三十八話
「あ……ああ……」
しっかりと手を握り、レスティとミーネの二人は後退った。
と、兵士たちの顔に額から顎にかけて黒い線が走った。ぴたりと三人は足を止め、顔が風船のように膨らむ。そして次の瞬間、黒い線からぱっくりと割れて、中から消し炭のように焼け焦げた姿が現れたのだ。まるで脱皮をしたかのようにロシュ兵の抜け殻を残し、消し炭のような者たちが何かをぽろぽろと落としながら走ってくる。
近付くとその姿が、より鮮明になった。焼け焦げたように見えたのは、腐敗して黒ずんだ全身を覆う、無数の黒い蛆虫だったのだ。
目と口だけが妙に生々しく、舌をだらりと垂らしながら三人が襲い掛かって来た。
「ひっ!」
あまりの恐怖に身を強張らせるミーネの手を、レスティが引っ張った。呪縛が解けたように走り出すが、体力的にも精神的にも限界に近い二人が逃げ続けるのは難しい。
やがて足をもつれさせ、張り出した木の根につまずいて倒れてしまう。
「も、もう……」
絶望に心が沈む。レスティは、自分がどれほど弱い存在なのか身に染みて感じた。
(でもせめて、ミーネだけは……)
その一心で少女を背にかばう。だが鎖で繋がっている以上、レスティの死はミーネの死でもあった。
「姫、様……」
消え入りそうなか細い声が、かろうじてレスティを支えてくれた。
三人に囲まれ、二人は目を閉じる。もはや、逃げ場はない。
しかしトクトクと鼓動が聞こえる中、何の前触れもなく明るい男の声が緊張を破った。
「おお、『ゾンビもどき』か。久しぶりに見たなあ。見逃してやりたいところだが、女の子を怖がらせるのはダメだな」
空を切る音。そして何かがどさりと落ちる音が続き、誰かが目の前に来た。
「よう、大丈夫か?」
レスティとミーネは、おそるおそる目を開ける。そこには、右目に黒い眼帯をした男がしゃがんでいた。
「あ、あの……助かりました」
わずかに震える声で、レスティが礼を述べる。
「ああ、いいってことよ」
陽気に応えた男の声に、レスティは微かに興味を覚えた。彼女の知るどんな人物とも異なる、不思議な空気をまとった男だった。
だからだろうか、彼女は生まれて初めて自分から男性に名前を問い掛けた。
「……あの……お名前を伺っても?」
「俺か? 俺はベリーウェルだ」
男は屈託のない笑みを浮かべ、そう名乗った。
ワイアラの街を離れたベリーウェルは、レーテ川に向かいながら、いくつかの野営する集団を見つけた。隠れ潜むようにテントを張り、細い人煙を立ち上らせて、大人たちの緊張感と子供らの長閑さが、辺境の小さな村のような空気を醸し出していた。
おそらく探していた『エリトア奴隷解放軍』だろうと当たりを付けたが、いざ接触しようとして、さすがにそれはマズイと気付いたのである。
突然、見知らぬ人物が現れれば、誤解と混乱を生むだけだろう。何か良い方法はないか――ベリーウェルはそんなことを考えながら、さらに周辺の探索を続けていたのだ。
そんな時、ふと森の奥から不穏なものを感じて足を止めたのである。それは風に乗る花の香りのような、ごくわずかな暗い気配だった。そして、嫌な予感を抱きながら向かった先で、レスティとミーネに出会ったのだ。
「こいつは『ゾンビもどき』って呼ばれてる奴でな、ゾンビに擬態しているだけの虫だ。人の内臓を好み、食べ残した皮を被って次の獲物を探すみたいだ」
「虫なのですか!?」
ベリーウェルの説明に、レスティは驚きの声を上げる。
「詳しくは知らないが、そうらしいぞ。それより、女二人だけでどうしてこんな場所をうろついているんだ?」
「はい……あの……」
レスティは不意に不安を覚え、ミーネの顔を見た。助けられたことで気を許したが、本当に信用出来る人物なのかはわからない。
視線を向けられたミーネも、どうしたらいいのか困った表情で固まっていた。
そんな二人の様子に、ベリーウェルは心情を察して頭を掻いた。
「まあ、そうか。むしろお前は誰だって感じだよな」
「いえ、そんな!」
「ははは、いいよ気を遣わなくても。でもそうだな……俺の目的は、『エリトア奴隷解放軍』と接触することって言ったら、どうする?」
「――!」
とたん、レスティとミーネの顔が強ばる。二人にとって一番怖いのは、魔族よりもロシュ兵に見つかることだからだ。
「やっぱり、二人は解放軍の人間か。ああ、俺はロシュの人間じゃない。エリトア人に危害を加えるつもりはないよ」
震えながら身を寄せる二人に、ベリーウェルは慌てて否定した。それを信じたわけではないようだが、レスティたちはやや落ち着きを取り戻す。いずれにせよ、今の状況で彼女らに出来ることはない。
「これはまあ、俺自身の気持ちの問題なんだが、エリトア人には借りがあるんだ。だからそれを返したい」
「借り、ですか?」
「誰にどうされたってわけじゃないが、俺がエリトア人に借りを作っちまったって、勝手にそう思っているだけだよ。まあ、自己満足で人助けをしたいってだけの話だ」
レスティとミーネは顔を見合わせる。どう判断すればいいのか、正直、二人にはわからなかった。
(悪い人ではない気がします。でも、すべてを鵜呑みにするわけには……)
(そうね)
こそこそと話す二人に、ベリーウェルはその場で頭を下げた。
「頼む、誰か解放軍の偉い奴に、口を利いてもらえないか。偉い奴に知り合いがいないなら、誰でも構わない。俺に、チャンスをくれ」
「……」
演技とは思えないベリーウェルの必死さに、レスティは心を決めた。決断を促すように視線を向けるミーネに頷くと、彼女も賛意を表すように軽く頭を下げる。
「わかりました。では私たちの恩人として、皆に紹介しましょう」
レスティはそう言うと、どうやら知らないらしい自分が王家の人間という情報を隠し、これまでの経緯をかいつまんで説明した。
「そうか、何とか逃げ出したが迷子になったと」
「……はい」
「わかった。そこで従軍していた傭兵の俺が、偶然二人を見つけたという筋書きだな。ロシュは傭兵を使わないから、バルザロス帝国軍でいいか。その方が心証もいいだろうからな」
「そうですね」
相づちを打つレスティの袖を引き、ミーネが耳元で囁く。
(あの、大丈夫でしょうか?)
(わからないけど、悪いようにはならない気がするわ)
それはただの予感だったが、掛けてみたいと思わせる何かがあった。今はまだ魔族との戦いも膠着状態で、ロシュ王国も本気で解放軍を潰そうとは考えてはいない様子だ。しかし言い換えれば、変化のない凪いだ状態ということである。
もしも本気で解放軍が掲げる最終目的――エリトア王国の再興を叶えるなら、変化を恐れてはいけない。
レスティの心に、一陣の風が吹き抜けていくようだった。