日露戦争
日露戦争
1903年、江戸幕府の開幕から300年目となる節目の年であった。
神君徳川家康が将軍職に任じられた3月24日は以前から開幕記念日として国民の祝日に指定されていた。
1903年は開幕300年記念の年であり、江戸では合藩国の総力を挙げた祝賀祭が開かれる予定で、膨大な関係者が各方面でその準備に汗をかいていた。
開幕300年記念の目玉は鉄筋コンクリートで作り直された江戸城天守閣のお披露目式で、京都から天皇が日本史上初の関東行幸する予定になっていた。
新たに作り直された天守閣は高さ260mに達しており、最新のセキュリティシステムを組み込んだ蒸気力と電気力で動く鋼の城だった。
噂によると国家の危機にあっては天守閣が真っ二つに割れて、中から巨大な人形兵器が発進することになっていたが、もちろんそれは噂である。
高さ260mにもなると階段での行き来は困難で、最新設備であるエレベーターやエスカレーターが設置されていた。
天気のよい日なら、この天守閣は遠く横浜からでも見ることができた。
ギネスブックにも城郭建築としては世界最新にして、最後のものとして登録されている。
さすがに、こんなものを幾つもつくるほどサムライ・ジャパンはイカれていない。
一つ作った時点で十分にイカれているのかもしれないが。
天皇行幸に並行して世界各国から様々な来賓が江戸に集まるため、江戸は開幕記念式典に間に合うように大規模な再開発が進んでおり、都市全体のお色直しに余念がなかった。
再開発の中心は大江戸駅の大改築で、完成の暁にはロンドン駅を超える世界最大の駅舎となる予定だった。
この大改築に並行して蒸気機関車の並ぶ地上プラットホームに加えて、最新の交通機関である電動式地下鉄も建設されている。
大江戸駅の駅舎は各国来賓を迎える玄関口として手抜きは許されず、20世紀最新の建材である膨大なガラス材と鉄骨を組み合わせた豪華絢爛なものだった。
高さ58mの吹き抜けコンコースは鳳凰の社と呼ばれ見た者の度肝を抜いた。
「竜宮城とはこういうものか」
とある小説家は書き残している。
この栄光ある日を迎えた江戸幕府の公方は・・・現在は天皇による任官ではなく、民衆の選挙によって選ばれる政威大将軍、徳川慶喜だった。
開幕300年には様々な式典が開催されたが、その中でも特に慶喜を喜ばせたのは神戸沖で開催された大観艦式である。
慶喜の座乗する御召艦を出迎えたのは、戦艦16隻を中心に、装甲巡洋艦8隻を加えた日本海軍自慢の八八八艦隊という鋼鉄のリヴァイアサン達だった。
既に海軍の規模はイギリス海軍に比肩するところまで拡大した日本海軍だったが、それだけは飽き足らず横須賀と神戸でさらに大きな20,000t級の新型戦艦を建造中だった。
ロシア海軍のバルチック艦隊が攻めても返り討ちにできると豪語するだけの戦力である。
慶喜は海軍の観艦式のあと陸軍大演習を閲兵している。
日本陸軍は平時編成76個師団を達成してさらに質的な増強が続いていた。
この時の閲兵では軍団砲兵に配備されたばかりの20サンチ列車砲の射撃を見学している。
屈辱の三国干渉から、8年後にはこれだけの戦力を揃えた日本は、この約1年後にロシアと戦争に突入することになる。
とはいえ、ここまでの道のりは平坦なものではなかった。
1895年、三国干渉直後。世論は即座に戦争へと突入しかねないほど加熱していた。
慶喜は過激派を抑えるのに奔走している。
この時期、言論の自由を抑圧する新聞条例などが制定されるが、それは即時開戦を唱える右派を取り締まるために制定された法律だった。
慶喜は大衆に選ばれた政威大将軍であったが、頭に血が昇った大衆を棍棒で殴りつけるのに全く躊躇しなかった。
慶喜が最後の征夷大将軍と呼ばれる所以である。
そのまま対露戦争に突入する計画もなくはなかった。
北米大陸の国境から兵力を抽出すれば、シベリアでロシア軍に数的優位を確保できる見込みはあった。しかし、その場合はアメリカ合衆国の奇襲参戦もありえるとして、即時開戦は沙汰止みとなったのである。
イギリス、フランス、ロシアを同時に敵に回す不利は言うまでもない。
話しは変わるが、最後の征夷大将軍、徳川慶喜は初代将軍である徳川家康の再来と謳われることが多い。
三国干渉に際しても、その対応に初代将軍家康との類似性が散見される。
三国干渉に激昂した慶喜だったが、すぐに気を取り直すとそれを口実に各種政治的な利益確保へ走ったのだ。それは直江状を読んで激昂した徳川家康が上杉討伐から関ヶ原の合戦へ歩を進め、天下をとった動きを思わせるものだった。
実際、三国干渉によって最大の利益を得たのは、冷静に考えると幕府であった。
