20世紀初頭の日本
20世紀初頭の日本
開幕300年を越えて尚続く江戸幕府の支配地は20世紀初頭、地球の全陸地面積の20%に達して、その全盛期を迎えることになる。
その支配地は以下のとおりである。
1 本国
弓状の火山帯からなる日本列島は、本州、四国、九州の3つに別れ、これが古代大和朝廷時代の律令制の時代から日本の支配地と認識されてきた。
しかし、18世紀半ばに始まる亨保の改革(移民政策)の結果、津軽海峡の向うにある蝦夷が開拓され、更に樺太までが日本の本国として拡張されることになる。
20世紀初頭においてもこの枠組に変更はなく、日本人が本国と呼ぶ場所は、概ね本州、四国、九州、蝦夷と付属の群島等までである。
ただし、蝦夷の大部分は亨保以後に拓かれた海外藩扱いであり、行政機構的には別立てとなっている。そのため、蝦夷を本国と認定するか否かについては意見が別れる。
樺太や千島列島、対馬、琉球といった地域は概ね本国に準じる認識である。
概ね国内は天領と呼ばれる幕府直轄となっているが、尾張藩や薩摩藩のような国内藩も残っており、かなり特殊な例である琉球藩のような薩摩藩の支藩もある。長い歴史を誇る統治組織だけあって、内部機構はかなり複雑である。
人口は20世紀初頭で6000万人に達しており、未だに人口増加が続いているが伝統的な移民政策により本国人口は抑制されている。
これは亨保年間以前の人口増加により自然破壊が進行し、鳥取藩のように砂漠に飲み込まれた地域が出現するなど、居住環境が大幅に悪化したことへの反省がある。
その後の植林活動で森林面積は回復したが大半が人工林に置き換わっており、自然林は離島などの極一部しか残っていない。大部分は人工林であり、人間の手で維持管理されなければならない点において嘗てのような自然豊かな森とは似て非なるものになっている。
国土の大半が温帯域で住みやすい環境ではあるが、台風や火山、地震といった天災が多く上記の自然破壊と併せて、増えた人口は移民でコントロールするのが国是となっている。
日本合藩国の首都である江戸、日本最大の商都である大阪を擁し、近代産業が集積された本国は日本の支配地の中でも最も豊かな先進地域である。
今のところ、人口では日本国内最大を維持しているが、今世紀中には北米諸藩に追い抜かれる見込みで、相対的な地位低下が悩ましい。
また、国内に殆ど鉱物資源及び石油資源を算出しないという致命的な欠点があり、海外から輸入した資源を加工して輸出し続けなければ経済が成り立たない。
故に、常に工業製品の競争力を維持しつづけるための努力が続けられ、それが結果として経済と技術の発展に寄与することになる。
ただし、産業分野でも北米諸藩の追い上げを受けており、いつまで優位が維持できるかは不明だった。
その優位が維持できなくなったときこそ、北米独立の時だと考えられており、国家統一の維持のために尚一層の努力が続けられていくことになる。
2 呂宋、台湾
江戸時代初期に拓かれた海外藩といえば、呂宋藩と台湾藩である。
呂宋藩は江戸幕府開幕後に摂津を追われた豊臣家によってつくられた。
立藩した豊臣秀頼は藩祖としてマニラにある呂宋神社に神として祀られ、現在も厚く信仰されている。
なお、呂宋神社は呂宋繁栄の象徴として、度々建て替えが行われた巨大寺院建築で、改築の都度に建築様式が変わる寺院建築史上、極めて貴重なサンプルでもある。また、豊臣以前に呂宋を支配していたスペインのカトリック教会建築やフィリピン南部の回教の建築要素を取り込んでおり、千言万語を費やしても足りない変化に富んだ威容を誇る。
21世紀現在、呂宋神社はユネスコの世界遺産に指定されている。
呂宋藩の支配領域は、呂宋島のみならずフィリピン群島の全域に及んでおり、閨閥関係から取り込んだ束麻藩のような支藩を有する。
束麻藩も江戸初期に立藩した海外藩の一つで、フィリピン南部征伐で名を挙げた由比正雪が藩主が藩祖である。
由井正雪は軍学者のみなず、文学者としても著名で、束麻市には呂宋支配初期の貴重な歴史資料の宝庫である国宝指定の由井文庫がある。
なお、豊臣家の統治は、初期においては南部諸部族との武力衝突が相次ぎ、根切りなどの血生臭い殲滅戦が繰り返された。その頂点が束麻藩の立藩前後となる。
