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宮廷画の魔祓いレディ  作者: サカエ
セレイア王国きのこ倶楽部
16/22

第四章 出動! きのこ倶楽部②

 ふがいない……。

 ミュリナは唇を噛みしめた。エメを助けるはずだったのに、手足を縄で縛られ、暗い洞窟に転がされている。くやしくて、おそろしさなどどこかへ行ってしまった。

 後ろ手に縛られた縄をはずそうとあがいてみるものの、甲がこすれてボルゼーガにつけられた傷が開くだけだった。自分のふがいなさも、じわじわくる傷の痛みもぬるりとした血の感触も、いらだたしくてならない。

 地下の洞窟は迷路のようになっているらしかった。自然にできたものか人の手を加えたものかわからないが、ボルゼーガの手下たちは慣れた様子だった。十二年前から胞子をばらまいて――とエメは言っていた。おそらくそれくらい長い間、この洞窟は計画に利用されていたのだろう。

 エメはエメで、ミュリナのかたわらに転がされていた。いろいろ訊きたいことがあったが、エメ以外にもふたりの手下の息づかいが聞こえる。下手に会話したらなにをされるかわからないので、ミュリナは口をつぐんで機をうかがっていた。

 魔物を湧かせるきのこ――。

 その存在に、ミュリナは衝撃を受けていた。

 父の研究がどこかから漏れていたのかもしれない。魔除け茸が完成する前、いくつか変種のきのこが誕生したことは知っている。地上でミュリナが見た黒いきのこが魔物を湧かせるきのこならば、傘の形の相似から魔除け茸の変種である可能性が高い。フォンティネールの魔物異常発生は、エモンティエにも責任があるのかもしれない。

(どこから研究が漏れたのかって考えたら……やっぱりきのこ倶楽部よね)

 みんなで力を合わせてがんばってきた、きのこ倶楽部。倶楽部員を信用しきって、情報が漏れる危険を重要視してこなかった。猛省しなければ。

(すぐに殺すつもりはなさそうだし、こうなったら情報漏れの調査をしまくってやるわ)

「ボルゼーガ様は、この女たちをどうするつもりなんだ?」

「奥方と若様に言うことをきかせるために、利用するそうだ。手荒な真似はするなとのお達しだ」

 手下ふたりの会話がきこえる。ひとりは若く、もうひとりは中年のようだ。

「ふん。殺してしまえば安心なものを」

「物騒なことを言うなよ。ボルゼーガ様は使えるものはなんでも使うお方さ」

「若いほう、若様がご執心かな」

「そうなのか?」

「『貴様……!』だぜ。あんなに熱い若様、はじめて見た」

「堅物の若様にしてはめずらしい。ボルゼーガ様は、若様にはやく子を成してほしいと願っている。殺すなってのは、そういうことなのかもしれんな」

「ふははは。そういうことだぜ、きっと」

 若い男の笑い声が岩壁に響き、ミュリナは頭が真っ白になった。

 子を成す? ジュリアスの?

「カスが」とエメがかすかにつぶやくのが、ミュリナの耳にだけ届いた。暗くてエメには見えないだろうが、ミュリナはぶんぶんとうなずいた。

(子を成すとか子を成すとか子を成すとか。そ、そんな。馬鹿な)

「ミュリナ様、もしかして聞こえてます? 聞こえてたらうなずいて」

 またしても、ふつうの人にはきこえないくらいのかすかなエメのつぶやきを、ミュリナの耳がとらえた。ミュリナはこくんとうなずいた。エメは見えているのだろうか?

「うなずくと毛先がゆれるの」

(なるほど)

 ミュリナのひとつにくくった髪の先が、エメに触れているのだ。

「縄を切るわ。ちょっと手足、触りますよ」

(縄を切る? どうやって?)

 エメは刃物など持っていただろうか。疑問に思っていると、足首のあたりを手が這う感触があった。くすぐったかったがじっと耐えていると、やがてふっと両足が解放された。手は足首から上へ這い上り、手首を見つけた。そして両手首も解放される。

「これでいつでも逃げられますよ」

 ミュリナの手になにかが握らされる。手になじみのあるその形は、ミュリナ愛用の小弓と短矢だった。

 そうかとミュリナは合点がいった。ボルゼーガに切りつけられた際に取り落とした弓と矢を、エメは足元に引き寄せていたのだ。そして場所を移動するために一度縄を解かれたとき、拾ってコートの下に隠し持っていた。矢のほうは後ろ手で縛られても取り出せる場所に持っていたのだろう。その矢先で縄を切ったのだ。

