衰亡の家
序章
1939年9月1日、英紙デーリー・テレグラフが報じたドイツ軍のポーランド侵攻は、またたく間に全世界に広がり、ヨーロッパから9000km離れた極東の大国、日本合藩国にも数時間後には第一報が届けられた。
第15代政威大将軍、豊臣英頼が報告を受けた時、彼は江戸城本丸御殿にある私室で家族と夕食後の団欒を楽しんでいたとされる。
よって、第二次世界大戦勃発の第一報に接した日本最高権力者がどのような態度を示したのか、それを後の世に伝える役を担ったのは、御台所の豊臣千姫子夫人となった。英国首相のウィンストンチャーチルと異なり、回顧録を著すことなく本人が没しているためである。
後に、夫人はこのような証言を残している。
「夫は・・・そうですね・・・あの戦争が始まったとき、私と一緒にレコードを聴いていたと思います。夫はとても音楽が好きで、どんな曲でも好きでした。自分でもサックスを演奏することができました。あの時は・・・たしかジャズを聴いていました。アメリカのベニー・グッドマンがお気に入りで・・・え?JAZZの聖地、ニューオリンズを爆撃した?まぁ、それはさて置いてですね・・・夫は、あの時も普段と特に変わりありませんでしたよ。ただ、ちょっとだけ悲しそうな顔をしていたと思います。私が何があったの?と尋ねると、確か・・・こう言ったと思います。「あと、一曲、この一曲だけ最後まで聴かせてくれ」と」
ベニー・グッドマン楽団の「シング・シング・シング」が鳴り響く夕べに、英頼が何を想ったのかは定かではない。
しかし、世界の平和な日々がこの日を以て終わったことは確かなことだった。
日本合藩国はナチス・ドイツの同盟国として、この日から戦争の道へと突き進んでいくことになる。
北米大陸を火の海に叩き込んだ軍事国家の最高権力者が大戦勃発に際して、あと1曲、ジャズを聴くことを願ったというのは、深い含意があるように思われてならない。
ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーがワーグナーを好んだのはよく知られているが、JAZZを好んで聴いた英頼がJAZZの本場であるアメリカ合衆国と戦うことになったのは大いなる皮肉であろう。
日本民族の存亡を賭けたこの戦いにおいて、指導的な立場にあった人々の中でも、豊臣英頼は一際異彩を放つカリスマだった。
如何なる立場の歴史学者を以ってしても、この時の日本の指導者として他の代わる人物がいなかったと評されるほどである。
数々の奇跡的な、もしくは数奇な運命の血を引く20世紀中盤の日本を代表する大政治家は、その人生の最期を未曽有の大戦争の中に記してこの世を去ることになる。
彼は財閥の御曹司として生まれ、家を捨てて流浪の果てに映画俳優となり、10年足らずの政治家生活の後に、政威大将軍に昇りつめた一代の英雄であり、戦後、米国の著名な歴史学者からアドルフ・ヒトラーに並ぶ悪の独裁者、平和の敵として名指しされるにしては甘すぎるマスクをした浅黒い肌の優男は、日本列島の遥か南の島から来た男だった。
衰亡の家
慶長5年9月15日、西暦でいうところの1600年10月21日、徳川方の大勝利に終わった関ヶ原の合戦により、豊臣家の衰退は決定的となった。
後に西軍と呼ばれた石田三成と中心とする豊臣家恩顧の大名達は討ち死にするか、捕縛され処刑されていった。
彼らは豊臣家の枢要な地位にあり、特に豊臣秀吉の元で天下を差配した石田三成などの奉行衆が壊滅したことは、豊臣家をして公儀(政府)であることを不可能とした。
現代風に表現すれば、国家レベルの行政ノウハウをもった高級官僚団がまるごといなくなったのである。
常識的に考えて、政府崩壊、内戦一直線の国家滅亡ルートである。
