第三章 森の黒真珠⑤
馬車道まで行ってみたものの、賊が出たような形跡はみつからなかった。かすかに声が聞こえただけであるし、ミュリナたちは作業にもどることにした。
土と枯葉と苔などの植物、そして黒真珠のようなきのこをどっさり採集して麻袋につめ、ミュリナとジュリアスは日暮れ前に古城へ帰った。
門前には今日もまた、村人たちが集まりはじめていた。一日の終わりに、リディアーヌがとってきた原石――魔物の死骸――を見ることが、楽しみでもあり、不安な気持ちを静める役にも立つのだろう。そしてリディアーヌ自身も、村人たちのそんな気持ちをじゅうぶん承知している。だからまるで見世物のように、わざわざ門前に従者を呼び、ビロード張りの箱を持たせるのだ。
「リディアーヌ様を門で待ちますか?」
「それより、きのこをエモンティエへ送る準備をしてしまいましょう。エメが乗って行った馬車がもどってきている。輸送用に新しく手配しなくともよくなりました」
庭園の馬車寄せに、見覚えのない幌つき馬車が止まっている。
「エメさんがこちらへ来ているの? うれしいわ!」
「うるさくなりそうです。――おや?」
ジュリアスは馬車に目を止めて、眉をひそめた。
「どうなさったの?」
「……幌が引き裂かれている」
ミュリナはジュリアスの視線を追った。
二輪馬車の幌に、刃物で薙いだような切れ目が大きく横に走り、痛々しく座席を覗かせていた。
城の玄関広間では、家令と当主つきの従者が、深刻な面持ちで話し込んでいた。
「エメは無事戻ったか? 馬車になにがあった?」
ジュリアスがふたりの話に割り込んでいく。
「ジュリアス様……。それが、なんとも不可解なことに、馬車にエメが乗っていなかったのです」
「なんだと?」
「村で空の馬車が立ち往生しているところを、村人が発見しまして」
「どういうことだ? ……まさか魔物の仕業か? 御者は?」
「エメみずから手綱をとってきたようです。幌の裂け目が魔物の爪によるものかどうかは、旦那様か奥様に見ていただかないと、わたくしどもにはわかりかねます」
「私が見よう。ミュリナ様はおつかれでしょうから、どうぞお部屋へ」
「いえ、わたしも行きます。エメさんが心配だわ」
ミュリナがジュリアスのあとについて馬車寄せへ向かおうとしたとき、外が騒がしくなった。ガシャガシャと鎧の金属がこすれる音が近づいてくる。
リディアーヌは兜をとり、蒼白な顔を外気にさらしていた。
「エメが行方不明って、本当なの!?」
夫人の問いに、家令と従者が沈痛な顔でうなずく。家令の説明も待たず、夫人はくるりと回れ右をした。足早でそのまま城を出ていってしまいそうな鎧の背に、ジュリアスが呼びかけようと口を開く。
「どこへいく」
ジュリアスより先に、リディアーヌに問いかける声があった。
玄関広間から奥へつながる扉にいるのは、フォンティネール伯爵だった。長身の痩せた体に、麻痺した体を支える杖。なのにその声は堂々としていて、伯爵夫人をたった一声でつかまえた。
「……」
リディアーヌは夫の声に立ち止ったが、ふりかえらなかった。
「エメを探しに行くことは許さん」
「……今日、魔物の出没範囲がきのうより広がっていて」
「だからと言って、エメを探しに行くことは許さん。君の命は召使いひとりに捧げていい命ではないということくらい、わかっておろうな?」
「死にに行くわけではございません」
「もしも魔物の巣に行くことになるなら、死ぬであろうな。一日を戦いのうちに終えた君に、どれだけの体力が残っている?」
「まだ戦えますわ」
「君の余力は顔色と足取りを見ればわかる。今から城の外へ出ることは許さん」
リディアーヌは答えなかった。最後まで、ふりかえって夫の顔を見ることもしなかった。
誰もなにも言わなかった。
重い沈黙が広間に落ちる中、杖をつく音と足を引きずる音が遠ざかって行った。当主付きの従者が、あたふたと主人の後を追う。
「奥様……お着替えを」
家令の声も沈んでいた。
エメさんをどうするのですかという問いが、ミュリナの喉の奥で止まる。
問わなくても、この場の雰囲気でわかってしまった。今、この城に、エメを探しにいく余裕は――ない。
(余裕はない?)