 さすがリディアーヌお気に入りの召使いである。機転のきく人だ。あとは、見張りをふり切る機会をねらうだけだ。

 その機会は、思いのほかはやくやってきた。

 しかも、最悪の形で。



 脱出の機会をうかがいながら、ミュリナは闇に目を凝らしていた。

 息づかいの方向から、ふたりの手下がいる場所はわかる。視界がきいたら矢でつま先でも射抜いてやって、走るのを困難にすればいい。しかし矢筒をとられてしまったから手元に矢は一本しかないし、この真っ暗闇では、下手したら急所に当たって命まで奪ってしまう。そこまではしたくなかった。

 手下が蝋燭でも灯してくれたらと待ち構えていると、肌をざわりと悪寒が走った。

 急激に、視界が開ける。

 火が灯されたからではない。

 ミュリナの視界が、人の世ではない別の次元を映したからだ。

 視界は青かった。つまり今見えているのは、人の世ではない魔物の世界――。

「あ……!」

 危ない!と叫ぶ間もなく、青い視界の中で手下のひとりが横ざまに倒れた。異形の太い尾になぎ倒されて。

 ――ひと抱えはありそうな大蛇の尾だった。ぐちゅっと、粘着質な音がした。大蛇の尾はひどくもろかった。人を打った衝撃で尾の側面がえぐれ、粘液のようなものをしたたらせていた。

「うわ! なんだ!?」

「なに!? なにが出たの!?」

 手下とエメには、魔物がそばに来ても青い視界の世界は訪れない。彼らの世界は暗闇のままだ。

 それがいいと、鳥肌を立たせながらミュリナは思った。

 この、ガラス玉のような目が八つも並ぶ、おぞましい大蛇など見ないほうがいい。大蛇は孵化に失敗した虫のように、完成されていないふやけた体をしていた。並んだ目のいくつかが眼窩からはずれかかっていて、見ているうちにそのひとつがどろりとはずれ、粘液とともに地に落ちた。

 ミュリナは吐き気をこらえ、エメに手わたされた矢を弓につがえた。

 エメが弓矢をひろってくれて本当によかった。

 矢に原石を仕込んでおいて本当によかった。

 魔具を身につけておいて本当によかった。

 よかったことばかりだ。

 だから、倒せる。

 矢が放たれる。

 たった一本の矢が、大蛇の喉元を力強く貫いた。

 大蛇は尾をびたびたと左右に打ち付け苦しんでいた。びちゃりと粘着質な音を立て、粘液とふやけた肉片を飛び散らせながら、大蛇の巨体が倒れる。

 しばらくのたうったのち、大蛇はようやく静かになった。

 ミュリナの視界が、夜が急速に訪れるように闇に閉ざされていく。飛び散った魔物の肉片が、蒸発するように消えていった。あたりが暗闇にもどる直前、ミュリナはひとつ石を拾った。

「ななな、なにかびちゃびちゃした音が……」

「もしかして出たの!?」

「出たってまさか……。おい、シータ、シータ! どこだ返事しろよ!」

 中年の手下が若い手下を呼ぶ。

「この人シータっていうの? 魔物になぎ倒されたわ……。生きてるかどうかわからない。はやく明かりをつけて」

「魔物だと!? この洞窟には出ないと、ボルゼーガ様が……」

「出たものは出たのよ! もたもたしてないで明かり! 矢筒も返して!」

 ミュリナは中年の手下をどやしつけた。手下がおたおたと燐寸(マッチ)をすり、洞窟はようやく蝋燭の明かりに照らされた。



 シータと呼ばれた若い手下は、気を失っていただけだった。魔物は巨体だったが、体がぐずぐずに柔らかかったのが幸いだったのだろう。やがて気付いた彼は、ミュリナに話をきいてふるえだした。

「できそこないの不完全な魔物だったわ……。なんなの? あれは」

「人工的な魔物なので、いびつな状態で現れることがあるようです……。でもこのあたりは、きのこの胞子を植え付けていない土地です。きのこがあるのはもっと北部の森の奥だけで……」

