第23話 市場を揺るがす香り
ルインの市場の朝は、相変わらず喧騒と活気に満ちている。
だが今日、新星商会の陣地はいつもの大通りの端ではなく、市場の交差点に近い、少し開けた場所にあった。
俺が用意したのは、露店の棚でも、山積みの木箱でもない。
小さな「炭火台」と、竹串に刺した大量の「安物の干し肉」だけだった。
「コウ、本当にこれでいくの? 干し肉を焼くだけなんて、市場の屋台と変わらないわよ」
横に立つリーシャが、不安げに周囲を見渡す。
ラド商会の息がかかった商人たちが、遠巻きにこちらを冷ややかな目で見ているのがわかった。「仕入れを絶たれて、ついに安飯屋にでも成り下がったか」という嘲笑の気配だ。
「リーシャ、小皿の準備はいいな」
「え、ええ。言われた通り、山ほど用意したけど」
「よし。じゃあ、始めるぞ」
俺は、炭火の上で脂を落とし始めた干し肉の串に向かって、小袋に入った赤と黄金色の粉末――ミレナが徹夜で仕上げた『七星香』を、指先でふたつまみ、パラリと振りかけた。
――ジュウウウッ!!
熱された肉の脂と、七星香が触れ合った瞬間だった。
暴力的なまでの香りが、白い煙と共に爆発するように立ち上がった。
「っ……!」
隣にいたリーシャが、思わず息を呑む。
南方胡椒の鋭い刺激、湿地のハーブが持つ奥深い森の匂い。そして、単体では雑草と見向きもされなかった素材たちが、熱という触媒を得て完全に調和し、一つの「巨大な食欲の塊」となって周囲の空気を塗り替えていく。
「なんだ、あれ」
最初に声を上げたのは、通りすがりの子供だった。
次いで、荷運びの男が足を止め、買い物かごを持った主婦が振り返る。
煙に乗った香りは、視覚や聴覚よりも遥かに速く、直接人間の脳の「本能」を殴りつけていた。
俺は焼き上がった肉をナイフで小さく切り分け、小皿に乗せていく。
そして、足を止めた一番手前の男――警戒心を丸出しにした中年の職人に、小皿をスッと差し出した。
「ご試食です。タダで召し上がってください」
「タダ……?」
男の眉間が険しくなる。この世界に、タダで美味しいものを配る習慣などない。裏があると思うのは当然だ。
「何か怪しい薬でも入ってるんじゃねえか。タダより高いものはないって言うからな」
「ごもっともです。ですが、騙されたと思って一口だけどうぞ。お口に合わなければ、吐き出していただいて構いませんよ」
俺は一切の攻撃性を持たない笑みを浮かべたまま、皿を引かない。
男は、俺の顔と、暴力的な香りを放つ肉を何度か見比べ――やがて、その匂いの誘惑に抗いきれず、熱々熱々の肉の欠片を口に放り込んだ。
咀嚼が、一回、二回。
そこで、男の動きがピタリと止まった。
次の瞬間、男の頭上のアイコンが弾けるように割れる。
【警戒】が消え失せ、【困惑】が瞬く間に――強烈な輝きを放つ【歓喜】と【食欲】のアイコンへと強制的に上書きされた。
「……っ!? なんだ、これ!!」
男は自分の口の中で起きていることが理解できないという顔で、隣にいた連れの男の袖を激しく引いた。
「おい、これ食ってみろ! 早く!」
「なんだよ急に、俺は怪しいもんは……」
「いいから食えって!!」
半ば無理やり肉を口に押し込まれた連れの男も、一瞬で同じ顔になった。
安物の、硬くて臭みのある干し肉。それが、七星香の魔法によって、複雑で奥深い御馳走へと完全に化けていた。
「うまっ、なんだこの香り!? ただの胡椒じゃねえぞ」
「おい、俺にも一口くれ!」
それが、決壊の合図だった。
タダで肉を配る奇特な男の周りに、人が雪崩れ込んでくる。試食した者が、その驚きを別の者に伝える。市場の喧騒の中で、俺たちの炭火台の周りだけが、柔らかな「熱狂」の渦と化していた。