「干渉は天の配剤であった」
と慶喜自身も後に書き残している。
それまで繰り返されてきた議会での激しい予算質疑の応答や大君拒否権の発動は、三国干渉以後はさっぱり途絶えた。
増税のような庶民に人気のない幕府予算案が何の抵抗もなしに議会を通過するようになったのである。
臥薪嘗胆のスローガンに、それまで不可能だった多くの政治改革も進展した。
最大の改革は、軍費捻出のための増税、とくに固定資産税と消費税の課税だった。
前者は大土地所有者の士族にとって死ねと言うのに等しく、平時では絶対に手をつけられない改革であった。
実際、士族は猛反発し、抗議のために切腹する者まで出た。
しかし、改革は士族以外の圧倒的な賛成により断行された。
一応、固定資産税が払えない士族には、公債等の一時金により幕府が土地を買い上げる形としたが、買上げ願いが殺到して公債の交付がくじ引きになる有様であった。
しかし、これによってこれまで懸案事項であった土地改革が大幅に進み、土地利用が柔軟に行えるようになったのは大きかった。
後者の消費税は、非常に受けが悪く、あらゆる階層から忌み嫌われたが、安定した財源となるため、軍備拡張のためとして導入が決定した。これも平時では100年かかっても不可能と言われていたので、消費税法度が議会を通過すると勘定奉行は喜びのあまり失言を連発して奉公構となった。
さらに幕府の支出を見直し、軍拡に国費を集中するためとして、秩禄処分が断行された。
知行地や扶持米の代わりにこれまで士族に支給されてきた秩禄、家禄(年金)は財布支出の20%を占めていたが、これを金禄公債などの一時金の支給を最後に全廃したのである。
固定資産税の導入と秩禄処分は武士の世を完全に終わらせることになった。
旗本や御家人の大半が、これによって没落を余儀なくされたのである。
「貴人には情がない」
と、慶喜への恨み節が募ったが、武士以外からは絶対的な支持が集まったのは言うまでもないだろう。
これを以って日本の近代化が完成したと後に評価される政治改革であった。
没落した御家人や旗本の恨みは凄まじく、公然と慶喜を攻撃する士族系新聞が現れるなど、武士の反発は激しいものがあった。
しかし、士族の反乱勃発のような非常事態は起きない。
三国干渉という未曾有の危機が日本人に強い危機感をもたせ、団結させたのである。
これまで希薄だった国民という意識を日本人社会全体が共有したのはこの時だったとする歴史家は多い。
呂宋の辺鄙な小島から有砂の砂漠まで、太平洋全域の津々浦々まで広がった日本人社会が、国家存亡の危機に際して、己が日本人国家の一員であることを自覚したのである。
これまで遠く無関係な別世界の出来事のようであった国家同士の対立が自分たちのものであるという認識が日本に生まれた。
そして、選挙で選ばれた政威大将軍が自分たちを代表するともの捉えられるようになる。
そうした日本人の意識改革以外にも、経済的な側面から士族の反発を和らげる風が吹いた。
日本陸海軍は三国干渉以後、大規模な軍備拡張を開始した。
これは一種の軍事ケインズ的積極財政である。三国干渉以後の政府支出は赤字国債の増発に次ぐ増発を重ね大量の公共投資により、増税のマイナスを吹き飛ばす好景気になった。
土地と秩禄を失って失業者になった士族は、好景気の中で多くが第二の人生(士族授産)を掴むことができたのである。
士族の商法で起業に失敗してまた露頭に迷っても健康でありさえすれば、とりあえず軍の募集事務所にいけば海軍でも陸軍でもどちらもで好きな方に奉職することができた。
日本陸海軍は英仏露との戦争に備えて、どれだけ人手があっても足りない状況だったからである。
実際、経済界と軍部は人材の奪い合いとなり、軍内部でも人と物資の奪い合いとなった。
そこで専門の調整機関として軍需総裁が新たに設置されている。
日本人が行おうとしている戦争にはその種の専門組織が必要であると考えられたゆえに、採用された措置だったが後に勃発する第一次世界大戦で各国が似たような組織を発足させていることを考えると非常に先進的であった。
日本経済は政府の主導する積極財政のお陰で大きく発展することになる。
同時期に今日まで続く日本の主要財閥が出揃った。
江戸時代から続く三井、隅友、鴻池、安田の四大財閥に加え、北米の桜女市に本社を置く坂本財閥、坂本財閥から別れて独自路線を往く三菱財閥、呂宋に本拠を置く豊臣財閥、蝦夷に本社を据えたシベリア財閥、徳川の家産を預かる渋沢財閥である。
坂本財閥は、海運業で財を成した初代総帥坂本龍馬が有名だろう。
