二十二話
視界が魚眼レンズで映したように歪み、闇に侵蝕され徐々に狭まっていく。ノルンの耳には速まる鼓動と、自身の呼吸音が響いていた。それ以外の音――鎧騎士たちの懇願やオブデンタールの呻き声、崩れる屋敷の軋む音――は、厚いベールに包まれたように遠ざかっていった。
「ハァ……ハァ……」
ノルンは息苦しさと、内側から溢れる燃えるような熱さに胸を押さえた。怒りで震える心がマグマのように溶け出して、体中を巡っているようだった。
黒い感情がささくれのように突き刺さり、その傷から闇が立ち昇って外に溢れ出す。それは黒い魔力となり、白い魔力と混ざり合いながらより密度を増した。
「ウウウゥ……ウゥ……」
噛みしめた歯の隙間から、獣のような声が漏れる。
――殺してやる!
増大した殺意が張り詰めた空気に伝染し、触れるものすべてに襲い掛かるような、殺伐とした雰囲気を作りだした。
すでにオブデンタールは、陸に上がった深海魚のように眼球を飛び出させ、だらしなく出した舌を噛み切り、赤い泡を口の端から溢れ出させて意味不明の声を漏らし虫の息だった。しかしそれでもノルンの内にある炎は、勢いを衰えさせることはない。
ジリジリと焼けた意識は薄れ、白と黒の魔力に呑まれる。ただ、闘争本能だけが怒りによって支えられ、蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。そして罠に掛かる獲物を、見境無く襲うのだ。
張り詰めた空気がヒリヒリと肌を刺し、ヴァルチアは胸の奥に湧き上がる懐かしさに目を細める。
千年近くも城に閉じこもっていた彼女にとって、戦いの空気は久しぶりだった。戦闘を好む方ではなかったが、それでも魔人であるがゆえに気持ちの昂ぶりは抑えきれない。
向けた視線の先では、屋敷と共にオブデンタールが肉塊と化す過程にあった。しかし押し潰されてひしゃげた顔を見たが、以前とそれほど変わったようには思えない。
重力による攻撃は局地的であり、彼女の所まで届くのは余波だけだ。それでも近付くにつれ圧力は強まり、普通の人であれば立っていることも困難だったかも知れない。
(どうやら、怒りに我を忘れているようね)
ノルンに視線を向けたヴァルチアは、彼の様子にそう判断する。無為にばらまかれた殺気は、近付くものすべてに対する攻撃だった。彼女が結界で守っているが、下手をすればアリシアたちも巻き込んだかも知れない。その判断が出来ないほど、ノルンは怒りに呑まれているようだった。
(いえ、溢れ出る高密度の魔力に、彼自身がまだ馴れていないのかも知れない)
本来、宿る魔力量は適正であるはずだ。しかし明らかに今のノルンは、許容量をオーバーしている。
全身から溢れる魔力が視認出来るのは、その密度が濃いということを示していた。その色が黒いのは魔族と、〈深淵の王〉ユグルなどを信奉する人類側の魔術師で、それ以外は白と言われている。少なくともヴァルチアが知る限り、この二つの魔力を同時に持つ者は過去に一人として存在していない。しかしだからこそ、ヴァルチアはある事に気付いた。
(同時に開く事が出来ない、闇属性魔法の『ピナフの門』と光属性魔法の『コクハムの門』を開いている――)
ヴァルチアは、オブデンタールたちを襲う重力の攻撃が、闇魔法の〈圧殺〉と光魔法の〈威圧〉を組み合わせたものだと見抜いていた。〈圧殺〉は肉体へのダメージ、〈威圧〉は精神、または霊体へのダメージとなる。
(魔法は精神の力。つまりそれは、魂へと通じるもの……ゆえに誰もが、魂の色を闇か光かに定める。同時ということはつまり、少年の魂は二つの色を持つということになる)
それが示す事実が何であるかは、さすがにヴァルチアでもわからなかった。だがそこから導き出される結論は、一つしかない。