事実、そうなりかけた。
これは所謂通説と呼ばれるものだが、信濃の真田昌幸は戦闘長期化により、戦国乱世の再来を予想し、混乱の中で甲斐、信濃といった武田家旧領の奪回を目論んでいたとされる。
似たようなことを考えていたとされるのは九州の黒田如水である。
彼らは現代までその名を轟かす神算鬼謀の謀将だったが、こうした考え方は何も彼らのような陰険悪辣な策謀家特有のものではなかった。
ぶっちゃけて言えば、世間の誰もがそうなると考えていた。
むしろ、当時の考え方からすれば、真田昌幸も黒田如水も極めて常識的だったとさえ言える。
殆どの歴史文献(人々が残した日記等)によれば、当時のほとんどの人々は、豊臣も徳川の政権も長続きせず、早晩、戦国乱世に逆戻りすると予想していたのである。
他の大名家にしても、戦闘長期化は必至と見ており、戦国乱世の再開は規定路線だった。
応仁の乱から100年も内戦に明け暮れてきた人々にとって、むしろ豊臣秀吉が築いた惣無事の世の方が異常だったのである。
そういう意味において、徳川家康という人物は、異常者だったのかもしれない。
確かに天下という、曖昧極まる概念を正確に理解し、それを具体的なレベルまで落とし込んで政治的行動に移すことができる人間は、ある意味、異常だ。
別の言い方をすれば天才である。
同じ天才が同じ時代に3人いて、歴史は彼らを戦国三英傑と呼び表した。
織田信長と豊臣秀吉、そして徳川家康である。
信長と秀吉は天下統一事業の途中で倒れ、或いは未完成のままこの世を去り、徳川家康が生き残って、最後の総仕上げを行った。
そして、それでよかったのである。
戦国乱世に逆戻りして、また100年も戦っていたどうなっていただろうか?
誰かが再び天下を統一したかもしれないが、それはスペインやイングランドの力を借りたものとなり、外国勢力を侵入を招いてヨーロッパの植民地になっていたかもしれない。
だが、日本人の手による天下統一はぎりぎりのところで間に合った。
天下というものが何なのか、この時、徳川家康だけが正確に理解していた。関ヶ原の合戦から江戸幕府の開幕までの一連の彼の行動が、それを証明している。
徳川家康を除いて、他の誰も、彼も、天下というものが何のか分かっていなかった。
西軍の実質的な総大将だった石田三成とて、具体的な天下の形を書いていたわけではない。
石田三成にとって、徳川家康を排除することが全てであり、それが達成された後に具体的にどのような政体をもって日ノ本を支配するのか、その考えの表明はなかった。
或いは、意図的に考えないようにしていたのかもしれない。
徳川方についた豊臣恩顧の大名家は数多く、子飼いの福島正則、加藤清正等を処分して取潰してしまえば、既存の体制崩壊は必至である。そこから実効性のある新体制を築くとすれば、それはもう豊臣秀吉が築いた豊臣政権とは全く別のものとならざるえないのだ。
豊臣家に対する忠誠心は彼の本心だったと思われる。しかし、徳川家康と東軍を倒してしまうと必然的に豊臣家の政権構造を破壊され、己が実質的な天下人か、それに近い存在となり、豊臣家はその庇護がなければ存在できない形骸となることは容易に想像がつくことである。
故に豊臣恩顧の大名家の多くが、徳川家康の「佞人石田三成誅すべし」の掛け声に従ったと言えるのである。
もちろん、現実的な軍事的、政治力学的な計算もあるが、石田三成が勝てば、天下は彼のものに帰すのは自明の理だった。
結局、どう転んだところで関ヶ原以後に豊臣家が天下を差配することはありえないのだ。豊臣の天下を続けたいのなら、関ヶ原は起きてはならなかった。
豊臣家は、次代を引き継ぐ豊臣秀次を粛清した次点で詰みであった。
或いは、豊臣秀次が生きていて、西軍の総大将として徳川家康と対決して勝利すれば、豊臣の天下も存続していたかもしれない。
