月光夜話
宿場と宿場のちょうど合間、横たわるように流れる川の岸辺にぼぅっと淡く揺れる灯りを見つけた時、安堵の息をつくより先に胸に広がったのは夜盗やら山賊の類ではあるまいかという恐怖であった。
前の宿場を出たのは昼前のことで、宿の女将が作ってくれた二個ばかりの握り飯はとうの昔に腹の中に収められ、握り飯に添えられたたくあんの塩がきつすぎると捨ててしまったことが今さらながら恨めしい。
ほぉっと溜息のように時折聞こえてくる梟の声に身をすくめ、途中痛めた足をなんとかごまかしながらここまで歩いて来たものだ。
本来であればもう次の宿場町で大げさに美味いものではなくとも、地のものを腹に収めて風呂になど入れていたものを、とむなしい皮算用に幾度も溜息がでる始末。
そこでやれやれと道を外れた川下をみれば、件の灯りがぼぅっと視界に入り込む。
途端にぎゅっと胸と、ついで下半身が縮むような思いを味わった。
こんな時刻にこんな場にいる者が普通であろう筈は無い。
追いはぎか山賊か。
はたまた人を化かす狐狸の類かと思いはしたが、もういい加減月灯りだけにうんざりとしていたところに炎の灯りは蛾を呼ぶように引き付ける。
ごくりと喉を鳴らし、じっとりと手のひらを湿らせる汗を着物の胸に幾度かこすりつけてそっと雑木の間から眺めると、それは一人の坊主に見えた。
頭に乗せる傘を脇に放り出し、大きな石にどしりと座ったその姿は、火に照らし出されていなければ首だけが浮かんでいるかのように黒い袈裟姿。
川石を無造作に積み上げて作った竈をこさえ、火を熾したそれを見れば、さも美味そうな魚が数尾、口から腹、腹から尾びれへと串に貫かれ、煙をひょろひょろりとあげ、口からはたらたらと汁をたらしている。
それを見れば途端に腹がきゅるると情けない音を響かせ、気恥ずかしさよりも恐怖がぶありと足元から這い登り、一目散に駆けて逃げ出そうにも、昼間痛めた足が悪いのか、はたまた自らの肝の小ささが災いしてか動かれぬ。
あわや南無三と唱えてみれば、件の男はのんびりとした口調で火に当たるかと問いかけてきたものだ。
坊主というそのナリも手伝って、そっと雑木の間からおそるおそる出て行くと男は不精に生えた顎鬚を撫でながら顎先で招いた。
話をすれば、その男は自分と同じように旅の途中だという。宿屋に泊まることは滅多になく、川やらお堂を見つけては野宿をしているのだと。
串刺しにされ地面に口を向けてたらたらと汁を出していた魚から汁が途切れ、腹を痛めつける香りだけが漂う頃合、ちらちらと幾度も見ていたつもりは無いが、坊主は串を一つ取り上げ、差し出した。
「悪いが、一尾につき一文くれまいか」
坊主から銭を要求されるという事柄に驚きはしたものの、むしろ銭を要求されたほうが気持ちは楽だ。構はないから、二つ貰っていいか? と確認し、二文ばかりの銭を懐の布袋から取り出して先に手渡した。
焼け焦げた魚の皮をべりりとはがし、ほこりと艶やかな白身をがぶりと齧れば口の中に旨みと唾液とが交じり合う。
おそるおそる付けた口が、やがてがつがつと喰らうていれば、坊主は「皮を取るとは随分と贅沢者だ」と笑い、思い出すようにこんな風に切り出した。
「銭を貰ったのだから、一つ面白い話も聞かせよう」
しかし、坊主の話は一つどころではなくとうとうと口から流れた。それは最近の江戸の町の噂話やらが主で、取り留めなく続く。
まるで話を生業にする業者のようなその立派な話しぶりに、たかが二文足らずで美味い魚に話し相手がついてきたと儲けた気持ちになったものだ。
しかし、二匹目の魚も半ばまで食べつくし、腹がくちてくれば他のことにも目が留まる。
坊主の身なりはよくよく見れば随分と薄汚れ、くたびれ果てていた。
旅から旅の生活を思わせ、時折棒切れで火の調子を確かめるその手首は垢がついて薄汚い。
その匂いも生臭いもので、こんな匂いを前に良く魚が食えたものだと、ほんの少し顔を顰めるのが判ったのか、坊主は話の途中で焼けこげた皮ごと魚にかぶりつき「なにせ生臭坊主だからな」と自分を笑う。
