乳飲み子を連れて伯爵家から逃げた元メイドですが、侯爵家の若様に拾われましたので人生幸せです!
──パンッ!
生まれてまだ半年の息子を、旦那様が平手打ちしたのは三日前のことだった。
「おやめ下さい! 旦那様!」
旦那様は立ち上がると私の髪を鷲掴みにした。ぶちぶちと、髪の抜ける嫌な音がする。
「だったらいつまでもギャーギャー泣かせてんじゃねえよ。危うくバレるとこだっただろうが!」
「も、申し訳ありません。すぐに泣き止ませますからッ!」
「いいか!? そのガキは今後、オレ様の正当な跡取りが出来なかった時の保険に生かしてやってるだけだ。男じゃなけりゃ、とっくに殺してんだからな!」
「……っ」
「ったく、メイド分際で俺の子を孕みやがって。ったく、オレ様の完璧な人生の邪魔してんじゃねえよ」
旦那様は髪を掴んだまま、私を床に叩きつけた。
とっさに息子を胸に抱え込む。背中を強く打って息が詰まった。
「改めて忠告するが、そのガキを屋敷の奥から一歩も出すなよ。次、客がいるときに泣き声の一つでも上げてみろ。その鬱陶しい声帯ごと潰すからな」
「は、はい……」
旦那様はチッとわざとらしく舌打ちをして扉に手をかけた。
「ああそうだ、今夜はオレ様の部屋にこい。さっきの口答えの分、たっぷり躾けてやる」
私は下唇をキュッと噛み締め視線を落とした。
赤く腫れた息子の頬を指でなぞると、小さな手が私の指をぎゅっと握ってくる。
この子は旦那様との間に生まれた。酔った旦那様に無理やり襲われたできた子。
堕ろすことがどうしてもできなかった。旦那様に相談したら好きにしろと言われた。だから産んだ。
けど、名家のお嬢様との縁談の話が出てきて、旦那様の態度は一気に変わった。
旦那様に取ってこの子は邪魔な存在。それであった同時に、何かあった時の保険として見ている。
じゃあ、もし保険の役割すら無くなったら……?
先方のお嬢様と結ばれて、新しく息子が生まれたら……?
そんな想像をした瞬間、私は血の気がみるみる引いていくのを感じた。
その夜、私は息子──クレムを抱いて裏口から屋敷を抜け出した。持ち出せたのは、四年分の給金の残りだけ。
あれから、三日。
私は今、王都の道端で死にかけている。
頼みの綱だった救貧院には門前払いされた。
その赤ん坊の父親は? と詰められ答えられなかったせいだ。ふしだらな女に恵むモノはないとのことだった。適当な嘘を吐けない自分の頭の弱さが恨めしい。
頭がぐらぐらする。足は棒みたいだし、たぶん熱もある。
「あぅ……」
「ごめんね。大丈夫。大丈夫だからね」
なにが大丈夫なのか、自分で言っててよくわからない。
ふらつきながら角を曲がったところで、トンと誰かと肩がぶつかった。
「す、すみません!」
「いえ、こちらこそ。……えっと、大丈夫ですか?」
見上げると、仕立てのいい服を着た黒髪の青年が立っていた。すぐ後ろには紋章入りの馬車が停まっている。
多分、貴族だ。もし、この人が旦那様とお知り合いだったらまずい。
「顔色が悪いですよ。少し休んだほうが──」
「へ、平気です! 失礼します!」
逃げるようにその場を離れようと踵を返した、そのときだった。
ぐらりと視界が傾いた。石畳に背中から身体を打ちつける。
「ふぎゃあああああああぁぁっ!」
腕の中でクレムが泣き叫ぶ。あやすために身体を動かしたいのに、鉛みたいに重たい。
「大丈夫ですか!? ちょっと、しっかりしてください!」
すぐ近くにいるはずなのに、青年の声が遠くに聞こえる。意識がまどろむ。視界がだんだん黒く沈んでいった──。
§
目を開けると知らない天井が一面に広がった。
「──っ! クレム!?」
飛び起きようとしてそのままベッドに沈む。体に力が入らない。
「赤ちゃんなら隣の部屋です。乳母が見てくれていますよ」
ベッドの横の椅子にあの黒髪の青年が座っていた。私はほっと胸を撫で下ろす。
「そうですか、よかった。えっと、ここは……?」
「ローゼンハイム侯爵邸です」
侯爵邸。道理で部屋は広いし綺麗だしベッドはふかふかなわけだ。
そうかそうか、侯爵邸か……。
「……侯爵邸!?」
「そ、そうです。侯爵邸です」
私が大声をあげると、青年は軽く肩を跳ねて目をぱちくりさせた。
「えっと、自己紹介がまだでしたね。僕はカイル。カイル・ローゼンハイムです。あなたは?」
「レ、レイラです。ただのレイラ。……息子はクレムといいます」
ローゼンハイム。
王都に住んでいれば誰でも知っている、侯爵家の名前だ。
「レイラさん、丸一日眠ったままだったんですよ。医者の話によると極度のストレスと栄養失調によるものだろうと」
「そ、そうですか。すみません」
「謝ることはありませんよ。ただ……」
カイル様の声が、少しだけ低くなる。
「クレムくんの頬の腫れを見て叩かれた痕じゃないかと、医者が懸念されていました」
ひゅっ、と喉が鳴った。
嫌な記憶が蘇る。なんて答えよう。どうしようどうしようどうしよう!
