三十二話
揺れる馬車の中で、ノルンはヴァルチアと向かい合うようにして座っていた。母ラフィーアは彼の膝枕で、静かな寝息をたてている。出発前に睡眠薬を飲ませたので、しばらく起きることはない。
馬車の中も外観同様、黒と赤でほぼ統一されている。ソファのクッションも丁度良く、続く振動に疲れを感じることもなかった。
「率直に言うと、私はあなたが魔王の記憶を持っていることを、秘密にしたいと思っているわ」
ヴァルチアがおもむろに口を開く。ノルンは下げていた視線を上げ、彼女の顔を見た。
「魔人にとって魔王は、必ずしも敬意を示すべき相手ではない。むしろ最強を目指す者にとって、邪魔な存在でしかないのよ。そういう連中にとって次の魔王が誕生するまでの間は、自己顕示欲を満たす貴重な時間になる。幸いにも魔王の生死が不明のままだったから、連中も大人しくしていたみたいだけど、千年というのは一つの区切りになる。そこへ魔王の死と、転生したらしい新たな魔王は未だ覚醒していないと知られれば、あなたは真っ先に狙われることになるわ」
「僕は魔王の記憶を持っているだけです。自分が本当は何者なのかも、わかってはいません」
「記憶があるということは、魔王の魂があなたの中にあるということよ。その事実さえあれば、狙う理由は十分だわ」
「……」
ヴァルチアとの戦いで弱体化した今の自分ならば、最強を目指すほどの魔人でなくとも容易く殺すことが出来るだろう。
四ヶ月という短期間で成長を促した肉体は、ノルンが内に秘める力を放つには脆弱すぎた。動けるまで回復はしたものの、しばらくは切り札の『ケティルの門』を開く事は出来ないだろう。
「私の名を使えば、レーテ川の橋を渡るのは容易いわ。けれど当然、橋を管理する魔人に報告が行くことになる。これまで城に引き籠もっていた私が動いたとなれば、嫌でも注目を集めてしまうでしょうね。そうなれば、あなたの事もいずれ知られてしまうはずよ。それを避けるために、非常に不本意で、嫌で嫌で仕方がないけれど、古い知り合いに協力を頼んだわ」
彼女がその協力者を心の底から嫌いなのが、滲み出るオーラとその表情でわかった。ノルンはその様子に何だか罪悪感を覚えながらも、率直に感じた疑問を口にする。
「あの、それなら無理に橋を渡る必要はないのではないですか?」
その問い掛けに、ヴァルチアは少しだけ表情を柔らかくし、ノルンには読み取れない感情を乗せた。
「そう……レーテ川のことは、思い出していないのね。普通の川なら、他の手段もある。でもレーテ川は特別なのよ、特に私たち魔族にとっては――」
ヴァルチアはそれを、『アグエルの呪い』と言った。
「遥か昔、魔族と人類の間で、千年前のような大きな争いが起きたそうよ。その時、深淵の王であったはずの〈呪詛の偽王〉アグエルが、どういうわけか味方の魔族に呪いを掛けたの。橋を使う以外の方法でレーテ川を渡ろうとすると、力が奪われてしまう呪いをね」
「どうしてそんな呪いを?」
「わからないわ。ただその名が示す通り、アグエルは呪詛を振りまくだけの偽王だった。深淵に真の王が誕生した今となっては、アグエルが何をしたかったのか疑問だけが残る結果になったわね。ただ、その死後も呪いは生きていて、泳いで渡ろうとしたガルオークや、飛翔能力のある魔人が空から越えようとして失敗している……」
ふとノルンは、ヴァルチアの表情が少し変化した事に気付いた。どことなく不機嫌そうな顔である。だが彼はあまり深くは考えず、何気なく言葉を繋いだ。
「それでは誰も、橋を使う以外の方法でレーテ川を越えられなかったのですね」
するとヴァルチアは、自分の失態を見られてしまったような苦々しい表情で、淡々と感情を押し殺したような声で答えた。
「一人、どういうわけか跳躍で川を渡ることに成功したわ……」
何か触れてはいけないものに触れた気まずさを感じながら、恐る恐るノルンは訊ねる。
「それはその……跳び越える、ということですか?」
「ええ。その馬鹿げた方法で渡河した魔人が、今回、協力を頼んだ筋肉バカ、ゴルワノフよ……」
「……その人が、嫌い――」
「嫌いよ」
ノルンの言葉に被せて、ヴァルチアはハッキリと言い切った。ノルンはどう反応すればいいのか戸惑い、結局、それ以上は何も言わないという無難な選択をしたのである。
馬車の御者台に座り手綱を握るウーラは、森の気配に違和感を覚えた。普通の獣人であった頃の名残のように、自然の変化を敏感に感じ取ることが出来たのだ。近づく先に、人間が潜んでいる事を察知したウーラはわずかに眉を寄せた。
横目で隣のアリシアを見るが、彼女に気付いた様子はない。
ウーラは数瞬考え、主に報告することにした。当然、主のヴァルチアも気付いてはいるだろうが、これから魔人ゴルワノフと会うことを考えれば、判断を仰ぐ方が賢明だろうと考えたのだ。
「ヴァルチア様……」
そう一言、馬車の中に声を掛ければ十分だった。きょとんとするアリシアの視線を受けながらしばらく待つと、やがてヴァルチアの声が返ってくる。
「彼らに会うわ。場合によっては、利用させてもらいましょう」
「畏まりました」
ウーラは手綱を操りながら、気配の方に近付いて行く。
「アリシア様」
「は、はい!」
「詳しくご説明をしている時間がありませんが、落ち着いて冷静に、わたくしと同じようになさってください。よろしいでしょうか?」
「わかりました!」
両手を握って応えるアリシアに、ウーラは微かな笑みを浮かべて頷いた。
やがて、徐々に近付く気配の中に、馬車が入り込む。ウーラには、あちこちの叢や木陰に隠れた、こちらを伺う人の気配がはっきりと感じ取れていた。
馬車を止めたウーラは、御者台を降りる。アリシアも続き、二人は馬車を背に並んで立った。動揺と恐怖が、静かに広がってゆく。ウーラはその感覚に、主を誇らしく思う気持ちを深くしながら、隠れる人間たちに向かってゆっくりと、頭を垂れたのであった。