 中年の手下が言い訳のように言った。

「あのね、風が吹けば胞子は飛ぶのよ。このあたりなんて集落のすぐそばじゃないの。ボルゼーガは村人を皆殺しにする気なの?」

「こんなはずではなかったのです! 計算では、発生する魔物はフォンティネール一族で毎年楽に始末できる量のはずで……」

「大量発生して、大混乱まであと一歩じゃないの。なにが計算よ。あきれてものも言えないわ。そのきのこの研究者、ちょっとエモンティエに連れてきなさいよ」

「えっ……。ボルゼーガ様をですか?」

「ボルゼーガ本人が研究者? ああもう! あのひと見かけよりボンクラね!」

「しかし、ボルゼーガ様がいらしたから、フォンティネールは短期間でここまで発展したのですよ。宝石を最も数多く上納し、現王家から最も信頼を得ている領地ですよ。王都から遠く離れ文化にも遅れ、中央から相手にされなかったフォンティネール領が、まともに王都と渡りあえるようになったのは、ボルゼーガ様のおかげです」

 中年の手下はボルゼーガの賛美者らしかった。

「魔物を湧かせて、危険と隣り合わせになってまで、あなたは領地が発展すればいいと思うの?」

「地形が険しく気候の厳しいフォンティネールは、もともと穀物の育ちにくい貧しい土地です。不作のたびに他領地に頭を下げ、食物を融通してもらわなければ餓死者が出る。領民たちはみな、そんなのはもうごめんだと思ってますよ。私だってごめんだ」

「……」

 ミュリナは言葉を継げなくなった。

「貧しい土地にだって、自分の食い扶持は自分で得たいという誇りはあるのです。フォンティネールが誇りを持てたのは、ボルゼーガ様とご領主様がいらしたからです」

 誇り。

 誇りって、そんなに大切なものだろうか。身の危険を忍んでまで、追い求め、守らなくてはならないものだろうか。

「バカみたい。誇りなんて煮ても焼いても食べられないわよ」

 吐き捨てるようにエメが言った。

「王都に生まれ育ったおまえにはわからない。いつまた貧しさに転落するかわからない不安と苦しみは」

 若いシータが、そんなエメをにらんだ。

「今は議論してる場合じゃないわ。魔物が出たのよ」

 今考えなければならないことは、安全にこの洞窟を抜け出すことだ。ミュリナの肌をなぞる悪寒はなくならなかった。この洞窟には、まだ魔の気配がある。

 ジュリアスとははぐれてしまった。エメにも手下ふたりにも、魔祓いの力はない。いつも一緒のテトだって、もちろんいない。

 ひとりだ。

 たったひとりで、あと何匹いるかわからない魔物から、この者たちを守らなければならない。戦えるのは自分だけ。

(めげない。リディアーヌ様だって、毎日たったひとりで戦っているのよ)

 毎日、毎日、魔物の湧く青い森の中で。領民の誇りのために、家の誇りのために、一族の手で生みだされた人工の魔物を相手に。

「……ひとつきいていいかしら」

「なんでしょう?」

「リディアーヌ様は、ボルゼーガが魔物を湧かせたことをご存じなの?」

「奥方様はご存じではありません」

「そう」

 白馬に乗った魔祓い士。凛々しく崇高なリディアーヌの姿を思い描き、ミュリナはなんだか泣きたくなった。リディアーヌのやりたかったことが、こんなむなしい戦いだったはずがない。

「もうひとつきいてもいい?」

「なんです?」

「あなたの剣をわたしに託す気はある? 洞窟で弓は使いづらいの」

「駄目だピペ。こいつ逃げる気だぞ」

 このひとはピペというのか。うるさい若造のシータを無視して、ミュリナはじっとピペの目を見つめた。

 穏やかそうな中年騎士。きっと、彼の帰りを待つ奥さんと子供がいるだろう。敵とはいえ、死なせたくなかった。

 ピペはじっと、ミュリナのエメラルド色の瞳を見つめ返してきた。そして息を深く吐くと、「お持ちください」と言って鞘ごと剣を差し出した。



「ボルゼーガの魔物繁殖予想が、どんな駄目計算だったかきいてみたいものだわ!」

 ピペとシータの先導で洞窟の出口へ向かいながら、悪寒をこらえきれなくなったミュリナは悪態をついた。そうでもしなければ、緊張の糸が切れてしまいそうだった。

「……こちらの出口も悪寒がしますか」

 地下洞窟の出口は何ヶ所かあるようで、さっきからひとつずつピペに案内させているのだが、どこもかしこも先へ進もうとすると魔物の気配で悪寒が走る。よく彼らはこんな場所にいられたものだ。感じないというのはおそろしいとミュリナは思った。

「ボルゼーガは感じなかったのかしら……。フォンティネールの血筋なのに」

「ボルゼーガ様は妾腹で母君は貴族ではありませんから、魔祓いの力は当主アーセル様ほど強く出ていないのです。それでも力はあるはずですが……。ミュリナ様、あなたが特別に鋭敏なのでは?」