布団の端を握りしめて目を左右に泳がす。
「あ、あの……すぐに出ていきますので……」
「出ていってどこへ行かれるんですか?」
「それは……」
言葉が続かない。行くあてなんてない。
「では、しばらくここでメイドとして働いてくれませんか」
「え?」
「レイラさんは、どこかのお屋敷でメイドをされていたのではありませんか?」
「どうして……」
「手です」
カイル様は自分の手のひらを広げてみせた。
「レイラさんの指の関節と爪の先は、ずっと水仕事をしてきた人特有の荒れ方をしています。といっても、メイドの受け売りですけど」
そう言われてあかぎれだらけの自分の手を確認する。
私は恥ずかしくなって、慌てて両手を布団の中に隠した。
「なにより、このままお別れとなったら多分泣き出してしまうと思うんです。クレムくんにメロメロな、うちのメイドたちが」
メイドが泣くんだ……。
体調が回復した翌々日から、私は侯爵邸でメイドとして働きはじめた。
同じメイドとしての仕事なのに、伯爵邸とはまるで違かった。
怒鳴られないし、酷いことを言われないし、旦那様から殴られることもない。
それだけのことで、その夜は少しだけ泣いた。
ある日の休憩時間。クレムをあやしているとカイル様が様子を見に来てくれた。
「お疲れ様です、レイラさん。お仕事はもう慣れましたか?」
「はい。前より仕事が少なくて、逆に落ち着かないくらいで……あっ」
しまった、と思ったけれど、カイル様は微笑んで聞き流してくれた。
「クレムくんのこと、僕にも僕にも抱っこさせてくれませんか」
「でももし吐き戻しでもしたら、お召し物が……」
「構いませんよ」
カイル様が私に向けて両手を差し出してくる。
私はおずおずと、その腕の中にクレムを預けた。
けれど、居心地が悪いのか、クレムはさらに身をよじって泣き出す。
「あわわっ!? ご、ごめんねクレムくん。レイラさん、どうすれば……!!」
オロオロするカイル様がおかしくて、私は笑いをこらえながらその腕にそっと手を添えた。
「もっと胸に寄せて、首の下に手をあててください」
「こ、こうですか……?」
「そうです、そのまま」
ぐずりかけていたクレムが、カイル様の胸に顔をうずめて心地良さそうに身を預ける。程なくして、すうすうと寝息を立て始めた。
カイル様が、声を出さずに口だけで「ね・ま・し・た」と言う。
侯爵家の次期当主とは思えない無防備で優しい表情に、なぜだか胸がドキッととした。
侯爵邸に来て、ひと月ほど経った頃。
屋敷の中が急に慌ただしくなった。業者がひっきりなしに出入りして、広間には新しいカーテンが掛けられていく。
廊下ですれ違うメイドたちが、やけに浮き足立っている。
「何かあるんですか?」
バケツを抱えたまま尋ねると、先輩の一人が頬を緩ませながら。
「あら、聞いてないの? 再来月は、フィリア様の婚約披露よ。このお屋敷でやるの」
「まあ、そうだったんですねっ」
私はパンと手を合わせる。
フィリア様。とても気さくなカイル様のお姉様だ。
「しかもお相手がすごいのよ。ヴェルシード家のご当主様」
「え?」
──ヴェルシード……
バシャン、と足元で音がした。
バケツを落としたのだと気づくのに、しばらくかかった。広がった水が、靴の先を濡らしていく。
「ちょ、ちょっと、レイラ!? なにして──って、大丈夫!?」
膝から力が抜けて、しばらく私はその場で呆然とするしかなかった。
先輩に肩を貸してもらいながら、私は部屋に戻りベッドに横になった。先輩は「お医者様呼んでくるね」と部屋を出て行く。
一人きりになった私は天井を見上げながら。
「ヴェルシード伯爵……」
ガチガチと歯の根が合わない。体の芯から這い上がってくる悪寒が止まらなかった。
(旦那様が言っていた『縁談』って……ローゼンハイム侯爵家とのことだったんだ……)
全てが一本の線で繋がってしまった。
もし、このお屋敷で行われる披露パーティーで旦那様に見つかったら?
