十七話
もしもそこに安らぎがあったのなら、かつて誰もが無垢であり続けると信じられた、母の胎内――楽園を懐かしく思うだろう。けれどノルンの意識を呑み込んだ闇にあるのは、累々たる死の匂いと汚泥のごとき負の感情だった。
重苦しい絶望は、薄く皮を剥ぐようにわずかに残された正気を奪ってゆく。剥き出しの狂気と同調するように、魂は容易く低き場所へと落ちて行くのだ。留まることを止めれば、楽になるのと同時に戻る路も閉ざされるだろう。
ノルンはそれを承知していたわけではないが、無意識で最後の命綱を手繰り寄せていた。それが何であったのかは、実のところ彼自身、あまりわかってはいない。しかしそれは母ラフィーアを救い出すという使命感と、わずか四ヶ月余りの時間に対する執着に他ならない。
そんなノルンを呑み込んだ闇に気泡がいくつも浮かび上がり、ナイフで引いたような裂け目が走ると、瞼のように気泡が開いて、ぎょろりとした眼球が姿を現した。眼球たちは個々に意思を持って、好奇心を満たすように忙しなく動き始める。
ノルンは戸惑いながらも、その一つに注視しようとした。だが脳裏――実際は意識体なのでそう呼べる部分は存在しないが、感覚は肉体があった頃と同じように得られる――に、厳かな声で警告が発せられた。
「感情のこびり付いた闇の深さは、深淵に届くと言う。『彼ら』と目を合わせるな。奴に見つかれば、引きずり込まれるぞ」
しかし警告は、わずかに遅かったようだ。ノルンは視線を逸らした先で、別の眼球を捉えてしまったのである。とたん、バラバラだった眼球の方向が一斉にノルンに向いた。
「み~つ~けた~」
それは思わず耳を塞ぎたくなるような、不快で神経を逆なでするような声だった。年齢も性別もわからない不気味な声は、闇の底から響いてくる。そして、眼球だらけの闇の中から、海上に出るように太く白い腕がぬっと伸びてきたのだ。その腕はふやけたような指で宙を掻き、凹凸のない細長い顔を覗かせた。そしてそのまま、腰までを闇の上に現したのだ。
それは、伸ばした腕とは反対の腕に、人形のようなどこか作り物めいた、長い金髪の少女を抱いていた。少女は黒を基調とした可愛らしいワンピースドレスを身につけていたが、両腕両足が存在しない。そして閉じた両目は、瞼で縫い付けられていた。
「こんにちわ、お兄さん」
不快な声を発した少女の口が、にいっと笑みを浮かべる。ノルンは直感で、目の前の存在が何であるかを悟った。
「リリス……」
「せ~いか~い」
少女がそう言って笑うと、彼女を抱く白い者も身を震わせた。
ノルンはその様子に、ぞっとした。ありふれた動作の一つ一つが、人の心を狂わせるには十分過ぎるほどの異様さだった。ここは正常な者が来てはいけない場所だ……ましてやまだ生きている者が、足を踏み入れる所ではない。ノルンはすぐに身を翻し、逃亡を図りたかった。だが射竦められたように、視線を外すことも出来ない。
「さあ、お兄さん。私と一緒に行きましょ?」
白い者がノルンに手を差し出す。それはまさに、死への誘いだった。
(違う)
ノルンはすぐに、自分の考えを打ち消す。死よりもさらに深い闇の奈落、リリスの背後には〈偉大なる父〉と対極を成す最も恐ろしい存在があるのだ。
「ハハハハハハハハハ――!!」
リリス越しに、ノルンは見た。血よりも赤い、その眼を――。
「器の内側に封じられた今のお前なら、捕らえるのも容易いぞ!」
その声の直後、抗うことも許されないほどの圧倒的な威圧感がノルンに襲い掛かる。畏怖が気力を削り、わずかな希望すらも打ち砕こうとしていた。
(もう……ここまでか……。母さんを助けることも出来ないなんて)
「まだだ!」
その時、警告を発したあの声が、再び脳裏に響いた。