「わたしだって母ほど力は強くないのよ。さほど鋭敏とは思わないわ」

 とはいえ、母親以外のくらべる対象がないに等しかったので、よくわからない。

「この洞窟全体が魔物の巣だって言われてもおどろかないわよ。地下だから地表で瘴気を感じづらいのね。黒きのこはどこまで繁殖しているのかしら……。今のうちなら打つ手はあるわ。なにがなんでも、生きて地上に出なくちゃ」

「打つ手? どのような?」

「無事城にもどれたら、目の前に絵つきの書類山ほど積み上げて説明してあげるわ。楽しみに待ってて。でも今はなにより、無事もどらなくちゃ――あああああ!」

「どうしました!」

「シータそっち行っちゃ駄目! 魔物が――魔物……」

 ミュリナの視界が橙色の蝋燭の明かりと青をいったりきたりする。視界が青になったとき、そこは蝋燭では光の届かない先の空間まで見ることができるのだが――。

 そこはまるで、地下にひらけた円形広間のようだった。その広い空間は、不気味な楕円の物体に上半分を埋め尽くされていた。

 蛾の繭みたいだと、一見してミュリナは思った。緻密に絡み合う白い糸のかたまりが、木の根が張りめぐらされた岩天井から、いくつも玉になってぶらさがっている。よく見ると繭は果実ほどの小さなものから大型獣ほどの大きなものまで、何十個、いや、何百個とあった。

 明滅する青い空間の中で、孵化を待つ魔物の繭――。

(繭――? ううん、たぶんこれは……)

 きのこの菌糸だ。

「魔物? 魔物がいるのですか?」

 ミュリナの尋常でない様子に、繭の見えないエメも声に不安をにじませた。

「みんなこの広い場所から離れて! 回れ右してもどって!」

 人の視界と青い魔の視界が交互に点滅する中で、魔の視界でいる時間が少しずつ長くなる。魔の力が周囲に満ちはじめた証拠だ。繭から魔物が生まれるかもしれない――。

(孵っちゃ駄目。孵らないで!)

 ミュリナの願いもむなしく、繭の殻を透かして、青い目がキロリと光った。ミュリナはピペの剣でその繭を一刀両断した。ねばついた粘液が跳ねとんで顔にかかる。

 誕生前のやわらかな魔物の体は地に落ちてまっぷたつに割れ、ぷりぷりした若い内臓をのぞかせていた。

 使うのは弓矢だったから、こんなふうに剣で魔物を切り裂いたのは、はじめてだった。ピクピク動く魔物の臓物を間近で目にしたのも、はじめてだった。

(う……)

 大蛇を見たときの吐き気がぶりかえし、ミュリナは足元を向きそうになった。しかし目をそむけるわけにはいかない。魔物はまだ原石化していない。油断して、まだ生きている魔物から目を離してはいけない。

「どうしたんだ! なにを切ったんだ!」

 シータが叫ぶ。

「近寄らないで! 足手まといよ!」

(みんな見えないのね――)

 またひとつ、繭の中で目が光る。じゅわじゅわと、繭の繊維の間から得体の知れない液体が泡となって湧きだし、繭の表面を伝わりだらりと落ちる。

「やっつけたんならあんたもこいよ!」

「一体じゃないんだってば! まだいるんだってば!」

 あちらでもこちらでも、繭の中で青い目が光る。

 まだ、まだ、まだまだいる――。

「なにがまだいるんだよ! 見えねぇよ!」

「魔の次元にいる魔物は魔祓い士にしか見えないんだ! 俺たちが見えるときは俺たちが攻撃されるときだ! 来るんだシータ!」

「女ひとりに戦わせるのか!」

「我々にはなにもできないんだ!」

(見えないのよ。みんな、なにもできないのよ。わたしが戦うしかないのよ。わたしが、ひとりで)

「逃げて、地上に出て」

(わたしひとり)

「逃げて、村の人たちに危険を知らせて。ここはわたしひとりでなんとかするから」

(わたしひとり――)

 ひとり。なんという孤独。

 貴族たちは、一族だけの孤独な戦いを、ずっと繰り返して生きてきた。魔祓いの血を絶やさぬよう、魔祓いの血を薄めぬよう、愛より義務を優先しながら。

 戦いで魔族を屠ること。魔祓いの血を次世代に受け継がせること。それが貴族の誇りだと信じ、愛に背を向け貴族のさだめに生きてきた。

 リディアーヌもそうだったのだろう。

 けれど母マノンは、自分よりはるかに魔祓いの力に劣る男性を伴侶にえらんだ。リディアーヌの目には、それが義務の放棄にうつったことだろう。誇りを捨てたとうつっただろう。宿命から逃げたとうつっただろう。

