第一章 ガイウスの宴②
大陸の端にあるセレイア王国は、かつて魔物が跋扈する人の住めない土地だった。周辺に多くの国家が乱立した時代にも、あまりの瘴気の強さにどこの国も手に入れたがらなかった土地だ。
そんなこの土地に、初代国王となるガイウス一世が配下を引きつれてやって来たのが、約千五百年前。卓越した魔祓いの力を持つガイウス一世とその配下たちは、長い戦いの末に魔族を退治し、以来その子孫がこの国を統治している。
国王はガイウス一世の末裔であり、各領地を治める貴族たちは配下の末裔である。
小さいながらも領地を任されているエモンティエ家も、ガイウス配下の末裔である。しかし領地の小ささを考えると、ガイウスの慈悲でかろうじて土地をもらえた、下っ端配下だったのだろう。
ガイウス一世が退治したからといって、セレイア国の魔物が根絶されたわけではない。魔物は今でも湧き出でて、人々に被害を与える。人を食う魔物もあれば、田畑や家畜を食い荒す魔物もいる。この土地が瘴気の強い土地であることに変わりはなく、この国の貴族の最重要課題は、千五百年前と変わらず魔祓いなのである。
魔祓いの力は血筋により受け継がれる――。
その事実が、セレイア国の貴族の地位をゆるぎないものにしている。より多くの魔を祓った貴族の名はあがり、国家により褒賞を受ける。魔祓いの力の強い貴族は、働きに応じて格付けが高くなるのだ。
セレイアの格付けは独特で、古い時代に定められた爵位とはあまり連動していない。格付けが高くなると爵位が上がることもあるが、それは国家からのねぎらいのようなものである。
エモンティエ伯爵家の格付けは高くない。むしろ底辺と言っていい。
なぜなら、領地に魔物が出ないからである。
魔物が出なければ魔物を祓う機会もなく、魔物を祓わなければ国家から褒賞を受けることもない。国王の目にもとまらない。社交界で家の名があがることもない。
平和な土地でぽややんと暮らすエモンティエ家は、誰からも尊敬されない。
伯爵家とは名ばかりの、余計者貴族……。
余計者扱いがいかに徹底しているか、ミュリナは今日、この舞踏会で思い知った。
大広間に流れる、優雅で華やかな円舞曲。リズムに乗ってドレスの裾をゆらし、蝶のようにひらひらと舞い踊る淑女たち。
一方ミュリナはといえば、すみっこでぽつねんと壁の花。
さっきまで一緒に佇んでいた父親は、見てくれだけはいいせいか、仮面のようにぶ厚く化粧したご婦人に「ちょっとテラスでお話しませんこと?」と色目を使われ、強引に連れ去られてしまった。
咲きほころぶ乙女が壁の花だというのに、親父ばかりなぜモテる……。
(ふんだ! あとでお母様に言いつけてやろうっと)
ふう。ミュリナが顔を伏せ小さくため息をついたとき、人影が目の前に立った。父親がコテコテお化粧仮面をふりきって戻ってきたのかと思った。しかし、下げた目線の先にあるのは、父親のものよりずっと高そうな洒落た男性靴である。
誰かと思い、顔をあげる。
氷雪の女神の面差しを継いだ、美しい顔がそこにあった。
「……ジュリアス様?」
「はい」
(わたしにダンスの誘いかしらっ?)
舞踏会で紳士が目の前に来たら、当然ダンスの申し込みのはずだ。なのにミュリナの高まる期待をよそに、ジュリアスはきょろきょろとあたりを見回していた。
「エモンティエ伯爵はいらっしゃらないのですか?」
(……! なめてんのかしらこの人!)
ミュリナはギリギリと怒りの鉄拳を握りこんだ。
けれど、そこはぐっとこらえて花のような笑顔を彼に向ける。なんといっても彼は、セレイアきっての大貴族の世継ぎである。会場のすべての令嬢から熱い視線を注がれている彼を、怒りにまかせてぶんなぐるわけにはいかない。
「あいにくとテラスへ行っておりますの。呼んでまいりますわ」
テラスへ向かおうと方向転換したミュリナを、ジュリアスの声が追いかける。
「いえ、いいのです。それより、母があなたを呼んでいます」
「フォンティネール夫人が? わたしを?」
「ロングギャラリーで待っています。あなたの母君のことで、話をしたいと」
なるほどと思い、ミュリナはうなずいた。
フォンティネール夫人と母マノンは若い日に友人だったらしいから、娘のデビューにつきそわないマノンになにかあったのか気になるのだろう。
「すぐにまいりますわ。知らせてくださってありがとう」
ちょこんと膝を折り儀礼的なほほえみをおくって、ミュリナは大広間をあとにした。
フォンティネール夫人は、ロングギャラリーで最も大きい歴史画の前にいた。早足で近づくミュリナのことをじっと見つめてくる。
「お待たせしてしまって恐縮です」
「呼んだのはわたくしです。恐れ入る必要はありません」
貫録のある声音で言葉が返ってくる。しかし威厳あふれる夫人を前にして、恐縮するなというほうが無理である。
母のことでお話が……とミュリナが切りだそうとしたら、夫人が先に口を開いた。
「この絵をご存じ? ガイウス一世とその配下たちです」
