第4話 話が通じるのが、嬉しくて
心地よい揺れを感じて、意識が浮上した。
泥の冷たさも、腐葉土の生臭い匂いもない。
背中には硬いが平らな木の板があり、何枚もの粗末な毛布が重ねて掛けられている。
ガタゴトと、車輪が固い土を蹴るリズミカルな振動があった。
「……ん」
重いまぶたをこじ開ける。
視界に入ってきたのは、幌が張られた狭いドーム状の天井と、荷馬車の荷台に無造作に積まれた木箱の山だった。
生きて……いるのか。
最後に俺が記憶しているのは、森を抜けた先の街道の真ん中で力尽きた自分の姿だ。
「あ、起きた? 無理に動かない方がいいよ。あんた、ほとんど死にかけなんだから」
不意に、上から降ってきたその音に、心臓が大きく跳ねた。
獣の唸り声でも、虫の羽音でもない。
はっきりとした意志を持ち、明確な意味を持った、美しい「人間の声」。
俺は慌てて首を巡らせた。
荷台から御者台へと続く隙間から、こちらを覗き込んでいる顔があった。
赤茶色の髪を後ろで無造作に束ねた、利発そうな瞳の女性だった。
泥汚れのついた動きやすい革の軽装に身を包み、片手で器用に馬の手綱を握っている。
「……っ」
その姿を見た瞬間。
本当に自分でも止められないほどの涙が、ボロボロと両目からこぼれ落ちてきた。
角うさぎに追われたときも、スライムに足を溶かされかけたときも、泣きはしなかったのに。
言葉の通じる相手。ただ自分と同じ「人間」を見つけただけで、俺の張り詰めていた感情は完全に崩壊した。
「えっ、ちょ、なんで泣くの!? 痛い? ご、ごめん、素人が適当に傷の手当てしたから……!」
女性は慌てふためき、手綱を固定して荷台の方へと乗り出してきた。
「ちが、う……」
俺はひび割れた声で、どうにか言葉を絞り出した。
「話が……通じるのが、嬉しくて……っ」
「……はあ?」
彼女は完全にキョトンとした顔になった。
まあ、当然だろう。街道で行き倒れていた謎の男を拾ってみたら、目が覚めるなり「話が通じて嬉しい」と号泣し始めたのだ。不気味極まりない。
だが、俺にとってはこの異世界で起きた何よりの奇跡だったのだ。
言葉が通じる。意味の通った会話ができる。
女神から授かった「コミュニケーション能力」というチートが、ようやく本来の機能を発揮するための土俵に立てた瞬間だった。
「……水、飲む?」
呆れたような顔をしながらも、彼女はそっと革の水袋を差し出してくれた。
「ありがとう……」
両手で受け取り、ゆっくりと口に含む。
泥臭くない、清らかな水の味が枯れ切った細胞の隅々にまで染み渡っていく。
生き返る思いだった。少しだけ喉が潤うと、今度は猛烈な飢餓感が胃袋を襲ってきたが、まずは恩人に礼を言うのが先だ。
俺は毛布をまくってなんとか上体を起こし、向かって深く頭を下げた。
「あの、本当にありがとう。君が拾ってくれなければ、俺は確実に死んでいた」
「別に、お礼なんていいよ。……ただ、あんたを助けたせいで、今日の仕事が遅れちゃったじゃない」
彼女はふいっとそっぽを向きながら、ぶっきらぼうにそう言った。
だが、その直後。 膝の上に置かれた彼女の指先が、落ち着かなげにトントンとリズムを刻んでいる。
――その瞬間、何かが「見えた」。
彼女の声に混じったわずかな震え。目線の泳ぎ。息遣いのほんの少しの乱れ。
普通なら処理しきれない膨大な他者の情報が、脳内に一気に流れ込んでくる。
読心術やテレパシーといった魔法じみたものではない。相手の微細な筋肉の動きや体温の変化から感情を読み解く、極限の『行動分析』だ。
彼女の頭上に、半透明のホログラムが浮かび上がる。
女神から与えられたそのスキルは、情報をアイコン化しているのだ。
【デバフ:焦燥(強)】
【ステータス:警戒】
【隠しステータス:良心による諦め】
彼女は俺を助けたことで仕事に遅れが生じ、激しく焦っている。身元不明の俺に対する警戒心もある。だがそれ以上に、見捨てるという選択ができなかった自分への『諦め』がそこにあった。
それらの交じり合った複雑な感情が、くっきりとしたアイコンとして俺の視界に焼き付いていた。
(……悪いな、恩人さん)
自分を救ってくれた相手の弱みを「視て」しまっていることに、一瞬だけ胸がチクリと痛んだ。
だが同時に、冷徹なゲーマーとしての脳が囁く。彼女に「助けて良かった」と思わせるだけの利益を、俺が知略で叩き出せばいい。それが、俺なりの恩返しだ。
「……君は、行商人なのか?」
荷台に積まれた木箱からふわりと香る香料の匂いから推測して、俺は尋ねた。
「そうだよ。私はリーシャ。王都のほうへ商品を卸しに行く途中。……で、あんたは? そもそもあんな『魔の森』の境界線を、剣一本も持たずにうろついてたなんて、正気の沙汰じゃないよ。冒険者でもないんでしょ?」
リーシャが値踏みするような、警戒の色を帯びた瞳でこちらを見る。
俺は小さく息を吐いた。
第一印象がすべてだ。
ここで「異世界から来ました」などと妄言を吐く馬鹿な真似はしない。
読み取った彼女の心の動きを逆算しながら、最も警戒を解かせる言葉を選ぶ。
「俺はコウと言う。……恥ずかしい話だが、山賊に襲われて身包み剥がされ、逃げ込んだ先があの森だったんだ。命からがら逃げ切ったものの、三日間絶食して、あの街道に倒れ込んだ」
「三日間!? なにも食べずにあの森を……!?」
彼女の同情心にストライクで刺さるように、わずかに自嘲的な笑みを浮かべてみせた。
その瞬間、リーシャの頭上に浮かんでいた 【ステータス:警戒】 のアイコンがパチンと音を立てて砕け散り、代わりに 【バフ:強烈な同情】 のアイコンがぽわんと点灯したのが、ハッキリと視界に映った。
「……あんた、見た目以上にしぶといんだね。ちょっと待ってな、硬い干し肉と黒パンくらいならあるから」
リーシャはそう言うと、御者台の横から布包みを取り出して渡してくれた。
「これ……タダでもらっていいのか?」
「いいよ、助けた相手から金なんて取らないって。……というか、今のあんたに払えるお金なんてないでしょ」
彼女は少しだけ皮肉っぽく笑った。俺も釣られて、力なく笑い返す。
受け取った干し肉にかじりつく。硬くて、塩辛くて、顎が外れそうに痛い。
でも、それが、生きている実感を取り戻させてくれた。
荷馬車は走る。ガタゴトと乾いたわだちを踏みながら、見知らぬ街道を進んでいく。
幌の隙間から見える空は、どこまでも青かった。
俺はこの異世界で初めて、誰かと笑い合った。
たったそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。




