第一章 ガイウスの宴③
迷路のような王城内を無言で夫人について歩き、客室らしき一室に案内された。
ふかふかの絨毯が敷きつめられた、二間続きの豪奢な部屋である。華奢な猫足の化粧台と金色の縁に囲まれた大鏡がひときわ目を引く。召使いがひとりいて、夫人の入室と同時に椅子からぴょこんと立ち上がり、うやうやしく礼をした。
「エメ、この子の髪を結い直してちょうだい」
「かしこまりました。どのようにいたしましょう?」
「華やかに、若々しく。全部結いあげないで、巻いた髪をすこし垂らしましょう。若い女の子はきっちりまとめず、ゆるめに結ったほうがいいわ。首飾りを引きたてたいから、髪飾りはおとなしめに」
「首飾り?」
造花の首飾りは、さっきけなされたばかりだ。不思議に思ってミュリナはきいた。
「あなたは、わたくしにまかせておけばいいのです。鏡の前にお座りなさい」
夫人の手が肩に置かれ、有無を言わさず腰掛に座らされる。口調は強引だったが彼女の手はやさしく、ひやりと冷たくて気持ちよかった。
ミュリナは目をぱちぱちさせて、鏡の中の自分を見た。宿泊先の大叔母の家ではまんざらでもなく思えたが、王城の豪奢な客室を背景に見てみれば、やはり地味で物足りなかった。
召使いがミュリナの造花の首飾りをはずし、結いあげられた髪から次々とピンを抜いていく。明るいマロン色の髪が、ふわりと肩に落ちかかる。きつく結っていたせいで頭皮がひっぱられ、険しくなっていた目つきがゆるやかになる。
「あなたは自分に合う装いを学ばなければなりません。社交界で、装いは自分だけの楽しみだと思ってはなりません。装いは武装なのよ」
夫人はミュリナの後ろで椅子に腰かけ、鏡の中のミュリナを見つめている。
「武装ですか?」
「美しさは武器よ。社交界で影響力を持ちたいと願うなら、あなどってはいけない武器。有効な武器よ……深く考えるとくだらないけれど」
美しさは武器と言い、その口でくだらないとも言う。社交界の華の複雑な心のうちを垣間見た気がして、ミュリナはすこし、警戒を解いた。
「……どうやったら自分に合う装いを学べるか、わからないのです」
「社交の場数を踏むことね。まずは美しく装った人々の中へ入ってみることからよ」
「はい」
ミュリナは鏡の中で着々と仕上がっていく髪を眺めていた。エメと呼ばれた召使いの髪結い技術はすばらしく、大叔母が呼んでくれた街の髪結いとはくらべものにならない。夫人の専属美容師だろうか。
美容師を貸してくれるくらいだから、夫人は本気で母マノンと仲直りしたいと思っているようだ。そもそもどうして疎遠になったのだろう?
ミュリナは、鏡越しにちらりとフォンティネール夫人を見た。
目が合う。
もう、思い切ってきいてしまうことにした。
「フォンティネール夫人。どうして、母と仲たがいしてしまったのですか?」
「あのひとがエモンティエ伯に嫁ぐなどと言うからです」
「……そんなにだめですか。エモンティエ家は?」
「マノンの嫁ぎ先としては、まるでだめです」
「どうしてですか? 父は、魔祓いも社交も不得手だけれど、実りある仕事をしていると思います。父と母は今でもとても仲がよくて……」
「それは結構だこと」
フォンティネール夫人は冷たく言った。
自分の家を否定され、ミュリナはまたくやしさがこみあげてきたが、ぐっとこらえた。ここで感情を爆発させてしまっては、恩を仇でかえすことになってしまう。
怒りを必死でこらえていると、今度は冷ややかさのない平らな口調で、夫人が言った。
「誤解しないでほしいわ。わたくしは、エモンティエ家の格付けがどうこう言うつもりはないのです。ただ、マノンの力を発揮する場所はもっとほかにあったはずなのにと思うと、残念でならないのです。マノンはすばらしい魔祓士だった……。わたくしは、マノンとともに夢を見たのです。いままでどの女人も、なしえなかった夢を」
「夢、ですか?」
「ええ」
「どのような?」
「国王の肖像の両脇に、第一等の配下として描かれることよ」
ミュリナは目を見開いた。
さっきロングギャラリーで見た、大歴史画が心にうかぶ。
初代国王ガイウス一世の両隣には、賢者と勇者。
ミュリナの心の中で、マント姿の賢者と鎧姿の勇者がぼんやりその輪郭を薄れさせ、かわりに優美なドレス姿の貴婦人がふたり、王の両脇でたおやかにほほえむ姿があらわれた。
配下として国家に認められたいだなんて。そんなことを考える女性がいたのだ。
目の前に。そして、家族の中にも。
若き日の、母とフォンティネール夫人の夢――。
「若かったわ」
しかし夫人はさみしそうに言った。諦念の微笑とともに。
「奥様、このようなかんじでいかがでしょう」
髪を巻く鏝をわきにどけ、エメが髪を結い終えたことを告げた。鏡の中には、さっきまでとは別人のように華やかになったひとりの令嬢がいた。自分の姿におどろくミュリナの頬に、大きなブラシでパウダーと頬紅が付け足される。
