十二話
生命力の強いガルオークは、体が上下で切断されてもすぐには息を引き取らなかった。
「な、何をした……今のは、何だ?」
自分を見下ろすノルンに、怯えを含んだ視線を向けてガルオークは訊ねた。
「『ケティルの門』を開きました。原初の魂が持つ、超越した力の解放です」
「ケティル……知っているぞ。ボルバウス様は俺たちガルオークにも知性が必要だと、特別な薬と魔術に関する知識を授けてくれた」
「特別な薬?」
「呑むと世界が広がるような気持ちになり、本の内容がすらすらと頭に入る。気分は高揚し、自分たちが特別なガルオークだと実感できた。だからわかる、『ケティルの門』は普通の人間では開けない……」
「ではきっと、僕は普通ではないのでしょう。それに母はハーフエルフ、父は存在しないので、人間でもありません」
感情の揺れを表すことなく、ノルンは淡々とそう口にした。ガルオークは複雑な表情のままノルンを見つめ、やがて命の火を消したのだった。
しかし動かなくなったガルオークを、ノルンはまるで途方に暮れたように立ち尽くしたまま、しばらく眺め続けた。自分で自分の心を、持て余しているようにも見える。
(前世の自分なら、きっと何も感じることはなかったのでしょう。でも今の僕は……)
エリザの言葉が蘇り、それがノルンの中に小さな痛みを生んでいた。
「――あなたが奪う命が、決して路傍の石ではないことを忘れないで……」
たとえガルオークとはいえ、その命を軽んじたつもりはない。だが、怒りに任せて殺したのは事実だ。母を捕らえたガルオークだと知った時、自分でも抑えきれないほど黒い感情が溢れた。それを、どこかに吐き出したかったのかも知れない。気休めだったとしても、敵の死という目に見える形で表すことで十分だった。
(心が……痛い……)
それは後悔ではない。喜びでもない。ただ、胸が痛んだ。ハッとして、ノルンはどこか怯えるように周囲を見渡す。そして、火の上級魔法を解放する『ゲブラウの門』を開き、〈蒼炎〉を発動した。たちまち切断されたガルオークの死体は蒼い炎に包まれ、骨をも残さず焼き尽くされた後、余韻もなく炎は消えた。ノルンの心には、失敗を隠すような後ろめたさだけが残り、それを振り払うようにガルオークが焼かれた焦げ跡に背を向けて歩き出した。
今取り組みべきは、楔印の解読をして結界を破ることだった。ノルンは見つけた楔印を一つ一つ、指で何度もなぞる。すると、頭の中に前世の記憶にある豊富な知識が流れ込み、わずか数十分ほどで解読は完了した。そしてノルンは、少し後悔して焦げ跡に目を向ける。
結界を破るにはキーとなるものが必要で、おそらくそれもガルオークと共に燃え尽きていた。仕方なくノルンは、先の尖った石を拾うとそれで掌に楔印を刻み、血で赤くなった手を前に突き出して歩き出した。するとすぐ何かに阻まれたような圧力を感じたが、掌の楔印が鈍く光ったかと思うと圧力はあっけなく消え、目の前に年代を感じさせる黒い城が姿を見せたのである。
「ここに母さんが……」
そう呟いたノルンは目の前に入口を見つけ、木製のドアを静かに開いた。とたん、カビや獣の臭気が流れだし、ノルンは素早く身を滑り込ませるとドアを閉じた。
そこから横に薄暗い廊下が伸び、その先に広くなった場所がある。その辺りからわずかな気配を感じるが、数まではわからない。窓から差すわずかな光が、壁に接して置かれた木製の机を照らしていたが、他の姿は見えなかった。
ノルンは足音を忍ばせながら、ゆっくりと歩を進める。徐々に全貌が見えると、どうやらそこは牢屋のようで、今は見張りの姿がない。牢屋の中はさらに暗く、何かが動いているのだけがわかった。
鉄格子に近づくと、暗闇の中でもそりと何かが顔を上げた。
「誰か……いるのかい? ガルオークのクソ野郎じゃなさそうだけど」
「僕はノルンです」
しわがれた男とも女とも判別の付かない声の問い掛けに、ノルンは素直に名乗った。
「ノルン? 運命の神様が、今更あたしに何を告げに来たって言うんだ。今以上の絶望など、ありはしないさ」