しかし、その場合は徳川家康は最初から戦わなかっただろう。彼は豊臣政権のNO2であり、既に十分な権力をもっていた。豊臣政権下の大大名として粛々と政権に参加していればよかったのだ。よって、関ヶ原の合戦そのものが最初から成立しない。
徳川家康にも天下への野心はあっただろうが、天下を知るものとして、天下を築くことが容易ではないことは分かっていたはずであるし、それなら既存の体制の中でそれを達成したが負担が少ない。
実際、秀吉の死後から関ヶ原までの動きはあくまで豊臣家を擁立しつつ、その下で権力を拡大し、豊臣家そのものには臣下の礼をとっているのである。
その一切をぶち壊しにしたのが関ヶ原の合戦だった。
そう考えると石田三成が諸悪の根源に思えてくるが、三成の挙兵がなければ、豊臣家は戦わずして徳川の傀儡となる運命である。
だから、一か八かの賭けにでた。石田三成にはまだ勝てる可能性があった。
だが、豊臣秀頼には勝てる可能性が最初からなかった。
豊臣秀頼は天下人になるべく生を受け、天下人あらざる一生を送る運命の子だったのである。
それが分かってしまったからこそ、豊臣秀吉は狂ったのかもしれない。
我が子の暗い運命を当代随一の英雄は正しく予測しえた。
狂気に侵されながらも、その上で、よりマシな方に賭けようとしたのだが、配当を受け取るのは死人の秀吉ではないし、賭けに負けしまったので目も当てられないことになった。
だが、英雄にも一つ予想できないことがあった。
豊臣秀頼は大変、生きしぶとい人間だったことである。
天下人にはなれなかったが、61歳で死ぬまで、(本人にとって)面白おかしい人生をおくって、日本の歴史にある種の伝説を打ち立て、後世に名を残す働きしたのである。
とはいえ、かの人物に対する評価は400年経った今でも定かではない。
名君と暗君の谷間を泳ぐ謎めいた一種の怪人である。
冗談としか思えないが真実の話、後に豊臣家の編纂した公式の史書において、豊臣秀頼の生涯には「黒魔術」だの「錬金術」だの怪しげな単語が頻出するのである。
日本の歴史において公式史書に黒魔術や錬金術に傾倒していたと明記される人物は、秀頼が初めてである。
神秘主義的な宗教・・・密教に傾倒した歴史上の人物としては、後醍醐天皇が有名であるが、後醍醐天皇にしても加持祈祷などの呪術を行った程度である。
それが何の効果もなく、足利尊氏を呪い殺すことはできなかったのは当然であろう。
しかし、秀頼が錬金術の実験と称して、ある種の爆薬を製造し、大阪城天守閣の一部を吹き飛ばしたのは、公式の史書に残っているのである。
日本の歴史に名を残した人物として、黒魔術や錬金術を真面目に・・・真面目という言葉が適切であるかどうかは別として、研究し、実践した人物は、後にも先にも豊臣秀頼ただ一人であるし、彼が最初にして最後の一人だったことは幸いなことだろう。
近年、女性向けの漫画やアニメーション、一部のゲームソフトなどで、秀頼が黒ずくめの謎の美青年黒魔術師であったり、当時は存在しない白衣を着た美少年錬金術師として描かれているのはそうした背景がある。
ただし、こうした大衆受けを狙った脚色は、今に始まったことではなく、400年前の文化芸能では、既にある程度の脚色された形で秀頼が描かれている。
また、近年の描き方は、史書研究によって明らかになった新造というべき姿であり、元禄年間の歌舞伎や浄瑠璃の描き方とは姿が異なる。
元禄文化で一定の完成をみた歌舞伎における秀頼の描き方は、一言で言えば暗君である。
ただし、非人的な書かれ方をすることは少なく、陽性だが愚昧な人物という評価が多い。
舞台劇においては道化役であり、滑稽な失敗を繰り返して観客を笑わせる役どころであり、要するにバカ殿である。