「いいでしょう。仕上げはこれよ」
夫人は小箱を手にしていた。サテンのリボンがするするとほどかれる。
そして箱から出てきたものは――。
首飾り。
大きなエメラルドを真ん中にあしらい、周囲を小粒のダイヤモンドと真珠で囲った、見るからに高価で、洗練された意匠の品である。これほどの首飾りを身につけている令嬢は、王家主催のこの舞踏会でも見かけていない。
「そ、そんな高価なものをお借りするわけには……」
「貸すのではありません。差し上げるのです」
「ええええええっ!?」
ミュリナは驚きのあまり、のけぞってすっとんきょうな声をあげてしまった。
「仲直りのしるしに、マノンにわたすつもりで持ってきました。あなたの瞳がマノンと同じエメラルド色でよかった」
「あの、あの、あの、あの」
「マノンだったら受け取ってくれなかったかもしれないわね。押しつけるつもりでいたけれど……手間がはぶけたわ。うふふふふふふ」
うふふふふふふって。
「でも。あの。わたし――お父様の許可なく受け取っていいものかどうか」
「エモンティエ伯爵ですか?」
「ええ。だってこんな高価な品……。我が家の経済状況ではお礼もままなりませんし」
「あんな男などほうっておけばいいのです!」
「えっ!?」
「わたくしのもとからマノンをかっさらってど田舎に閉じ込めたエモンティエ伯の許可など求める必要はありません! わたくしがあげたいんだからいいんです! お礼なんかいいんです!」
「は、はい」
「あの男あの男あの男。ちょっと顔がいいからって図に乗って。わたくしからマノンをとりあげて――」
「もしもし? フォンティネール夫人? もしもし?」
「あなたもあの男じゃなくってマノンに似ればよかったのよ!」
「いやそれ、わたしにはどうにもできないですし! っていいますか、あの……」
おっしゃることが無茶苦茶ですが、だいじょうぶですか?と言いそうになって、ミュリナは言葉を飲み込んだ。
「はい奥様、お紅茶ですよ」
絶妙の間合いで、エメがティーカップを差し出した。上等のお茶のいいかおりが部屋に漂う。いつの間にか立ち上がって拳をふりあげていたフォンティネール夫人は、カップとソーサーを手にふたたび椅子に腰をおろした。
眉間にしわを寄せて紅茶を口にする夫人を、ミュリナはつい気味悪そうに見てしまった。
「お気になさらないでください。いつものことですから」
夫人の代わりに、エメが答えた。
「……夫人はお茶目な方ですのね」
ミュリナは言った。せいいっぱいのほめ言葉である。
「変わった方です。有り体に言って変人です」
エメのほうが容赦ない。
「ほっといてちょうだい」
夫人のほうは言われ慣れているようだ。
「奥様、これ以上時をともにしたら、こちらのお嬢様がおびえてしまいます。そろそろ解放してさしあげたほうがよろしいかと」
「なによ、わたくしを人さらいの極悪人みたいに言って。――ああ、まだ立ち上がらなくて結構よ。せっかく装いを整えたのに、エスコートなしに淑女がひとりで広間に入るなんて笑われてしまうわ。あれを連れてくるから、ちょっと待ってらっしゃい」
今度はエモンティエ伯のことを「あれ」呼ばわりである。夫人の母マノンに対する想いの強さはひしひし伝わってきたが、少々度が過ぎていまいか……。
部屋を出ていくフォンティネール夫人を見送ったあと、ミュリナはなんとなくエメのほうを見た。黒髪でさっぱりした顔立ちの、二十代なかばほどの賢そうな女性だ。
「おどろかれたでしょう」
エメが言った。
「ええ、すこし」
本当はすこしどころではない。
「奥様は男性が同席している場では氷の女王のごとくなのですが、気を許した女性の前では少々壊れてしまうのです。基本的に、男性より女性に親しむ方なのですが、接し方に問題ありですね。心中お察しいたします」
「いえいえ、だいじょうぶです。……たぶん」
「おそらくこれから大変だと思います。お覚悟のほどを」
「えっ。どういう意味ですか?」
「お嬢様は、将来を誓い合った男性はおありですか?」
「いえいえ、まだそんな方は」
「そうですか。もしご婚約が調いそうになりましたら、ご婚礼までひたかくしになさったほうがよろしいと思います。お相手の男性のために」
「なぜ……?」
「お相手の男性に奥様の嫌がらせがいきます。エモンティエ伯に対する奥様のおっしゃりようをお聞きになりましたでしょ? 嫉妬深いんですよ、奥様は……」
エメの言葉に、ミュリナはごくりと喉をならした。
母との仲たがいの原因は、そのあたりか……。
そのとき、客室の扉がノックされた。
父親が来たのだろうと、ミュリナは立ち上がった。エメが扉を開けてくれる。
首飾りのことをなんと説明したらいいかしらとミュリナは思案したが、扉の向こうに立つ人物を見て、考えごとは吹き飛んでしまった。
そこにいたのはエモンティエ伯爵ではなく、夫人の息子、ジュリアス・ジュ・フォンティネールだったからである。