第22話 切り札「七星香」
ミレナの工房の扉は、数センチだけ開いた。
隙間から覗く丸眼鏡の奥の目が、俺とリーシャ、そして最後に見慣れない少年を不審げに射抜く。
「コウとリーシャ。それに、見慣れないガキが一人」
「新顔か? 迷子なら他所へ行け。ここは職人の仕事場で、ガキの遊び場じゃない」
突き放すようなミレナの言葉に、ノクトが「なんだよ、ここの主は愛想って言葉を知らねえのか」と毒づき、俺はその頭を軽く叩いてたしなめた。
「遊び場じゃないのは百も承知だ。こいつはノクト。うちの新しい『現地調査員』だ。まあ、まだ見習いだがな。中に入れてくれ、大事な話がある」
ミレナは鼻を鳴らし、しぶしぶ扉を全開にした。
「角なしの魔族か。まあいい、靴の泥は落とせ。あと材料に触るな。例外なく間違える」
「了解です」とリーシャが即答し、ノクトは不承不承、工房の床を汚さないよう足元を拭った。
◇
工房の中央に立つミレナは、冷え切った釜を見つめていた。
「材料はもう届かない。石鹸は作れない」
怒りでも嘆きでもない。三年間作り続けてきたものを理不尽に止められた職人の、深い絶望の音だった。
「死なせてたまるか。ミレナ、新しい仕事を持ってきた」
俺はテーブルの上に、昨日ノクトが裏路地の市で集めてきた「ゴミ」を並べた。
干からびた薬草の束、名も知れない小さな種の袋、用途の分からない不格好な樹皮の欠片。
「何だ、これは。胡椒の代わりにもならないゴミか。これで石鹸を作れと?」
「作るの石鹸じゃない。食用の混合香辛料だ」
俺の頭には、前世の記憶にある『七味』の概念があった。
単体では主役になれないありふれた素材でも、七つ組み合わせることで劇的な風味を生み出す至高のミックススパイス。異世界の市場にはまだ存在しない、味の「乗算」だ。
「複数の素材を完璧な比率で掛け合わせる。これで、誰も試したことのない方向からラド商会を殴りにいく」
ミレナは棚に背を向け、腕を組んだ。
「素材の特性も、組み合わせの反応も、机上の計算通りにはいかない。こんな安物で――」
「ミレナ」
俺は彼女の言葉を遮った。
ここはコンサルタントとして、プロの職人としての彼女をあえて煽る必要がある。
「お前の技術は、素材の希少さに頼らなきゃ証明できないのか。高級な材料がなければ、お前はただの『職人ごっこ』か」
工房の空気が、凍りついたように静止した。
リーシャが息を呑み、ノクトが「おい、本気か?」と身構える。
ミレナはゆっくりと振り返り、眼鏡の奥で鋭く俺を射抜いた。
職人の意地に、猛烈な火がついた目だ。
「……言い直せ、ペテン師。その増長した口を、私の技術でへし折ってやる」
その瞬間、冷え切っていた工房に再び火が灯った。
◇
そこからの七日間は、まさに戦場だった。
ミレナが素材を分解し、加熱し、香りを確かめる。俺がその全てを記録し、リーシャが追加の素材を計量し、ノクトはミレナに怒鳴られながらも泥臭く街を走って新たな素材をかき集めてくる。
だが、すべてが順調だったわけではない。三日目には明確な壁にぶつかった。
「ダメだ。この『赤皮の種』、油分が多すぎて他の香りを殺すうえに、すぐ焦げる」
ミレナが苛立たしげに乳鉢を置いた。第十二番の試作品から、鼻をつく焦げ臭さが漂っている。俺が記録帳と睨めっこしていると、横からノクトがぽつんと言った。
「その種、裏町の連中が焚き火に放り込んでたけど、火のど真ん中じゃなくて、灰の端っこに置いて炙ってたぜ。そうしないと煙が臭くなるからって」
ミレナの目が鋭く光った。
「間接加熱か。リーシャ、計量し直せ! 炙る順序と火との距離を根本から変える」
そこからの彼女の集中力は凄まじかった。チームのピースが、一つに噛み合い始めていた。
四日目の深夜。
慣れない手つきで素材の選別を終えたノクトが、ぽつりとこぼした。
「なあ、コウ。あのミレナって人、いつもあんなに怖いのか? 俺のこと、まだ疑ってるみたいだしさ」
記録帳から顔を上げると、疲弊しながらもどこか不安そうな魔族の少年の目があった。
「職人ってのは、言葉より仕事の質で相手を値踏みする生き物だ。お前が昼間に出した『灰の端っこで炙る』ってアイデア、あいつの計算にちゃんと組み込まれてるぞ。……だから、不安がる暇があるなら手を動かせ」
俺が努めて論理的に、だがはっきりと彼の功績を認めると、ノクトは少しだけ目を丸くした。
「へいへい、分かったよ。あーあ、人使いの荒い商会に入っちまったぜ」
ノクトは悪態をつきながらも、どこか安心したような顔で壁に額を預け、微かな寝息を立て始めた。
そして、五日目。
炭火の上で、ミレナが素材を混ぜ合わせた瞬間――香りが、劇的に変わった。
鋭さと深さが同時にあり、個々の素材が「調和」へと昇華した瞬間。
ミレナが眼鏡を押し上げ、小さく呟く。
「……方向が見えた」
◇
七日目の朝。小さな乳鉢の中で、それはついに完成した。
ミレナが最後の一振りを加え、炭火で軽く炙っただけの安物の干し肉にパラリと振りかけた瞬間。
ジュワッ、パチパチッ!
