二十一話
憮然とは程遠い、鋭利な刃物のような怒気に満ちた表情で、ノルンは立っていた。しかし自分自身に対する失望という意味では、あながち間違いではないのかも知れない。
その手に掴むのは、磔にされたラフィーアの顔面を狙ったボウガンの矢だった。しかも通常よりも太い、子供の腕ほどもある特別製だ。
彼がボルバウスの城から転送魔法陣でオブデンタールの屋敷に辿り着き、話し声が聞こえた中庭に出た直後、まさに特製ボウガンがラフィーアの顔に向かって放たれようとしているところだった。
一瞬で沸騰したようにノルンの中で何かが爆発し、抑えきれない衝動に身を任せ、次の瞬間にはその姿がラフィーアの前にあった。
「あなたが、オブデンタールですか?」
ノルンは視線を二階のバルコニーに向けると、落ち着いて静かすぎるほど冷静な声で問い掛ける。
「ぎゃぎゃぎゃ、な、何者だぎゃ!」
「僕は、ノルンです」
そう口にした彼の手がわずかに震えた。握りしめたボウガンの矢が、粉々に砕けて落ちる。ノルンは手を払いながら、側にやってきたアリシアを視界に捉えた。
アリシアはウーラが着ていたのと同じメイド服を身につけている。
「母さんと荷物を頼みます」
油断なく鎧騎士たちに視線を向けたまま、ノルンは背中の荷物を降ろした。アリシアはそれを引き寄せると、ラフィーアを拘束する縄を解き始める。
「てめえ、何――!」
アリシアを止めようと一歩前に出た鎧騎士の一人は、言葉を呑み込んで体を硬直させた。ノルンから陽炎のように立ち上る殺気が、それ以上の行動を許さなかったのだ。
オブデンタールが上から鎧騎士たちに命令を叫ぶ中、だが彼らはノルンの視線から逃れることが出来ず、その動きも完全に封じられていた。本体が霊体である鎧騎士たちは、ノルンの存在をより強く鋭敏に感じ取っていたのである。
彼らが見るノルンの本質は、十五歳の少年ではない。怒りでいつ爆発してもおかしくはない、魔力の塊のようなものだ。内側で荒れ狂う嗜虐の炎が、解き放たれるのを待ち望んでいる。そうなれば、結果はあまりにも明らかだった。力の差は歴然であり、〈死の誘い〉リリスからは悪霊といえども逃れる術はない。霊体の死、それは無だ。
一度はリリスを敵として退けたノルンだが、今は互いに手を取り合う味方同士だった。
アリシアがラフィーアを抱いて離れた場所に移動すると、ノルンはゆっくり息を吐き、前に一歩踏み出した。逸る気持ちを抑えていた彼は、ようやくその感情を剥き出しにする。
目を見開き、キツく噛みしめた歯の隙間から、絞り出すように戦いの始まりを告げた。
「絶対に許さない!」
その瞬間、ノルンの全身から白い魔力が吹き出したのだ。
呆然とアリシアは、その様子を見ているしかなかった。腕の中にはラフィーアがあり、荷物の中から取り出した大きなタオルに包まれている。昨日の自分を見るようで、どこか気恥ずかしい。だがそんな気持ちも、すぐに吹き飛んでしまう。
自分が離れた場所に移動した直後、ノルンから白いモヤが吹き出したのだ。離れたといっても同じ中庭で、数十メートルほどなのでノルンの姿はハッキリと見えていた。
これから何が起こるのか判らない不安で、アリシアの全身には自然と力が入った。
溢れ出した白いモヤは、拡散せずに頭上で渦を巻く。張り詰めた空気は触れるだけで、ピリピリと肌を刺すように痺れた。すると、白かったモヤに黒いものが混じり始めた。二色のモヤは模様を描くように混じり合いながら、屋敷を包み込むほど巨大な渦に成長していったのである。
空気が振動し、音を立てながら屋敷の壁にいくつものヒビが走った。鎧騎士たちも膝を折り、両手を地面に付いている。
何が起きたのかアリシアが答えを見つけるよりも早く、その余波が襲い掛かって来た。
「あっ――!」
巨大な力が自分を踏み潰そうとしているようだ。アリシアはラフィーアを守るように頭を抱き、片膝を付き重圧に耐えた。
その時だ。ふいに体に掛かる圧力が消えたのである。驚いて顔を上げると、うっすらと見える半球の小さな結界が、アリシアの周囲を包んでいた。それだけではない。もっと巨大な結界が、屋敷を覆うように展開されていたのである。
視線を巡らせたアリシアは、先程、自分たちも出てきた離れの入口に立つ二人の女性の姿を見つけた。
親子ほども背丈の違う、二人の女性。背の高い方は、昨日別れたばかりの羊の角を生やした獣人の女性だ。自分よりも小さな、赤と黒を基調としたワンピース姿の少女には、見覚えがない。ただ、思わず釘付けになるような美しさと迫力がある。
少女はまるで、獲物を見つけた猛獣のような、獰猛な笑みを浮かべてノルンをジッと見つめていた。
自分の目で確かめなければならないと、ヴァルチアは強く思っていた。
『ケティルの門』を開く少年の正体を知ることが、行方不明の魔王の生死を示すのだ。それは千年もの間、彼女が求めていた答えだった。
そして今まさに、その答えが目の前に現れたのだ。白と黒の魔力を放出し、圧倒的な力でオブデンタールの屋敷を住人ごと踏みつぶそうとしている。ヴァルチアは震えると同時に、ある確信を得た。
自然と笑みがこぼれる。獰猛で残忍な、見る者を引きつける歓喜の笑みだ。
(これはまだ、誰にも知られてはいけないわ)
ヴァルチアは咄嗟に屋敷を覆うほどの結界を張り、ついでに隅でうずくまる少女のために小さな結界も作った。
「ウーラ」
斜め後ろに控えた使徒の名を呼ぶ。ウーラはすべてを察したのか、黙ったまま恭しく頭を垂れた。
ヴァルチアは応えるように一度頷き、ゆっくりと歩みを進める。久しぶりの高揚感が、白い彼女の肌をわずかな桃色に染めた。
「さあ、始めましょう」
自ら張った結界の中に身を入れ、ヴァルチアは声を弾ませて笑った。