公家風の化粧をした弛んだ顔の小男であり、女官に囲まれて数々の陰謀を巡らせるが、大抵の陰謀は露骨で浅はかなものであり、たやすく見破られ、苦し紛れに家来をけしかけるが、返り討ちに遭うが改心して許されるという筋書きが多い。
こうした書き方がされるのは、当時、歌舞伎や浄瑠璃、狂言といった創作文化の中心が大阪や京都にあり、秀頼の前半生を目撃した人々の記憶によるものが大きい。
要するにある程度は事実なのである。
時の関白、近衛信尹からは「右大臣に相応しからず」と日記に書き残すほどの放蕩ぶりであった。
傅役の片桐且元からも度々、諫言されている。
真偽は定かではないが、徳川家康や姑の徳川秀忠から説教を受けたという。
流石に家康から説教されたというのは、後世の創作だろうが、秀頼が日常的に城を抜け出し、傾奇者と徒党を組んで、野放図な青年期を送っていたのはほぼ事実と考えられる。
交友関係にしても、猪熊事件を起こした猪熊教利、烏丸光広、後に罪人として斬首された大鳥逸平や織田頼長といった錚々たる傾奇者が揃っている。
後世の浮世絵に残る秀頼像も、派手なビロードのマントに、女モノの小袖を重ね、南蛮人のベストに荒縄をベルト代わりにしたパンツという傾いた姿で描かれることが多い。
身長は六尺五寸という巨漢であった。
また、日本で初めて暴走族を組織したのは秀頼と考えられている。
夜中に奇声をあげながら、騎乗の傾奇者数十人を引き連れ、大阪を暴走したとされる。
京都でも暴走したことが確認されている。京都所司代の板倉勝重が徳川家康にこの暴走行為を報告し、対応を伺う書状を書き送っている。
他にも、非行の一環で髪を金髪に染めて、それを見た生母の淀君が卒倒したという言い伝えがあるが、これは幾らなんでも創作の類であろう。
何が秀頼をこのような無軌道な暴走へと駆り立てたのか定かではないが、豊臣から徳川へと天下が移りゆくことに対する不満や不安を紛らわす代償行為であったとするのが通説である。
しかしながら、関白家や貴人、或いは大名としては在るまじき行為を重ねていたことは確かであり、長じてからも全く政務を省みなかったことへの批判も多い。
バカ殿と呼ばれても仕方がないだろう。
ただし、秀頼の、大阪の民衆からの評判は悪評ばかりではない。
厳格な統制を敷いた復古調の徳川政権下において、大阪は自由闊達な空気が残る数少ない都市であり、秀頼主催の豪勢な茶会や宴会、相撲興行、歌舞伎踊り、辻踊りが催され、気前よく散財する秀頼の人気は相当なものだったと考えられている。
秀頼は傾奇者ではあったものの、辻切りなど非道な行いはしなかったとされ、身分の低いものであっても、分け隔てなく接し、河原者や非人とされた人々とも交友関係があった。
ほんの些細な咎でも、武士が身分の低いものを簡単に手打ちにする世の中にあって、これは異端的である。
また、創作においては家臣の前で淫行にふける淫靡な人物として描かれることが多いが、正室の千姫との関係は仲睦まじいものだった。
千姫を城から連れ出し、逢引と称して市中を連れ歩いたという逸話が残っている。
ただし、当時の常識からして、摂関家の当主としては非常識な行いといえるだろう。
バカをやっているが、性根は善人。
と、いうのが民衆の秀頼像であり、後世においてそれが滑稽な道化役に転じて描かれていったと考えられる。
こうした描き方の類例としては、三国志演義の劉禅がある。
偉大な一代の英雄である父親とその遺産を食いつぶしてしまった二代目という関係性から、秀頼を日本の劉禅とする傾向は歴史研究においても長く続いた。
しかし、愚かであることが即ち不幸であるとは限らない。
何事にも二面性があり、秀頼の無軌道な放蕩生活は、豊臣家の存続においては有用であった。