「おい、兄ちゃん! この肉にかかってる粉、どこで買えるんだ!?」
「私にも! うちの亭主、安い肉だと文句ばかり言うから、これがあれば……!」
殺到する群衆の熱気の中、こめかみの奥が静かに熱を帯び始めた。
群衆の感情を読み続け、言葉を選び続けるスキルの代償だ。俺はそれに気づかれないよう、指先を一度だけ握りしめてから、リーシャに叫んだ。
「リーシャ! 小皿の補充! それと、商品の案内を!」
リーシャは弾かれたように我に返り、商人の顔に切り替わった。
「は、はいっ! 皆様、こちらで使用しているのは、当商会が独占開発した新しい香辛料『七星香』です! お求めの方は、こちらの列へどうぞ!」
リーシャの通った声が市場に響く。客たちは争うように、リーシャの前に並べられた七星香の包みへと群がっていった。
「こ、コウ! 試食用の肉がもう足りないわ!」
パニックになりかけながら小皿を配るリーシャの背中越しに、俺は影のように控えていた小柄な少年に視線を送った。
「ノクト、走れ。宿の厨房から追加の肉をありったけ持ってこい。代金はツケでいい」
「……わかった」
ノクトは短く頷くと、人混みの隙間を水のようにすり抜け、音もなく市場の裏路地へと消えていった。角を持たない彼の「誰にも気づかれない」という生存戦略が、この混雑した物流の最前線で完璧な斥候機能として働いている。
ミレナが命を削って作った「実体」。
俺が市場の急所を突いて作った「局面」。
リーシャが動かす「流通」。
ノクトが繋ぐ「兵站」。
ラド商会に仕入れを絶たれ、孤立無援のゴミ山に落とされたはずの俺たちは、誰一人欠けることなく、今、この市場の中心で完璧な歯車として回り続けていた。
◇
昼を過ぎる頃には、市場の主要な通路は七星香を求める人だかりで完全に塞がっていた。
「すまない! 今日の在庫はここまでだ! 明日また同じ時間に持ってこさせる!」
俺がそう宣言すると、買えなかった客たちから悲鳴のような落胆の声が上がる。「高くてもいいから売ってくれ」「明日必ず来るから予約させてくれ」という声が飛び交う中、俺は顔の筋肉を引きつらせながら、ただひたすらに頭を下げ続けた。
それだけが、今の俺にできる唯一の「戦闘」だった。
「こ、コウ……! 全部、全部売れたわ! ラド商会が扱ってる最高級の胡椒よりも、ずっと高い値段で!」
片付けをしながら、リーシャが震える声で革袋を抱きしめている。その瞳には、恐怖を乗り越えた商人としての誇りと、俺に対する絶対の信頼が宿っていた。
「ああ、見事な売りっぷりだった。だが、喜ぶのはまだ早いぞ、リーシャ」
俺は炭火台に水をかけ、ジュッと上がる白い煙越しに、ラド商会本部の方向を見た。
市場の端の建物の陰。三日月のバッジをつけた男たちが数人、立ち尽くしていた。ラド商会の仲買人たちだ。その顔は血の気が引き、青ざめていた。仕入れを完全に封鎖し、新星商会を干し殺したはずだった。なのに、自分たちの全く知らない「得体の知れない粉」一つで、市場の熱狂を完全に奪い去られたのだ。
男の一人が何かを叫びながら、慌てた様子でラド商会の本部がある方向へと走り出す。残りの者たちも、逃げるようにその後を追っていった。
「本当の勝負は明日からだ。あいつらは必ず、この七星香を潰しにくる」
「潰すって……どうやって?」
「それがわかれば、俺たちが苦労はしない。ただ、強欲な人間が追い詰められた時に取る行動は、大体決まっている」
それだけ言って、俺は炭火台を片付け始めた。
走り去ったラド商会の背中が、まだ視界の端に残っていた。