以後は、一定の妥協が図られ、君臨すれども統治せずとして、部族の自治を容認する方向で纏まっている。
言語は概ね日本語で統一されているが、現地語もジャングルの奥地には残っている。
初期に浪人という武士の失業者を大量に受け入れた歴史があり、武士の多くが独身者や単身者であったことから、混血が進んでおり純粋な日本人は珍しい。
なお、呂宋で話されている日本語は呂宋弁という現地語が入り混じったもので、恐ろしく聞き取りづらいことで有名である。
産業は長く呂宋米やマニラ麻、果物といった農産物の輸出だったが、各種鉱山開発の結果、鉱工業も発展している。
領域内の交通がもっぱら船に頼っていることから古くから造船業が発達し、20,000t級戦艦すら建造可能なマニラ湾の造船地帯は本国に匹敵する規模である。
南洋最大の商業ネットワークを持つ豊臣財閥の本拠地があるマニラは呂宋藩の首府であり、日本有数の先進地域として繁栄している。
台湾藩もまた、江戸初期に立藩した海外藩である。豊臣家恩顧の大名である加藤家が藩祖であるため、呂宋藩との関係が深い。なお、極初期に小琉球藩とも呼ばれていたことがある。
大陸との距離の近さや明朝滅亡後に大量の難民や亡命者、或いは明朝遺臣の鄭氏を受け入れたことから中華文化圏となっている。
ただし、中華文化圏といっても清朝式ではなく、明朝式である。
明朝滅亡後に大陸を支配した清朝は異民族の政権であるため、明朝遺風を継ぐ台湾こそ最後の漢民族王朝の正統後継者といえた。
そのため、台湾には明朝文化を崇拝し、大陸を贋物として見下す悪癖がある。
清朝との正式な国交なかった時代には、密貿易と砂糖輸出、台湾米で栄えた。現在でも、大陸との最大の貿易拠点である。
なお、台湾藩、呂宋藩を合わせた総人口は3000万に達している。
その大人口と歴史的な経緯(豊臣家)から日本政界での発言力は大きいが、徳川の世にあっては表立った動きは少ない。
3 北米大陸諸藩
亨保年間の移民政策で拓かれた地域で、面積は北米大陸の3分の1に達しており、カナダ自治領、アメリカ合衆国と合わせて北米三国と呼ばれることも多い。
ただし、高緯度の領土が多く、北限はツンドラや永久凍土になっている。南部の有砂のような礫砂漠もあり、あまり暮らしやすい環境とは言えない土地が多い。
スペインからのカルフォルニア(加州)買収を皮切りに、100年かけて東へ進んで富士山脈(英ロッキー山脈)の東峰まで開拓が進んだ。
毛利家が切り開いた加州を筆頭に、有砂藩、根婆汰藩、湯田藩、間保藩、織金藩がある。
また、北部を切り開いた蜂須賀家を筆頭とする新徳島藩、新土佐藩、新伊予藩、阿羅斯加藩がある。
北部は四国の大名が開拓に動員されたためか、出身地の地名をつけることが多い。これは寒冷な北部が人口希薄地帯で、スペイン人などの先入者がいなかったためである。インディアンの言葉をそのまま当て字にするのは難しいという事情もあった。ただし、四国の東端である徳島が、北米大陸の場合は西端に来ており、本国の地名と連続性はない。
南部の開拓地には先着のスペイン人がつけた地名あったので、それを当て字して使うのが一般的で、南部には多くのスペイン文化遺産が残っている。
新墨藩、赤土藩、大平藩、高峰藩でそれぞれアメリカ合衆国と国境を接している。カナダとは新土佐藩が国境を接しており、北部には大陸横断鉄道が走っている。
北米の最大勢力は、加州藩で、次いで新徳島藩である。
加州では19世紀末に大規模な油田発見があり継続的な発展が続いている。
人口は本国に比肩する5000万人を擁し、さらに増加中である。
そのため、今世紀中に北米大陸出身者から政威大将軍が選出される見込みである。
経済の中心点は、聖天市や、桜女市、幕場市で、20世紀初頭から日本以外に、中国人移民が増えている。
北米大陸では長く日本本国以外の移民を閉ざしてきたのだが、広大な国土を開発するには労働力が不足するようになり、日露戦争前後から他の地域からも移民を募るようになっている。
ただし、アメリカ合衆国やイギリスからの移民は一切認めていない。
テキサスの二の舞いは御免だからだ。
こうした選択移民制度の恩恵を受けているのが、フランス、ドイツやオーストリア・ハンガリー二重帝国、イタリア、東欧諸国といった旧大陸の人々であり、ドイツ系移民が北米諸藩の中で徐々に存在感を増していくことになる。ただし、公用語の日本語習得がかなり困難であるため、ドイツ系移民の半分以上はアメリカ合衆国に流れている。もちろん、人種差別という要素も無視できないだろう。
