第三章 森の黒真珠③
夕食のテーブルにつきながら、ミュリナはひそかに深呼吸した。今日は緊張する晩餐になりそうだ。
真っ白いクロスのひかれた長テーブルには、夫人とジュリアスがすでに着席している。暖炉を背にした当主の席にも銀食器が美しく並べられていたが、伯爵の姿はまだなかった。晩餐の席に出られるのだから、病とはいえ伯爵はそこそこ元気なのだろう。
ミュリナは、向かい側に座るジュリアスをそっと盗み見た。
こころなしか、憮然とした顔をしている。
(戦わせてもらえないお世継ぎ――)
舞踏会で出会ったときから、まっすぐに領民のことを考える人だと感じていた。名誉の獲得に勤しむ貴族に批判的で、ロングギャラリーにずらりと並ぶ序列絵を、ただひとり醒めた目で見ていた。
ミュリナはジュリアスから目をそらし、暖炉の上の装飾を見た。壁には装飾用の大剣と、いくつかの額が並んでいる。額の中には絵ではなく、勲章が飾られていた。
「序列絵に描かれると、王から勲章を授かるの」
リディアーヌが説明してくれる。
「いくつもありますね」
夫人の顔は誇らしげだったが、ジュリアスが顔をそむけたのが気になった。称賛の言葉を続けていいものかとミュリナが迷っていると、メイドが部屋の扉をあけた。
当主を迎えるため、一同は椅子から立ち上がった。
年かさの従者に支えられ、フォンティネール伯爵が足をひきずって入ってくる。病状として麻痺が出ていると、ミュリナはあらかじめ夫人からきいていた。
「お見苦しい姿でもうしわけない。ミュリナ・ジュ・エモンティエ嬢」
「はじめまして、アーセル・ジュ・フォンティネール伯爵。お会いできて光栄ですわ」
「妻の若い友人の訪れに、私も気持ちが華やぎます。どうぞごゆっくりご滞在を――と言いたいところなのですが」
座るよう手でうながされ、ミュリナは一同とともに腰を下ろした。
「この地は現在、安全とはもうせません。残念ですが、エモンティエにおもどりになることをおすすめします。歳若き令嬢を危険な目にあわせたとあっては、エモンティエ伯にもうしわけが立たない」
来た……!とミュリナは思った。当主に歓迎されていないことは、先刻夫人からきいていた。ミュリナはおそるおそる、考えていた言葉を口にした。
「我がエモンティエは、人手不足なのです。他領地から魔物が流れてきた際の調査に、領主の娘をかりださねばならないほど、人手不足なのです。わたしのような若輩者がしゃしゃり出てご不満のことと思いますが、エモンティエをあずかる一族として、フォンティネールの魔物がエモンティエに流れてきた事実に、目をつぶるわけにはまいりませんの。どうかご理解くださいますよう」
言っちゃったわ、と、ミュリナは思った。そっちに非があるんだから、小娘は帰れと言われたって帰るわけにはいかないよと、言い返したようなものである。
さてどんなお咎めがくるかと身構えていると、夫人が「ふふふ」と笑う声がきこえた。
「さすが、わたくしが見込んだひとだわ。頼もしいわね」
その声に、なにか言おうとしていたらしい伯爵が口をつぐんだ。
夫人が軽い会話で場をつなぐ間、ミュリナはそっとフォンティネール伯爵を観察していた。伯爵はきちんと身支度していたが、序列絵にあった精悍さはなく、ひどくやせ細っていた。食事の席だというのにはめられたままの手袋が、白く浮いていて不自然だ。
(原因不明の病だというけれど……)
魔物の異常発生も原因不明。当主の病も原因不明。
一体、フォンティネールになにが起こっているのだろう。
こんなときこそ、戦士ではなく父のような研究者の出番なのではあるまいか……。
ミュリナはつい考え込んでしまった。はっと我に返ったのは、ジュリアスの「帰る気はありません」という語気の荒い声が聞こえたからである。
「おまえはいつになったら世継ぎの自覚ができるのだ?」
「母上の血まみれた姿を見て、おめおめ本邸に帰れるわけがありません。父上が戦えないなら、私が母上とともに行くべきでしょう?」
「おまえがひとりでも子を成していたら、魔物の巣でもどこでも送り出す気になっただろう。しかし王家だとて、子を成す前の世継ぎを危険な戦に出しはしない」
「この家は王家ではありません。ガイウス一世二十四志士の直系ですらありません。領地を持って四百年程度の傍流貴族が、家の存続を気にするなど……」
「黙れ!」
ガチャンと食器が跳ねあがる音がした。伯爵が拳でテーブルを叩いた音だった。
「フォンティネール家は、序列絵で陛下の隣に描かれる名家だ!」
「序列絵、序列絵、序列絵。貴族はそればかりだ。名誉がそんなに大切ですか? 領主の名誉が民をしあわせにしますか?」
「もうおやめなさい、ジュリアス」
冷静な口調で、夫人がたしなめる。
「母上は、名誉でしあわせになりましたか?」
「おやめなさいと言っています。エメがあなたを十四歳だと言うわけだわ。ミュリナがびっくりしています。彼女のほうがよほど大人よ」
ジュリアスは浮かしかけた腰を椅子におろした。激情をこらえる気持ちの動きが、ひそめた眉に漂っていた。
ぎくしゃくとした晩餐が終わったあと、ミュリナはひと気のない廊下のバルコニーで、ひとりもの思いにふけっていた。考えることがいろいろあったから、おしゃべりなレーナが待つ部屋には、まだもどる気がしなかった。
考えることのひとつは、伯爵の病状。
(魔物の異常発生は半年前から。伯爵の病状悪化は三ヶ月前から……。なにか関わりがあるのかしら?)