(少年の中に、二つの魂がある――)
あの時、魔王と覇王の決戦の場にて何があったのか。覇王の死は伝えられたが、魔王については不明のままだ。
魔人が転生することはないが、魔王は違う。その魂は能力と共に受け継がれると言われていた。『ケティルの門』の少年と聞き、その可能性を真っ先に考えたのだ。
「……後は、この手で確かめるまで!」
ヴァルチアはワンピースをはためかせ、一気にノルンとの距離を詰めた。あと二メートルほどという所まで近付いた時、オブデンタールに向いていた視線がヴァルチアを捉えた。
敵意の眼差しに、ヴァルチアが怯むことはない。彼女の背中から黒い魔力が溢れ出し、蝙蝠の翼のように広がった。
魔力とは〈セフィラーの門〉を開くためのものだが、生まれつき大量の魔力を保持し、扱いに慣れている魔人にとっては別の利用方法があった。ノルンのように周囲に放出し、自らに有利な『場』を作ることもあるが、より扱いに長けた者は魔力そのものを武器にするのだ。
ヴァルチアが両手の指を真っ直ぐ伸ばし手刀を作ると、背中から薔薇の蔓を模した魔力が、腕に絡みついた。そして両側からノルンの首元を狙い、手刀で挟み込むように襲い掛かる。だがノルンはそれを察知したように、両腕で攻撃を防いだ。
「甘い!」
だがヴァルチアの腕に絡みついた魔力の蔓がスルスルと伸び、ノルンの首を締め上げる。ノルンはすかさず両手でそれを掴むが、ヴァルチアの背中の翼から幾つも伸びた蔓が彼の脇腹に突き刺さった。
「ぐっ――!」
呻き声を漏らして蔓を掴んでいた手が緩んだ瞬間、ヴァルチアは蔓の巻き付いた両腕を一気に左右に広げた。蔓が締まり、ノルンは息を詰まらせると、膝から崩れ落ちる。そこでようやく、ヴァルチアは魔力の蔓を霧散させてノルンを解放した。
「この程度で終わり?」
ヴァルチアは腰に手を当て、地面に膝を付くノルンを見下ろす。
「ぐぅ……ぐっ!」
ノルンは体を小刻みに揺らし、喉を鳴らすように声を絞り出した。そして、崩れ落ちた様子を逆回転するように立ち上がると、歯を剥き唇の左右を大きく広げて笑った。
そして――。
「あああああああーーーーっ!!」
体の奥から絞り出すように絶叫すると、外に溢れ出していた魔力がノルンの全身に吸い込まれてゆく。
一瞬の静けさが二人の間を埋め、直後、互いの全身から爆風のように魔力が溢れた。波紋のように広がり、ぶつかり合う。激しい衝撃が跳ね返り、ヴァルチアとノルンを襲う。だがそれを合図のように、両者が同時に動いた。
「はあっ――!!」
「がああああ――!!」
ヴァルチアの鋭利な声と、ノルンの獣のような声が重なり合う。結界内の空気が大きく震え、二人の立つ大地がえぐれた。魔法ではない重圧に包まれる中、互いに一歩を踏み出し間合いを縮めた。
二つの巨大な魔力が悲鳴のような高音を上げながら、相手を呑み込もうと嵐のように荒々しくうねる。
「もっと! もっとだ!」
ヴァルチアは自らも力を上げながら、まるで面影を求めるようにノルンに叫んだ。
(こんなものじゃない。少年の中にあいつがいるのなら、まだ足りない!)
だが、ノルンがすでに限界なのは明らかだった。歯の隙間から血を流し、目は充血して今にも破裂しそうだった。
「チッ!」
舌打ちを漏らしたヴァルチアは、爪を立てた手に魔力を宿し、ノルンに裂帛の気合いとともに最後の一撃を放った。
「はあああっ!」
彼女の手は巨大な牙となり、ノルンの魔力の壁を食い破ると、幾筋もの刺突となって全身を蜂の巣にした。
「くはっ……」
大きく仰け反ったノルンはその場に倒れそうになるが、ヴァルチアはそれを許さない。反対の手で放った殴打が、ノルンの肋骨を粉砕した。