なお、現地の日本語は呂宋程厳しくはないが、本国のそれとは異なった発展を遂げている。
例えば、本国日本語ならば、
「わがはいは猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当けんとうがつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。」
北米諸藩ではこのようになる。
「吾輩は猫である。猫ネームはまだ無い。どこで猫になったかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でアイエエエと叫んでいた事だけは記憶している。」
人種差別といえば、北米諸藩でも全くないわけではなく、黒人や赤人を見下す日本人は一定数存在した。
しかし、アメリカ合衆国のように法的な格差はなかった。
ましてや奴隷として所有物扱いする文化は全くない。インディアンや逃亡奴隷から出世した人々はその苦労譚から大いに尊敬さえされた。
実力さえあれば、少なくとも勉強して資格をとる根気と記憶力さえあれば、社会のどんな階層の人々であっても、社会のどんな仕事にもつけるという自由が日本にはあった。
そうした日本の魅力に惹かれた人々が北米諸藩に流れたが、特に黒人層が流出したことはアメリカにとってやがて大きなマイナスになる。
低賃金労働者である黒人層が北米諸藩に流れたので、工業製品の価格競争で徐々に日本に対して不利になっていくのである。
4 南天大陸・太平洋諸島
南太平洋に浮かぶ南天大陸は亨保年間から移民が始まったが、同時期にイギリス人もこの地をオーストラリアと呼んで、流刑地に使っていた。
暫くは両民雑居状態だったが、ナポレオン戦争においてイギリス人居留地は幕府軍の攻撃に晒され降伏するか、焼き払われているため、日本人の支配が確立していた。
イギリス人は流刑地を変更し、南天の隣にあるニュージーランドを使い始めたので、英領としてニュージランドが残った。
オーストラリア/南天の帰属問題は、日英間の正式な外交協議により概ね19世紀末には確定している。
イギリスもオーストラリアに興味がないわけではなかったが、同時期には中国の植民地化が侵攻しており、そちらに力点を置いたイギリスが譲歩した形である。
また、現地の白人人口が全体10%程度で、人口比からイギリスの支配を正当化するのは困難な状況だったということもある
南天大陸を開拓したのは、信州真田家の末裔である。
真田家といえば、呂宋藩に代々仕える豊臣恩顧の真田信繁の呂宋真田家を思い浮かべるが、信州には徳川方についた真田信之が系譜を重ねていた。
信州真田家も亨保年間に移民事業で南天にわたり、新上田周辺で砂金を発見して南天最大の大名家に発展した。
ただし、加州の毛利家ほどの発展がないのは、人口の少なさによるものだろう。
列強で南太平洋に持っている拠点は他にフランスのニューカレドニア程度で、他の太平洋の島嶼は全て日本の領有権が確立している。
亨保年間以後に砂糖生産のために拓かれた島が多いが、19世紀後半に列強の太平洋進出を警戒して予防的に場所取りに走った場所も多い。フランスのニューカレドニアはタッチの差でフランスが掴んだが、他は日本が先手をとったのである。
南天大陸以外に南太平洋の大きな陸地は、大南島があるが、酷暑の地であり、開発の優先度がとても低いので殆どが手付かずのまま放置されることになる。
後にこれを逆手にとって手付かずの大自然を利用した観光業で大いに繁栄するのだが、それはまだずっと先の話である。
南太平洋には北米やシベリアのような国家間の緊張も乏しく、20世紀半ばまで穏やかな時間が流れ続ける。
主力産業は農業と鉱業で、本国に糸(羊毛)と石(鉄鉱石)を売り、代わりに生活必需品を買うなど、植民地的なモノカルチャー経済が発展していた。
日露戦争前の経済の自由化で、本国以外にも輸出が加速するのだが、鉱山開発が過大評価され投資が集中し、バブルとなって弾けてしまう。
なお、20世紀初頭の南天大陸及び太平洋島嶼の人口は合計で1,000万人程度だと考えられているが、正確な統計がないため詳細は不明である。