「でも、僕にはもう打つ手がない」
「お前は一人ではない! お前という自我はお前自身のものだ。だがこの魂の記憶は、すべて原初へと帰結する、一つの連なりなのだ。思い出せ! かつてのお前……私が手に入れた十二の仲間たちを――!!」
「――!!」
瞬間、ノルンは白髪の男と共に戦場に並び立つ、彼らの姿を見た。すると、現れた十二の光の球がリリスを取り囲んだのである。
「ギャアアアア――!!」
リリスは悲鳴と共に打ち震え、火傷のように白い者の体が爛れてゆく。そして怒りと悔しさを少女の顔に滲ませながら、闇の中へと沈んで行ったのである。
「おのれ、おのれ! 私は諦めぬぞ! 我が種はすでに蒔かれた! 憤怒と憎悪がその種を育て、やがてカナンの至る所で芽を出すのだ! 見ているぞ! 闇の中から、いつでもお前を見ているぞ!」
十二の光が追い立てる中、赤い眼は多くの眼球と共に渦を巻く闇の底に呑まれて行った。そして残された光の球は、ノルンを勇気付けるように頭上を旋回すると、一つ、また一つと役目を終えて消えたのである。
「助かった……のですか……?」
「そうだ。お前は再び、彼らと繋がったのだ。今この時、彼らはお前を認識した。『ノルン』の帰還を知ったのだ」
「ノルン……僕、いえ、あなたですね?」
「お前もだよ、ノルン。これはまさに、運命の名だ。我らの魂が帰る場所を、常に示している。焦る必要はない。時が来れば、必要な情報は頭の中に蘇る。これは、お前の人生だ。己の心に従い進めばいい」
「はい――」
その返事を合図に、闇はノルンを解放するとやがて霧散した。意識は一度深い眠りの中に落ち、やがて小さな光に向かって浮かび上がってゆく。手繰り寄せていた命綱が、ノルンを再び生者の世界へと導いてくれた。
「……様! ノルン様!」
軽く肩を揺すられ、ノルンは瞼を上げた。
「お気づきになられたのですね。ようございました」
心配そうに見下ろしていたウーラが、笑みを浮かべてホッと息を吐く。
「僕はどれくらい、気を失っていましたか?」
「一分ほどでございます」
ノルンは半身を起こし、ゆっくりと立ち上がった。
「気を失われている間、ノルン様の中より強い気配をいくつも感じ取りました。いったい何があったのでしょうか?」
「……」
ウーラの問い掛けに、ノルンは無言のままランプの灯りが届かぬ闇を凝視する。近付きつつあった蠢く気配は、すでに離れていた。彼の中で行われた出来事を、敏感に感じ取ったのだろう。
「出口を探しましょう」
問い掛けの回答とは違う言葉を口にし、ノルンはランプをウーラに預け、自分は気を失ったままのアリシアを抱き上げる。と、その振動のためか、アリシアは小さく声を上げながら目を開けた。
「あ、あれ? ここ……は?」
まだ自分の状況がわからないのか、アリシアはキョロキョロと周囲を見回し、ウーラやノルンの顔を見た。そして――。
「あの! お、降ろしてください!」
ノルンの腕の中で、アリシアは顔を真っ赤に染めながら、手足をばたつかせて暴れた。すぐさま解放されて自らの足で地面に立ち、ホッと安堵したのも束の間、全身を包んでいたタオルが何の押さえもなくなったことでストンと落ちた。
「きゃあ――!」
アリシアは両手で胸を隠しながら、その場にしゃがみ込む。そしてどこか責めるような目で、ノルンを見上げた。
「あの……見ました?」
普通ならばここで、多少は気を使ったりごまかしたりするのだろうが、ノルンにはそもそも、乙女の裸を見たことに対するどんな感想もない。だから正直に、ありのままを伝えた。
「はい。タオルで隠したのは、少し前からなので何度も」
「いやあ!」
顔を隠したアリシアは、しばらくそのまま動かなかった。