──次、客がいるときに泣き声の一つでも上げてみろ。その鬱陶しい声帯ごと潰すからな
あの冷酷な声と、髪を毟られ床に叩きつけられた痛みが鮮明に蘇る。
「……っ、いやっ……!」
手元にいる間は『保険』でも、縁談相手の屋敷に隠し子がいるとなれば話は変わってくる。私が余計なことを喋らないか危惧して、口封じに殺される……。
「逃げなきゃ……!」
私は弾かれたようにベッドから跳ね起きると、部屋の隅にあった小さな鞄を引っ張り出した。ポタッ、と鞄の中に大粒の涙が落ちる。
ずっとここに居たかった。
でも、ダメだ。ここに居たらクレムを守れない。
「クレム。ごめんね。また、怖い思いをさせるね……」
袖で涙を乱暴に拭い、隣の託児室にいるクレムを迎えに行こうと、鞄を抱えて部屋の扉を開けた時だった。
「ひゃっ!? ……カイル、さま?」
「あ、レイラさん、カイルです。倒れたと聞いて飛んできたんですが……鞄を持ってどこへ行かれるつもりですか」
私は小さく息を呑んだ。
私はずるい。この期に及んでカイル様に隠し事をしようとしている。
どうせ屋敷から出ようとした身。全てを打ち明けてもいいはずなのに、うまく口が動かない。多分、私はカイル様に幻滅されたくないんだ……。
私は視線を落とし、俯き加減に。
「……私はおよそ四年、ヴェルシード伯爵家のメイドをしていました」
それだけ今にも消えそうな声で言うと、カイル様は私から鞄を取り上げた。
「……なるほど。そういうことですか」
ごくりと生唾を飲む。
きっと、見損なったと冷たい目を向けられる。
そう思って目をギュッと瞑った私に降ってきたのは、優しい声だった。
「顔を上げてください」
恐る恐る顔を上げると、カイル様はひどく痛ましそうな瞳で私を見つめていた。
「わ、私……その、えっと……」
「もう、話さなくて大丈夫です。辛いことを話させてしまってすみません」
カイル様は鞄を床に置いて、私のほうへ一歩近づいた。
「赤ん坊を抱えて屋敷から逃げ出す理由なんて、そう多くありません。大変でしたね」
喉の奥が、じわりと熱くなる。
ポンと頭を撫でられた瞬間、ギリギリと張り詰めていた糸が音を立てて千切れた。
「あ、ああぁっ……! ああああああああああああああ!」
私は両手で顔を覆って、子どもみたいに声を上げて泣きじゃくる。
カイル様は私が泣き止むまで、背中をそっと優しく撫で続けてくれていた。
三日後。
私は屋敷の応接間にいた。
「今日、ヴェルシード伯爵を屋敷に呼びました。レイラさんには、この屋敷のメイドとして部屋の隅に立っていてほしい」
そう、カイル様に言われたからだ。
ヴェルシード伯爵とは同じ空間にいるだけで足がすくんで震えてしまう。
けれど、カイル様にはなにかお考えがあるようだった。それを信じてみたかった。
やがて、重厚な扉をノックする音が響き、私の肩がびくっと跳ねる。
カイル様が「どうぞ」と応じると、コツコツと聞き覚えのある足音がやってきた。
彼は部屋の隅で俯く私など視界の端にも入れず、カイル様の対面に向かう。
「本日はお招きいただきありがとうございます、カイル殿。して、本日はどのようなご用件で? 披露宴の準備でしたら、我が伯爵家が万事手配いたしますよ」
ヴェルシード伯爵は、愛想のいい笑みを浮かべてソファに腰を下ろした。
彼は対外的な外面が非常に良く、若くして領地を豊かにした手腕の持ち主だった。
カイル様のお父様である現侯爵様は、その才覚を見込んでフィリア様の婿として迎え入れようとしたらしい。
「単刀直入に言います」
カイル様はスッと目を細めた。
「姉との縁談をなかったことにしていただきたい」
ヴェルシード伯爵の笑みがピシリと凍りつく。
「……ご冗談を。いきなり何を仰るのです? 侯爵様は私の手腕を高く評価してくださっていたはず。何か不手際があったのなら直ちに改めますゆえ──」
「ええ、父はあなたの手腕に、そして外面の良さにすっかり騙されていました」
「騙してなどいません」
「そうでしょうか?」
カイル様が部屋の隅に立つ私を見た。
つられて振り向いたヴェルシード伯爵と、パチリと目が合う。
「……レイラ?」