破天荒を絵に描いたような人生を送った坂本龍馬は小説の題材や映画の主人公に多く取り上げられている。番頭の岩崎弥太郎と対立し、社員の大量離反を招いて一度は失意に沈むものの、有砂砂漠を半死半生で彷徨い油田を掘り当て復活を遂げる下りは特に有名であろう。
坂本と対立した岩崎弥太郎が打立てたのが三菱財閥である。
岩崎は坂本が主人公の映画では概ね悪役と描かれるが、破天荒すぎる坂本についていける人間がそもそも異常であり、岩崎はよく我慢したという同情論も根強い。
呂宋に拠点を置く豊臣財閥は、大名家であり、同時に大商家であり、場合によっては錬金術師にもなる不思議な一族主催の海外財閥であった。
この財閥は豊臣機関と呼ばれる家政組織を中心に据えて、呂宋や北ボルネオ、スマトラ島、南天大陸に幅広い商業網を築いた。日露戦争直前に僅か12歳で機関長となった真田正幸は天才と名高く、真田幸村から数えて15代目の子孫にあたる。
これは余談だが、機関は錬金術に傾倒した豊臣秀頼が遺した預言書を守っているという都市伝説がある。その預言書には、2003年までの人類の歴史の全て記録されており、天明の大飢饉や安政の大地震などの歴史的大事件がいつ起きるのか記されているという。ただし、2003年に天と赤き竜が落ちて不治の病を齎し人間は滅びると書かれているらしい。
機関はそのようなものは存在しないと公式に否定している。
しかし、謎に満ちた豊臣秀頼が遺した日記の類が一切公開されていないところを見ると想像力をたくましくしてしまうのは止む得ないだろう。
シベリア財閥は平賀源内の直系の子孫は残っていないものの、田沼時代に北方開拓で財をなした平賀源内を始祖としている。シベリア、アラスカ、蝦夷の鉱山経営と源内が作ったからくり人形生産を基礎とする精密機械工業を得意とする北の雄である。
なお、源内がつくったからくり人形は現在では喪失してしまっているが、一説によると自立歩行し、人語を語り、鳥型の人形は巧みに空を飛んだという伝説がある。
最後の渋沢財閥は、徳川宗家400万石の運用を任された幕臣の渋沢栄一が総帥となるが、実態としては徳川家というより他なかった。
これらの国内資本の蓄積を見た幕府は、1887年に関税の大幅な切り下げを含む自由貿易協定をドイツ帝国と締結する。
これは徳川慶喜の経済クーデタであった。
慶喜は、関税障壁で守られてきた日本の国内産業は競争に乏しく非効率がまかり通り、却って近代化が遅れていると考えていた。
そこで経済界の同意を待たず、突然、関税の大幅な切り下げを行ったのである。
その結果、一時的に国内メーカーの倒産が激増した。しかし、日本製品が十分な競争力を持っている分野では大きな成長が実現され、折からの好景気の乗って産業構造の転換が進んだのである。
これも三国干渉直後のような非常事態でなければ実現不可能な改革だったと現在では考えられている。
自由貿易協定はドイツ帝国のみではなくイギリス、フランス、ベルギー、オランダなどの各国と締結され、以後、日本経済の基本となる。
これにより、日本は経済発展や軍備拡張に必要な資材を自国の勢力圏以外からも自由に入手できるようになったのである。
ロシア帝国が関税障壁の内側で非効率に苦しみながら軍拡競争を戦ったところで、最初から勝ち目はなかったと言える。
対露戦に備え鉄道建設も、他の鉄道敷設を後回しにして進められており、釜山から瀋陽市、ハルビンをつなぐ南満州鉄道を1899年には開通させている。
アロー戦争で清からぶんどった沿海州の浦塩市から奉天、尼港に伸びる路線も敷設され、シベリア鉄道単線に頼らなければならないロシア軍に対して補給戦での優位を確保していた。
なお、ロシアも清に賄賂を積み上げることで、満州での鉄道敷設権を獲得しており、遼東半島を租借すると同時に、日本に対抗して平行線の建設を開始している。
日ロが満州で始めた鉄道敷設による陣取りゲームは、お互いの鉄道警察隊の妨害工作と銃撃事件が日常となる危険なゲームだった。一年間に原因不明の脱線事故が48回もおきて、鉄道運行関係者にとって悪夢的な様相を呈するようになる。
なお、満州の持ち主である清は日露の熾烈な争いを見てほくそ笑んだとされる。
夷を以て夷を制すは、中国の伝統的な外交政策、国防政策であるからだ。
利権を巡って列強同士が疲弊するまで潰し合いをしたあと、まとめて中国から叩き出せばよいと考えていたのかもしれない。
しかし、その前に清の民衆は我慢の限界を超えて暴発してしまう。
1900年6月、義和団事件の勃発である。
清は日清戦争の敗戦後、その国力の衰えを暴露することになり、一気に欧米列強による蚕食が進んでいた。