結局二匹目の魚は全て食べきる前に火の中に投げ込んだ。
指についた魚の汁を舌で舐めとり、愛想笑いをすると坊主はほんの少し顔をしかめた。
「死に屋を知っているか」
ふいに坊主が口にした。
その、なんだか物騒な言葉に顔をしかめ「何ですそりゃ」と眉を潜めれば、江戸に最近ある仕事の一つだと言う。
こんな暗い宵闇に、恐ろしい話は御免だと言うが、相手は頓着せずにいやいやと笑う。
「恐ろしい話ではない。わしだとてこんな夜に怪談などおそろしゅうてできん」
腹がくちた為にあふりと欠伸が漏れた。
小川の流れがさやさやと耳に入り、虫の音とが心地よく睡魔を刺激する。
それと同時に月明かりと薪の炎の間、目ばかりがぎょろりと目立つ生臭坊主に気味悪さを覚え、そろりそろりと立ち上がり、なんとなしにその場を離れて小川へと近づいた。
手がねばる感触に、相手を刺激しないようにと小川でさも手を洗いたいのだとその岸辺でばしゃりばしゃりと手を洗いにかかる。
坊主はよほど話が好きなのだろう、変わらず口を開き続けた。
「商家の店先でだな、死に屋は大の字に転がって、死にそうだというのだ」
「はぁ」
「商家はそんなところで死なれたら迷惑だというが、死に屋はただではどかん」
死に屋などと物騒なことを言うものだから、なんだかそら恐ろしい話かと思えば、内容は滑稽なものだった。
薄気味の悪い坊主だと足元から這い登る嫌悪感が、そろりそろと揺らいでいく。
「ただでは退かぬという死に屋に、商家は銭を払うわけだ」
冷たい水で手を洗うと、水面の月がゆらいで崩れる。
濡れた手は懐から出した手ぬぐいで拭い、ついで、そういえば足の痛みもひいてきたが、少しばかり冷やしたほうがよかろうとその場に座り、片足の汚れた足袋を引き抜いた。
「江戸には変わったもんがおりますねぇ」
先ほどまでの自分のよそよそしさを誤魔化すように、話をあわせて言えば、相変わらず坊主は低い声で笑いながら次の話をしだす。
「やはり死に屋も知らんか」
その言い方が田舎者のもの知らずを笑うように感じたが、こんな場で腹をたてても仕方ない。
何より、相手は恩人のような坊主だ。
へんに気色悪いなどと思った後ろめたさも手伝った。
「知りやせんねぇ」
相槌のように返しながら、痛めた足が水に冷やされて心地よいのを堪能する。
「では、首屋はどうだ?」
またおかしな商売が坊主の口から吐き出された。
そら恐ろしい言葉だが、先ほどの死に屋と同様また下らぬことを生業にしたものだろうとは予想がつく。
「またけったいなモノ屋ですね。どんな商売なんです?」
「首屋は生首を売る商売だ」
あっさりと言われた言葉に危うくもう片方の足までぬらしてしまった。
「生首!
そんなものを売り買いするとは江戸とはなんと恐ろしいところですねぇ」
ぶるりと身をふるわせて見せると、坊主がまたしてもしてやったりというように笑ってみせる。
「そんなものを買ってどうすんですかい?」
「誰も買わん」
坊主は言いながら自分も汚れた手を舌先で舐った。
「こう、風呂敷にな、生首をいれて質屋に持ち込む」
「質屋が生首を質草にしやすかね? それとも買取なさるか?」
「だから、誰も買わん。だが首屋は生首を質屋に持ち込む――当然質屋はそれを断る」
断られては銭にはならん。
だから首屋は「銭にならぬならこの首は要らん。おいていくと言うのだ」と坊主は言いながら、やはり川辺に手を洗いにやってきた。
話しの内容が見えてくると、今度は立ち上がり得意げに応えていた。
「首をおいていかれると困るってんで、質屋は銭を出す訳だ」
ばしゃばしゃと手を洗う坊主に使っていた手ぬぐいを差し出す。
「しかし、首なんぞどうやって手に入れるんだかな」
手の後、顔もばしゃばしゃと洗う坊主はしゃがんだまま手を伸ばした。
「こうだろうな」
ごぎゅりと鈍い音と、締め上げた箇所から伝わるどくどくとした生々しい感触。
川面に写りて歪む、月が……