の研究から、主力艦隊は防御重視の主力戦艦と高速発揮が可能な巡洋戦艦の組み合わせで運用した場合、もっとも効果的であるという結論に達しており、これを八八艦隊
計画として策定、推進してきた。
前弩級戦艦には、日露戦争時代の旧式艦も含まれており戦力としては今ひとつであったが、それを置き換えるために、36サンチ砲を搭載した超弩級戦艦8隻、超弩級巡洋戦艦8隻の建造が進んでおり、順次前弩級戦艦を置き換えていく予定だった。
さらに今ある弩級戦艦を置き換える目的で、40サンチ砲搭載の超々弩級戦艦の建造計画さえあり、イギリス海軍相手に真っ向勝負を挑んで勝てる海軍戦備であった。
もちろん、これを補佐する巡洋艦、駆逐艦、水雷艇、各種補助艦艇も膨大な量が建造されている。マレー半島やインド洋への侵攻作戦に備えて上陸戦用艦艇と補給艦、工作艦も建造されていた。不十分な設備しか保たない泊地に艦隊を停泊させるために、外洋航行可能な武装タグボートさえ建造されている。
陸軍も第一次動員で300万人を動員し、さらに追加動員を繰り返し最終的に1,000万の動員を目指していた。人口の10%まで動員可能と判断されていたので、さらに500万人追加できるのだが国内生産を維持するために見送られた。
戦え、と言われればいつでもやれるだけの用意が日本軍にはあった。
あとは政威大将軍の下知を待つだけだったが、なかなかその下知は下りなかった。
日露戦争での膨大な死傷者をだした日本は、世論が戦争を忌避しており、自国の利益に直結しない場所での戦争に同意しなかったのである。
しかし、青島に駐留するドイツ東洋艦隊が活発に通商破壊戦を展開しており、いつまでも戦争と無関係でいることは難しかった。
南シナ海では次々とイギリス商船が撃沈、拿捕されるにおよんで保険会社は船舶保険の保険料を大幅に引き上げていた。保険料の値上げは船賃の値上げに直結しており、船賃の値上げは日本本国の物価高騰に直結している。
また、ドイツ東洋艦隊の各艦はスマトラ島や北ボルネオの日本領に立ち寄り給炭、給水しており、中立違反としてイギリス外務省から連日の猛抗議を受けることになった。
宣戦布告文書かと思われるほどの苛烈な抗議文を送付されるに至って幕閣はいよいよ世論との調整を急ぐことになる。
また、イギリス海軍の大規模な極東回航の情報も掴んでおり、スマトラ島や北ボルネオへの先制攻撃さえ予想された。
シンガポールと目の鼻の先にあるスマトラ島のパレンバンや北ホルネオの油田地帯が、イギリス戦艦の艦砲射撃を受けるなど悪夢以外何者でもなかった。
もしも戦うとしたら、それは日本からの先制攻撃でなければ外地の安全は確保しがたいというのが軍部の意見の大勢である。
また、政界と経済界は概ね開戦に同意していた。
特に経済界は、軍需産業の株式が連日のストップ高となり、日露戦争後の不況など無かったかのように活況を呈していた。戦争特需に当て込んだ設備投資は凄まじい規模で行われており、市中にあふれていた失業者は一掃され、完全雇用を達成することになる。
ただし、市中の景気回復への実感はまだなく、世論が戦争に反対し続ける状況には変わりがなかった。
だが、戦争に反対し続けた日本の世論も、束麻砲撃事件で一変することになる。
1914年11月3日、イギリス海軍の捜索艦隊の追撃を受けたドイツ東洋艦隊の装甲巡洋艦シャルンホルストがフィリピン南部の束麻港に逃げ込んだ。
イギリス海軍は中立国の義務としてシャルンホルストを抑留するか、港外に退去させるように日本側に通知した。
しかし、日本側に交渉担当者が不在だったことから回答に猶予を求めることになった。これはイギリス艦隊も認めて、猶予期間として24時間が設定された。