ドイツは1897年に膠州湾を占領、翌年には租借した。
ロシアは1898年、遼東半島南端の旅順・大連の租借に成功する。三国干渉で日本が手放した遼東半島の租借は、日本を激怒させることになっている。
フランスは1899年に広州湾一帯を、イギリスは九龍半島・威海衛を租借している。
こうした欧米列強の植民地化の動きに、中国の民衆が反発したのが義和団事件の起こりだった。
しかし、当初は義和団による排外運動であったのが、西太后がこの叛乱を支持して清国が日本を含む欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となってしまう。
清は、宣戦布告から僅か2ヶ月後に北京を攻め落とされ、降伏する。
もはや暴発としか言いようがない拙劣な清の自滅だった。
義和団拳法を学べば弾丸も避けられると摩訶不思議な理屈がまかり通り、刀剣や素手で近代軍隊に挑んだ大勢の若者が、列強がもつ機関銃で蜂の巣にされた。
この時、列強が持ち込んだ武器は阿片戦争やアロー戦争で使われた前装式マスケットやライフルではなく、ボルトアクションライフルや機関銃、速射砲であった。
ちなみに、日本はこの前年の1899年に、スミトモM1899歩兵銃を正式採用したばかりで、義和団事件はそのお披露目となった。
以後、日本軍が戦った全ての戦場にその姿を現すことになるスミトモM1899も、この時はピカピカの新兵器であった。
なお、弾丸の口径は7mmという諸外国のそれよりも僅かに小さなものを使用している。
トライアルは6mmから9mmまで様々な弾薬が試作されたが、最終的に6.5mmと7mm、8mmが残り、反動が一番マイルドで撃ちやすい6.5mmが採用されかけた。
しかし、呂宋南部のモロ族の反乱やスマトラ島のアチェ州の暴動鎮圧の経験から、違法薬物を使用する蛮族を相手にする場合、小口径弾では阻止能力に不安があった。
また、呂宋などのジャングルで戦う場合は、小口径弾だとジャングルブッシュで弾道がそれてしまい有効な射撃が行えないことも分かっていた。
しかし、推進中の大軍拡では体格に劣るものまで歩兵として採用していたため、大口径弾の反動制御が困難だった。
結局、6.5mm弾も8mm弾も見送られ中間の7mm✕43スミトモ弾が採用される。
なお、7mm弾はその後改良を続けて、21世紀現在でも日本軍のアサルトライフルの弾薬として運用が続いている。
話が逸れたが、義和団事件は一つの転機となった。
幕府は治安維持を名目として満州に軍を進駐せしめ、事実上の軍政を敷いたのである。
ちなみに、この時点ではまだシベリア鉄道とロシアの東清鉄道は大興安嶺トンネルで連結されていなかった。もしも戦争になればシベリア鉄道の終点であるチタから、大興安嶺山脈を馬匹輸送で超えてロシア軍の前線基地があるチチハルまで行くことになり、補給戦でロシア軍は絶望的に不利な状況となってしまう。
逆に日本は尼港、浦塩港、釜山から三本の幹線鉄道を伸ばし、必勝の体制であった。
日本軍は日ロの自然境界線である夏川から満州にかけて56個師団を展開して、ロシアを威圧したのである。
戦争なら、望むところであった。
焦ったロシア政府は日本軍の満州撤兵を狙って三国干渉を再び企図するがロシアの呼びかけはイギリスに拒絶される。
当たり前といえば当たり前の話で、そもそもロシアとイギリスはロシアの南下政策を巡って対立状態にあった。三国干渉で手を組んだのはロシアの背中を押して日本にぶつけるためであり、用が済んだらさっさと戦争が始まって欲しかったのである。
また、イギリスはボーア戦争直後で国力を消耗しており、絶対に日本と戦争などするわけにはいかなかった。
イギリスにとって自由貿易協定を結んだ日本は重要な取引相手にもなっており、ロシアの味方をする理由など全くなかったのである。
イギリスが動かなければフランスも動かないのは当然で、フランスも日本と戦争をする気など全くなかった。日本とドイツが急接近しているのは気になっていたが、元々日本は長年の友好国だった。
ロシアの皇帝ニコライ2世は従兄弟が皇帝をやっているドイツ帝国にも声をかけたが、全く相手にされなかった。
ドイツ帝国にとって日本は大量のクルップ砲を買ってくれる上得意で、今後、イギリスと競争していく上で、欠かすことができないパートナーだった。
また、日本がロシアを東から圧迫してくれるのなら、ロシアはドイツと日本の二正面作戦を強いられるので日本様様の状況である。
ロシアは外交的に孤立し、追い詰められた。
しかし、ここで追い詰められたロシアに手を貸す国が現れる。