秀頼を見た豊臣恩顧の大名達から、豊臣家の求心力が急速に失われていったからである。
最後まで豊臣家に忠義を尽くしたと言われる加藤清正にしても、慶長16年(1611年)3月に徳川家康と会見するため秀頼が上洛する際に、その護衛を勤めたことを最後の奉公として大阪を退去している。
この時の会見は2時間ほど続き、その後会食の流れとなったが、その際に加藤清正が秀頼の無作法を注意したという逸話が残っている。
家康と秀頼の会見は、祖父に会いに行くという私的な名目であったが、実質的な徳川家と豊臣家の公的な会見であり、その会食のさなかに食事の作法について、豊臣恩顧の清正が主筋の秀頼を注意したというのは尋常なことではない。
流石にこれは創作の類であろうが、会見後の京都市中において、「箸の上げ下げも清正公様の思うがまま」というまことしやかな噂が流れたと言われている。
また、清正が大阪を退去したのち、加藤家の大阪屋敷が放火に遭うが、これを指示したのは秀頼という説もあり、両者の関係が険悪なものであったのはほぼ事実であろう。
なお、他の豊臣恩顧の大大名としては福島正則も挙げられるが、福島正則は清正よりも遥かに早い段階で大阪を退去している。その理由は秀頼が正則の家宝をねだり、取り上げようとするなど横柄な態度で接したことに失望したからとされる。
ただし、正則は慶長16年の会見において、道中の護衛を引き受けていることから、徳川に対する欺瞞であったという説もある。
なお、二条城での会見から4年後に徳川家康は死去するが、二条城の会見と秀頼の印象について評論したことは一度もない。
しかし、その死去まで徳川と豊臣の関係は小康を保ったのが、家康の回答と言えるだろう。
家康は遺言においても豊臣家の取扱について何も述べていないが、これは次代の徳川秀忠の行動を縛ることを避けたためと言われる。
しかし、ただ単に遺言するまでの相手ではないと見なしていたという説や、家康には豊臣家を滅ぼす意思は最初からなかったという解釈もある。
豊臣家について、家康は判断を保留し、保留にしたまま終わったと言えるだろう。
だが、二代将軍の秀忠にとって、豊臣家は保留にしておけるものではなく、家康の死後、豊臣家への圧迫が急速に強まることになる。
これを以って、家康を豊臣家の庇護者だったと見なす向きもあるが、それは結果論と言えるだろう。
家康は豊臣秀吉から遺言で秀頼を託されていたので、それを表向きの理由として結論を出すことから逃げることができた。
しかし、秀忠にそれは不可能である。
家康から豊臣家を守れと遺言でも託されていれば違っただろうが家康は豊臣家については何も述べずに死んでしまった。何も残さず死ぬことで、秀忠に結論を出すように促したとも解釈できるのである。
また、家康の死後、にわかに大阪に浪人が集まるようになり、事態は悪化の一途をたどる。
浪人は戦国乱世の再来を望むものが多く、家康の死を契機に、豊臣を担いで一旗揚げようという者が集まるにつれ、大阪に不穏な空気が漂い始めた。
これを察知した二代将軍徳川秀忠は急速に軍事討伐へと傾いていくのである。
表向きは、天下安寧を乱す不埒者を成敗するという名目であったが、周囲の説得に耳を貸さない頑な態度から、軍事討伐は秀忠の個人的な功名心によるものと見る向きが強い。
秀忠は、己の軍事的才能のなさに強い劣等感を感じていたと言われている。
はっきり言ってしまえば、秀忠は武将としては無能であった。
公式な徳川家の史書である「徳川実紀」であっても、秀忠の軍功については触れられておらず、その実直な人柄のみを称える記述に留めている。
秀忠には関ヶ原の合戦に遅参したという致命傷があり、初陣の第二次上田合戦では少数の真田勢に散々翻弄されたという苦い記憶がある。長男の信康、次男の結城秀康が武勇の人であったことに比べ、秀忠にはこれといった軍功がない。
