四話
すべての息吹が失われた灰色の世界で、ラフィーアは身動き一つできずに、ただ目の前で起こったことを凝視するしかなかった。腕の中にいたはずの我が子の姿はなく、代わりに自分を背中に庇う白髪の男が立っていた。
ラフィーアは見たことがないが、教会の聖騎士がまとうような、白銀の胸当てや脚部、腕部を守る鎧を身につけている。顔つきは精悍で、その鍛え抜かれた体躯の強靱さは外からでも見て取れるほどだ。
対峙する骸骨の男は突然現れた白髪の男に驚く様子もなく、黒装束の前を大きく開いた。そこにはあるはずの体はなく、深淵とも思えるほどの闇が禍々しく満ちあふれていた。その闇が脈打つように蠢き、地鳴りのような声が徐々に近づいてくる。
「オオオオオ……オオオオオオ!!」
そして黒装束の闇を割るように、骨に剛毛が生えた皮膚を貼り付けたような巨大な両腕が現れたのだ。それは片手だけでも白髪の男と変わらない大きさだった。
「ようやく、見つけたぞ……」
闇の中から、低い怖気立つような声が嬉しそうに言う。そして今にも掴み掛からん勢いで、両腕は白髪の男に近づいた。だが直後、見えない壁に阻まれ両腕の行く手は遮られてしまう。
「口惜しい……口惜しい……」
両腕の指を歩く蜘蛛のように折り曲げながら、怨嗟の声が響く。それに対し、白髪の男は毅然と言い放った。
「去れ、〈深淵の王〉ユグルよ。この人を害する行為は許さない」
「ほぉ! 小生意気なことを吠えるものだ。だが、〝盾〟と〝矛〟を持たぬお前が私を退けることが出来ると思うのか?」
白髪の挑発的な言葉に、巨大な両腕から黒い魔力の波動が溢れ出した。それは荒々しくうねりながら、白髪の男に襲い掛かる。白髪の男からも白い魔力が溢れ出し、邪悪なものを拒絶するように両腕の魔力と激突した。だが黒の魔力に押され、劣勢なのは明らかだった。
「ふふふ……どうした、その程度か? ここは器が意味を成さぬ精神世界、遠慮はいらぬ、魂の力を解き放ち全力で来るがいい!」
今度は巨大な両腕の主が挑発し、それに応えるかのように白髪の男は、背中のラフィーアを庇いながら爆発するように力を放った。それは今までの白い魔力だけではなく、黒い魔力も混じり合いながら螺旋を描いていた。
それに呼応するように白髪の男の顔には、左側に白い模様、右側に黒い模様が浮かび上がったのである。
黒と白の二つの色を持つ魔力は十二本の奔流となって、巨大な両腕を鷲掴みにするように襲い掛かった。
「何だと! なぜお前が黒の魔力を持つのだ? それは魔族の……そうか! そういうことなのか!」
何かに気付き、巨大な両腕が震えた。そして白髪の男の魔力が、徐々に両腕の魔力を押し返してゆくと、両腕も闇の中に押し戻されていったのだ。
「ぬぬぬ……私は諦めぬぞ! 必ず『贖罪の盾』を手に入れる! 終わらせはしない! 必ず、必ず相まみえようぞ!」
白髪の男の魔力が完全に両腕を押し戻すと、爆発するように光が辺りを包み、無数の悲鳴が空気を震わせる。灰色の世界にヒビが走り、パラパラと落葉のように舞い落ちていった。そして残されたのは、元の魔の森の光景に赤子を抱くラフィーアの姿だった。
「……」
呆然と、ラフィーアはいつの間にか腕の中に戻った我が子を見る。いったい何が行われたのか、交わされる会話の意味も不明で、ただ妙に疲れだけが残った。
「何だったのかな……でもきっと、この子に関係のあることだよね」
いったい、本当に自分は何を産んだのか。ラフィーアは混乱する頭を振り、余計な気持ちを追い出した。
しばらく子供の頭を撫でながら、その場に座り込んでいたが、ふと周囲の不穏な様子に気付きラフィーアはのろのろと立ち上がる。黒装束の死体がいくつもある場所に、いつまでも居たくはなかった。