熱に反応してスパイスの微かな油分が溶け出し、パサパサだった干し肉の表面に艶やかな琥珀色の照りが浮かび上がる。
同時に、暴力的なまでの香りが工房の天井まで突き抜けるように立ち上った。
リーシャが震える指で肉を口に運び、目を見開く。
「これ、本当にあのゴミみたいな素材なの!? ラド商会の最高級胡椒より、ずっと奥が深い!」
ノクトが無言で咀嚼し、一瞬の沈黙のあとで短く言った。
「うまい。あの『石鹸女』、性格は最悪だけど腕だけは本物だな」
ミレナは聞こえないふりをして不器用に眼鏡を拭き直し、「私はただ、石ころを宝石に変えてみせただけだ」と吐き捨てた。
「名前は決めてある。俺の故郷にある『七味』というスパイスをもじって――七つの素材が重なり合い、新星のように輝く香り、『七星香』だ」
俺は全員の顔を見渡した。
「原価はタダ同然だが、売値はラド商会の最高級胡椒と同じにする」
「売れる理由は、明日市場の客が教えてくれる。ノクト、場所は『交差点の内側』だ。ラド商会の目の前でやるぞ」
「了解だ、コウ。面白くなってきやがった」
◇
「ノクト、リーシャ。先に出ていてくれ。俺は火の元を確認していく」
「分かったわ。外で待ってる」
二人の足音が遠ざかったのを確認し、俺が最後の蝋燭を吹き消そうとした時だった。
暗がりの中で、ミレナが無言で近づいてきた。
そして、俺の掌に冷たい金属を押し付ける。
「一週間も居座られて、いちいち開けるのが面倒になった。なくすなよ」
それだけ言い残し、彼女は目を合わせることもなくそそくさと奥の部屋へ消えていった。
手の中にあるのは、工房の合鍵だった。
職人の命とも言える工房の鍵を、たった一週間で預けられるとは。予想外の出来事に、俺は柄にもなく激しく狼狽してしまった。
……だめだ、落ち着け。これはあくまで業務効率化の一環だ。深い意味はない。
必死にコンサルタントの理屈を引っ張り出して照れを誤魔化し、俺は工房の扉を開けた。
外に出ると、夜の路地に秋めいた風が吹いていた。
待っていたリーシャが、探るような、少し拗ねたような上目遣いを向けてくる。
「遅いわね、コウ。二人で何を話していたの?」
「い、いや。早朝の仕込みに、俺が直接入れた方が効率がいいという、極めて合理的な業務連絡だ」
俺が少し早口で返すと、リーシャはじっと俺の目を見つめ、やがて「ふーん」と小さく鼻を鳴らした。
ノクトが俺たち二人の顔を交互に見比べ、呆れたように小石を蹴る。
「素直じゃねえ大人ばっかりだな、ほんと」
「何か言ったか?」
「なんでもねえよ。それより明日だろ」
俺は胸ポケットにしまった合鍵の重みから意識を逸らすように、明日の動線を頭の中で組み上げ始めた。
交差点の内側、ラド商会の視線の先で、最大の場面を作る。
「さて、明日から逆襲を始めようか」
誰に言うでもなく呟いた言葉は、夜風に乗って静かに街へと溶けていった。
盤面は、ついに逆転の定石を指し始めている。




