第三章 森の黒真珠①
二人乗りの屋根つき馬車が二台、フォンティネールの中心街から遠ざかってゆく。ミュリナとレーナを乗せたエモンティエ家の馬車と、ジュリアスを乗せた馬車である。
「ジュリアス様は本邸をお離れになっていいんでしょうかねー? 当主代理じゃないんですか?」
レーナが窓から首を出し、前方を走る馬車に目をやった。
「ボルゼーガ様がいらっしゃるから、大丈夫なんでしょう」
「あのいけすかない叔父様ですか」
「いけすかないからっていけすかないってはっきり言っちゃ駄目」
「はっきり言ってるのはお嬢様ですよ。二回言ってます」
「だっていけすかないんですもん」
「三回目ー」
フォンティネール家当主アーセル・ジュ・フォンティネール伯爵は、夫人とともに北部にある別荘に滞在中らしい。本邸での業務はジュリアスとボルゼーガが代行していたが、ジュリアスはミュリナに同行して別荘へ向かうことになったのだ。
「お嬢様が心配で一緒に行ってくださるんでしょうか? きゃあ」
「なにがきゃあ、よ」
「脈アリなんじゃないですか? お嬢様にときめきだったりして☆」
パァァァァっと赤らんだ両頬に手のひらをあて、目をキラキラさせている恋愛脳のメイドを見て、ミュリナはげんなりしてきた。
「レーナ、あなたねえ、話をきいてたでしょう? ジュリアス様はフォンティネール北部の現状を真剣に憂えてらっしゃるのよ。別荘を訪問するわたしを案内するっていうのは、口実です。ジュリアス様は、魔物が異常発生している北部が心配でならないのよ」
「まあそうでしょうけど、すこしは夢みましょうよ」
「この状況で夢をみられるあなたが不思議だわよ……」
「ぱっと見だけなら、ジュリアス様とお嬢様って、すっごく理想的なカップルなんですけどねぇ。でもお嬢様はコレだし、王子様役のジュリアス様はお固そうでご性格がいまひとつ地味だし、どうもこう盛り上がりに欠けるのが残念で残念で」
「コレとはなによコレとは!」
「色気もそっけもなくて。しかたないからあたしが脳内で恋愛補完しますね!」
「そんなのしなくていいの!」
社交のための別荘訪問などというのどかな展開ではなくなったのに、なにが恋愛補完だと、ミュリナはあきれていた。とはいうものの、この不思議といつも前向きなメイドに救われることが多いのも事実だ。レーナを連れてきてよかったと思う。
リディアーヌから贈られたエメラルドは、エモンティエに置いてきてしまった。母に贈られた品だから、自分が持つ資格はないと思ったからだ。今になって持ってくればよかったと後悔している。あの宝石は、力を高める魔具になる。
もとより、リディアーヌは魔具として使わせるために、母にエメラルドを贈ったのだろう。母マノンに救援を頼むことを舞踏会の前から考えていたのだ。
仲直りは、母に救援を頼むため、しかたなく申し出たのだろうか。
(あまりそんな利己的なかんじはしなかったわ)
ミュリナは、リディアーヌの氷の女王のごとき仮面が、ボロボロとくずれていく瞬間を思い出した。「あなたもあの男じゃなくってマノンに似ればよかったのよ!」と言い放ったときのリディアーヌは、まるでだだをこねる幼い女の子のようだった。なかよしの友達を別の友達にとられてしまった子供の顔。
ミュリナは思わず、くすっと思い出し笑いをこぼした。
「あっお嬢様、ジュリアス様のこと考えたんじゃありません?」
「……考えてないわよ」
「そこは考えましょうよ!」
「ねえ、ヘンなこと意識させないでくれる? これからどんな状況が待ち受けてるかわからないんだから。気が散るじゃないの!」
厳しい口調で言ってやったのに、レーナはにやにやしながら宙を見つめ、なにやら妄想している。
「お嬢様、逢引の手筈ならあたしが完璧に整えます。秋の月夜の深い森ぃ~♪」
前言撤回。こんな色ボケメイド、置いてくればよかった!