アメリカ合衆国である。
同時期、日本とアメリカはパナマ運河建設を巡って対立を深めていた。
パナマ運河の建設は当初、フランスのレセップスが始めたものだが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題と資金調達の両面で難航して工事中止となっていた。
太平洋への出口を求めるアメリカが中止した工事を引き継ぎ建設を進めていたが、国防上の理由から日本がコロンビアに圧力をかけて工事中止に追い込むなど、日米のパナマ地峡を巡る対立がエスカレートしていた。
工事が中止されるとアメリカはコロンビアの分離独立勢力に資金提供し、パナマ独立を画策するが、日本から支援を受けたコロンビア軍の攻勢により失敗に追い込まれる。
運河建設を巡って日米の大陸は抜き差しならぬところまで発展していった。
北米大陸、環太平洋、ユーラシア大陸の間に、日本はアメリカとロシアによる二正面作戦を強いられる恐れがでてきたのである。
ロシアとの戦争に備えなければならない日本は戦略的忍耐として、最終的にパナマ運河建設認可に舵を切ることになる。
ただし、日本は運河運営会社の株式の45%を要求している。アメリカによる恣意的な運河運用を阻止するためである。
アメリカも運河建設そのものが白紙によるよりはマシとしてこれを受け入れ、1904年になってようやく運河切削工事が開始されることになる。
パナマ運河完成により、アメリカのアジア進出が本格化することになった。
19世紀は、地球が狭くなった100年だった。
産業革命と蒸気機関の発明により人間の移動速度と範囲は飛躍的に広がり、広大な領域国家が生まれて世界地図から余白というものが消えた100年だった。
日ロの対立は、もはや二国間の局地紛争ではなく世界規模の広がりを持った国際戦争の様相を呈することになる。
これが軍事同盟で結び付けられたものであったのなら、即座に世界規模の大戦争となるところであった。
日露戦争が、第0次世界大戦と呼ばれる所以である。
世界規模軍事同盟による大戦争がこの14年後に勃発することになるのだが、1900年の日本は戦争回避へ動いている。
ただし、それは北米大陸での防備体制が整うまでの保留であり、満州からの段階的撤退を約束したものの、履行するつもりは全くなかった。
撤退も、一部兵力を満州内で移動させるだけで、本土に戻すことはしていない。
そうした欺瞞はすぐに露見することになり、ロシアは合意違反と抗議したが、日本は白を切った。
世論も戦争待望一色に染まっており、日本に躊躇する理由はどこにもなかったのである。
日本軍の度重なる挑発に業を煮やしたロシア帝国は、シベリア鉄道と東清鉄道の連結完成(1904年2月)を待って、ついに日本に国交断絶を通告。
旅順艦隊の奇襲攻撃で日露戦争はその幕を開けることになる。
旅順港を見張る日本艦隊にロシア海軍の水雷艇が夜間水雷襲撃を敢行、魚雷攻撃を受けた戦艦1隻が沈没することになった。
ロシア太平洋艦隊長官、マカロフ中将が立案したこの作戦は、旅順港を見張る日本艦隊の規則的な動きを逆手にとったものだった。
魚雷が水線下で炸裂するまで、日本艦隊は全く襲撃に気が付かなかった鮮やかな奇襲であったが、これが旅順艦隊の最初で最後の輝きとなる。
一旦、後退した日本艦隊は機雷敷設艦を呼び寄せ、旅順港口に大量の機雷を敷設して旅順港を封鎖。沖合から遠巻きに旅順を封鎖するにとどめた。
この時、日本海軍に在籍する戦艦は大小新旧併せて20隻である。
そのうちの1隻が沈没したところで、旅順艦隊に最初から勝ち目などなかったのである。
もちろん、そんなことはロシア軍も承知の上でのことだった。
開戦劈頭の奇襲攻撃の本命は、ハルビンへのロシア軍の冬季攻勢であった。
雪煙を巻き上げて現れたロシア軍コサック騎兵師団に、日本軍は度肝を抜かれることになる。
2月の北満州は、戦争には不適な季節であることは誰にでも明らかなことであり、冬季戦の研究を進めていた日本軍でさえ、雪中行軍の訓練中に大事故を起こしているほどだった。
雪解けの4月までは冬ごもりをして春から戦争をするのが北満州とシベリアの常識で、2月の開戦は日本軍にとって完全な誤算だった。
コサック騎兵の大集団がハルビンを包囲し、日本軍はいきなり苦境に陥る。
後方へ進出した騎兵により電信線をズタズタにされ、日本軍は後手にまわり続けることになった。
ハルビンは北満州における日本軍の最大の拠点であり、ハルビンを失えば、日本軍は東シベリアとの連絡を遮断され、浦塩まで一気に中央突破されてしまう。
これが日露戦争における日本軍最大の危機であった。
