第3話 逃げることにした、それだけだ
寒さで目が覚めた。
全身泥まみれで這いつくばったままだったが、息はあった。
どうやらあのスライムは、倒れた俺を地の果てまで追って溶かすほどの執着は持っていなかったらしい。運が良かっただけだ。
木々の隙間から、見知らぬ星座が瞬いていた。
死の淵を一度覗いた後なのに、頭の芯が異様なほど冷え切っている。パニックが引いて、思考だけが残った感じだ。
俺が女神から貰ったのは「コミュニケーション能力」だ。
隠しステータスも、ピンチで覚醒する魔法も、何もない。それはスライムとの戦いで証明された。
剣の才能を選んでいれば、という後悔は――浮かばなかった。
あの寂しくて、誰にも必要とされなかった前世。
俺が欲しかったのは無双する力じゃなかった。だからこれは、自分で引き受けるべき代償だ。
「俺の武器は、口だけだ」
乾いた唇を噛み締め、一人きりの暗闇に向かって呟いた。
なら、方針は一つだ。木の枝を剣のように構えるのはやめる。戦えないなら、徹底的に戦いを避ける。
前世でネトゲの盤面を俯瞰してきた思考が、ここでカチリとリンクした。最弱の駒は、正面から戦わない。ただ「見つからないこと」だけを極める。
まず、水が要る。
立ち上がり、耳を澄ます。風の音でも獣の声でもなく、空気が重く湿っている方向を探る。歩幅を小さく、枯れ葉を踏まず、一時間ほど闇を歩いた先で月明かりを反射する小川を見つけた。
這いつくばって、冷たい水をがぶ飲みする。
泥臭い。美味かった。
命が繋がった。星が、綺麗だった。
◇
それから三日が経った。
木の上に縮こまり、真下を通る巨大な猪の足音が遠ざかるのを息を殺して何時間も待った。鳥の化け物に上空から見つかりそうになり、全身に泥を塗りたくって倒木のふもとに半日潜んだ。前世の知識をフル動員した「索敵行動」の果てに、俺はまだ生きていた。
だが、肉体の限界はとっくに訪れていた。
「あ、はっ」
泥だらけの靴を引きずる音が、今の俺が出せる最大の音だった。
水は補給できても食べ物がない。見知らぬ木の実は毒が怖くて手が出なかった。胃袋が内側から固く絞り上げられるような痛みが常に付き纏い、視界の端が白く明滅していた。
地面に、前のめりに倒れ込む。
腕を泥に沈めて立ち上がろうとするが、ぴくりとも動かない。日中だというのに、指先から体温が抜けていく。
これが、限界だ。
目を閉じると、暗い森じゃなくて、いつかの深夜のゲーム画面が浮かんだ。
徹夜で雪だるまを並べ続けた、あの馬鹿みたいな夜。俺が言葉に詰まるたびに「ゆっくりでいいよ」と返してくれた文字列。
あの人に、会いたかった。
それだけで十分だったのに、ここで終わるのか。
「ふざ、けんなっ」
血の味を噛んで、歯を食いしばって顔を上げた。
言葉の通じる相手に出会うまで、俺の異世界転生は始まってすらいない。
「うおぉっ!」
声にもならないうめきを上げ、腕で地面を掻いた。足が動かないなら腕で這う。腕が動かないなら指を突き立てる。ただ、人間のいる場所へ。
虫のように地を這って進むうち、鼻先の「匂い」が変わった。
腐葉土の中に、乾いた土埃と、何かが燃えるような人工的な煙の匂いが混じっている。
重いまぶたをこじ開け、最後の力を振り絞って茂みをかき分けた。
頭上の天蓋が途切れ、強烈な日の光が差し込んだ。
固く踏みならされた土に、馬車が通った轍が真っ直ぐに伸びている。
道だ。
「あ……」
声にならない声が漏れた。
辿り着いた。ここはもう、あの理不尽な森じゃない。
ただひたすらに、道の真ん中へと這い出す。礫の感触が頬に触れた瞬間、なぜかはじめて「安全」だと思えた。
カタカタ、カタカタ。
地面から規則的な振動が伝わり、馬のいななきと共に車輪が俺のすぐそばで急停止した。
「誰か倒れてる! ちょっと、しっかりして!」
鈴を転がすような、若い女性の声が降ってきた。
人間の声だ。言葉が、聞こえた。
全身の力が、ふっと抜ける。
頬が、少しだけ緩んだ。
もし意識がもう少し残っていたなら、声をかけていたと思う。
そのまま、俺は静かに暗闇に沈んだ。




