十六話
床で仰向けになるボルバウスの横に立ったそのメイドは、やや紫がかった黒髪をショートボブにし、頭部の左右に丸まった羊の角を生やしていた。背は高く、バランスの取れた起伏と曲線が構築したスタイルは成熟した色気を滲ませ、ただの獣人ではなさそうな背徳感を煽る雰囲気をまとっていた。
「お呼びでしょうか?」
彼女はメイドらしからぬ渋面でそう言うと、わずかに腰を折る。
「おお! ウーラ! は、早くその小僧を殺せ!」
ボルバウスは勝利を確信したように、興奮気味で両腕をバタバタ動かした。だがウーラと呼ばれたメイドの返事は、素っ気ない。
「お断り致します」
「へっ?」
予想外の言葉に、ボルバウスは思考が追いつかずに唖然とする。
「な、何の冗談だ?」
「冗談ではございません。わたくしは主のヴァルチア様より、ボルバウス様の身の回りのお世話を申し付けられているだけでございます。護衛はその範疇ではありません」
「なっ!?」
絶句するボルバウスをよそに、メイドは律儀に待つノルンに視線を向けた。
「お初にお目に掛かります。わたくし、魔人のヴァルチア様にお仕えする使徒のウーラでございます。この状況ではあまりゆっくりとお話が出来ませんので、まずはそちらの用件をお済ましください」
「な、何を言っている! ま、待て小僧! わかった、吾輩の実験を手伝わなくても良い! 不死にもしない! だから、助け――」
その終わりを待たず、ノルンのわずかな動きで床から生えた無数の針が、ボルバウスの全身を貫いた。
「グギャ!」
ボルバウスの口から奇声が漏れ、憎々しげに剥き出した眼をぎょろりと動かす。
「みじずれだ……」
ボルバウスが引き裂かれた口を意地で動かし、湿気を帯びた声で最後にそう漏らすと、突如、城全体が大きく揺れ出した。
「どうやら、ボルバウス様が死滅に瀕した際に、城全体が崩れる仕組みのようでございますね」
メイドが冷静に分析する中、天井の一部が崩れ床に激突した。その衝撃で床が抜け、その下から底が見えないほどの深い穴が口を開けたのだ。
その場にいた全員が、崩れる床と共に落下してゆく。足場を失う中、ノルンとメイドだけが平然としていた。ノルンは、意識を失い頭から落下するアリシアに気付き、四元素の下級魔法を解放する『ティファトの門』を開いた。そして風の下級魔法〈風波〉を放ち、自分の体をアリシアのそばに寄せると、彼女の体を抱きかかえた。アリシアは全裸であったが、ノルンに気にした様子はない。
「失礼ながら、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
落下の最中ながらも、普段通りといった様子で声を掛けて来たのはメイドのウーラだ。
彼女はスカートの前部分だけをめくれないよう手で押さえ、落下中とは思えぬピンッと伸びた姿勢正しい立ち姿で訊ねる。
「……ノルンです」
端的な返答にウーラは落ち着いた笑みを浮かべ、会釈で礼を示した。
「ではノルン様、僭越ながら、お顔の色がすぐれないようにお見受けしますが、ご気分はいかがでしょうか?」
「……」
問いに対する返事はなく、ノルンは視線を頭上から差す光が届かない、深い闇の中に向けていた。ウーラもわずかな間の後、それに倣うように下を見た。すでに二人の姿は、一寸先も見通せぬほどの濃い闇に包まれている。
「怨念……それも、呼吸するだけで心を狂わせるほど邪悪な――」
ノルンがぽつりと漏らした声が、まるで嘲笑うように闇を震わせた。
「ボルバウス様の居城は、もともと遥か昔に別の魔人様がお住まいになられていたものです。地下はすでに多くの怨念で溢れておりまして、そこへ捨てられた実験体が自らの憎悪によって怨念を集め、蝕まれてしまったのでしょう。
肉体を持ってしまったが故に、怨念たちはどこへも行けず、ただひたすらに生者への恨みや憎しみを増幅させていった結果……なのではないでしょうか」
ウーラの声が淡々と響く中、下の方から何かが叩きつけられて潰れるような音が複数聞こえた。おそらく、巨体の重さで先に落ちて行ったガルオークたちだろう。その音で地面が迫っていることに気付いたノルンは、再び〈風波〉を足元に放ち、勢いと衝撃を殺して易々と長い落下の果てに辿り着いた地面に足を付く。
とたん、かなり強い死臭が鼻についた。だがノルンは表情を変えず、ウーラに声を掛ける。
「すみません、背中のリュックからランプを出してもらえますか?」
「かしこまりました」
ウーラは光の一切ないこの場所でも見えるのか、ノルンに近付き背中のリュックからランプを取り出す。するとランプから、カラカラと音を立てながら何かの破片が落ちた。それを一欠片だけ拾って確認し、ウーラが報告する。
「……風よけのガラスが割れてしまったようです」
「使用に問題はありません。それより、彼女をお願いしてもいいですか?」
「はい。……あの、出来ましたら大きめのタオルを一枚、お借りしてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
了解を得たウーラは、素早くリュックからタオルを取り出し、受け取ったアリシアの裸を隠すように包み込んだ。
その間にノルンは、火の下級魔法〈発火〉で指先からランプに火を灯すと、確認するように周囲をぐるりと照らした。だが闇は深く濃く、地下空間の全容を確かめることは出来なかった。その代わりに、鳥肌が立つようなおぞましい気配が、ゆっくりと蠢きながら近付いてくるのを感じ取ったのだ。
「――っ!」
不意に、ノルンは顔を歪めて膝を付いた。何かがぬるりと、彼の意識の中に入って来たのである。それは様々な感情をまき散らしながら、ノルンの心を蝕んでゆく。
――苦シイ、苦シイ、ドウシテ自分ダケ……ズルイ、ズルイ、ズルイ! ダカラ、オ前モ苦シメ!!
――憎イ、憎イ……ドイツモコイツモ、死ネ、死ネ、死ネ! 狂イ死ネ!!
ノルンの蝕まれて錆び付いた心に、無数のヒビが走る。吐き出された毒が心を腐敗させ、やがて粉々に崩れる様を嘲笑う声が、細く繋がった意識の糸を切り落とした。
「ノルン様?」
ウーラの声が遠くなる中、ノルンは崩れ落ち、意識は深い闇に呑み込まれたのだった。