二代目将軍も己の力で勝ち取ったというよりは、父親から与えられたものであった。
であるならば、己が男であることを示すために、何かしらの具体的な軍事的な成果を挙げてみせる必要があった。
しかし、豊臣家には幸運が残っていた。
家康の病床が重くなる中、秀頼正室の千姫が懐妊、家康の死の翌年、男子を出産していた。
既に嫡男、国松がいたので次男となるが、竹二郎と名付けられる秀頼の第二子は、二代将軍秀忠にとって初孫であり、徳川と豊臣の血を結ぶ待望の男子であった。
また、幼名に竹二郎を用いることにも大きな意味があった。竹は徳川家康の幼名である竹千代に通じ、二郎は徳川に対する遠慮を示すものである。
竹二郎の首が座るのを待って、秀頼の生母、淀君が竹二郎を伴って関東に下向。また、翌年、母と子に面会するという名目で、秀頼の関東下向が実現する。
秀忠、秀頼の会見は年賀の挨拶と併せて行われ、居並ぶ諸大名の前で秀頼が臣下の礼をとることでようやく事態は収束に向かったのである。
これを以って、豊臣家と徳川家の和解が成立したと見る向きがある。
しかし、それ以外にも、平行して様々な和解策が動いていたことはあまり知られていない。
こうした和解策を実行したのは豊臣家の重臣、大野治長とされる。
初期幕藩体制下の豊臣家を支えた人物として、最初に挙げられるのは賤ヶ岳の七本槍である片桐且元であろう。
その死の瞬間まで、豊臣家に忠義を尽くしたとされる片桐且元であったが、家康の死に前後して病を患い、この頃には既に人事不省だったとされる。
代わって徳川と豊臣を取り次いだのが大野治長であり、且元亡き後は豊臣家の政務の一切を引き受けた名宰相として名高い。
大野治長の示した方針は、徳川家への絶対恭順であり、淀君と竹二郎の関東下向もその一環であった。
並行して、大阪城の大改築工事が行われている。
この大改築工事の要諦は、大阪城の東側を流れる平野川の付け替えであり、平野川の流れを変えて直接、大阪湾に注ぐ形とする大規模な土木工事だった。
新平野川の切削により生じた土砂により、旧平野川と大阪城の外堀は埋め立てられた。
また、遠浅の海の埋め立てにより船着き場の拡張が進んで港湾都市としての大阪の機能が飛躍的に強化された。
この工事に必要な石材を捻出するために大阪城の二の丸、三の丸まで解体され、大阪城は城とは名ばかりの存在と成り果てたのである。
実質的な、大阪城の破壊工事に要した費用は金40万両に及び、豊臣家の金蔵は底をついて、幕府に借金の申し入れまで行う徹底ぶりであった。
また、大阪城内に蓄えられた武具の売却まで工事費用捻出のために行われている。
幕府の買い上げとなった武器弾薬については10万の兵を養うことができる量とされ、その売却目録が現在も残されている。
これは完全で不可逆的な武装解除であり、その上で淀君と竹二郎、秀頼の関東下向があって、ようやく徳川家は豊臣家の存続を許すに至るのである。
なお、この大阪城破壊工事には10万人近い浪人衆が人足して雇われ、工事の後に豊臣家の家臣として召し抱えられたものも多い。
著名な人物として、真田信繁、後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登が挙げられるが、このうち真田信繁は蟄居中の身分であり、蟄居先の高野山から脱走してきたため、幕府から身柄引き渡し命令が来ていたところを江戸屋敷に移った淀君から赦免嘆願があり許されたという経緯がある。
これを以って、信繁と淀君に男女関係があったとする噂があり、秀頼の本当の父親は真田信繁という創作のネタにもなったが、真偽のほどは定かではない。