「いえ、僕はただのノルンです」
訝しむような沈黙の中、それは暗闇から光の中に顔を覗かせる。現れたのはくすんだ金髪を長く伸ばした女性のようであったが、その容貌は異形だった。
目は作り物のようでこぶし大もあり、鼻は削げ落とされた跡のように平ら、口には唇がなく、こけた頬には太い血管が数本、チューブのように浮き出ている。そしてわずかに見える首には、鱗が生えていた。
「……よく見えない。こんな目をしているのに、遠くが見えないんだよ。ああ、でもガルオークのクソ野郎じゃないなら、誰でもいいさ。あたしは何一つ持ってやしないけど、もしもあたしを憐れと思ってくれるなら、頼むから解放しておくれよ」
「ここから出して欲しいのですか?」
「違う。この醜い首を、切り落として欲しいのさ。あたしたち家族を、殺しておくれ」
「家族……?」
ノルンの問い掛けに、女はずるりと重い体を動かす。引きずるような音が暗闇の奥から響き、やがてその全容が明らかになった。さながらその姿は、〈死の誘い〉リリスが誕生後、残った人間の欠片を火口に破棄し生まれた、三つ首の竜〈災いの招き〉ゼミューのようだった。
女の首以外に男と子供の首が生え、その二つの首はすでに腐敗し、背中の方に倒れていた。体は肌色の蛇のようで、乱雑に配置された三人分の両手足が萎れた花のように生えている。
「すでに……死んでいます」
「肉体的にはね。でも魂はまだ、ここにある。二人の声が、今もあたしには聞こえるのよ。助けて、苦しいってね。でもあたしには、どうすることも出来ない。自分を殺そうとすると、体がそれを拒否するのよ。自分を傷つけることが出来ないように、創られてしまったから……ボルバウスに」
ずるり、ずるりと女は鉄格子に近づいて来る。
「お願い……ノルン」
絶望に染まった女の目に、わずかな日差しが反射して小さな光となった。それはまるで、希望を見出したようにも思える。いや、彼女にとってノルンが希望なのだろう。縋るような視線に、ノルンは俯くしかなかった。
「もしかして……誰かを殺すのは初めてなのかい?」
何かを見て取ったのか、女が訊ねる。
「いえ……先程、ガルオークを殺しました。それが、初めてと言えるかも知れません」
そう自分で口にしながら、ノルンは何かに気付いた様子で口をつぐんだ。
(そうだ、初めて僕は命を奪ったんだ――)
誰でもない、自分がその意思で初めて殺したのが、あのガルオークだった。前世の記憶でどれほど殺そうとも、それに意味はない。
あまりにも異質な誕生をした事で、自分が何者か問う時に、どこか自分という存在を前世の延長として捉えていた。だからつい比較をして、その思考をトレースしてしまったのだ。
だがそもそも、それが間違いなのである。魂は共有していても、心は違う。だからこそ、今の自分はあれほど痛みを感じたのだ。本当の彼自身、命を路傍の石だなんて、思うはずもないのに。
「……どうか、したのかい?」
女の声で我に返り、ノルンは首を振った。
「もし、辛いなら構わないよ。近くで見たら、あたしの息子くらいじゃないか。そんな子に頼むなんて、あたしもどうかしていた」
「いいえ、大丈夫です。……ただ一つ、教えてください。死ぬ以外に、あなたが幸せになる方法はないのですか?」
「こんな化け物、どこで生きればいいのさ。夫や息子の苦しむ声を聞きながら、もしもあたしが幸せを感じたのだとすれば、その時は心も化け物になった証拠だよ。そんなの……あんまりじゃないか」
瞬き一つしない女の目から、涙が溢れた。ノルンは唇を噛み、深呼吸をする。
「お名前を、聞いてもいいですか?」
まるでそれが儀式であるかのように、ノルンは訊ねた。その表情からはわからなかったが、女は笑ったようだ。
「……レイミー」
彼女が名乗ると、ノルンは小さく口の中で呟き、手を水平に動かす。
鉄格子と女――レイミーの首が床に落ちた。カランと鳴る鉄格子の音が、静寂を破ってやけに響く。ノルンは転がったレイミーの頭部を一瞥し、牢に背を向けて歩き出した。