この時期の南天は、無辺広大な大いなる田舎であった。
5 植民地
植民地という言葉について、ヨーロッパと日本ではやや意味が異なる。
日本において、植民地とは増えすぎた人口を移民するための場所という意味合いが強く、植民地の価値は農業ができるか、否かで判断されていた。
蝦夷、北米大陸や南天大陸といった農業可能な場所が真っ先に開発されたのはその為である。距離が近いシベリアが見向きもされなかったのは、寒すぎて農業ができない、困難だと思われたからである。
商業利益よりも農業利益を優先する江戸幕府の政治選択の結果であった。
植民地は新しい日本であり、その発展には心を砕き、多額の投資を行って本国と同様の生活が送れるようにあらゆる手段を駆使して、開発を行ってきた。
そうした農業優先、移民優先の発想から外れた商業主義的な、列強がアフリカで行っているような植民地開発を指向したのは田沼意次であり、シベリア開発は田沼時代に始まる。
もしも田沼意次が失脚せず、長期政権を築いていたらという歴史のIFは多く語られるが、西シベリアの開発や東南アジア征服が進行していたのではないかとされる事が多い。
ヨーロッパ基準から見た植民地らしい植民地といえば、シベリア、満州、朝鮮、北ボルネオ、スマトラ島になるだろう。
シベリアの支配地は、日露戦争の結果バイカル湖以東まで拡大した。とはいえ、農業は困難で食料自給率は低く、他所からの食料輸入がなければ生活できない地域である。
シベリアの経済は、浦塩港や尼港を用いて本国に森林資源と鉱物資源を売り、代わりに食料と生活必需品を買う典型的なモノカルチャー植民地経済であった。
これでは養える人口は僅かであり、亨保年間では見向きもされなかったのである。
だが、産業革命以後の日本では話が違った。鋼鉄と木材はいくらあっても困らない。そこでシベリアでは鉱山とパルプ産業が花開くことになる。
その他の資源探索も大枚をはたいて進められ、バイカル湖周辺に油田が発見される。
この油田開発には、日露戦争を通じて友好を深めたドイツ帝国が戦時国債購入の返礼として権利が譲渡され、膨大な中国人労働者を投入して開発が行われた。
ドイツはロシア南部のバクー油田開発を通じて油田開発の豊富なノウハウを有しており、僅か数年で商業採掘にこぎつけることになる。ヴィルヘルムⅠ世油田と命名されたバイカル湖油田は石油資源に乏しいドイツ経済の生命線であった。
また、シベリアの油田探索のついでに行われた満州での油田探索でも、ドイツの石油会社がこれまで油田が存在しないはずの地層から試掘に成功しており、こちらも戦時国債の割引を条件にドイツに開発が委託されヴィルヘルムⅡ世油田として開発される。
ちなみに、日本の油田は独自開発した加州油田や北ボルネオ油田、スマトラ島油田があって、日本は全く石油資源には困っていない。
むしろ、極寒の僻地で苦労して油田開発を進めるドイツにはかなり同情的であった。
満州の開発もシベリアに準じる形で、移民先ではなく、商業主義的な支配地として進められた。既に移民先は北米や南天があるので、新しい移民先をつくる必要がなかったということもある。
また、長い海外移民の歴史を通じて異民族との交流ノウハウを高めてきた日本にとって、満州のような文明レベルの高い地域への移民は長期的に危険だと考えらた。
北米のインディアンにさえ散々苦労してきたのである。中国人はインディアンよりもずっと文明人で、敗れて半植民地になっているとはいえ、何れは巻き返してくると思われた。
実際、日露戦争後にその徴候は確認され、中国で全国的な革命運動が勃発する。
所謂、辛亥革命である。
革命運動による大混乱の中、大陸に大量の利権をもつイギリスと日本が水面下で暗闘を繰り返した。イギリスは革命軍に、日本は清朝についたのである。
日本としては革命で政権がひっくり返り満州に得た利権を反故されては堪らない。そこで体制側についていた。
イギリスは活動資金の提供と引き換えに自分の利権を守りつつ、日本の利権を攻撃するために革命軍に手を貸している。
辛亥革命は、日英の壮大なパワーゲームの一環でもあった。
後に、この時代の中国を舞台にしたイギリスと日本の諜報戦を下敷きにしたスパイ小説、映画は数多く作られることになる。