赤い瞳が真っ直ぐに捉えられ、私はゾワっと全身が粟立つのを感じた。
「な、なぜお前がここに! いきなり逃げたかと思えば……そうか、オレ様を逆恨みして余計なことを──!」
「お座りください伯爵。貴族は感情的になるものじゃない」
怒鳴りながら腰を浮かせた男を、カイル様の氷のような一言が縫い留めた。
「私は暴力を振るう人間がこの世で一番愚かだと考えています。特に、自分より力のない人間に対して暴力を振るう人間が」
「……っ。ち、ちがっ! 違う! 誤解です! この女は頭がおかしいのですよ。カイル殿! 勝手に身籠った子をオレ……私の子などと宣い、散々迷惑をしていたのです! 彼女の妄言に騙されないでいただきたい!」
「見苦しい言い訳は不要です」
すがりつこうとするヴェルシード伯爵の手を払い、カイル様は低く囁くように続ける。
「縁談を最終的に決めるのは、僕ではなく父です」
「……っ」
「もしあなたが彼女に誠心誠意、床に膝をついて謝罪するのなら……本件を多少手心を加えた形で父に報告しても良いと考えています。そのあと父がどう判断されるかまでは、僕の知るところではありませんが」
ヴェルシード伯爵の目が大きく見開かれた。
今この場で土下座するだけで、侯爵家との縁談が繋ぎ止められるかもしれない。その浅ましい計算が、彼の顔にありありと浮かんでいるのがわかった。
数秒の沈黙のあと。
ギリッと歯を食いしばりながらソファから立ち上がり、私の前まで来ると──彼は床に膝をついた。
両手をつき、屈辱に顔を歪めながら、額を絨毯に押しつける。
「……わ、悪かった」
「声が小さいですね。それでは聞こえませんね」
カイル様の声はまるで熱を帯びていなかった。
「……っ! 申し訳、ありませんでした……!」
私のことを欲望の捌け口としか見ていなかった男が、今、私の足元で惨めに頭をすりつけている。
貴族が平民に対して、土下座をするなんて聞いたことも、もちろん見たこともなかった。いつの間にか、私の手の震えは完全に止まっている。
「レイラさん。何か、彼に言っておきたいことはありますか」
「一生、許すことはできません。どんな贖罪をされても不可能です」
私ははっきりと本音を告げた。
「なので、二度と私とクレムの前に現れないでください」
ヴェルシード伯爵は忌々しげに顔を上げると、すがるような目でカイル様を見た。
「こ、これでご納得いただけましたか? 侯爵様への報告は……」
「ええ、約束通り。本件は『手心を加えた形』で父に報告しましょう」
その言葉を聞いた瞬間、ヴェルシード伯爵の顔にパァッと明るい安堵の色が広がった。
「感謝いたします、カイル殿! では、披露宴の準備は予定通り進めておきますので!」
「はいよろしくお願いしますね。本日はもうお引き取りいただいて構いません」
カイル様がそう言うと、ヴェルシード伯爵は入ってきた時よりもずっと軽い足取りで応接間を出ていった。
閉まりかけた扉の隙間から、「ふん、安いものだ」と得意げな呟きが漏れたのを、私は聞いた。この人は商才はあるみたいだけど、詰めが甘いように感じる。
でもまあ、一言謝ってもらえただけでスッと気持ちが晴れたのは確かだった。
なにより、こうなった以上、ヴェルシード伯爵が私やクレムに危害を加える真似はしないだろう。それをすればどうなるか、想像できない人ではない。
カイル様には、いくら感謝してもしきれなかった。
§
それから二週間後。
買い出しの帰り道、私は大通りで立ち話をしている商人たちの会話を偶然耳にした。
「聞いたか? ヴェルシード伯爵、借金まみれで破産したらしいぞ。親族に爵位を譲って領地に引っ込んだそうだ」
「ああ。なんかまとまりかけてた縁談が破談になったとかで、商人たちが一斉に貸付金の回収に走ったらしいな」
私は持っていた買い物カゴをきゅっと握りしめ、小走りで屋敷へと戻った。
そのまま執務室へ向かうと、カイル様はいつも通り机の前で書類に目を通していた。
「カ、カイル様! 街で聞いたんですが、ヴェルシード伯爵が……っ!」
「ああ、当家にも今朝知らせが来ました。爵位を返上したそうですね」