『ガイウスの宴』と題されたその絵は、魔物退治の長い戦いを終えたガイウス一行の祝宴を描いたものである。ガイウスとその二十四人の配下が一枚の絵におさめられたものとしては、最も古く資料価値も高い。しかしガイウス以外の登場人物はどれが誰にあたるか諸説さまざまで、歴史家の間で現在も議論を呼んでいるという。
一方、歴史家の間ではもう見解が出ているのに、先祖を大きく描かれていない貴族たちからの批判をおそれ、発表できないという説もある。
「話にはきいていましたが、見るのははじめてです」
「マノンはこの賢者がエモンティエ伯に似ていると言っていたわ」
画面中央で酒杯を掲げ持つガイウスの左隣りで、酒宴だというのに開いた巻物を手にむずかしい顔をしている美貌の青年。言われてみれば、くせのあるマロン色の髪と甘い目元が似ていなくもない。しかし、建国当時から余計者呼ばわりのエモンティエ家の先祖が、王のとなりになど描かれるはずがない。先祖はたぶん、すみっこにどうでもいいように小さく描かれた誰かだとミュリナは思った。
「そしてわたくしは、この勇者がフォンティネール伯に似ていると思っていました」
次に夫人が指したのは、ガイウスの右隣にいる凛々しい青年だ。長剣をいつでも抜けるよう、柄に手を置いている人物である。場を見据える怜悧なまなざしがいかにも切れ者といった風情だ。
「輿入れ前の娘らしい、浅はかな妄想です」
フォンティネール夫人は、絵から目を放してつぶやいた。
(けっこうかわいい時代があったのね、この方にも)
「かわいらしいです」
ミュリナの顔が自然とほころぶ。
この威厳あふれるフォンティネール夫人が、若い日の母とこの絵の前に立ち、気になる男性を絵になぞらえていたかと思うと、なんだかほほえましかった。母と夫人の友情の日々が、目に見えるようだ。
そんなミュリナをきょとんとしたように夫人が見た。
「……かわいらしいですか」
「あ、申し訳ありません。かわいらしいだなんて……」
「あやまる必要はありません」
「はい」
「舞踏会なんて退屈ですもの。あーらこのナッツを詰め込んだ鴨のローストみたいな太鼓腹はバルデナン侯爵そっくりだの、あーらこの名画収集にかこつけて艶画を集めそうな隠れ好色な口元はラトゥール伯爵みたいだの、宮廷画ひとつでもいい退屈しのぎになったものです。マノンはとても口が悪くて痛快だったわ」
(…………)
ほほえましい乙女たちの語らいかと思ったら、もうすこし意地が悪かったようだ。
それにしても、母らしい。
ミュリナは可笑しくなってしまい、笑いをこらえるのに苦労した。
「……可笑しいですか?」
「はい。わたしにもそんなふうに、宮廷に一緒にお呼ばれして、楽しく悪口……いえ、語らえる女友達がいればいいのにって、うらやましくなってしまいました」
本当に、そんな女友達がいたらどんなにいいか。友達がいれば豪華な大広間で壁の花でも、踊る貴族たちを観察してああだこうだと言い合ったりして、じゅうぶん楽しめそうだ。
母譲りのいたずらっぽさがにじみ出たミュリナの笑顔に、フォンティネール夫人はしばらく目をとめていた。そしてひとつ小さく息をついて、長い睫毛をそっと伏せた。
「けれどマノンとは距離ができてしまった……。今日わたくしは、マノンに会いたかったのです。マノンはなぜ来ないのですか。わたくしに会いたくないせいですか」
「母は腰の骨にひびが入ったのです」
「ひび?」
「ドレスを新調しに街へ出て、不注意な馬車にぶつかってしまったのです。母は来たがったのですが、主治医が『こんな状態で王都まで馬車にゆられたら、歩けなくなっても仕方ない』って脅すのです。それであきらめたのですわ」
「まあ、そうなの……お気の毒に」
フォンティネール夫人は黙りこみ、しばらく宙を見ていた。表情のかたい女性であっても、なにを考えているかわからない相手ではないと、ミュリナは安心した。夫人は今、母のことを想ってる。きっとやさしい人なのだ――。
しかしその予感は、夫人の次の言葉で見事に裏切られた。
「ところでその首飾りですが、王城の舞踏会にはそぐいません。恥ずかしいとお思いなさい」
「えっ」
「エモンティエ家は時と場所をわきまえることもできないの?」
夫人の言葉に、ミュリナはまるで頬をぶたれたような衝撃を受けた。
我が家には宝石を買えるお金などないんです。喉元まで出かかった言葉を、ミュリナはくやしさのあまり飲み込む。
やさしい人だと思ったのに。こんなことを言うのだ。
貴族なんて。社交界なんて。誰も彼も体面ばかり追い求める。
夫人の美しい顔が涙でぼんやりかすみそうになった。ミュリナは奥歯をかみしめて、くやし涙を飲み込んだ。
いっそもうかえりたい。
森の中のささやかな屋敷にかえりたい。家族となじみの召使いたちに囲まれて、質素でもあたたかな時間を過ごしたい。小さな領地に閉じこもって、木の実を摘んだりきのこをとったりして暮らしたい。王都のことなど、国のことなど、考えないで。
ああ、でも。
それではいつまで経っても、エモンティエ家は余計者のまま――。
「ついてらっしゃい」
夫人は言った。
「エモンティエ家などどうでもいいけれど、マノンの娘に恥をかかせたくありません」