ロマン・コンドラチェンコ中将が立案したことから、後にコンドラチェンコ攻勢と呼ばれる一連の奇襲作戦の背景には、補給戦での劣勢があった。
シベリア鉄道単線のロシア軍に対して、本国の距離が近く大規模な港湾と主要幹線鉄道3つも用意した日本は消耗戦に突入すれば、補給の速度で圧倒的に優位であった。
そもそも軍事力の基礎となる経済力は日本が最初から勝っており、総合的な国力はイギリスに比肩する大帝国である。
長期戦になれば、不利は免れない。
ロシア帝国は奇襲と緒戦の必勝で一気に沿海州まで中央突破し、浦塩港を使用不能とし、シベリアと満州を分断して各個撃破に持ち込まなければ、ジリ貧という中での奇襲攻勢であった。
北満州の猛烈な寒気の中、残り時間と戦うロシア軍は、鉄道貨車を片道の使い捨てにすることでチチハルから迅速に歩兵をハルビンまで輸送し、その攻略に取り掛かる。
その中には、奇襲作戦を立案して日本軍を出し抜いたコンドラチェンコ中将率いるシベリア第7狙撃兵師団の姿もあった。
日本軍の増援部隊が到着するまでにハルビンが落とせなければ、ロシア軍の精鋭部隊は北満州の寒さの中で立ち枯れとなる運命であった。
この難局を受け持った日本軍の指揮官は、この戦いで歴史に名を残すことになる秋山好古少将だった。
ハルビンの運命は、秋山率いる臨時編成の秋山支隊8,000名にかかっていた。
まさかの奇襲開戦からコサック騎兵に壊乱させられた日本軍の残存部隊の雑多な寄せ集め集団だった秋山支隊の戦いは、当初から絶望の中にあった。
そもそも指揮官である秋山少将からして騎兵将校という防衛戦に最も不適な人選である。
これは他に適当な上級将校がいなかったという偶然の産物であり、江戸の陸軍奉行所では、早くもハルビン陥落後の戦いをどうするのか計画立案が始まるほどであった。
だが、大方の予想に反し、秋山支隊は頑強な抵抗を示し、ロシア軍を撃退しつづけた。
秋山少将は、ハルビンという北満州の大都市を都市要塞と見なして徹底した市街戦をロシア軍に強いたのである。
ハルビンの重厚なレンガ作りのアパルトメントや商業施設、工場、倉庫は全て日本軍の防衛拠点であった。配置された兵士は全て狙撃兵として運用され、市街地に突入してくるロシア軍を片っ端から狙撃していった。
隠れる場所が無数にある市街地では、防衛側の一方的な優位があった。
また、市内の要所に設置された機関銃は突撃するロシア軍歩兵をまとめて薙ぎ払った。
機関銃を据え付けられたアパルトメント一つ落とすためにロシア軍は重砲を前線まで運んで直接照準で榴弾を打ち込み、建物ごと吹き飛ばすという荒っぽく、犠牲の多い方法を採用するしかなかった。
また、日本軍は夜襲を好み、夜間に切り込みを仕掛けてくるのでロシア軍は不眠に悩まされる。
市街地のような交戦距離の短い戦場では、切込みは成功確率が高く、剣術を修めた士族将校の多くがこの戦いで衆民兵士から古の侍のような尊敬を得ることになった。
日本軍は米墨戦争での白兵戦の経験から、陣地内での戦いが白兵戦の連続になりやすいことに気付いており、歩兵の教練において白兵戦の訓練に多くの時間を割いていた。
体格差から当初ロシア軍は積極的に白兵戦を挑んできたが、途中から自信がなくなり、最後は日本軍との白兵戦を恐れるようになった。
ただし、日本軍の持ち込んだ日本刀は、北満州の寒さによって柔軟性が失われており、容易く折れてしまうという重大な欠陥があった。
そのため、士族の多くが持ち込んだ考古学的あるいは美術的な価値の高い古刀が失われることになり、文化財の損失は多大なものがあった。
折れて役に立たない日本刀に変わって重宝されたのがスコップだった。
凍りついた地面を掘るには役に立たないスコップだったが、白兵戦に長けた兵士が握るそれは、いつも血錆にまみれて異様な雰囲気をまとっていたという。
なお、これは余談だが寒さに弱いという日本刀の欠陥を問題視した陸軍奉行所は、寒さに強く、折れない、曲がらない、刃こぼれしない究極の日本刀製造計画を日露戦争後に立案している。
だが、計画が完成したころには、より効果的な短機関銃が開発されており、製造中止となっている。
騎兵将校で、防衛戦は不得手と思われていた秋山少将だったが、その指揮は水際だったものであり、騎兵将校らしからぬ粘り強さでハルビンを守り抜くことに成功する。
ただし、本人は防衛戦での高評価を必ずしも快く思っていなかった節もあり、はっきりと不本意に思っていたという説もある。
約1ヶ月に渡る攻防戦は、日本軍の増援部隊到着と解囲によって終了し、乾坤一擲であったコンドラチェンコ攻勢はあと一歩のところで失敗に終わった。
