第8話 なぜ売れないのか
「起きな、コウ。市場の朝は早いから」
扉越しの声に叩き起こされ、俺は宿の硬いベッドから身を起こした。
リーシャが用意してくれた清潔な古着に着替え、後を追って宿を出る。
大陸南部の物流が交差する大きな町、ルイン。
その心臓部である中央広場の市場は、朝の光が差し込むと同時に、圧倒的な熱気とざわめきの渦と化していた。
「安いよ! 今日獲れたばかりだ!」
「王都直輸入の絹織物! ここでしか手に入んねえぞ!」
「どけっ、荷車が通るぞ!」
石畳の広場には隙間なく木枠の露店が立ち並び、焼きたてのパンの匂い、香辛料の刺激、家畜の獣臭が絶え間なく混ざり合っていた。
立ち止まれば即座に人の波に飲まれそうな密度だ。
「すごいな。これがルインの市場か」
「まあね。南部の富は全部ここに集まる。でも、富が集まるってことは、それを奪い合う戦いが激しいってことでもある」
リーシャはそう言うと、広場の端――人通りが一番少なく、建物の影に沈んだ小さな区画を指差した。
「うちの陣地はあそこ。さっさと木箱を下ろすのを手伝って」
「大商会は一番いい場所なのに、フリーの商人はこんな端っこなのか」
「当然でしょ。場所代も権力も違う。それに……私は今、これ以上目立つ場所に出られる状態じゃないしね」
昨晩聞いた「ラド商会」との因縁を暗示するように、彼女は自嘲気味に笑った。
二人で木箱を開け、商品を取り出していく。
香りの強い数種類の香料、丁寧に下処理された保存用の乾物、そして薬効の高い固形石鹸。
素人目に見ても、一つひとつの品質は極めて高いものだった。
しかし、いざ店開きをしてみると、恐ろしい現実に直面した。
客が、まったく寄り付かないのだ。
俺は露店の横で荷馬車に腰を預けながら、市場の人の流れを静かに観察していた。
商品は机の上に平置きされている。通りを行き交う人間の目線は、自然と高く設置された大商会の看板へと向く。リーシャの品物は、気づかれる前に視界の外へ出てしまっていた。
時折、香料の珍しさに惹かれた客が足を止めることがあった。
だが。
「お姉さん。このサランの葉、まとめて買うから半額にしてよ」
「は? これでも原価ギリギリだよ。最高級品なんだから、安売りしたらこっちが干上がる。半額で買いたいなら、あっちの店でクズ葉でも買いな」
怒った客が立ち去っていく。
品質への誇りが、そのまま刃になっていた。値切り交渉を仕入れの眼への侮辱と捉えているのだろう。感情は正しい。だが正しい感情は、客を取り戻しはしない。
昼前になると、より深刻な事態が起きた。
身なりは良いが目つきの鋭い男が数人、露店の前に歩み寄ってきた。胸には三日月をあしらったバッジ。昨晩の食堂で名前を聞いた、ラド商会の仲買人だ。
「よう、リーシャ。相変わらず閑古鳥が鳴いてるな。お前が意地張って抱えてる在庫、うちが全部まとめて引き取ってやろうか」
「何の用。あんたたちに卸すつもりはないって言ったはずだけど」
「そう言うな。ただし、相場の『三分の一』だ。今すぐ現金にしてやる」
男はニヤリと笑い、足元に銀貨の袋を放り投げた。チャリン、と絶望的に軽い音が鳴る。
「お前がうちを抜けてから、周りの商人は誰も大っぴらにお前から買おうとはしない。ラド商会を恐れてな。せいぜい腐るまで抱え込んでろ」
男が背を向けた瞬間、俺は市場の人の流れをあらためて見渡した。
リーシャの露店の方向へ歩きかけていた買い手が、何人か、さり気なく歩みを逸らしていた。特に誰かに命令された様子もなく、まるで磁石の同極同士のように、自然と弾き出されるように。
なるほど。これがラド商会の本当の力か。
怒鳴るわけでも、脅すわけでもない。ただ「顔を出す」だけで、周囲の空気を支配する。金と暴力による直接的な圧力より、遥かに質の悪い「恐怖の刷り込み」だ。
「見たでしょ、コウ。これが私の現実」
男たちが去ったあと、リーシャは振り返らないまま言った。
その声色は、乾いていた。諦めにも似た、感情を使い切ったあとの平坦さ。
森を彷徨っていた時の自分と重なった。理不尽な力の前でなす術もなく押し潰される、個人の絶望。
「なあ、リーシャ。疑問なんだが……」
俺は、木箱に並べられた見事な香料と乾物に目を落とした。
「あんなに市場を牛耳られているのに、君はどうやってこんな一級品を仕入れているんだ? さっきの客にも『原価ギリギリ』と言っていたが、普通なら干された商人にはクズしか回ってこないはずだ」
リーシャは少しだけ目を伏せ、荷馬車の奥の木箱を優しく撫でた。