ミュリナは無言で、リディアーヌと家令が玄関広間から去るのを待った。
広間に静けさがもどる。
ミュリナは、となりにたたずむジュリアスを見上げた。ジュリアスもこちらを見返してきた。ジュリアスは無表情だったが、ジュリアスの無表情は社交の鎧をはずしている証拠であり、優雅にほほえんでいるときよりも目が雄弁に気持ちを語る。
(行きますか)
(行きますよ)
お互い一言も発せずとも、なにを考えているかわかってしまった。
フォンティネール伯爵は夫人に、君の命は召使いひとりに捧げていい命ではないと言った。一片の迷いもなく言った。それは妻を気づかう言葉ではなく、伯爵夫人という立場を自覚させる言葉だった。
伯爵夫人の命は、召使いの命より大切なのだと言っているようにきこえた。
そのとおりなのだろう。この貴族社会においては、フォンティネール伯爵はなにひとつ間違ったことを言っていない。あたりまえの言葉だ。なのに彼の言葉は、ミュリナの怒りをじわじわとあおってくる。
(フォンティネール伯爵にとってはあたりまえのことでも、わたしにとってはあたりまえじゃないわ)
ミュリナは夕闇のせまる古城の薄暗がりを、召使いたちに見つからないよう、忍び足で進んだ。石柱の並ぶ古城の内部は、身を隠しつつ移動するのに都合がよかった。
レーナには黒いきのこの荷づくりを言いつけ、自分から遠ざけておいた。そうでもしないと、動きやすい男装に着替えた理由をあれこれ問いただされてしまう。
正直に話せば、レーナなら送りだしてくれるだろう。しかしその場合、自分になにかあったとき、レーナが咎められてしまう。だから黙って行きたかった。
危険なことをやろうとしているのは、百も承知だ。
テトに知れたら、盛大におこられることだろう。
ジュリアスだって、伯爵に知れたら盛大におこられることだろう。
でも……ここでエメを探しにいかなかったら。そして、もしエメが二度と戻らなかったら。おそらく一生後悔する。セレイアのためになにをどうがんばっても、むなしくなってしまう気がする。
エメを見殺しにした思い出なんかいらない。エメのすっきりした面差しと、かしこそうな笑顔に、もういちど会いたい。己をすり減らして戦う気高いリディアーヌの、心許せる相手を守ってあげたい。守れる力があるのだから……力のかぎり、守りたい。
ミュリナは肩から下げた愛用の弓をそっとなでた。
ジュリアスとの待ち合わせは、裏庭の薪小屋である。誰もいないのをたしかめて裏庭へ出ると、めだたない小屋の陰でジュリアスが待っていた。
長剣を腰に佩いてくると思っていたら、彼はびっくりするような大剣を背負っていた。ミュリナなら、持ちあげることすらかなわなそうな、分厚くて巨大な両刃剣だ。
「ジュリアス様……その剣、もしかして暖炉の上の?」
装飾だとばかり思っていた大剣である。ふつうの人間が扱える大きさではない。
「はい。私の愛用の品です。それから、これも私の持ち物ですが、魔具としてミュリナ様がお使いください」
ジュリアスの大きな手の中には、これまたびっくりするような巨大なエメラルドがはまった腕輪があった。リディアーヌがマノンに贈ったエメラルドといい勝負だ。しかし意匠は華やかさよりも堅牢さが勝っていて、装飾品ではなくあくまでも「魔具」としての品であることがうかがえた。
「これまたすごい宝石が出てきましたね……。ありがとうございます。お借りします。フォンティネールでは、エメラルドに変化する魔物が多いのかしら?」
「氷属性の魔物が多いので青い石が多いですよ。エメラルドをえらんだのは、あなたの瞳がエメラルド色だから……です」
「はあ」
魔具としての宝石なら、瞳と色を合わせる必要もないのだが。
「おつけします」
言われてミュリナはジュリアスに左手を差し出した。男性に宝石をつけてもらうにしては、まるで華やかさのない状況である。男装であるし、髪はひとつにくくっているし、分厚い革手袋はしているし、くすんだ薪小屋の裏手だし。
しかし、こう言ったらレーナにあきれられるかもしれないが、ジュリアスにつけてもらう宝石ならばこのほうがいい。ジュリアスはミュリナにとって男性というより『同志』になりつつあるのだから。
「あなたをお連れしていいのか、今も迷っているのですが……」
腕輪の金具を止めながら、困ったようにジュリアスは言った。
「連れて行ってください。わたしは『試験』の合格者ですもの。遠慮なく働かせていただくわ。本邸で交わした契約は、覚えてくださっているでしょう? わたしがやっつけた魔物の石は、すべてわたしにください。わたしが役に立ったら、『魔除け茸』のフォンティネール領での実験許可をください」
ミュリナの言葉に、ジュリアスはほほえんだ。
「戦いは、悲壮な顔で臨んではいけないと、母がよく言います。あなたとならいい仕事ができそうです、ミュリナ様」
「ミュリナでいいわ。令嬢あつかいはお休みにしてください」
「では、私のこともジュリアスと」
「ジュリアス」
「はい。行きますよ、ミュリナ」