その間にはシャルンホルストに給炭、給水が完了する見込みで、日没となれば闇夜に紛れて脱出することも可能だった。
つまり、日本は既にこの時点で明確にドイツの軍事行動に手を貸していたことになる。これは明確な中立違反であり、戦争参加だった。
だが、同時にイギリス艦隊との直接対決は慎重に回避する行動をとっている。
世論は戦争に反対しており、議会では平和主義を掲げる野党勢力が支持を集めて、政治的には微妙な状況だったからである。
イギリスもまた、日本の参戦回避に望みを捨てておらず、慎重な対応に終始している。
日本が参戦したら、アジア太平洋の植民地や北米のカナダ自治領が保たないことが分かっていたからである。
だが、束麻港に停泊する日本海軍艦艇の一隻に畝傍という装甲巡洋艦がいたため事態は急転することになる。
畝傍は技術取得を目的にドイツに発注された船で、シャルンホルストに非常によく似ていたのである。
港口を封鎖するイギリス艦隊(装甲巡洋艦2隻、防護巡洋艦1隻)を牽制すべく畝傍が出港しようとしたところ、シャルンホルストと誤認したイギリス艦隊が発砲。畝傍は集中砲火を受けて撃沈されてしまった。
爆発炎上する畝傍を見た束麻港の沿岸砲台もイギリス艦隊に発砲し、沿岸砲台とイギリス艦隊の砲撃戦へと発展してしまう。
形成不利となったイギリス艦隊は即座に撤退。戦没艦はなかったものの装甲巡洋艦1隻が中破している。
幕府の国務奉行は即座にイギリス政府に抗議し、謝罪と賠償金を要求したがイギリス政府は日本の中立義務違反が原因であると反論して日本の要求を拒否した。
日本国内の新聞各社は卑怯なイギリス海賊を断固として膺懲すべしと書きたて、開戦の機運を煽った。もちろん、新聞各社の背後には幕府の意向が強く働いていたのは言うまでもないことである。
なお、海賊行為を行っていたのはドイツ海軍であって、イギリスはそれを取り締まる側だったのだが、そうした経緯は全く無視された。
世論の過熱を見た政威大将軍徳川家達は、議会に対イギリス宣戦布告の承認を要求。
賛成多数で対英宣戦布告決議案は採決された。
1914年11月15日のことだった。
日本が参戦したことで第一次世界大戦は文字通り世界規模の戦いとなった。
11月の日本参戦以前をヨーロッパ大戦と呼ぶことがあり、日本参戦以後こそが本当の世界大戦であると指摘する歴史家は多い。
実際、日本が参戦したことで戦場は世界規模の広がりを見せた。
北米大陸ではカナダ自治領と北米諸藩の間で北米戦線が開かれることになる。
とはいえ、いきなり大規模な衝突が起きたわけではない。北米戦線は双方ともににらみ合いと陣地構築に終始していた。
そもそも日本が参戦した11月はカナダの厳冬期である。
高緯度地域のカナダでは冬営が必須であり、大規模な攻勢を発起できる状況ではない。
また、日本軍はカナダ領への大規模侵攻でアメリカ合衆国を刺激することを恐れていた。
アメリカ合衆国が即座に宣戦布告してくることはなかったが、アメリカも徴兵制を敷いて大軍を編成しつつあり、いつ参戦してくるか分かったものではなかった。
イギリスがアメリカ合衆国の参戦を督促していることは日本も掴んでおり、アメリカが参戦してくることは、日本からすれば規定路線であった。
故に、北米戦線は攻勢戦略ではなく、陣地構築の守備固めに終止することになる。
ただし、ドイツ帝国を側面支援するため、カナダ軍の兵士がヨーロッパに派遣されないように拘束しておく必要があり、大量の挺身騎兵隊がカナダ領内で破壊工作を行った。