「上が腐ってても、下働きまで全部が腐ってるわけじゃないのよ」
彼女の橙色の瞳に、静かな熱が灯る。
「私が商会にいた頃に目をかけてた若い運び屋とか、大商会のやり方に反発してる頑固な末端の職人たちが……夜中にこっそり、私にだけ一番良い品を回してくれてるの。見つかったらクビどころじゃ済まないのにね」
リーシャは顔を上げ、広場を行き交う群衆を睨みつけた。
「だから、安売りなんか絶対にできない。あいつらが命がけで託してくれた品物を、さっきのラド商会みたいにゴミみたいに買い叩かれるわけにはいかないのよ」
なるほど。ただの「職人のプライド」だけではない。
彼女の背中には、名もなき弱者たちの命運と信頼が乗っていたのだ。
「一つ頼みがある」
俺は広場を行き交う人の波を見渡したまま、言った。
「今日のところは、無理に呼び込みをしなくていい。その代わり、日が落ちるまでこの市場の人の流れを俺と一緒に見ていてくれ。敵の布陣も地形も分からないまま突撃するのはただの玉砕だ。まず、知るところから始めたい」
彼女は怪訝な顔をしたが、やがて深いため息をついて壁にもたれかかった。
「どうせ今日はもう商売にならないし……好きにすれば」
俺はひたすらに市場を見続けた。
日の高いうちは、買い出しに来た町の主婦や職人が主な客層だ。彼女たちの多くは大商会の一等地の露店へと吸い寄せられ、端に追いやられたリーシャの店の前では足が止まらない。
だが昼を過ぎると、客層が明確に変わった。
革鎧に身を包んだ冒険者や、各地から訪れた旅商人が増えはじめる。危険な遠征を終えた達成感と、手元に増えた報酬が、彼らを「より良い物への消費欲」へと駆り立てているのが見て取れた。
財布の口は、町の住人より遥かに緩い。そしてラド商会がリーシャを干そうとも、一見の旅人にはその「空気」は届かない。
なのに彼らも、リーシャの店の前では止まらなかった。
一人の冒険者の視線が香料の木箱に一瞬引きつけられるのを、俺は見逃さなかった。目が止まっている。にもかかわらず、歩みは緩まない。
興味はある。だが、踏み出させる「言葉」がどこにもないのだ。
品物は素晴らしい。そこには何も問題がない。
ただ、「これはあなたのための品だ」と翻訳してくれる声が、この露店には存在していなかった。
日が傾き、市場に長い影が伸び始めた頃。
俺は立ち上がり、片付けを始めたリーシャに声をかけた。
「分かったぞ、リーシャ。君が苦戦している理由が」
俺の声色に、彼女の手が止まった。
「やっぱり、ラド商会に逆らったから?」
「それは悪条件の一つだ。だが根本的な理由は、君の『売り方』にある」
「は? 私の売り方が悪いって? ふざけないでよ」
リーシャの目に鋭い光が走った。仕入れの眼に絶対の誇りを持つ彼女にとって、全力を否定されたように聞こえたのだろう。無理もない。
「誤解しないでくれ。君の仕入れの眼は完璧で、品物には非の打ち所がない。だが、だからこそ君は『良い物は黙っていても適切な客に届く』と信じすぎている」
俺は香辛料の木箱を一つ手に取り、軽く持ち上げた。
「問題は三つある。まず、商品の見せ方。机の平置きでは、通行人の目線に入らない。次に、客層のずれ。ラド商会を恐れる町の住人を狙い続けても、彼らには買えない事情がある。だがこの市場には毎日、旅人や冒険者が流れ込んでいる。彼らには大商会の圧力など、関係ない」
リーシャの口が、少し開いた。
「そして最後の一つ。これが一番の核心だ」
「……何なの」
「君の商品の説明は何一つ間違っていない。だが、客の心には一ミリも刺さっていない」
リーシャが眉をひそめた。
「価値というのは、商品そのものに宿るんじゃない。それを受け取った相手が、自分の欲しいものだと『感じた』瞬間に、初めて生まれるものだ」
沈黙が落ちた。
リーシャはまっすぐ俺を見ていた。その目には怒りよりも、どこか心当たりを探すような、内側へ向いた光があった。
「じゃあ、あんたならどうするって言うのさ」
「俺が全部プロデュースする。見せ方、届ける相手、そして言葉。明日の一日で、君の商品の価値を客に正しく届けてみせる」
「……本当に、売れるの」
「保証する。君の商品は本物だ。伝え方が変われば、必ず届く」
夕日に照らされたリーシャの瞳が、かすかに揺れた。
驚きでも怒りでもなく、どちらかといえば――長い間、誰かに言ってほしかった言葉を、ようやく受け取った時のような顔だった。
俺は木箱を静かに下ろした。
明日、ここから始める。