幸い、薬の効き目はほとんどなく、体は自由に動くようになっていた。しかし倦怠感があり、動作が緩慢になってしまう。
(これから、どうしよう……)
行く当てなどない。助けを求められる者もいない。自分の力で生きていかなければならなかった。
「大丈夫、私が守ってあげるから」
腕の中の子にそう告げ、ラフィーアは歩き出した。一瞬、ランプを持って行こうか迷ったが、誰かに見つかるのは避けたかったので暗闇を進むことにする。エルフの能力なのか、多少だが夜目は利く。
歩き初めてしばらく行くと、地面のあちこちに地下水脈へと続く、拳ほどから大人でもすっぽり入るほどの穴があいている地帯に入った。この辺りはレーテ川の支流が無数にあり、地盤も緩く大雨の際にあちこちが崩れ落ちたのである。しかし数千年という樹齢の木々が地中に太い根を張り巡らせているおかげで、何とか地面が残っているような状況なのだ。
支流は本流から分かれ、そのままさらに深い地下に流れ込むものもあったが、半分ほどは再び地上に出て街や村の生活用水として利用されていた。
穴に落ちないよう気を配りながら、ラフィーアの意識は考え事に沈んでいた。そのため、自分を観察しつつ近づいてくる禍々しい存在の接近に、まったく気付かなかったのである。
「おお、臭い臭い。こんなところに、ハーフエルフがいるとはな」
「――!」
驚き振り返ろうとした彼女の横顔を強い衝撃が襲い、そのまま吹き飛ばされて幹に背中を打ち付けて倒れた。
「くっ……」
息を詰まらせ、背中の痛みに呻きながらラフィーアは暗闇に立つ大きな影を見た。
それは、鋭い牙を笑みを浮かべた口から覗かせ、巨大な目をギョロリと剥いたガルオークの男だった。肌は緑色で、その巨体は二メートルを優に越える。傷だらけで筋肉質な体には、腰巻きだけを巻いていた。魔獣の骨で作った飾りを、体のあちこちに付けているのは強さの証だ。
「こいつは、ボルバウス様に良い土産が出来た」
そう言って笑うガルオークを観察しながら、ラフィーアは焦っていた。到底、敵う相手ではない。自分の命がここまでであったとしても、我が子だけは救いたかった。
(どうしたら……)
ぎゅっと我が子を抱きしめた時、倒れたすぐそばに丁度、赤子が入れるほどの穴があるのを見つけた。顔を近づけると、微かに水の流れる音がする。
「……」
この水がどこに流れ着くのか、あるいは海に行ってしまうのか、何もわからない。けれどこのままガルオークに捕らわれるよりも、生き残る可能性は高いかも知れない。捕まれば確実に、赤子は食べられる。自分とも離され、もうどうする事も出来なくなるのだ。
「ん? その大事そうに抱えているのは何だ?」
近づいたガルオークが、ラフィーアが大事そうに何かを抱いてるのに気付く。
「――!」
もう迷っている時間はない。
(神様、お願いします! この子を、守ってあげてください! 自らの生い立ちを知ることなく、平和な場所で優しい人に拾われて、穏やかな人生を送れるよう、お願いします!)
ラフィーアは祈り、頬にキスをして我が子を穴に落とす。
「何をやってる!」
ガルオークがラフィーアの髪を引っ張ったが、すでに赤子はその手を離れて穴の中に落ちていた。やがて水に落ちる音が聞こえ、ガルオークが舌打ちをし、怒りをぶつけるようにラフィーアを何度も殴りつけた。
(さようなら、私の赤ちゃん。もう会えないけど、あなたの幸せを祈っているよ)
不安は残ったが、彼女は自分に「大丈夫」と言い聞かせる。あの子は普通の子ではない、こんなところで死ぬわけはない。
「さよなら……」
小さくもう一度別れを告げ、ラフィーアは役目を終えたように目を閉じた。瞼の隙間から溢れた涙が一筋、流れ星のように頬を伝って夜の闇に落ちた。