ハルビンの解囲が成功したとき、秋山支隊は残存兵員は1,000名足らずとなっており、日本軍にとってきわどい勝利だった。
しかし、この失敗でロシア軍は迅速な攻勢を担いうる優秀な兵士を大量に失い、計画立案者だったコンドラチェンコ中将も狙撃され死亡するなど、致命的な敗北となる。
春の雪解けを待って、日本軍は大規模な反攻を開始し、ロシア軍は各方面で敗北を喫することになった。
日本軍の反攻は旅順から始まる。
旅順は封鎖にとどめ、攻略は不要という意見もあったが、ロシアがバルチック艦隊の回航準備を行っているという情報が入ったため、万が一に備えて旅順を攻略することになった。
旅順はアジア太平洋唯一のロシア海軍の泊地であり、旅順が失われればバルチック艦隊の回航は不可能となるためである。
なお、旅順は最初から孤立することが分かりきっていたため、できるだけ長く日本軍をひきつけ、持久するためにロシア軍は要塞が築いていた。
もちろん、日本軍もそれは承知しており、この戦いには入念な準備を以って望んでいる。
要塞攻略には様々な新兵器も投入しており、その一つに飛行船があった。
この時投入された飛行船は水素を使用する危険ものだったが連続10時間の飛行が可能で、旅順要塞の精密な偵察を行うことに成功している。
頭上からの偵察で配置を丸裸にされた旅順要塞に、日本陸軍は重砲兵をふんだんに投入。さらに日本陸軍最大最強の20サンチ列車砲まで投入して大砲撃戦を展開した。
この砲撃戦は100時間の連続砲撃というこれまでの常識にない長時間砲撃となり、旅順要塞の防衛設備の完全破壊を目指したものだった。
日露戦争は世界中の観戦武官やジャーナリストが取材した戦争であった。
要塞が築かれた山々もろともに要塞を完全破壊しようとする長時間砲撃は連日の新聞報道され、世界中の人々がいつ旅順の砲撃は終わるのか注目することになった。
準備砲撃が終わったあと、要塞が築かれた山々は破壊されつくしており、ロシア人は一人も生き残っていないだろうと思われた。
しかし、楽観する日本軍の予想に反し、ロシア軍は塹壕や掩体壕に隠れ砲撃をやり過ごし、前進する日本軍に機関銃で反撃を加え、大損害を与えた。
これは日本軍の砲弾に信管の欠陥があり、砲弾の多くが不発弾だったことに原因がある。
砲弾が柔らかい地面に埋まってしまい炸裂しなかったのである。硬い地面に当たった場合は炸裂する前に砕けてしまうなど、砲弾そのものにも欠陥が多々あった。
また、コンクリートで固められたトーチカは重砲弾の直撃にもよく耐え、生き残った銃座や砲座は果敢な反撃を行った。
日本軍の被った損害は15,000人に及び、日本軍の想定の10倍にも達した。
しかし、それが限界だった。
歩兵の突撃から数時間後には、旅順要塞の主要部分が制圧される。
マカロフ中将は艦隊を港内で自沈させ、ピストル自殺を遂げた。
万が一に備え、沖合で待機していた日本海軍戦艦部隊は、一発も砲を撃つこなく撤収することになった。
これで海軍にとっての日露戦争は半ば終わったも同然となる。
海兵隊だけが、艦からおろした砲を引き連れ、地上戦を戦い続けることになり、新聞報道を賑わしたことで以後、大きく知名度を挙げることになった。
旅順が陥落しても日露戦争は終わることなく、より深い近代戦争の狂気を覗かせることになる。
多くの人々が、それをチチハル前面で見た。
チチハルは北満州にあってロシアの極東世界の入り口ともいうべき街だった。
これより北には大きな都市はなく、大興安嶺山脈の向うにあるシベリア鉄道の終点であるチタが次の大きな拠点となる。
故に、ロシアにとって最初で最後の橋頭堡となるこの町を何が何でも死守すべきと考え、コンドラチェンコ攻勢の失敗が見え始めた頃から、あるだけの資材を投じて防備を強化し、増援の兵士を送り込んだ。
日本も全く同じ理由で、この町を何が何でも陥落させるべきと考え、大軍を集結させた。
雪解けの大地が乾くのを待って始まった日本軍の大攻勢は飛行船による偵察から始まった。
既に日本軍が飛行船を実戦投入していることはロシア軍も新聞報道で知っていた。しかし、効果的な対抗手段はなかっった。野砲を無理やり大仰角で撃ち出す即席の対空砲は全く役に立たなかった。
逆に飛行船から砲弾が人力で投下され、逆襲の爆撃を受ける始末だった。
航空偵察で、いきなり兵力配置が丸裸にされたロシア軍に暗雲が立ち込める。
日本軍の攻勢は、飛行船の偵察から砲兵の準備射撃へと移り、再び終わることがないような長時間砲撃が始まる。