日英の諜報戦は革命運動の激化に従ってエスカレートし、日本は袁世凱暗殺作戦を決行するが失敗に終わり、清朝の滅亡が明らかになっていた。
宣統帝退位が決定したとき、イギリスは勝利を確信していたとされる。
しかし、京都御庭番衆による宣統帝誘拐作戦で全てがひっくり返ることになる。
京都御庭番衆は、なんと白昼堂々、宣統帝を北京の紫禁城から連れ出したのである。もちろん、紫禁城は厳重に警備され、北京には世界各国の諜報機関が監視網を張り巡らせている。
そこで京都御庭番衆は誰も考えつかないような方法で警備の穴をついた。
文化事業として映画撮影のロケハンを名目に、紫禁城内部に侵入し、特殊メイク技術を駆使して宣統帝を別人に仕立て上げ、白昼堂々、歩いて紫禁城から宣統帝を連れ出したのである。
数々の検問や審査も、まさか目の前の人間が別人になりすました皇帝本人であるとは思わず、全て問題なしと処理されたという。
日本は宣統帝の身柄をおさえ、清朝の保守派を糾合し、後清朝として奉天にて満州王国建国を宣言させる。
完璧な日本の傀儡政権ではあったが、建国間もない中華民国にこれを否定して、戦争をふっかける力はどこにもなかった。
日本とイギリスの諜報戦争は、鼻の差で日本の判定勝利で終わったのである。
なお、満州王国は傀儡であるものの清朝の官僚を取り込むことで急速に植民地政府としての体裁を整えることに成功している。
中華民国が国政を担える清朝の高級行政官僚を追放してしまったため、その後急速に行政能力が低下し、国家崩壊、群雄割拠という果てしない混沌に堕ちていくのとは好対照であった。
傀儡とは言え、まともな行政サービスを提供する政府が存在することは、満州の発展に大きく寄与し、中原から流れてくる膨大な難民を使い潰してその開発が進められることになる。
朝鮮については、日露戦争後は日本の保護国として、一応、李朝存続が許されている。
日露戦争後に、完全な併合も検討されたが、移民先としては使えないし、市場としても規模が小さすぎた。
併合した後に朝鮮人に日本人と同じ待遇を与えるのは馬鹿馬鹿しいので、現状維持が好ましかったのである。
しかし、放置して反乱などが起きても困るので、一応、日本の手で最低限の近代化が進められることになった。なお、そうした近代化事業を担当したのは日本の国内企業群であり、これは一種の公共事業であった。
同種の公共事業は、北ボルネオ、スマトラ島にも適用されており、近代的なインフラが建設されても現地に落ちる金は労働者の賃金程度だった。その設備からあがる利益は全て本国に還元する仕組みである。
なお、日清戦争のころから、朝鮮人の日本本国への密航や不法入国が頻発していたのだが、日本本国への移民は他の海外藩からのそれであっても法律で禁止されており、厳しく取締が行われ、例外なく強制送還されている。
本国の人口圧の高さと居住環境の維持で苦しんでいる日本にとって、朝鮮から入っていくる不法入国者など害悪でしかないのである。
ただし、正式な留学生などは受け入れられており、日本本国で学んだ知識を持ち帰って朝鮮半島の近代化に使うことは自由であった。また、本国以外の南天や北米への移民も認められており、中国人と共に下層労働者として開拓の現場に投入された。
北ボルネオ、スマトラ島はナポレオン時代に獲得した植民地であるが、移民先として使えない場所であることは早々に判明していたので日本の統治は現地人による植民地政府と商業的支配によって成り立っている。
初期においては香辛料の生産が主力産業であったが、油田開発以後は資源地帯として価値が高い場所だった。
パレンバン油田は加州油田と並ぶ日本支配地にある二大油田で、広大な敷地に製油所と貯油タンクが建設され、世界各国に各種石油製品を輸出している。
ただし、油に硫黄分が多く、油質としては加州に劣るとされることが多い。
6 総論
日本合藩国全体の日本人は20世紀初頭の時点で、推定で1億5千万人に達し、世界第3位となっていた。1位の中国や2位のインドは人口だけは多いがどちらも列強の植民地である。
列強国としては文句なく1位の人口であり、2位のアメリカ合衆国の2倍の人口を有し、日露戦争では大兵力を動員し、ヨーロッパ最大の人口大国であるロシア帝国を相手に数で圧倒する戦いを展開した。
