第一章 ガイウスの宴④
「ジュリアス様、フォンティネール夫人は今、こちらにはいらっしゃいませんよ?」
「知っています。広間におりますから。私はあなたを迎えに来たのです。さあお手をどうぞ、ミュリナ様」
ジュリアスが手を差し出してくる。
広間までエスコートしてくれる相手というのは、彼のことなのか。「あれ」というのは、息子のことだったのか……!
ミュリナが緊張で身を固くしたのに気付いたのか、ジュリアスはその手をおろした。
「お父上のほうが安心ですよね」
「いえっ……、いえ! そうではなくて」
ミュリナの脳裏に、いい家の令息に取り入る機会が到来したら言おうと練習しておいた言葉が駆けまわったが、いざ言おうとするとなかなか口から出てこない。
やはり付け焼刃の練習では、小悪魔になどなれないのか――。
「あのその――駄目です! わたしなどを連れて広間へ戻ったりしたら、あなたの評判が落ちてしまいます」
思わず口をついて出てきたのは、取り入る機会を無にするような言葉だった。
「なぜですか?」
母親に似て、息子も表情に乏しい。その疑問が社交辞令なのか本当の疑問なのか、ミュリナには判断がつかなかった。
「だってわたしは……」
余計者貴族の、エモンティエ家の娘だから。
うっかり自虐の言葉を発してしまいそうになったそのとき、ジュリアスがふいっとアクアブルーの瞳を泳がせた。あらぬほうを見て、なにか考え込んでいるように見える。そして決心がついたように力強いまなざしをミュリナに向け、おもむろに口を開いた。
「だいじょうぶです。あなたは美しい」
ジュリアスは深い声音で言い切り、照れたように口元に手をやり、ばっと横を向いた。こころなしか、白い頬に朱がさしている。
(……?)
「説明致しますと、ぼっちゃまは女性をほめることに不慣れです」
唖然とするミュリナの横からにゅっと顔を出し、エメが解説する。
「うるさい」
「やればちゃんとほめられるじゃないですか。いつもその調子でおやりになればいいんですよ、ぼっちゃま」
「いつもなんかやらない」
「それじゃ社交界でやっていけませんよ、ぼっちゃま」
「ぼっちゃまぼっちゃま言うな。もう子供じゃないんだから」
「大人の紳士は女性をほめたあと、照れてそっぽを向いたりしないものです」
「う……」
ふたりのやりとりに、ミュリナはぷっと吹き出した。
なんだか可笑しい。変わり者の夫人も、照れ屋の息子も。どうやらフォンティネール家の美貌の親子は、ミュリナが思っていたのとぜんぜんちがう性格のようだ。
「ジュリアス様、広間へお連れいただけますか」
にっこりほほえみ、ミュリナは落ちついて言った。
家の格付けに引け目を感じることなんかない。フォンティネール夫人が、最高の武装を整えてくれたのだから。社交界で戦っていくための、美と洗練という武装を。
(戦ってやろうじゃないの)
「……不粋な私でよろしければ、よろこんで」
「不粋なのはわたしのほうですわ。社交界の暗黙の了解など、なんにもしらないんですもの。ジュリアス様に恥をかかせてしまいそうで、とっても不安です」
我ながらよくやるなと思いつつ、ミュリナは両手を胸の前で組み、上目づかいになってかわいこぶった口調で言った。
「……」
「『あなたのためにかく恥なら、むしろ名誉です』とでも返すところですよ、ぼっちゃま」
反応に困ったジュリアスに、エメが口を出す。
「だからぼっちゃま言うな」
「はいはい。いってらっしゃい。楽しんでくださいね舞踏会」
手を振るエメに見送られ、ミュリナはジュリアスとともに大広間へ向かった。
「ジュリアス様はおいくつなんですの?」
「十八です」
「もっと年上だと思っていました。落ちついて見えますもの」
「見た目だけは。しゃべると十四歳だと、エメにからかわれます」
(うんうん、そんなかんじ)
ジュリアスの言葉に、ミュリナは心の中でうなずく。
社交界きっての貴公子に右手をまかせて歩くなんて緊張するかと思ったけれど、エメのおかげで気持ちがほぐれている。
