第一章 ガイウスの宴⑤
ジュリアスと踊り終え、ミュリナが最初にたたずんでいた壁際に戻ると、父親がふたりの紳士と談笑していた。いや、三人とも笑っていないから、談笑とはいえない。
「エモンティエ伯爵、そろそろ落ちつかれましたか?」
「ブランデーをもう一杯お持ちしましょうか?」
「お気を確かに。我々は被害者同盟ですぞ」
「もう、あのひとにはまいっちゃうからね」
「侯爵夫人じゃなかったら、縄でくくって石つけて庭園の池にしずめたいくらいですよ……」
「庭園の池程度じゃだめですよ、子爵。マリナン海溝くらいじゃないと」
「マリナン海溝の底からでも蘇ってきそうですけどね……。ワカメひきずって」
「それでも化粧ははげず……」
「ひょっとしてアレ、素顔ですかね? ちょっと夫人の寝室に呼ばれて、確かめてきてくださいよ、男爵」
「おおおおそろしいことをおっしゃらないで子爵!」
「じゃあ伯爵に行ってもらったりして……」
「なんのお話ですか、お父様?」
ミュリナの問いに、ふたりの紳士がこちらを向いた。
ミュリナは一瞬、目が点になった。金髪・赤毛・マロン色と髪の色はちがうが、父親を含め雰囲気のよく似た優男たちである。きりっとしていればいい男ぶりだろうに、弱気な性格が表情ににじみ出ているところがそっくりだ。
「おおー、伯爵の美しいお嬢さん! 清涼なる若き乙女よ!」
「解毒。解毒ですよ。お化粧夫人の毒素を、うるわしき乙女を見て解毒」
「お化粧夫人って……お父様をテラスに誘った、あの方?」
「ベルベビッチ侯爵夫人ですよ。無類の男好きなんですが、好みのタイプが限定されてるんです。おかげで……我々ふたりは……心安らかに社交の場に出ることがかなわず……」
「泣かないで子爵。贄仲間が増えたじゃないですか!」
「に、贄仲間……」
あえぐようにエモンティエ伯がつぶやいた。こころなしか、タイが乱れているような気がする。
「お父様、あのお化粧の厚いご夫人と、なんかしたんじゃないでしょうね?」
「ないないないないない! なんかされそうになったところをこのふたりに助けてもらったんだよう~」
「危機一髪でしたね」
「お化粧夫人に誘われて、人気のない場所に行ったらだめですよ。貞操の危機ですよ。僕なんかズボンまで下げられましたよ。あ……お嬢様の前で、失礼」
……社交界にはものすごいツワモノがいるようだ。
「そのベルベビッチ侯爵夫人は、今どちらへ?」
「仮面の補正に」
「は?」
「化粧直しです。一度化粧直しに行くと一時間は戻ってきませんから、今のところ安全です」
「今のうちに舞踏会を楽しまないと。お嬢様、次の曲お相手していただけませんか?」
「あっ、こら子爵! どさくさにまぎれてぬけがけを! 伯爵のお嬢さんは僕が狙っていたのにい!」
「申し込んだ者勝ちです!」
「ずるいずるい。僕に譲るって言ったくせに!」
金髪の子爵と赤毛の男爵が、ミュリナとのダンスの順番をめぐって言い争っている。
一刻前まで壁の花だったのがうそみたいだ。会場の誰からも相手にされず、ぼんやりしていた父親にも(ヘンな理由にしろ)話相手ができたみたいでほっとする。
ミュリナはなんだか楽しくなってきた。
あらためて闘志が湧いてくる。
フォンティネール夫人のおかげかもしれない。きちんとお礼を言いたいと思い、ミュリナは大広間を見渡した。
夫人は上位貴族に囲まれていて、話しかける隙はなさそうだった。
しかたがない、機をみましょうとフォンティネール夫人から視線をそらしたら、ダンス中のジュリアスと一瞬だけ目が合った。
(あら? こっち見てた? ――ああそうだ!)