相応の経済力がなければ、大人口があっても無意味だが、大英帝国とほぼ同等の経済力をもつ日本が大人口を有することは、他の列強国にとって脅威であった。
その北米諸藩や南天大陸には今だに発展途上であり、日本全体の経済力はさらに伸びしろがあると考えられていた。
いずれはアメリカ合衆国、大英帝国を抑えて日本合藩国が20世紀中に世界最大の経済国として浮上することは確定的だった。
強大な国力から、大軍を編成することは造作もないことである。
実際、ロシアと戦いながらも、北米の国境線に相応の守備兵力をおいておく余裕があり、アメリカ合衆国がロシア寄りでなければ、さらなる兵力投入とて可能だっただろう。
しかし、それができれば苦労はないわけで、日本にとっての軍事的な悪夢とは、日本が他の場所で戦っているときに、アメリカ合衆国が西海岸へ攻めてくることだった。
ロシアとアメリカ合衆国のような大国と国境を接しているため、常に2正面作戦を考えなくてはならない点が日本の戦略環境の不利だった。
イギリスもそれを承知しているので、ロシアと日本とアメリカ合衆国の対立を煽る方向で常に行動している。
対抗策として日本はドイツ帝国との連携を強化していた。
嘗てはフランスがその位置にあったが、英仏の接近でそれが不可能になるとドイツに鞍替えした形である。
日本の対ヨーロッパ外交の基本は、ヨーロッパにおいてイギリスを牽制する誰かとの協調であり、イギリス、フランスと対立を深めるドイツ帝国は誠に都合のよい存在だった。
ドイツにとってもロシアを背後から脅かす日本は好都合であり、ドイツと日本は三国干渉を契機に急接近する。
三国干渉後の日本の大軍拡においてドイツの果たして役割は大きく。旅順要塞を吹き飛ばした日本陸軍の重砲群の3割はドイツのクルップ製だったほどである。
資金面においてもドイツは日本の戦時国債を大量購入し、日本は返礼として戦後の満州、シベリア開発をドイツに開放するなど、良好な関係維持に腐心している。
よって、ドイツが進めるベルリン、ビザンティウム、バグダードを鉄路で結ぶ3B政策にイギリスの3C政策が背反し、対立状態に陥ったとき日本に同盟をもちかけたのも必然だったと言えるだろう。
日独協商は1910年に成立し、ヨーロッパの政治対立がアジア太平洋に持ち込まれる下地が作られた。
とはいえ、この時点ではそれが未曾有の大戦争を呼び込むものであるとは考えられていなかった。
それどころか、逆に日独の連携強化によって勢力均衡が図られ、平和が来ると思っていたのである。三国干渉のときは、あれほどロシアへの復讐を願った日本人は、戦後、一転して平和を希求するようになっていた。
何しろ、この頃、日本は途方もない大不況だった。
日本は日露戦争後に経済不況に突入し、この頃漸く景気回復の兆しが見えたばかりで、戦争をしている余裕など全くなかったのである。
三国干渉から日露戦争まで、日本は軍拡に次ぐ軍拡を続け、積極財政で経済を加熱させてきた。もちろん、費用は全て赤字国債で賄われており、債務が積み上がっていったのだが、好景気でインフレが進行し、債務が圧縮されたので誰も気にしなかったのである。
だが、日露戦争での100億両もの戦費散財はさすがにインフレでは吸収しきれなかった。
さらに財政再建のために緊縮財政と増税、戦後不要になった軍備の縮小は政府支出を急速に縮小させ、消費にブレーキをかけて大不況を招いてしまう。
徳川慶喜がロシア征伐の終了と高齢を理由に隠居を宣言したのは表向きの理由で、景気対策に失敗したというのが大きかった。
こうした逆風の中、1908年の政威大将軍選挙に出馬した徳川家達は田安徳川家の出身で、徳川宗家継承者ではなかった。慶喜は在職中から政威大将軍は世襲しないと公言してきたので、慶喜の実子が継いだ徳川宗家から出馬できる人材がいなかったのである。
対抗馬に立ったのは、平民出身の原敬であった。
選挙結果は、概ね予想通りに徳川家達の勝利であったが、世襲批判と経済不況の大逆風で政権発足当初から多難な予想された。
また、平民出身者の原敬が選挙で、徳川一門衆と互角に戦って、あと一歩まで追い詰めたことは多くの人々に時代の変化を予感させる。
だが、そうした変化が具体化する前に、サラエボで銃声が鳴り響き、未曾有の大戦争が勃発してしまう。
第一次世界大戦である。




