三十九話
解放軍のキャンプに到着してノルンが真っ先に行った事は、用意されたテントに母ラフィーアを寝かせることだった。まだ薬の効果で眠っていたが、そろそろ目が覚めても良い頃だ。出来ればこのまま、母のそばに居たかったがそうも言えない状況にある。
テントの外で待つ案内に従いやって来たのは、このキャンプで一番大きなテントだった。十人は余裕で入れるだろうか、この大きなテントだけがドーム型をしている。
中に入ると、アリシアとウーラ、そして三人の男の姿があった。促されるまま、ノルンは用意された椅子代わりの、布を被せた木箱に座る。左右にはアリシアとウーラの箱椅子も用意されていたが、二人はメイドにこだわり、立ったままノルンの背後に控えた。
そうして長いテーブルを挟んで対面した三人の男たちから、ノルンは自己紹介を受ける。
右端はすでに顔見知りの、決死隊隊長ウォルドーだ。左端はウォルドーと同年代で、小柄で太めの体つきからドワーフを思わせる、歴としたエリトア人のボナン。そして中央に座しているのが、解放軍の代表で、元エリトア王国宰相のラムザだった。
白髪で口髭を蓄えたその面は、宰相というよりも大軍を率いる将軍のような気迫を漲らせている。
「子細はすでにウォルドーから聞いております。まずはお力添えいただきました事、心より感謝いたします」
「……」
本来、感謝されるべきは自分ではないとノルンにはわかっていたが、ウーラがメイドとして自分の背後に控えている以上、仕方がなかった。
「ご要望の通り、宿泊するテントをご用意させていただきました。食事もありますので、今夜はごゆっくりお過ごしください」
「ありがとうございます。助かります」
ノルンが礼を述べると、小さく頷いたラムザが居住まいを正した。
「ところで、今回救出した者たちは、別のキャンプにおりました。我々は魔族だけではなくロシュ軍からも身を隠さねばならず、数十名ほどからなるキャンプをいくつも作り、定期的に移動をしております。身軽さを重視した編成でしたが、それが今回は仇となってしまいました」
ラムザが言葉を切り、ウォルドーが引き継ぐ。
「常に警戒を続けるのにも、限界があります。せっかく助け出しても、再びロシュに戻る者も最近は現れ始めました。魔族との戦いも停滞しているため、軍が以前ほどエリトア人の奴隷を抱えなくなった事も原因でしょう。主にさえ恵まれれば、それほど不幸というわけではありませんから。少なくとも、直ちに命の危険がない分、キャンプにいるよりマシと考える若者も少なくないのです」
ウォルドーの話によれば、バルザロス帝国に逃げる者もいるという。ただし帝国には奴隷制度がなく、何らかの職に就き生計を立てなければならない。また、職に就くためには、国民登録証というものが必要になる。
これは帝国の国民であることを証明するもので、通常は産まれてすぐ居住地の領主に申請するのだ。しかし他国からの移民は、身元引受人が必要となる。知り合いでもいれば別だが、そうでなければ傭兵や死体処理、屎尿回収など、国民登録証がなくても就ける仕事を選ぶしかない。
「帝国の実情を知らぬ者は帝国に、知る者はロシュに逃げるのです」
「我々のような年寄りは、望郷の念で堪えることも出来ますが、故郷を知らぬ若者には支えとならないのでしょう」
ラムザがどこか寂しげに言葉を繋げた。
「拠って立つ場所が、我らには必要なのです。目に見えぬ理想だけでは、人心を掌握することは難しい。古い人間の頑固さかも知れませんが、人は大地に根を張り生きるべきだと思っています」
そう言うとラムザは、長テーブルの上に数枚の紙を広げた。その一枚に、赤く丸が記されている。
「これは?」
「キャンプ周辺の地図です。野営地を選ぶ際に、周辺を調査しました。その際に記されたものです」
話しながらラムザが、赤丸を記した地図の一点を指で示す。
「ここが今いるキャンプです。そして――」
指を横に滑らせて、赤丸の上に重ねた。
「ここが、ワイアラの街です。現在、魔族が支配しているこの街を、我ら新生エリトアの始まりの地にしたいと考えています」
ラムザは立ち上がり、ウォルドーとボナンもそれに続く。
「お願い致します。どうか、再びお力をお貸しください!」
腰を折り深く頭を下げる三人に、ノルンは思わずウーラに視線を向けた。おそらく三人が期待しているのは、ウーラの力だろう。だがノルンにそれを命令する権限など、あるはずもなかった。
眠りの底にいるラフィーアの耳に、大勢の話す声が聞こえた。それは騒音と呼ぶほどの音量ではなかったが、彼女はすぐにでも耳を塞ぎたいと感じる。
無遠慮に踏み込んで来る人々の囁きは、ラフィーアの最奥にある煤けた記憶を呼び覚ますのだ。
幼い頃に人間の母と暮らしていた時の記憶。混じりものは災いを呼ぶ――そんな噂を信じて、村に起きた不幸はすべてラフィーアのせいにされた。
――お前がいるから、雨が降らないんだ!
――ウチのダンナが怪我をしたのは、お前がいるせいで馬が暴れたからだ!
――混ざりもののくせに!
――半端もののくせに!
大人たちは木の棒で殴り、子供たちは石を投げつけてきた。母が見つけて助けてくれる時もあったが、そんな日の夜は母が家にはいない。
何をしているのか、最初はわからなかった。でもすぐに知ることとなる。母が妊娠したのだ。そして産まれた子供はどこかに売られ、手に入ったお金は当然のように村人たちに分配される。
(何度も、何度も、お母さんは子供を産んだ。私の、弟か妹だったものを――!)
「ラフィーア」
彼女を呼んで笑った母の顔は、もう大好きな顔ではなかった。内臓を悪くして黒ずんだ肌に、黄ばんだ歯を見せて幼女のようにはにかむその顔は、醜悪な別の生き物にしか見えなかった。
(いや! 思い出させないで!)
羽虫のような人々の囁きを、ラフィーアは振り払うように両手を振った。体の震えが止まらない。
(助けて、誰か助けて!)
「母さん!」
細い腕が、抱きしめてくる。しっかり強く、でも優しい温もりで。
「僕です、ノルンです! ここにいます!」
「……ノルン」
目を開けると確かにそこには、ノルンの顔があった。
「大丈夫です、大丈夫ですよ」
「うん……うん……」
頷きながら、ラフィーアはしっかりとノルンを抱きしめた。伝わる温度が、匂いが、ラフィーアの心をゆっくりと解きほぐすようだった。