八話
ノルンは薄暗い天井を見ていた。急成長する彼のために、物置を片付けてベッドを置いただけの、急遽用意された簡素な子供部屋だった。ハジム手作りのベッドは子供が二人寝ても十分すぎるという理由で、隣にはなぜかシャルルが寝ていた。互いの間は子供一人分ほど離れているので、多少の寝返りではぶつかることはない。
ノルンはシャルルをわずかに意識しながら、闇を凝視して思索の中に沈んでいった。
(私は何者なのでしょうか……)
他人と触れあうことで、これまで深く考えて来なかったその疑問が浮き彫りになる。自分で自分を知るのは、思いの外難しい。他者という光りが、自分という影を深く濃くさせるのだ。
きっかけは昼間、シャルルと過ごす中で思い出された、数人の女の子の顔だった。直前までまったく思い出せなかった少女たちの笑顔が、懐かしいと感じたのだ。
ノルンは産まれると同時に、自分という存在を意識することが出来た。そして刻まれ始めたばかりの記憶の中に、すでに他の記憶があることに気付いたのである。それは精悍な顔つきをした白髪の男の記憶で、それが自分の前世なのだということは不思議と自然に理解が出来た。それだけであったなら良かったのだが、もう一つ、別の人物の記憶が存在していた。
前世の記憶があるというだけでも特異なのに、それが二つというのはどういうことなのか。記憶を探れば、その秘密も明らかになるかも知れないと試みてみたが、思い出すことが出来るのは、断片的で時系列もバラバラの記憶だった。そのほとんどが不鮮明で、思い出せそうで思い出せない気持ち悪さばかりが残った。そしてそれは別の人物――赤髪の男の記憶も同様で、未完成のパズルのように全容を掴むのは困難だった。
だがそんな記憶は、何かを引き金として突然鮮明に思い出せる時がある。前述の女の子たちの時もそうだった。今のノルンにとっては初めて見る顔なのに、懐かしさと共にその時の記憶が現実感を持って蘇ったのだ。
交差する今世と前世の自分。その瞬間、その時の記憶は確かに自分のものになったような気がした。
(それを繰り返し、私は前世を取り戻してゆくのでしょうか。そしていずれ、自分は何者なのかという疑問も、別の人物の記憶がある理由も明らかになると、今は信じるしかないですね)
小さく欠伸を漏らし、ノルンは目を閉じた。
「ねえ、もう寝ちゃった?」
暗闇の中で声を掛けて来たのは、シャルルだった。
「まだ、起きてます」
ノルンが返答すると、シャルルが寝返りを打つ音が静寂に響く。
「今日は、ごめんね」
「何の謝罪でしょうか?」
「……ママが出て行った事、まだちゃんと整理できていなくて……何だか両親に対して素っ気ないノルンの言葉を聞いていたら、カッとしちゃってさ」
「ああ……」
「ああって何? なんかどうでもよさそう」
しおらしく話していたシャルルの口調が、トゲを含んだものに変わる。それを聞いてノルンは、再び一人の少女の顔を思い出した。それは彼にとって、最も信頼する大切な仲間の一人だった。
「ふふ……」
「あっ! 笑ってる! ノルンも笑うんだ……って言うか、何、笑ってるのよ!」
「私の友人にシャルルと似ている人が居たのを、思い出してしまいまして。いつも悪態ばかりついているのに、困っている人を放っておけない、本当は優しい女の子なのです」
「ふーん……」
なんとなくモヤモヤした気持ちを抱えたまま、シャルルは口を閉ざす。悪態ばかりの人と似ていることに腹が立ったが、優しいという辺りで怒りのやり場を見失ったのだ。
「というか、友達が居たんだね。この辺、他に誰も住んでなさそうだから、ちょっと意外かも」
「この辺の人ではありません。もう、ずいぶんと会っていない上に、また会えるかもわかりませんが」
「そっか……ちょっと寂しいね」
シャルルにも友人がいたが、母親の件があってからは会っていない。心配そうに近づきながら、内心では好奇心でいっぱいなんじゃないかと、疑ってしまうからだ。もともと、それほど深い付き合いのある友人ではなかったが、それでもいないと寂しいと感じてしまう。
「じゃあさ、あの、私が……友達になってあげる」
「シャルルが、友達?」
「……嫌、かな?」
シャルルの声が小さく、怯えるような弱々しいものに変わる。
「いいえ、嬉しいです。ありがとうございます」
ノルンの優しい口調に、シャルルはホッとした様子で笑みを浮かべた。けれどすぐに、不満そうな表情が顔を覗かせる。
「せっかく友達になったんだから、もっと砕けた感じで話して欲しいな。相手が年上とか、あまり親しくない人なら今のままでもいいけどさ」
「急には無理です。ようやく今の口調に直せたばかりなので、またすぐに変えるのはちょっと……」
「うーん、じゃあさ、せめて自分の事は『僕』とかにしてよ。何かノルンはさ、すごく落ち着いていて大人っぽいから、自分の事を『私』って言うとすごく遠くに感じるんだ」
「わかりました。それくらいなら、何とか」
満足そうに頷いたシャルルは、小さく欠伸を漏らす。
「さすがに寝ないと、明日辛いね」
「そうですね」
「口調を直すのは、宿題ね。今度会う時まで、がんばってよ」
「はい」
会話が途切れ、やがて規則正しい寝息が聞こえ始める。二人とも充実した一日を噛みしめるように、安らかな寝顔で深い眠りに落ちていった。
「それじゃあ、またな。今度はそっちが遊びに来てくれよ」
「ああ、わかった」
翌朝、別れを前にハジムとラウは固く握手を交わす。
「またね、ノルン」
「はい、また」
シャルルも少し寂しそうに、ノルンと挨拶を交わし、馬車に乗り込んだ。
「ばいばい!」
離れるノルンに見えなくなるまで手を振り、シャルルはそっと腕を降ろす。
「ノルン君と仲良くなったようだな」
「うん……」
父の言葉に頷いたシャルルは、何となく御者台に座る父の隣に腰を下ろした。
「少しは気晴らしになったか?」
「たぶん……」
「そうか……」
「パパは? パパも、気持ちが楽になった?」
不安そうに問い掛けたシャルルは、そっと盗み見るように視線を向ける。するとラウは小さく頷きながら、「もちろん」と笑った。
しかしシャルルは、いつもの父の笑顔になぜか、背筋に寒いものを感じたのである。言いしれぬ不安が、胸の中を埋め尽くす。
「ん? どうした?」
「……な、なんでもないよ」
そう言いながら視線を外し、拳をギュッと握りしめた。
(怖い、なぜだか怖いよ。ノルン――)
言葉に出来ない不安と恐怖に、シャルルは空を見上げた。同じ空の下にいる、別れたばかりの少年を思いながら、縋るような目でいつまでもそうしていたのである。