挺身騎兵隊とは、日本独自の騎兵運用術である。
日露戦争では国境から600km離れたシベリア奥地の鉄道鉄橋爆破に成功している一種のゲリラ戦部隊だった。
もちろん、騎兵があればそれで良いわけではなく、爆薬の運用方法や食料の現地調達のためのサバイバル知識、道なき道を歩くためのグラウンドナビゲーション技能など、高度な専門知識が必要である。
また、現地での情報収集のために英語、仏語などの外国語習得が必須であった。
こうした技能を修められる騎兵は少数のエリートのみであり、そうであるゆえに射撃技能も恐ろしく優れた者が集まっていた。
挺身騎兵は遠距離からの狙撃と馬の機動力による一撃離脱で、カナダ軍のみならずカナダ自治領という国家そのものを恐怖のドン底に叩き落とした。
国境から遥か後方で絶対安全だと思われた街中や街道でいきなり仕掛け爆弾が爆発し、鉄道や送電線が吹き飛び、姿なき狙撃手に狙われるなど恐怖以外の何者でもなかった。
軍のみならず民間人にも恐怖が伝染し、地元のハンターが挺身騎兵と間違えられ警察官に射殺されるなど、パニックが広がった。
なお、こうした挺身騎兵の多くはイギリス人入植者に土地を追われたインディアンの末裔だった。北米大陸でのサバイバル知識はインディアンの生活の知恵が下敷きになっている。
自分たちの祖父や曽祖父が白人の面白半分で撃ち殺されたことをインディアン達は覚えており、復讐に燃える彼らの手で多くのカナダ軍の兵士が命を落とすことになる。
広大な森林地帯が続くカナダでは、大規模な騎兵戦は地形障害から困難であったが、少数の騎兵による隠密侵入には好都合だった。国境から遥か彼方のオンタリオ州や、五大湖周辺まで挺身騎兵が進出し、破壊工作を行っている。
このためのカナダ軍は国境戦線のみならず、後方にも大軍を投入して警備に充てることになり、ヨーロッパ派兵は不可能となってしまう。
本国の人的資源に劣るイギリスにとって、カナダ兵が使えないことは痛恨であった。
ただし、イギリスもやられっぱなしではなく、日本参戦と同時に太平洋で大規模な通商破壊戦を行って、日本の太平洋航路に大打撃を与えている。
対日通商破壊戦の主役は、巡洋艦であった。
足が長く速力の速い装甲巡洋艦や防護巡洋艦で、昨日まで商船狩りをする海賊のドイツ東洋艦隊を追い回していた巡洋艦群は一転して、日本の商船を追い回すようになった。
警察官が泥棒に化けたと日本の新聞は書き立てたが、状況は深刻であった。
イギリスの装甲巡洋艦コーンウォールは燃料と弾薬の限界から太平洋から撤退するまでの間に30隻の日本商船を撃沈して生還し、特別の功績からヴィクトリア十字章を拝受している。 やられっぱなしの海軍奉行所には、商船が沈められるたびに衆民から投石される有様となり日本海軍にとって苦い経験となった。
ただし、日本海軍も無為無策ではなく、多数の装甲巡洋艦や防護巡洋艦を捜索攻撃に宛てて、会敵に成功さえすればこれを追い詰めて撃沈することもできた。
また、経済界の反対を押し切り輸送効率を低下させてでも護送船団方式を採用し、前弩級戦艦を護衛をつけて船団を守った。
前弩級とはいえ、戦艦が護衛につくと巡洋艦程度では手出しができないからだ。
また、通商破壊部隊の根拠地への攻撃を繰り上げて実施することになる。
根拠地がない艦隊は根無し草であり、給炭、給水出来る場所がなければ、何れは燃料不足で機関停止に至るのだ。
根拠地の貧弱さは、太平洋におけるイギリス海軍の泣き所だった。
最大の根拠地であるシンガポールにさえ、戦艦が入れるドックがないのである。小規模な修理ならともかく、大破した船を修理することができなかった。