大量の砲弾備蓄とそれを運ぶ鉄道路線の十全な整備に裏打ちされた日本軍の砲撃は、今までの戦争では考えられなかった程、大量の砲弾神経症患者を量産したが効果は今ひとつだった。
信管や砲弾の不良は既に旅順戦で明らかになっていたが、全ての信管に改修を施している時間などどこにもなかった故に、砲弾の大半が瞬発で運用されていた。これは遅発信管で撃つと着弾の衝撃で信管が破損し、砲弾が起爆しないという欠陥があったためである。
結果として、ロシア軍の陣地の大半が温存されることになった。強固な陣地を撃ち抜き、破壊するには、地面に深く突き刺さってから起爆する遅発信管が必要だった。
ロシア軍の注意を引き付けるために行われた正面攻撃は、ロシア軍の陣地から繰り出される機関銃の十字砲火の前に大損害を受けることになる。
攻勢開始から僅か1日で、日本軍は3万人が死傷し、江戸の陸軍奉行所を震撼させた。
だが、攻勢はまだ始まったばかりであり、チチハル正面では血で血を洗い、寸土の土地を奪い合う激戦が続くことになる。
両軍の死傷者はうなぎのぼりになるが、動員兵力の多い日本軍は消耗戦になれば優位だった。ロシア軍も消耗する前線へ補充を送り続けたが、結果としてそれは両翼に配備された兵力を抽出する形になり、危険なほど戦線を薄くすることになる。
それこそが日本軍の狙いだった。
飛行船による航空偵察と騎兵を使った威力偵察が、ついに戦線のほころびを発見する。
攻勢開始から5日目のことだった。
ロシア軍の戦線に空いた穴に騎兵を集中投入し、日本軍は一気に戦線を突破。チチハルの南北で同時に突破して両翼包囲を開始する。
迎撃のためにコサック騎兵が大挙して出動し、歴史上最大の騎兵戦が勃発した。
コサック騎兵達は自分たちの馬と馬術に絶対の自信を持ち、日本軍騎兵をポニーに跨る小人と見下していたが、それは誤りだった。
江戸幕府が300年近く品種改良を施してきた日本馬は世界水準に達しており、その馬術も洗練の極みにあった。
ハルビン防衛戦で活躍した秋山好古も中将に昇進し、1個騎兵師団をせしめてこの戦いに参加して、騎兵戦術のかぎりを尽くして戦っている。
結果、コンドラチェンコ攻勢で大損害を受けていたロシア軍騎兵は無傷で温存されていた日本軍騎兵の前に壊滅的な打撃を受けることになった。
日本軍騎兵はチチハル後方の鉄道路線を封鎖。
包囲殲滅の危機に陥ったロシア軍の決死の脱出が始まる。
後続の歩兵が到着し、封鎖を完全なものとするまでにかなりの数の兵力がチチハルから脱出したが、それでも10万のロシア軍が日本軍に包囲されることになった。
包囲されたロシア軍はチチハル市街に引きこみハルビンのような市街戦を戦う構えを見せたが、日本軍に焦りはなく少しずつ砲兵の援護化で歩兵を前進させて包囲の輪を狭めていった。
チチハルの戦いはそれから暫く続くがもはや勝敗の決した戦場であった。
日本軍騎兵は敗走するロシア軍の追撃して北上し、ひと夏かけて大興安嶺山脈を突破して、アムール川を沿いに進撃してきた別働隊とチタで合流することになった。
ロシア軍は総崩れの様相を呈しており、チタでも踏みとどまることができず、特に騎兵の不足からいいように日本軍に翻弄された。
飛行船の航空偵察が常に日本軍に情報戦での優位を齎したのも大きかった。
巨大な環太平洋国家が本気の本気で編成した近代軍隊は、中世を引きずるロシア帝国の軍隊をコテンパンに叩きのめした。
考えてみれば、彼我の経済力差からして順当な結果に思えるが、ロシアという世界最大規模の領土とナポレオンを退けた軍隊は実態以上に過大な評価を得ていたといえるだろう。
しかし、日本軍の死傷者が、停戦発効時に30万を超えていたことを考えると、見かけほど弱くもないと言える。
相次ぐ敗戦に、ロシアは体制の動揺が始まり、1月の血の日曜日事件では戦争反対や基本的人権の確立や労働者保護を求める平和的な行進に対してロシア軍が発砲。1,000人以上が死傷する大惨事となった。
このまま戦争を続ければ、革命は必至という状況でロシア帝国は屈辱的な講話を日本に求めることになった。
日本は三国干渉の復讐を果たしたのである。
講和会議はオランダのハーグで開催された。
ロシアはバイカル湖以東の領土と満州における全ての利権を譲渡することで合意した。賠償金がとれなかったことは残念だったが、ロシア側も莫大な戦費を浪費していたことから領土賠償となったのである。
こうして日露戦争は、日本の勝利で終わった。
政威大将軍徳川慶喜は、大いなる満足の中、隠居を宣言。次期政威大将軍選挙には出馬しないことを発表した。
半世紀に及ぶ最後の将軍による統治は終わり、日本は次の時代を迎えるのである。