こういったことの研究は、父サージェルの得意分野である。魔祓いの力が大きい母よりも、今ここに父を呼び出したい。
(ここでわかったことは片っ端からお父様に書き送りましょう。うん)
バルコニーからは、月が照らす針葉樹の森が見える。夜空は雲ひとつなく澄みわたり、星がたくさんまたたいている。
こんなに美しい土地なのに、あの森の奥には魔物がぞろぞろと徘徊しているのだ。村人はみな森へ入れない。森の恵みの季節なのに……。
背後でバルコニーの扉が開く音がした。ふりかえると、ジュリアスが立っていた。手にした深いカップから、あたたかそうな湯気がたちのぼっている。
「冷えるでしょう。蜂蜜湯をいかがですか。あたたまりますよ」
「まあ。うれしいわ。わたし、蜂蜜が大好きなんです」
ミュリナはカップを受け取った。冷えた指先にカップのぬくもりが心地いい。
「おいしい! エモンティエ産の蜂蜜とはちがう風味だわ。すっきりしていてさわやかなのね」
「そうですか。エモンティエの蜂蜜も、味わってみたいですね」
「お送りしますわ」
ジュリアスが楽しみにしていますと返したところで、会話がとぎれた。しかし彼はバルコニーから去ろうとはしなかった。なにか話があるのだと思ったミュリナは、黙って彼が切りだすのを待った。
「先ほどは晩餐の席で失礼しました。あなたに不愉快な思いをさせてしまった。お恥ずかしいかぎりです」
「いえ……。ジュリアス様のお気持ちはよくわかります。わたしもつい先日、騎士に世継ぎの自覚がたりないとおこられたばかりですもの。おこられたばかりなのに、ここへ来てしまったわ」
「あなたのことは私がお守りします」
「それでは、わたしがフォンティネール伯爵におこられますわ」
「父上の怒りからだってお守りします。エモンティエ伯の大事な令嬢を傷つけたくありません」
ジュリアスの顔が妙にまじめくさって神妙だったので、ミュリナはおかしくなってつい笑ってしまった。
「……なにかおかしかったでしょうか」
ジュリアスは本気でとまどっている。
「ごめんなさい。なにがってわけではないんですけど。ジュリアス様は本当に父のことを気にかけてくださいますのね」
「エモンティエ伯爵は、これからのセレイアになくてはならない方ですから」
「ありがとうございます。父の研究の価値を信じてくださる方がいらして、とてもうれしいわ。あれから父と手紙のやりとりを?」
「はい。しかし、私は菌類のことなどさっぱりですので、伯爵の手紙がほとんど理解できないのが残念至極なのですが」
真面目な顔でそう言われ、ミュリナは思わず天をあおいだ。
あの空気の読めないバカ父は、有頂天になって専門用語を注釈もなしに書きまくったのだろう。本当に世間知らずなんだからと、ミュリナは頭を抱えたくなった。
「……もうすこし噛み砕いた手紙を書くように、父に言っておきますわ」
「いえ! いえそんな、私が無知なのが悪いのです」
「いいんです。今後『魔除け茸』を広く知ってもらうためにも、父には噛み砕いた説明のしかたを学んでもらわなくっちゃ困るんです」
「はあ……」
「わからないことがあったら、どんどん質問してやってください。父に言い辛かったら、わたしのところでもかまわないわ」
「……ミュリナ様に手紙を書いてもよろしいのですか?」
「ぜひどうぞ」
「はい……。では、お言葉に甘えて」
やれやれ、バカ父は世話が焼けると思いながら、ミュリナは蜂蜜湯を口に含んだ。そしてなにげなくジュリアスのほうを見ると、彼はなぜか視線を泳がせ、そわそわしていた。
「どうかなさいましたか?」
不思議に思ってミュリナは訊いた。
「あ、いえ、なんでもないのです。どうも私は会話が苦手で、もうしわけなく思います」