そうだった。父とジュリアスが話す場をはやくもうけなければ。
「お父様、あのね――」
社交界という戦場。計画とはややちがったが、初陣は首尾上々だと言っていい。
本物の社交は、ラストダンスのあとで。
セレイア王国の社交界を言いあらわす言葉だ。その言葉どおり、楽団の奏でる音楽が流れている間は適度にばらけていた貴族たちが、急に派閥ごとに固まりだした。このあと王城を出ておのおのの館に別れ、派閥ごとの社交がはじまるのだ。
どこの派閥にも属さないエモンティエ家の者は、とくに行き場はない。ジュリアスはエモンティエ伯爵の話を熱心にきいてくれたし、あとは王都にいる期間中滞在させてもらっている大叔母の屋敷に帰るだけなのだが、ミュリナにはやることがあった。
フォンティネール夫人に、きちんとお礼をしなくては。
ミュリナはロングギャラリーで夫人を待つことにした。
父親とともに「序列絵」と呼ばれる歴史画を、年代を追って観賞する。最も新しい序列絵の前はひとだかりだった。その絵を見れば、今この社交界で誰が勢力を持っているか一目瞭然なのだから、話題の種にならないはずがないのである。
ミュリナは人垣の隙間から、二年前に描かれたという最新の絵を観た。
当代国王は初代の名を継いだガイウス八世。まだ若く美丈夫である当代国王の右隣りに、黒い宮廷用コートをまとった眼光するどい長身の紳士が描かれている。それがフォンティネール伯爵だということはすぐわかったが、ほかは誰が誰やらミュリナにはさっぱりである。しかし、みんな食い入るように真剣にその絵を観ていることから察するに、序列絵の影響力は絶大のようだ。
(ふんふん。なるほど)
ミュリナは絵の前のひとだかりから離れ、隅にたたずむ父親に話しかけた。
「ねえお父様。エモンティエ家もあの絵に描かれれば、注目されて研究の成果をもっと広められるんじゃないかしら」
「描かれればって。軽く言うなあ……」
「いっぱい魔物を倒せば、描いてもらえるんでしょ?」
「いっぱい魔物を倒せばって。エモンティエ領は魔物が出ないようにしてるのに……」
「そこなのよね。それで考えたんだけど、わたしが序列絵に描かれてみようかしら」
「え? ミュリナが序列絵に? そんな、評判の肖像画描きに姿絵を注文してみようみたいな言い方で、なに言ってんの」
エモンティエ伯は、娘が言い出したことに唖然としていた。
ミュリナは、父親がまだまだ自分のことを子供だと思っているらしいと痛感した。ミュリナが社交界デビューを戦いだと思っていることも、エモンティエ伯爵はよくわかっていないのだ。
無理もない。ミュリナだって、自分は無鉄砲かもしれないと思うのだから。
野暮ったい田舎貴族の自分が、このきらびやかな社交界で戦っていくなど、本当はこわくてたまらないのだから。
けれど今日、フォンティネール夫人が背中を押してくれた気がする。
(わたしは、お母様の娘――)
「お父様。わたし、お母様の娘よ。魔祓士として国家から有望視されていた、あのお母様の娘なのよ」
魔祓いの能力は、血筋で受け継がれる。自分は、あのフォンティネール夫人が認めた魔祓士マノンの娘なのだ。
「うちの領地は魔物が出ないから、よその領地にわたしが出張して魔物を倒して、評価を稼ぐのよ。それで序列絵に描かれれば少しは注目されて、エモンティエ家の話をきいてくれる貴族がもっとあらわれると思うの」
慣れない色じかけで理解者を増やすより、そのほうがずっと効率がよさそうだ。
金髪の子爵も赤毛の男爵も、ミュリナに興味を持ってくれてもエモンティエ家の主張はどうでもよいようで、「舞踏会で堅苦しい話はなしにして、もっと踊りましょう!」と言うばかりだった。
色じかけは当てにならない。ならば、実力を見せつけてやればいい。
とんでもないことを言っている自覚はあるので、ミュリナは声をひそめている。声の届く範囲に父親以外の気配はないはずだった。
しかし。
「――負けたわ」
聞き覚えのある声がした。ぎょっとして声のほうを向く。
いつの間にかすぐ横に、フォンティネール夫人の姿があった。地獄耳のミュリナですら、夫人が近づく気配がつかめなかった。
「フォ、フォンティネール夫人……」
「若いころのわたくしは、序列絵に描かれることが目標だった。でもあなたにとっては、絵に描かれることは手段なのね」
「……ええと」
「負けたわ。わたくしとマノンには成しえなかったことが、あなたならできるかもしれない」
「あの」
「応援しているわ」
夫人はそれだけ言い残すと、ひらりと身をひるがえして遠ざかってしまった。
銀のドレスがみるみる人混みにまぎれていく。
ミュリナははっと我に返った。まだきちんとお礼を言っていない。
「フォンティネール夫人!」
ミュリナは声を張り上げた。社交の場で大声を出すことは恥ずべきこととされている。しかし恥をかくことよりも、お礼も言えずに別れることのほうがつらい。次にいつ会える日がくるかわからないのだから。
フォンティネール夫人がふりかえる。
人混みの中から、しっかりとミュリナを見てくれている。
「今日はありがとうございました! お会いできてうれしく思います!」
「リディアーヌよ!」
ミュリナの言葉に答えて、信じられないことに夫人も大声を出した。
凛とした声が周囲に響き渡り、声に圧倒されるようにロングギャラリーが静まりかえる。静寂の中、もう一度響き渡る社交界一の華の声。
「わたくしのことはリディアーヌとお呼びなさい! 差し上げたそのネックレス、大切にしてちょうだいね!」
ざわ、と空気がゆれた。
通路にいる誰もが、信じられないといった面持ちでミュリナと夫人を交互に見た。
フォンティネール夫人が、あの娘にファーストネームで呼ぶことを許した。
フォンティネール夫人が、あの娘にあんな見事な宝石を贈った。
あの娘は一体何者なのだ?
舞踏会のはじまる前、誰からも相手にされなかったミュリナは、舞踏会の終わったのち、今日一番の注目を浴びることとなった。
ミュリナはしっかりと顔を上げ、貴族たちの視線を受け止めた。
戦いの舞台に立った。立つことができた。
その思いが、興奮とともに躰をつらぬく。
最後に見たリディアーヌの目が、「あとはあなた自身が切り開いてゆくのよ」と告げているような気がした。