「エメさん、楽しいひとだわ。夫人ととても仲がよろしいのね」
「エメは母のお気に入りです。……嫁入りできるか心配だな。もういい歳なのに」
「……」
たしかに。エメの話が本当なら、エメ本人だって夫人に結婚を邪魔されそうだ。
ミュリナもエメが心配になってきてしまったが、他人の事情に口を出すのもどうかと思ったので、ほかの話題をさがす。
「王城のロングギャラリーに、こんなにたくさん絵があるとは思いませんでした。国王を真ん中にした構図の絵が多いですね。『ガイウスの宴』もそうですし」
通路の壁にずらりと並ぶ絵画に目をやりながら、ミュリナは言った。
『ガイウスの宴』は初代国王ガイウス一世を中心に、信頼の厚い配下から順番に国王に近い位置に描かれる構図で、配下の序列をあらわしていると言われている。
同じように、歴代国王を中心にして貴族たちを描いた絵が、ずらずらとたくさん並んでいるのだ。
「これらの絵は、国王の御代ごとの貴族の順位表です。身も蓋もなく言ってしまえば」
「……やはり」
「今の世に近くなってくると、絵の数が増えていきます。御代ごとだったものが十年周期で描かれるようになり、七年周期になり……先代国王の御代からは、四年ごとに新しく描かれています。描かれ方も統一されてきて、描かれる貴族の人数は、初代の半分の十二人と決まっています。そのうちの四人が大きく描かれ、王の両隣の二人は特に細密に描かれます」
ならばフォンティネール家の現当主は、特に細密に描かれたうちのひとりであるはずなのだが、ジュリアスはそれを言わずに口をつぐむ。
ことさらに自分の家格を強調しない彼に、ミュリナは好感を持った。だからミュリナもフォンティネール家のことだと特定しないで、「王のとなりに大きく細密に描かれたら、とても名誉ですね」とだけ言った。
「序列絵があるかぎり、貴族たちはひたすら名誉の獲得にいそしむのでしょうね」
ジュリアスの口調は冷えていて、貴族社会に対する皮肉に彩られていた。その厳しい言い方に驚き、ミュリナは彼の顔を見た。
表情を見ると、その言葉は軽口のたぐいではなく、真剣なものだと思える。
ジュリアスは言葉を続けた。
「どれだけの魔物を狩るかで貴族の格付けが決まるのは、おかしいと思いませんか。殺した魔物の大小や数より、救った民の命のほうが大切ではありませんか。多くの魔物を殺したほうが王の覚えがめでたいからといって、魔物が湧くのを喜ぶ気持ちを持つなど、領主として恥ずべきことだと思いませんか」
「思います」
ミュリナは即答した。
まっすぐに、ジュリアスのほうを見る。
空を映した湖面のようなアクアブルーの彼の瞳も、ミュリナの真摯な瞳をとらえた。
無言で目と目を合わせ、数秒間――。
しらずしらずのうちに歩みを止めていることに、ふたりは気付かなかった。
「魔物が湧かなければ、誰も魔物に襲われないのよ。ちいさな子供が、食いちぎられて足だけになった親を見たりしないですむの……」
ミュリナの心に、かつて見た痛ましい状景がうかぶ。
父親の体のかけらの前に突っ伏し、わんわん泣いていた黒髪の少年。勝気なあの子が枯れる程涙をながし、声が出なくなるまで天に召された父を呼んでいた。秋風が落とした乾いた枯葉が、小さな背中にみっつよっつ積もっていた。ミュリナが枯葉をそっとどけ、彼の背中に手を置くと、その背から激しい震えが伝わってきた――。
「エモンティエ家は、魔物を湧かせないための研究をしているの」
媚を売ることも忘れ、悲しみを帯びた真剣な面持ちでジュリアスに向かい、ミュリナは言った。
「知っています。私はエモンティエ伯爵の論文を読みましたから。非常に興味深い論文でした」
「ほ、本当!?」
ミュリナはおもわずジュリアスの両手をとった。
喜びで心臓がどくんと鳴る。
理解者がいた。
色じかけで落とさなくとも、父の研究に興味を持ってくれる貴族がいたのだ!