また、艦艇には時間経過で船底にフジツボなどが付着して航行性能が低下するのだが、そうした付着物を取り除く設備も、シンガポールには小型艦用のものしかない。
逆にいえば、その程度で十分と考えられていたといえる。
圧倒的な日本海軍を相手に、アジア太平洋を守りきれるとは考えていなかった節がある。
イギリス海軍の根拠地となっていたのは、ニュージーランド、威海衛、香港、シンガポールで、他にフランスのニューカレドニアや、広州湾租借地、仏印のハイフォンなどがある。
開戦直後から、香港、威海衛、広州湾は日本海軍によって海上封鎖され使用不能となり、中立を宣言した中華民国と協議した上で日本陸軍が上陸作戦を行った。
威海衛や香港、広州には要塞があり攻略には手間取ったが、概ね1ヶ月程度で陥落させている。その中で最速だったのは香港であり僅か2週間で陥落し、軍関係者を喜ばせた。
香港の早期陥落の理由は水不足だった。
香港は慢性的な水不足で本土からの水供給に依存しており、水源を抑えられると抵抗不能だったためである。
この教訓は次の戦いに生かされることになり、シンガポール攻略で活用された。
威海衛は降伏勧告に応じないため大規模な砲撃戦で徹底的に破壊された。
この戦いで、日本軍は初めて飛行機を実戦投入している。
日本軍は、既に日露戦争のときから飛行船のような航空戦力を投入し、航空偵察によって戦闘を優位に進めることを学んでいた。そこで戦後も航空戦力の運用研究を進め、飛行船よりも簡便な飛行機に着目することになる。
初期の飛行機は飛行船のような長時間の滞空は不可能だったが、巨大な飛行船に比べて運用設備が小型で済むため、費用の面で有利だったのである。
飛行機の航空偵察で威海衛は砲台の配置が片っ端から暴露され、日本陸軍自慢の20サンチ榴弾砲や15サンチ加農砲の正確な射撃で一つ一つ砲台が潰されていった。
戦闘の大半は砲兵戦に終始しており、歩兵の攻撃は残敵掃討に過ぎなかった。
日本陸軍は飛行機の効能を確認し、大きな満足を覚えた。威海衛攻略後に大規模な偵察飛行隊の編成を決定している。
これは各国陸軍も同じ状況であり、開戦初期から飛行機による航空偵察が戦場の常態となっていった。
そして、それを妨害する偵察機攻撃用航空機。つまり、戦闘機が登場するまでさほど時間はかからなかった。
また、飛行機のような目立つ新兵器と違ってあまり注目されないが、軽機関銃/短機関銃が大規模に投入されたのもこの戦いが世界初となる。
日露戦争におけるチチハル前面の塹壕戦は日本軍にとって地獄の様相を呈したため、塹壕戦対策は戦後の予算不足の中でも最重要課題として研究対策が進んでいた。
歩兵操典は大幅に改定され、歩兵の密集突撃は厳禁となり、戦闘は小隊や分隊単位で薄く散開した少数の梯団による波状攻撃に切り替わることになる。
そうした小隊や分隊単位の歩兵火力で機関銃陣地を攻略するには、小型軽量で可搬性が高い機関銃が必須だと考えられた。
歩兵が一人で運搬し、突撃に随伴できて、素早く次の射点に取り付いて弾幕を展開し、歩兵の前進を援護できる新兵器が軽機関銃であった。
とはいえ、初期の軽機関銃は故障が多く、在来の機関銃を無理矢理に軽量化したもので、日本軍も決して満足できるものが用意できたわけではなかった。
実際、この時に投入されたスミトモM1912機関銃は故障が頻発し、「言うこと機関銃」という不名誉な仇名を頂戴している。
小型軽量化のために銃身や機関部まで肉薄化したのだが、弾薬が旧来のままだったため火薬燃焼時の圧力に耐えられなかった連射し続けると銃身が歪み、最悪暴発する可能性があった。