「そんなことないわ。ジュリアス様のおっしゃること、よくわかりますもの。お気持ちも、よくわかりますもの。洒落た会話やうっとりするような言葉を紡ぐジュリアス様なんて、いまさら考えられないわ。なぜかしら? どんな美しい詩を口にされても、お似合いなお顔とお声なのに」
「……」
ジュリアスは無表情のまま、今度はぴくりとも動かなくなった。
(あ、固まっちゃった。どうしよう)
なんとなくわかってきた。不意にほめられると、真面目なジュリアスはどう答えたらいいかわからなくなるらしい。ほめるのが苦手なひとは、ほめられるのも苦手なものだ。
言葉どおりに考えすぎず、社交だと割り切って流してくれればいいのに。
(エメさんがこの場にいたら、うまくつないでくれそうなんだけど)
ミュリナもミュリナで困ってしまった。しかたがないので蜂蜜湯を飲む。ほっこりしたあたたかさが、喉元をおりてゆく。
美しい古城の、星のまたたく夕べ。
となりには、絵物語から抜け出てきたような、美しい青年。
ジュリアスの顔を見上げると、彼もこちらを見つめてくる。
絡み合う、視線と視線。
これでバルコニーから望める森に、魔物がいなかったら……。
(いなかったら、わたしがここにいる理由もないのよね)
ロマンチックな雰囲気に浸って、ぼうっとしている場合ではなかった。
「ジュリアス様」
「はい?」
「わたし、この村の土壌を調査しようと思うんです。ジュリアス様がリディアーヌ様との同行を許されないなら、わたしに同行してくださいませんか。森を案内していただけたらたすかります。土や植物を採集して、父に送ります。父は調査研究ならお手のものですから、きっと魔物大発生原因究明のお役に立つと思います」
「よろこんで。あなたをお守りします」
「ありがとうございます。心強いわ」
「……いえ、お礼を言うのは私のほうかと。我がフォンティネール領のために、どうもありがとうございます」
明日からやるべきことの目処がついたことに安心し、ミュリナは蜂蜜湯を飲み干した。カップが空いたのを見計らって、ジュリアスが手を差し出してくる。
「え、あの……。ごちそうさまでした」
格上貴族の令息に空いたカップを片付けさせるのもどうかと躊躇したものの、むこうが手を出してくるので仕方なくカップを渡す。
「ジュリアス様はあの……なんというか、ほかの貴族の方より親しみやすくていらっしゃるのね」
真面目で口数は少なくとも、なにげない動作に貴族特有のつんけんしたところがない。ミュリナはそんなジュリアスを好ましく思った。
「そうですか? ……友人のおかげかな」
「ご友人?」
「子供の頃から魔狩りの訓練のために、この城にはよく来ていました。ここノザーラ村の村長の息子とは同い年で、たまに城を抜けだしては彼と一緒に魚釣りをしたり、川で泳いだりしていました」
「あら」
ミュリナは思わず笑顔になった。真面目で堅物に見えるジュリアスにも、そんな少年らしいやんちゃな過去があったのだ。きっとテトとモースのように、大きな甲虫を見つけてはしゃいだりもしていただろう。
「今回の滞在でも、そのお友達とお会いになるの?」
自分も会ってみたいなとちらりと思いつつ、軽い気持ちでミュリナはたずねた。
「彼は死にました」
「え……」
思いもよらない返答に、ミュリナは笑顔を凍りつかせた。
「魔物に喰い殺されました。私は父と村長に頼み、彼の棺を墓地まで運ぶ役につかせてもらいました。棺は驚くほど軽かった。彼の体は魔物に喰われ、一部しか残っていなかったのです」
「ジュリアス様……」
「十四のときでした」
「……」
「本当に私の時間は、十四歳で止まっているのかもしれません……。いや、こんなことは幼さの言い訳になりませんね。お恥ずかしい。忘れてください」
ジュリアスは「それではおやすみなさい」と言い残すと、空いたカップを手にしてバルコニーから出ていった。
秋風の吹くバルコニーに、ミュリナはひとり残される。
夜空にまたたく星たちが、涙でぼんやりにじんで見えた。