(ちがうの)

 剣をふるいながら、ミュリナは心で叫ぶ。

(ちがうの。母は逃げたんじゃないの。セレイアの、新しい可能性に賭けたの)

 父サージェル・ジュ・エモンティエの力。それは、魔祓いの力ではない。

 魔物を倒すのではなく、魔の存在を消し去る力。貴族の血などない者にも、魔と対抗する手段を与える力。持って生まれた力がなくとも、みんなで協力しあうことで、セレイアを平和に導く力。

(もう貴族の孤独はいらないの)

 またひとつ、繭を切る。ねばついた体液を体にあびる。

(もう貴族の誇りもいらないの)

 次々と、繭の中の目が光る。視界はもう海の底のように真っ青だった。

 力いっぱい剣をふるったせいで、手の傷からどんどん血が流れ出す。青い世界にいるためか、その血は赤ではなく濃い青に見えた。

(貴族の青い血を持つわたしたちが、貴族の世界を終わりにするの)

 傷の痛みで剣を持つ手がふるえる。

 繭が光る。いくつも光る。繭の中の不気味な目の輝きが、次々と増えていく。深海にまたたく不吉な青い星たち。ミュリナはもう考えるのをやめた。

 始末が追いつかないと思ってしまったら、死の絶望に支配される。

 力が尽きるその前に、ひとつでも多くの繭を斬る――。

「きゃ……」

 ミュリナの頭のすぐ上を鳥がはばたいていった。木の根に止まったその姿は、よく見ると鳥ではない。くちばしは四つに割れ、割れ目の中心から蚯蚓の尻尾のような長い舌をのぞかせている。鳥がはばたくたびに羽が大量に散った。飛ぶごとに羽根を失うこの鳥も不完全だった。不完全なまま世界に投げ出された魔物たち。

 ――狂ってる。

 魔物の世にも理があるのなら、ボルゼーガは狂った世界を生み出した。

 森の黒真珠。おそらく魔除け茸の変種。

 魔除け茸を生みだしたエモンティエは、黒真珠の始末をつけなくてはならない。それはエモンティエの義務だ。自分もここで死ぬわけにはいかない。

 この場を切り抜け、父にすべて報告しなければ、フォンティネールに来た意味がない。

「うっ……う……」

 ミュリナの口から嗚咽か漏れた。

 いつのまにか流れ出していた涙が、熱をともなって頬を伝う。

 顔のまわりを羽虫のような雑魔がわんわんと飛び交う。形も判然としないぬめぬめとしたできそこないの白い魔物が、ミュリナに太くいびつな肢を、舌を、突き出してくる。反射的にそれらを叩き斬る。いつの間にか、ミュリナはぶよぶよとした崩れそうな魔物に囲まれていた。

 剣が追いつかない。

 弓でも追いつかない。

 ない。ない。すべて追いつかない。でも、死ぬわけにはいかない。

 ならば。

「ああああああああああ――――っ!」

 ミュリナはエメラルドの瞳を大きく見開き、おもいきり叫んでいた。ジュリアスが腕輪をはめてくれた左手首が熱かった。エメラルド色の瞳の奥も、熱かった。

 血液が全身をかけめぐる。

 ミュリナの細い体から、ほとばしり出る魔祓いの力。

 カシャンとはかない音を立て、魔具の腕輪の石が割れた。

 エメラルドが砕け散ると同時に、白い魔物の大群も砕け散る。肉片がどばどばとミュリナにふりかかる。ぶよぶよした肉塊の醜怪な雨あられ。

 魔具が砕けた。

 あとはなにがある? まだ武器はある。まだ――まだ戦える――。

 戦う気力はまだあるのに、ミュリナはへなへなと座り込んでしまった。足に全く力が入らなかった。手の傷から血があふれだし、痛みで剣をとりおとす。

 ミュリナが屠った魔物の石で埋め尽くされた地面に、剣が落ちる音が響いた。

「動いて……動いてよ、わたしの手足……」

 あんなにたくさん始末したのに、まだ繭が残ってる。それどころか、まるで雨漏りのしずくのように、天井から菌糸の塊が湧き出で、重みで次々垂れさがる。

 もう駄目だと、ミュリナが思いかけたそのときだった。

 へたりこんだミュリナの頭上を、俊敏な獣の気配が跳び越えていった。

 獣。

 ちがう、あれは――。




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