そういえばレーナは最近、宮廷の恋愛遊戯小説を読みふけっていた。あの中に出てくる貴婦人付きのやり手小間使いに、自分をなぞらえているのだろう……。
馬車は真剣な令嬢とのんきなメイドを乗せて、一路北部へと向かっていった。
林の中のさみしい道を抜け、馬車二台がもうすぐ別荘につくかという頃。
雑木林に囲まれた田舎道なのに、道端を何人もの村人が歩いているのが目に入った。夕暮れだから、みな一仕事終えて家に帰るのだろうと馬車で追い越しながらミュリナは思ったが、それにしては向かう方向が同じなのが気になる。
村人たちは一様に、フォンティネール家の別荘のほうへ歩いてゆくのだ。
「フォンティネール家の別荘で、なにか倶楽部の会合でもあるのかしら?」
「そんな、エモンティエ家じゃあるまいしー。ふつうの貴族のお宅は、倶楽部活動に広間を解放したりしませんよ」
「倶楽部活動っていってもうちはほら、お父様の研究活動の一環だし」
「宴会も研究活動ですか?」
「きのこ倶楽部の宴会は、お母様の趣味よ」
そんな話をしているうちに、馬車は田舎道のつきあたりで止まった。固まった姿勢をほぐしつつ馬車を降りると、茜色の空を背景に灰白色の城がそびえていた。
古いおとぎ話に出てくるような、円筒形の棟がある古めかしい城である。組んだ截石の白い外壁が、繊細な秋の景色に映えてとても美しい。
「べ……別荘? これが?」
エモンティエの屋敷が別荘風と言われているから、ミュリナは自分の家のような太い梁のある素朴な屋敷を思い浮かべていた。しかし、目の前にあるのは歴史の風格あふれる古城である。小さめとはいえ、城は城である。
ミュリナとレーナがあんぐりと口をあけ城に見入っていると、ジュリアスが近づいてきた。
「古い建物でもうしわけありません。内部は暮らしやすいよう、当世風に整えてありますのでご安心を」
「もうしわけないなんて、そんなっ! 素敵すぎて言葉も出ませんわ。女の子なら誰でも一度は夢見るようなお城ですわ。おとぎ話のお姫様になったみたい」
「そうですか? 私は男なのでよくわかりませんが、この城は三百年前の先祖が新妻のために建てたものだそうですから、女性好みの意匠なのかもしれませんね」
新妻のために城を建てる。エモンティエ家の先祖にそんな甲斐性のある男性がいたかしらと考え、ミュリナは天をあおいだ。なにもかもちがいすぎる。おなじ伯爵家を名乗っているのは、なにかの間違いじゃないかと思う。
(でも、フォンティネール家はもうすぐ侯爵家になるんだっけ)
ミュリナは、かたわらに立つジュリアスを横目でちらりと盗み見た。彼は来た道を眺めている。夕日に縁どられた、端正な横顔。
自分には、手の届かないひと……。
胸に生まれたちくりとした痛みを、ミュリナはあわててなかったものにした。レーナがおかしなことを言うから影響されてしまった。それどころじゃないのにと、ミュリナは眉間にしわを寄せ、魔除け茸の資料が入った書類鞄の持ち手をぎゅっとにぎりしめた。
ジュリアスの横顔から視線をずらし、彼が見ている道を見やる。さっき馬車で追い越した村人たちが、ぞくぞくと城を目指してやってくるのが見えた。
「あの方たちは、なぜここへ向かっているのですか?」
「そろそろ母が戻る時間だからでしょう」
「リディアーヌ様が? どちらから?」
「魔祓いの戦から」
ミュリナの聞こえのいい耳が、遠くから響く馬の蹄の音を聞く。馬はゆるやかな駆け足で、こちらに近づいてくる。やがて道を歩く村人たちも、馬の気配に気付いたようだ。その場で足を止め、来た道をふりかえる。
夕日の残光のない北東の空は、もう宵闇が支配しはじめていた。インクを流したような藍色の空に、いくつかの星がまたたく。背後から星たちに見守られるように、一頭の白馬がやってくる。その背に鎧の人物を乗せて。
「奥方様だ!」
村人のひとりが声をあげる。銀色の鎧兜が、橙色の夕日を照り返す。鎧兜の人物が手綱を引き、馬を止め、颯爽とした動作で地に降り立つ。なにひとつ無駄のない、勇ましくも優雅な動き。なめらかで隙のない動作の流れるままに、鎧の人物が兜を脱ぐ。
白金の長い髪がこぼれ、秋風にゆれる。
兜の中からあらわれ出たのは、冷たいほどに美しい女の顔。氷雪の女神のごとき伯爵夫人、リディアーヌ・ジュ・フォンティネールその人だった。
リディアーヌは、伯爵夫人の勇姿をひとめ見ようと集まってきた村人たちに軽く手をあげ、唇を笑顔のかたちにもちあげた。それは、王族が王城のバルコニーから国民に向けるものと同じ表情だった。力あるものだけが持つ、支配者のほほえみ。
笑うだけ。なのに、圧倒的な迫力。
いつのまにか城門の前は、仕事帰りの村人たちで埋め尽くされていた。
門がひらき、中から従者と厩番が出てくる。立派なお仕着せを着た従者は、その手に黒いビロード張りの蓋のない平箱を持っていた。
リディアーヌは厩番に白馬をまかせ、従者に歩み寄った。そして長剣とともに腰に下げた革袋をはずし、黒い箱の上で逆さにした。
ざらざらと音を立て、革袋からこぼれ出るのは色とりどりの石。
宝石の、原石。
魔物の死骸の、現世での姿――。
わあっと、村人たちの輪から歓声が上がった。
本日の伯爵夫人の成果を称える、声、声、声。
「ありがとうございます奥方様」
「奥方様がいらっしゃれば、フォンティネールは安泰でございます!」
「ああ、なんとすばらしいお力」
「奥方様のお力で、おそろしい日々もすぐに終わるでしょう」
「伯爵はすばらしい伴侶をお持ちだ!」
リディアーヌは唇の端をさらに持ち上げることで、彼らの賛美にこたえていた。
ミュリナは、ただ黙ってそんなリディアーヌを見ていた。ミュリナには視えるものが、村人たちには視えないのだ。魔祓いの力のない者には、視えないのだ。
リディアーヌの全身から発せられる魔の残り香に反応し、ミュリナの目に映る光景は、人の次元と魔の次元が重なり合っていた。
魔の次元で視るリディアーヌは、全身、兜の中にあったはずのその美しい髪と顔まで、魔物の青い血で血塗られていた。
どんな戦いのときを過ごしてきたのか。
どんな壮絶な死闘から戻ってきたのか。
一体何日、こんな日々を過ごしているのか。
歯の根がカチカチと鳴りそうになるのを、ミュリナは必死にこらえていた。小刻みに震えるミュリナの肩に、ぽんと労わるように手が置かれる。
見上げるとジュリアスが、心配そうな顔でミュリナを見ていた。
「……やはり、エモンティエへお戻りになられたほうがいい」
「いいえ」
ミュリナはきっぱりと答えた。あらためて夫人のほうを向く。
「帰りません」
リディアーヌは村人にこたえるのをやめ、ミュリナのほうを見ていた。
そしてぞっとするほど優雅な笑顔で「よくきてくださったわ。待ってたのよ、ミュリナ」と、顎先から青い血をぽたりと滴らせながら、言った。