「で、でも……! あの時『手心を加えて報告する』って……」
「僕は、価値のない人間に対しては嘘を吐いていいと考えているんです」
カイル様は、ペンを置いて柔らかく口角を緩めた。
「ヴェルシード伯爵は、侯爵家と縁続きになることを担保に過剰な借金を作っていました。まあ、彼の手腕や当家の後ろ盾があれば今後十分な利益は望めましたが、不安要素をばかり粒立てることにしました」
「…………」
「父上には当家に傷がつくと報告し、懇意にしていた商人たちに『当家はヴェルシード伯爵家の借金を保証しない』と世間話をしただけです」
カイル様はにこっと爽やかに笑った。
カイル様は、絶対に敵に回しちゃいけないタイプの人だ……。
私の背中を、一筋の冷たい汗が伝った。
「あと、そのすみません。姉上にだけレイラさんのことをお伝えしました。縁談を白紙に戻すにあたって、姉上にヴェルシード伯爵がどういう人間が理解してもらいたかったものですから」
「いえ、それは全然……」
カイル様はホッとしたように息を吐いた後で、気まずそうに視線を彷徨わせる。
「あ、あの引いてますか? 僕、やり過ぎてますかね?」
「そんなことないです! こんなこと思っちゃダメだと思うんですけど、ちょっとスカッとしたというか……う、嬉しいです。私! だから、改めてありがとうございます!」
勢いよく頭を下げると、カイル様はぽかんと毒気を抜かれたような顔にする。
でもすぐにその口元がフッと柔らかく緩んだ。年相応の青年の、どこか心底安堵したような表情へと変わっていく。
「よかった。嫌われたらどうしようかと不安だったんです」
「嫌うだなんて、とんでもないです!」
「それに僕は……」
カイル様は耳の端をほんのりと赤く染めながら、ぽつりと続けた。
「大切な人にひどいことをした相手を、頭ひとつを下げさせたくらいで許してやれるほど心が広くないので」
……大切な人?
私が小首を傾げると、カイル様の顔から茹で上がったように赤くなる。
「あっ! ち、違……わないんですけど、今のは違くて! 本当はもっとこう、父上の許しをもらって、景色のいいところでビシッと言うつもりで……!」
「……どうして私なんですか? カイル様」
私が戸惑いながら尋ねると、カイル様は胸に当てていた手を下ろした。
「貴族に家に生まれると、人を疑うのが癖になるんです。この人は僕に笑っているのか、それとも侯爵家という肩書きに笑っているのか。ヴェルシード伯爵……元伯爵のように、外面の良さだけで中身が伴わない人間も山ほどいます」
そこまで言ってから、カイル様は顔を上げ真っ直ぐに私を見た。
「でも、あなたは嬉しいときは素直に嬉しいと言うし、怖いときは身体も一緒に震える。誰より一生懸命に働いて、クレムくんに心から温かい笑顔を向ける。裏表のないあなたと過ごす時間に、僕は居心地の良さを覚えました」
「カイル、様……」
「だから僕はこれからずっとあなたと一緒にいたいんです」
まっすぐな言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
嬉しい。あまりに嬉しくて、胸が張り裂けそうだ。
でも、どうしても引け目が口をついて出てしまう。
「ですが私は身分もない、ただのメイドで……」
「知ってます」
「そ、それに……クレムだって……」
「知ってます。全て承知の上で僕はレイラが好きなんです」
カイル様の揺るぎない瞳に私が映る。
抱えていた不安も引け目も、全部温かく溶かされていく。
私はこみ上げる涙を拭い、彼をまっすぐに見つめ返した。
「はい。私でよければ、末永くよろしくお願いします」
§
半年後。
私は、レイラ・ローゼンハイムになった。
少し前、クレムが初めて言葉を発した。
「とーたん!」
旦那様は顔を真っ赤にしてクレムを抱きしめていた。最初に呼ばれるのは私だと思っていたから悔しくなるかと思ったけど、全然そんなことはなかった。
愛する家族の前では、悔しさが湧く余地なんてないみたいだ。
乳飲み子を連れて伯爵家から逃げた元メイドですが。
侯爵家の若様に拾われましたので、私は今、控えめに言って最高に幸せです!