「今日はぜひとも、エモンティエ伯にお話をうかがいたいと思っています」
「ぜひ! ぜひ父の話をきいてください! うれしいわ。ありがとう! よかった、あっちの趣味の人ってわけじゃなくて――あわわわ」
余計なことまで言いそうになって、ミュリナはあわてて口をつぐんだ。
「あっちの趣味……?」
「こうなったらあっちの趣味でもこっちの趣味でもかまいませんけど! ああよかった、王都に来た甲斐がありました。舞踏会ばんざい!」
浮かれるミュリナの気持を盛り上げるかのように、大広間から陽気な旋律が聞こえてくる。
「……」
ジュリアスは固まったように、ミュリナの両手につつまれた自分の両手を見ていた。
「あらごめんなさい。もう大広間ね」
ミュリナはジュリアスから両手を離した。あらためて右手だけジュリアスにまかせる。
大広間にそろって足を踏み入れた途端、固まったのはミュリナのほうだった。
大勢の目が一斉にこちらを向く。誰だ?と訝しそうな老紳士の目、探るように見てくるご夫人の目、好奇心に輝く若い紳士の目、にらみつけるような令嬢の目――。
(ひぃ!)
段上の王座に座る王までも、顔をこちらに向けている。
(そ、そうよ。このひと舞踏会で大注目のご令息じゃないの。そんなひとにエスコートされてきたのだから、わたしも注目されるに決まってるじゃないの!)
さっきまで落ちついていたのに、急に心臓がバクバクしはじめる。冷や汗が出て、血の気が引く。
離れて、離れてジュリアス様……!
ミュリナの思いとはうらはらに、ジュリアスがあらたまってこちらを向いた。そして洗練された隙のない動作で、すっと手をさしだしてきた。
「一曲踊っていただけませんか? ミュリナ様」
「わ、わたしですか?」
「もちろんあなたです」
無表情なときは冷ややかに見えるジュリアスの瞳が、笑った形に細められ、やさしい人柄がにじんだ。
やっぱりきれいなひとだと、ミュリナは思った。
こんなきれいな紳士が、田舎貴族の自分をダンスに誘ってくれる。エスコートを引き受けた以上、義務としての誘いだろうけれど、それでもミュリナはくすぐったい気持になった。
戦に出るような気持ちでやってきた舞踏会。けれどミュリナだって心の底では、舞踏会に憧れを持っていた。花のように着飾った貴婦人たち、くるくると広がるドレスの裾、優美で軽快な音楽、品の良いやわらかな笑い。そして、素敵な紳士との出会い――。
音楽に歩を合わせ、ジュリアスのリードにまかせてフロアに出る。きれいに巻いたおくれ毛がゆれ、首飾りの重みを感じる首もとをくすぐる。
鏡の中の自分を思い出す。
エメが魔法をかけたように美しくしてくれた。気後れをかんじることなんかない。
ジュリアスの腕に力が入った。やや強引に、ぐいっと身を引き寄せられる。
距離が縮まって、ジュリアスの美術品のような顔がもう目の前だ。
おだやかに流れる旋律にあわせ、ステップを踏む。
ゆったりとしたワルツ。
ダンスはあまり得意ではないミュリナだったが、ジュリアスのリードは自然で踊りやすかった。慣れている様子なのにこれみよがしなところがなく、ついていきやすい。
シャンデリアのきらめきが回るたび視界の端をよぎり、豪奢な風景に光のすじを引く。
幾重にも重ねた袖や裾のレースが、動きに合わせてたっぷりとゆれる。
若草を思わせるさわやかな香りが鼻孔をくすぐる。
男性のつけるトワレが、こんなに芳しいと思ったのははじめてだった。
耳にする音楽も、目にする衣装や調度も、漂うトワレの香りも、その只中に身を置けば、魅了されずにはいられない。
豊かな国の、美しい王城の夕べ。
「なんだか夢みたいだわ……」
「舞踏会はお好きですか?」
「きらいになりそうだったけど、やっぱり好きになりそう。ジュリアス様のおかげです」
「私はなにもしてないですよ」
「一緒に踊ってくれるだけで、じゅうぶんよ」
「……私よりあなたのほうが社交の才能がありそうだ」
「え? なぜですか?」
ジュリアスが、かすかに苦笑したように見えた。
音楽が終わりに近づく。
そろそろ躰を離そうかというタイミングで、重ねたジュリアスの手に力が入ったような気がしたが、ミュリナは軽やかに笑い、さらりと手を離した。
夢のようなひとときはもう終わりだ。
「楽しかったわ。ありがとう、ジュリアス様」