さらに軽機関銃をより小型、軽量化し、射程距離を犠牲にする代わりに塹壕内の近距離掃討に特化した極小の機関銃として短機関銃も開発された。
日本陸軍が制式採用したS&W(炭州&上村)M1911短機関銃は、7mm拳銃弾を使用する世界初の短機関銃だった。
S&W M1911短機関銃は小口径拳銃弾を使うことで、フルオート射撃時のコントロールが容易で大好評であった。故障も少なく、非常に軽量だった。下士官に広く配備され、戦争終結の日まで戦い抜くことになる。
だが、7mm拳銃弾は護身用拳銃の弾丸であり、非力で殺傷力に欠くという欠点があった。極小の機関銃を開発したまでは良かったが、小さすぎるのも問題であった。
なお、短機関銃の大量配備により、軍刀が制式装備から外されることになっている。
もはや近接格闘戦の時代は終ったと認識によるものだが、その後も士族将校は自弁で日本刀を戦場に持ち込んでいたことが当時の写真から見て取れる。
極めて熟練した士族将校ならば、至近距離なら軍刀の方が殺傷力が高いと判断されていたが、極めて熟練した士族将校など殆どいないため、体格に劣る日本人の軍隊にとって短機関銃の制式化は急務だった。
中国沿岸にあるイギリス、フランスの拠点は短期間に一掃され、1915年1月には仏印の3個所に海軍に護衛された上陸部隊が殺到し、3個師団を投じて仏印を制圧した。
植民地警備用の兵力しかおいていなかったフランス軍は形ばかりの抵抗を行って、降伏するしかなかった。
仏印のフランス軍が降伏するとアジアの戦いはマレー半島を残してほぼ片付ついた。
なお、蘭印領及びタイ王国の中立は尊重された。
蘭印領は資源供給地として有用だった。また、タイ王国が中立であれば東インド(ビルマ)からのイギリス陸軍の地上侵攻を回避することができた。
逆もまた然りだが、日本陸軍はシベリアと北米での戦いが忙しく、インドへの地上侵攻など全く考えられなかった。
イギリスもまたインド防衛のため、タイ王国の中立を尊重したため、タイ王国の中立を定める日英泰中立条約が結ばれた。
第一次世界大戦を通じて東南アジアで活動した日本陸軍は最大でも1個軍規模であり、軍集団規模で戦った北米やシベリアとは一線を画している。
日本陸海軍は、シベリアと北米大陸は陸軍の管轄とし、太平洋、東南アジアとインド洋は海軍が管轄する方針を定めていた。
その為、上陸作戦やその後の地上作戦の先鋒は海兵隊が務めている。
南太平洋に位置するニュージランドやニューカレドニアも巡洋艦主体の南天艦隊による攻略作戦が発動され、それぞれが現地のイギリス、フランス軍を圧倒できるだけの数的優位を確保して攻め寄せ、これを陥落させている。
これらの泊地には在泊艦艇の姿はなく、守備隊も極僅かで、日本軍の攻勢を察知すると早々と放棄された。
どう考えても防衛は不可能だったからである。
ただし、日本軍に利用されないように各種施設は徹底的に破壊されていた。
さすがにイギリスはその辺りには抜け目がなかった。
シンガポールもまた日本海軍の弩級戦艦群が布陣して海上封鎖を受け、根拠地として機能は失われている。なお、日本海軍は飛行船の偵察で既に在泊艦艇がいないことも掴んでいた。海上封鎖しているのは、通商破壊艦が補給のために戻れないようにするためである。
イギリス海軍は日本勢力圏から近すぎるこれらの根拠地の防衛を早々に諦め、日本本国から遠くはなれたインド洋で、雌雄を決する戦略だった。
マレー半島への上陸は、1915年2月のことであり、その後2ヶ月程度の事後処理的な戦闘でシンガポールは陥落する。
日英海軍の一大消耗戦となるインド洋の戦いが始まろうとしていた。