なお、人質となった竹二郎は実質的な嫡男としての待遇と教育を江戸で受けることになる。
同時期に長男、国松はそれまで住んでいた西の丸から山里丸へ移っており、これは廃嫡と同義語であった。その後、山里丸から城外の屋敷に移されており、もはや存在しないものと扱われている。
国松が歴史の表舞台に現れるのはこれからさらに30年後のことである。
以後、秀忠の治世にあって、豊臣家は厚く遇された。
権現(神様)となった父親が最後まで決着をつけられなかった豊臣家を完全屈服させたことは、何かと父親と比べられる秀忠にとって、重要な勲章であったからである。
そして、己を飾る勲章はできるだけ美しく、大きなものであった方が都合が良い。
難攻不落の大阪城をただの一兵を損なうことなく陥落させたに等しく、豊臣家と交渉にあたった土井利勝はその功績により、1万石の加増を受けている。
年賀の挨拶で臣下の礼をとった秀頼は、その後半年間、江戸に滞在することになるが、その間、秀忠は連日、秀頼を連れ回して江戸の名所旧跡を案内し、手厚くもてなした。
これは友好関係の演出というよりも、豊臣を引き立て役にして徳川の権威を高めることが目的であり、事あるごとに秀頼に盃をとらせ、豊臣の臣従を印象つけた。
巨漢の秀頼が畏まって盃をとる様は、武勇というものにコンプレックスが強い秀忠にとっては暗い喜びを齎すものであったことは想像に難くない。
また、秀忠は酒宴の席で大阪城と江戸城のどちらが上か、秀頼に意地の悪い質問をしたとされる。
秀頼は、江戸城の方が上であると答え、その理由として食事や酒の旨さを挙げ、同席した大名たちを呆れさせたという言い伝えがある。
このような言い伝えを裏付ける一次資料は確認されていないが、多くの大名が秀頼の畏まった姿を見て失望したとされる。
大阪城という秘密のベールに包まれていた豊臣の御曹司が蓋を開けてみると図体が大きいだけの木偶の坊だったというわけである。
また、生母や実子を差出し、戦わずして降伏したことを嫌悪する大名も多かった。
戦って潔く散るべきだったという意見は根強く残り、秀頼の評判は落ちるところまで落ちたとされる。
この6年後、竹二郎は僅か7歳で元服し、豊臣家の家督を相続することになる。
元和9年(1623年)のことである。
この年に三代将軍に徳川家光が就任。竹二郎元服の烏帽子親を勤めた。
元服と同時に幕府から松平姓を名乗ることを許され(この場合の許可とは実質的な命令を意味する)、以後、松平康頼を名乗ることになる。
松平康頼をして初代、摂津松平家とし、摂津藩の立藩とするのが定説である。
なお、僅か7歳の幼君に摂津65万石が治められるか疑問に思った者は多く、将軍家光も疑問に思ったが、家宰の大野治長が「元より、国主などいないも同然である」と答えて、家光を困惑させたという逸話がある。
元より、秀頼が何もしてないので、何もできない幼君であっても何の問題も生じないということだった。
また、同時に秀頼の隠居願い幕府に提出され、即日、受理された。同時に、秀頼から諸国漫遊の旅に出るので許可してほしいと申し出があり、こちらも受理された。
この時、大御所の秀忠は呆れ果て、「少しは働いたらどうか」と秀頼に諫言したとされるが、これを裏付ける一次資料はなく、創作の類であると思われる。
なお、康頼元服後から摂津藩の公式文書では豊臣の文字は消え、家紋の桐紋も使用されなくなり、徳川一門の家紋である葵紋が使われるようになる。
豊臣家は豊臣であることを止めたのである。
これを平和的な政権禅譲と取るか、徳川によるお家乗っ取りとするかは解釈が別れる。
なお、摂津藩はこの後3代で無世嗣断絶となり、以後は天領となった。
豊臣の系譜は、摂津ではなく海外で繋がっていくのである。