第7話 本当の第一歩
部屋での契約を済ませたあと、俺たちは宿の一階にある食堂へと降りた。
夕食時の食堂は、仕事終わりの荒くれ者や、俺と同じような旅人たちの喧騒で溢れかえっていた。
あちこちでジョッキがぶつかり合う音。脂の乗った肉が焼ける香ばしい匂い。それらが混じり合って、むせ返るような熱気を生み出している。
森での、あの静まり返った絶望。
いつ自分の喉笛が食い破られるか分からない、冷たく、泥に沈んだ孤独な夜。
それとは真逆の「文明」の熱気がどっと押し寄せてきて、俺は足を止めたまま、しばらく身体が動かなかった。
「どうしたの、ぼーっとして。お腹空きすぎて意識でも飛んだ?」
リーシャが、あきれたように俺の顔を覗き込んできた。
「い、いや。あまりに騒がしくて、少しびっくりしただけだ」
「何言ってんの。ルインはこれでも大陸南部の物流の要所なんだよ。静かなのは墓場か、あの森くらいなもんさ。ほら、座って」
うながされるまま、隅っこの小さな卓に腰を下ろす。
木製の椅子はガタついていて、テーブルには拭き残しの油の跡があったが、それでも俺には、最高級の家具よりも価値があるように思えた。
リーシャが手慣れた様子で給仕の少女を呼び、一番安くて栄養のある「いつものセット」を二人分頼む。
待つこと数分。運ばれてきたのは、大振りの木皿に盛られた茶色のスープと、ゴツゴツとした硬そうな黒パンだった。
スープからは、立ち上る湯気と共に、クミンに似た香辛料の香りと、クタクタに煮込まれた根菜の甘い匂いが漂ってくる。
「食べていいのか?」
「許可なんていらないよ。冷めないうちに食べな。あんた、死に際だったんだからさ」
俺は震える手でスプーンを握り、木皿のスープを一口、口に運んだ。
「――っ」
熱い。
舌を火傷しそうなほどの熱気が、喉を通り、空っぽの胃袋へと雪崩れ込んでいく。
塩気が強く、何の肉か分からない脂が浮いているけれど、それがどうしようもなく美味かった。
味覚が、身体中の細胞が、歓喜の声を上げているのが分かった。
「ふ、う……」
目頭が熱くなった。
ただのスープだ。ただのパンだ。
前世のコンビニ弁当の方が、味のクオリティだけで言えば上だったかもしれない。
けれど、誰かと向かい合って、温かいものを食べている。
その事実だけで、俺は今、生きていることを全身で実感していた。
「泣くほど美味しかった?」
リーシャが、フォークを止めて俺をじっと見ていた。
「ああ。本当に、生きててよかったと思ったよ」
「大げさな奴だね、まったく」
リーシャはそう吐き捨てたが、その瞳の奥には、先ほどまでの「冷徹な商人」の顔とは違う、年相応の女のような戸惑いが浮かんでいた。
ふと、リーシャの指先が視界に入った。
彼女はパンを千切りながら、時折、無意識に自分の左手の薬指の付け根あたりを、親指で強く擦る癖がある。先ほど、部屋で俺と握手した時も、彼女の手はかすかに震えていた。
俺はずっと、この食堂の喧騒を「環境音」として流していたわけではなかった。
席に着いた瞬間から、周囲の会話の断片を意識的に拾い上げていた。隣の卓の荷運び人が愚痴をこぼしていた。「ラド商会の荷受けがまた値を下げやがった」「あそこに逆らった奴は、次の季節には干されてる」。
市場の支配者の名前を把握するのに、そう時間はかからなかった。
「リーシャ。さっき部屋で俺が『この町の大きな商会』と口にした時、君の体がほんの少し固まった。ラド商会のことか?」
俺の言葉に、彼女の肩がピクリと跳ねた。
彼女は黙り込み、持っていたパンを皿に置いた。
食堂の喧騒が、急に遠ざかったような気がした。
「正解だよ。私は三年前まで、あそこにいた。見習いから入って、誰よりも働いた。市場の動向を読み、仕入れの価格を抑え、商会に莫大な利益を出した。自分でも、あそこの看板を背負っていけると思ってた」
リーシャの声は、低く、押し殺したような響きを帯びていた。
「でも、上が求めていたのは『有能な商人』じゃなかった。適当に手柄を譲り、ニコニコと男を立てる『飾り』だった。私が抗議するたび、上司は私を嘲笑ったよ。『女が生意気だ』。しまいには、私が帳簿をちょろまかしたと濡れ衣を着せて、放り出した」
彼女の指が、テーブルを強く握りしめた。
「親父だって、味方してくれなかった。商売敵になるのを恐れて、『謝って戻れ』って。組織っていうのは、そういうものなんだよ。証拠も正論も、数と権力の前じゃただ握りつぶされる。だから私は、たった一人で奴らを見返してやりたい。組織の庇護なんて受けずに、奴らを追い越してみせたい」
リーシャは顔を上げ、挑発するように俺を睨んだ。
その瞳には、燃えるような復讐心と――そして、決して埋めることのできない「拒絶された痛み」が同居していた。
「あんたはさ。どうして、私を『視て』るの? さっきの提案だって、ただ助かりたいだけなら、もっと卑屈に頼み込めばいいのに。まるで、私の弱さ。私の、一番触れられたくない部分を知ってるみたいに……」
俺は、彼女の目を逸らさずに答えた。
「俺も、孤独だったからだ」
「あんたも?」
「ああ。昔の俺は、誰ともまともに話せない人間だった。どんなに正しい企画書を作っても、それを伝える言葉がなくて誰にも評価されなかった」
視線を落とし、あの冷たかったワンルームの記憶をたぐる。
「だからわかるんだ。どれだけ正しくても、どれだけ頑張っても、誰にも見てもらえない時間がいかに消耗するか。そして、自分の存在を誰かにちゃんと認めてもらえることが、どれだけ救いになるか」
俺の本音だった。
前世で、イルさんにすら言えなかった想い。
自分を肯定できない、不器用な人間が抱える、震えるような渇望。
「君がラド商会に求めていたのは、金や地位じゃないはずだ。自分の実力を、自分の存在を、正当に認めてもらいたかっただけなんじゃないか?」
リーシャの息が、一瞬だけ止まった。
彼女の強気な仮面が、初めて、音を立てて崩れるのが分かった。
「あんた、本当に。嫌な奴だね」
リーシャは弱々しく笑い、再びスプーンを手に取った。
でも、その動作からは先ほどのような「焦り」が消えていた。
「今日拾ったのが、行き倒れを装った山賊じゃなくて、本当に『口だけ』が武器のペテン師で助かったよ」
「まだペテンだと決まったわけじゃないぞ」
「わかってる。明日、私の露店に来なよ。あんたの力、本当に見せてもらうからね。パートナーなんだからさ」
パートナー。その一言だけで、今の俺には十分だった。
宿の食堂の喧騒は、まだ続いている。
けれど、俺たちの座る小さな卓の上には、たしかに、言葉による「温度」が通い始めていた。
俺は冷めかけたスープを飲み干した。
前世で何も言えなかった俺が、初めて誰かの痛みに触れ、それを言葉に変えた夜。
これが、異世界での本当の「第一歩」だった。




